2021年になり「アラブの春」から10年が経過した。北アフリカ・中東を中心に、独裁政権に対する反政府運動として起こった「アラブの春」の結果は、国によって様々である。長期間に渡る独裁政権を倒したにも関わらず現在でも紛争が続いている国や、他国の介入により不安定な状態の国もある。また、最初の「アラブの春」の動きから数年後に類似の革命が発生している国もあり、多くの地域でその結果が現在にまで影響を与えている。この記事では、「アラブの春」が10年間でもたらした影響とは何なのか、そしてその中でも特にこの出来事の発端となったチュニジアに焦点を当てて見ていくことにする。

チュニジアでの抗議デモ活動の様子(写真:anw / Flickr [CC BY-SA 2.0])
「アラブの春」とその後
「アラブの春」とは、2010年から2012年にかけて北アフリカ・中東を中心に行われた大規模な反政府デモを中心とした民主化運動のことである。発生した国の多くは、アラブというアイデンティティを持つ人々の多い国である。そして、政権交代を季節の変わり目に例え、長い独裁政権の時代を季節の「冬」、それに対する民主化の動きとして「春」が来た、という意味合いを込めて、「アラブの春」と名付けられた。発端は2010年12月、チュニジアの一人の青年が、日々直面していた警察の腐敗への抗議として、焼身自殺を図ったことで始まった事件だった。人々は長年の独裁政権による抑圧、政治の腐敗、物価の上昇、失業率の高さに苦しめられていたため声を上げ始めた。各地で大規模なデモが発生し、2011年1月に政権が崩壊した。
この革命をきっかけに、同じような問題を抱えていた周辺国の人々も感化され、反政府運動が始まった。エジプトでは、30年に及んでいたホスニー・ムバラク大統領政権が崩壊。そして、リビアのムアンマルアル・カダフィ政権、イエメンのアブドッラー・サーレハ政権も倒される結果となった。また、政権交代までは発展しなかったものの、シリア、バーレーン、アルジェリア、モロッコなどでも大規模な反政府デモが起こった。さらには、そのような動きがアラブ系以外の国々にも伝播し、サハラ以南アフリカ地域のジンバブエ、アンゴラで反政府運動が起こり、そしてセネガル、ザンビアではその後の選挙を通じて政権交代などが起こった。
以上のように、多くの国に変化をもたらした「アラブの春」だったが、その後の状況は国によってかなり異なっている。シリアでは、民主化を求める運動が全国規模に広まった際、独裁政権を率いるバッシャール・アル・アサド氏が、軍・治安部隊を用いて激しく鎮圧した。それ以降、周辺のトルコ、イランやイラクからのクルド人勢力に加え、アメリカ、ロシア、イスラエルなども介入し、またIS(イスラム国)を含む複数の過激派組織が登場するなど、10年が経過した今でも紛争が続き、長期にわたる独裁政権を退ける結果には至らないままだ。イエメンでは一連の動きの中で、政権崩壊後、副大統領だったアブドラッボマンスール・ハーディー氏が新大統領となり、2014年に、中央集権制から連邦制への移行がなされ新憲法を起草した。しかしながら、その後は現在に至るまで、紛争が勃発、サウジアラビアが率いる連合軍が介入するなど、国内外の多くの紛争当事者もあいまって争いが起こっている。リビアは、2012年7月、270万人が選挙権を獲得するなど民主化に向けて動き出していたが、政府が二つに割れてしまい、イエメンと同様、複数の国 や勢力による軍事介入もあり、対立による混乱が現在も続いている。
また、2019年には「第2のアラブの春」とも呼べるべき出来事の連鎖があった。スーダンでは2018年終わりごろから、30年にもわたる長期政権を率いたオマル・バシル大統領の退陣を求めるデモが相次いだ。その結果、2019年4月、彼はクーデターにより大統領職を解任され、数々の汚職事件を起こしたとして身柄が拘束された。また、アルジェリアでも2019年大統領を退陣に追い込む大きなデモが発生した。1999年に当選したアブデルアジズブ・ブテフリカ大統領は、就任以降治安の回復に注力し高い人気を得ていたものの、2013年に脳梗塞を患い、公に姿を見せることがなくなっていった。そんな状況にもかかわらず、2019年に5度目の大統領選出馬を表明したことをきっかけに、国民の怒りはデモへと発展していったのだ。そして大統領は出馬を断念。しかしそれ以後も、若者たちはアルジェリアの根本的な変革を求めてデモが続いていた。そして、レバノン、イラクなど他の国々でも大規模な反政府運動が同時期に発生していた。このように、近年でも政府への不満から起こる運動は激化しており、「アラブの春」の影響はまだ続いているといえるだろう。
「成功」か「失敗」か
先ほど述べたように、一連の動きを経て、長期政権を倒す結果となった国でも、その後安定せず紛争状態に陥ってしまう国がある。これに対して、「アラブの春」の後に民主主義が定着したかどうか、あるいは紛争や不安定な状況に陥ったかどうかで、「成功」「失敗」と、勝敗を決めるかのような議論が現在も続いている。しかし一方で、このように勝敗を決める議論は単純すぎるという指摘もある。革命が起こったとしても、紛争状態が続いてしまったなら、もはや、民主化運動自体が「成功」「失敗」を判断する以前の問題であるともいえるかもしれない。確かにアラブの春がきっかけで紛争が発生しているが、これは民主化がうまく進むことができなかったから発生したというわけではないだろう。多くの場合は、権力の所在が曖昧な状態が起こったことで紛争に発展したとも捉えられる。結果的に民主化運動として「成功」かどうか分析することは難しい。

