人口の約10%が出稼ぎ労働者として海外で働いている国をご存じだろうか。その国とは、東南アジアに位置するフィリピンである。遠く離れた国々で様々な職につき、フィリピンにいる家族のために懸命に働く出稼ぎ労働者たち。しかしその背景には深刻な問題が隠されている。
フィリピンにおける出稼ぎ労働者の歴史
20世紀初頭、パリ条約によってアメリカの植民地となって以来、フィリピンはアメリカに多くの労働者を送り出してきた。彼らはアメリカの地で主に軍隊や専門職に従事していた。最初はそれほど活発ではなかったものの、1965年にジョンソン大統領により移民法が制定されてからは、2,500人だった出稼ぎ労働者の数は5年後には10倍の25,000人に急増した。さらにその範囲は広がり、1970年代には、石油資源国のペルシア湾岸諸国での労働者需要を受け、フィリピン政府は多くの労働者を移住させた。というのも、当時のフィリピンでは、経済停滞のため多くの人々が職を失っていたからである。1982年には POEA(フィリピン海外雇用庁)が設立され、出稼ぎ労働制度の促進を図るとともに、出稼ぎ労働者の権利保護を行うことが掲げられた。1986年にエドゥサ革命で民主主義が確立され、翌年に発表された新憲法では出稼ぎ労働者の権利保護をさらに促進することとなった。1995年に出稼ぎ労働者が殺人罪を問われシンガポールで処刑された際には、POEAの任務が出稼ぎ労働者の帰国を促すことにまで拡大され、このようにして徐々に出稼ぎ労働者が安全に働ける環境が整備されていったのである。
出稼ぎ労働者はどこで何をしているのか
ここからは、フィリピンの出稼ぎ労働者の特徴を見ていきたい。2017年の時点では、約2,300万人が出稼ぎ労働者であるという統計が出ている。彼らの滞在国は、地域別にみるとアジアが85.5%と圧倒的に多く、2番手がヨーロッパ、3番手が南北アメリカである。国別にみると、サウジアラビアが最も多く25.4%、次にアラブ首長国連邦が15.3%、クウェートが6.7%と続く形となっている。男女比は、男性が46.3%、女性が53.7%と若干女性が多めではあるがほぼ同率である。職種については、男性は主に男性は中東での建設、炭鉱、石油関係に従事し、女性は東南アジアや東アジアで家政婦として働いている。また、北米では医師や看護師など医療関係職が多い。彼らは離れて暮らす家族の家計を大きく支えている。資料によると、2017年には総額約2,050憶ペソ(約1,050億円)が出稼ぎ労働者によって海外からフィリピンに送金されていることがわかる。
Philippine Statistics Authority のデータを元に作成
なぜ出稼ぎに行くのか
そもそも、なぜ出稼ぎに行く必要があるのだろか。海外で働くことは、言語や文化の相違、家族や友人と離れて暮らすなど大きなデメリットがある。にもかかわらず、多くの人々が出稼ぎ労働をする理由は、主に2点ある。1点目は、国内経済の不安定さである。失業率が高く、それゆえ大学を卒業しても職に就けない、あるいは契約社員として働いている、といった状況が発生している。賃金は低く福利厚生も十分でないため国内の労働環境はいいとはいえない。2点目は、出稼ぎ労働の不安要素が取り除かれつつあることである。今や多くのフィリピン出身者が海外で働いているため、彼らのコミュニティが至る所に存在するうえ、フィリピン政府からのサポートも充実してきている。一方で受け入れ国としても、フィリピンは英語教育が発達しており労働者たちは十分に言語理解をすることができるため、受け入れがしやすいという側面がある。
隠された問題
しかし、出稼ぎ労働は絶えず問題を抱えている。問題には、フィリピン国内における問題と、受け入れ国で発生している問題の2面があり、そのうちフィリピン国内における問題は、国内の労働市場の能力低下と家族のコミュニケーションの希薄化の2点、受け入れ国で発生している問題は虐待である。以下でその内容を詳しく見ていきたい。
国内では、「頭脳流出」が問題視されている。つまり、優秀な人材や専門的技術を持った人々が高い収入を求めて海外へと流出するため、国内の労働市場の能力が低下しているのである。例えば、国内には医師の免許を持った人は13万人いるのに対し、実際に医師として国内で働いているのはたった7万人である。かなりの人々が海外へと働きに出てしまうのだ。そのため郊外地域に医師がいないことは珍しくなく、症状が悪化しても我慢し、気づけば手遅れになっていることも多いという。
また、家族同士のコミュニケーションが希薄化してしまうことも問題の1つである。父親や母親が海外で働いており、滅多に会うことができないとなれば、子どもは親の愛情を受けられず寂しい思いをする。また、子どもたちと暮らす片親にとっても、家族の世話と自身の仕事を両立することとなり、苦労は絶えないだろう。毎年食費や教育費など一定の費用が見込まれるため、いったん出稼ぎに行くと長年働かざるを得ず国に戻ることは難しい。
次に、中東やアジアなど出稼ぎ労働者の受入国では、出稼ぎ労働者に対する虐待が深刻な問題となっている。最近大きなニュースになったのがクウェートでの虐待だ。2018年月、政府はクウェートでメイドとして働いていたフィリピンからの出稼ぎ労働者が7人死亡したことを受け、クウェートの出稼ぎ労働禁止令を発令した。死亡者の中には行方不明になってから1年後に冷凍庫で発見された者もいた。フィリピンからは25万人以上の出稼ぎ労働者がいるクウェートでは、今までも出稼ぎ労働者に対する虐待が報告されている。これを受けクウェート政府は2015年に国内労働者保護の法案を成立させ、2016年には最低月収を60ディナール(約2万2千円)に定めた。しかしこれはクウェート人に適用される通常の労働法より保護規定が弱く、国際労働機関(ILO)の基準をみたしていなかった。2015年にはリビアで働いていたフィリピン人看護士が集団強姦を受けたことに対し、政府はリビアに滞在する出稼ぎ労働者に帰国を呼び掛けた。女性は知らない場所へ連れていかれた後に6人の青年から性的暴行を受け、2時間拘束されていたという。また、多くの国では雇用主が労働者のパスポートを保管しているため、労働者が仕事をやめたくてもやめることが難しいことも問題となっている。
出稼ぎ労働者の保護政策
出稼ぎ労働者保護のため、2017年にフィリピン主導のもとASEAN(東南アジア諸国連合)で出稼ぎ労働者の権利保護に関する合意が締結された。この合意はASEAN加盟国で公的な効力を持つだけでなく、世界に影響力を持ち出稼ぎ労働者に関する協議事項の強化を図ることになる。
さらに、中東における女性権利の研究者であるロスナ・べガム氏は、クウェートでの事件におけるフィリピンの対応に対し、「フィリピンは、出稼ぎを禁止するよりクウェートとともに労働者の保護に取り組むべきだ」と述べている。というのも、以前にフィリピンやインドネシアがクウェートや中東の出稼ぎ労働者に発した出稼ぎ労働禁止令は虐待を撲滅することはできなかったからだ。禁止令が出されたとしても、移住して働かなければ生計が立てられない人々は、政府に認定されていない経路を使ってでも海外へと渡り、結果虐待や人身売買を受けることになる。
そこでロスナ・ベガム氏は、フィリピン政府は出稼ぎ労働者の契約に際し地元のNGOや貿易労働組合に助言を求め、監視体制があることを確認すること、フィリピン大使館が雇用者に対し出稼ぎ労働者を登録し、定期的に出稼ぎ労働者の状況を調査すること、フィリピンが監視を強化すること、などを提案している。
この提案は対クウェートだけでなく、ほかの国々にも当てはまるのではないだろうか。禁止令は短絡的なものに過ぎず、長期的な目で見れば、監視訂正の強化が最適であろう。
今後の展開
さらに、ロシアと中国が新たな働き口として注目されている。POEA長によると、ロシアは、建設やサービス業務において特殊技術を持った労働者を求めてフィリピンに労働市場を拡大した。中国は、2,000人以上の英語教師を派遣するようフィリピンに要請している。また、高齢化が進む日本や韓国では介護や医療に携わる労働者の需要が見込まれ、シンガポールは技術部門における労働者に目を向けているという。
世界の大きな経済格差がゆえに生み出された出稼ぎ労働者。愛する家族を残し、単身異国の地で働いている彼らだが、そこには家族と会うことのできない寂しさ、そして虐待や犯罪行為といった大きな問題が潜んでいる。フィリピンは以前から出稼ぎ労働者雇用機関に対して国による許可制を採用したり、虐待の訴訟制度を整備したりと出稼ぎ労働者保護には力を入れてきたが、特に中東での様子を見るとうまく機能していないことがわかる。ロシアや日本、中国といった巨大市場を含む新たな労働市場が開拓される中、ASEAN合意を筆頭とした対策が受け入れ国と送り出し国の双方で実行されることで、状況が改善されることに期待したい。
ライター:Nanami Yoshimura
世界の格差があるからこそ成り立つ仕組みですね。
一時的にフィリピンの資金源になっているとはいえ、その代償も大きい。
どのようにして出稼ぎ労働者の権利と安定したフェアな賃金を保護できるかが課題ですね。