チュニジアの選挙ポスター (写真:European Parliament / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
このような意味で、当初の「アラブの春」にて政権が倒されたのちも紛争に発展していない国は、実はエジプトとチュニジアの2国にとどまる。加えて、「第2のアラブの春」とも呼ばれる2019年のスーダンとアルジェリアで起きた政権交代に関しても紛争に発展していない。エジプトは2011年2月に、長年独裁政権を貫いたムバラク大統領が退陣。その後、大統領選挙が実施され2012年に「ムスリム同胞団」に属するムハンマド・モルシー氏が大統領に当選したものの、翌年の2013年には軍部のクーデターにより政権崩壊してしまう。その後、2014年の選挙にてアブドルファッターフ・アッ・シーシー大統領が選ばれた。しかしこれは民主的な「選挙」ではなかった。実際に、シーシー氏は93%以上もの票を獲得しており、決して公平な過程を踏んだものではなかった。そして、シーシー大統領は憲法改正で2030年までの自身の続投を可能にしたほか、過激組織の取り締まりという名目のために一般の大衆までもが逮捕される状況につながっているなど、独裁色が強く、ムバラク大統領時代よりも悪い状況だとの評価も見受けられる。では、一方のチュニジアは、「アラブの春」の発端の地であるがその後の動きはどうなっていたのだろうか。
チュニジアの「アラブの春」とその後
ここで改めて、チュニジアに焦点を当てて「アラブの春」を振り返る。2010年12月、ある青年が焼身自殺を図ったことをきっかけに、食品の値段高騰、失業率の上昇、政治腐敗、独裁政権などに対して不満を持っていた多くの国民が反政府運動を始めた。これが、チュニジアを代表する花に基づき命名された「ジャスミン革命」だ。クーデターの末、1987年に大統領就任を果たした、ザインアル・アービディーン・ベンアリ大統領は経済回復に注力した。しかしながら、23年間その座に居座り、一族が利権を独占するなど独裁の色が強かった。安定しているように見えながらも、貧困、失業の問題は解決に至っていなかったのだ。このような背景の中起こった「ジャスミン革命」はチュニジア国中に広がり、ベンアリ大統領の退陣を強く訴えた。この運動の勢いは非常に大きく、たった数週間後の翌年2011年1月14日、ベンアリ大統領は家族とともにサウジアラビアに亡命し独裁政権は終わりを告げた。そして、2011年10月、穏健イスラム派政党エンナダ(Ennahda)が国民選挙に勝利し、非宗教の世俗派政党との連立政権が誕生した。
しかしながら2013年から2014年にかけて、危機に瀕するような出来事が起こったこともあった。エンナダ政党はもともとイスラムの思想を取り入れていたが、それに対して世俗主義の人々が宗教憲法の作成につながるのではないかという思いから、大規模な抗議デモを始めたのだ。2人の政治家の暗殺が発生し、デモが収まらないなか、エンナダ政党率いる政府は暫定政権に権力の座を引き渡した。この状況下でで打開策を導き出したのが、チュニジア国民対話カルテット(Tunisia National Dialogue Quartet)の存在だと言われている。これは、企業・労働者・人権団体・弁護士会の4つのアクターが集まる一時的な連合で市民社会を代表するものである。近隣のエジプトやシリアでは労働組合が完全に政府と一体化していたのに対して、チュニジアのこのような組合や市民団体は、国の政府とは深い関わりを持たない、あくまでも大衆に近い存在であり、意見を発信することのできる場であった。このような市民団体があることで、チュニジアの国民は広く連携し革命を実現に導いたほか、その後も様々な混乱を抑える一つの要因ともなり、重要な役割を果たした。そして、カルテットの仲介のもと、エンナダ政党は妥協に応じて、宗教と民主主義との両立を図った末に、2014年に新憲法を採択するに至った。この新憲法は、表現や信教の自由を定めるなど、民主化への大きな前進を遂げるための一歩となったのである。

カルテット代表者の集まり(写真:wikimediacommons)
この連立政権体制は2019年まで続いたが、一方でエンナダ党の投票に占める割合は27%(2014)から19%(2019年)と下がり、支持率が低下したという事実もあった。そして、2020年9月にヒチェン・メチチ氏が新首相(※1)に推薦され、新たな政府が誕生している。
残る課題1:経済
革命後、比較的安定した状態を保っているともいえる現在のチュニジアが、その一方で解決すべき課題にはどんなものがあるのだろうか。まず初めに注目するのは、革命勃発の原因でもあった経済状況の悪さである。チュニジアには、周辺国に比べて教育を受けた中流階級の人々が多く存在していること、そして大規模な欧州連合(EU)市場が近くにあるなど、経済発展のための要素がいくつかあった。しかしながら、長年の独裁を敷いたベンアリ政権の政治腐敗により、そのようなチャンスを十分に生かすことなく経済が悪化していったといえる。2011年の革命後も、経済の回復を見せることはほとんど無かった。実際に、国の債務状況は、GDPの40%(2010年)から73%(2019年)へと膨らみ、利子の支払いに追われ、インフレの加速、それによる生活水準の低下が避けられない状況だといえるだろう。また、失業率が高いままであることも問題である。その理由の一つとして、労働力の需要と供給のバランスがとれていないことがある。チュニジアの人口増加率は低下してきているものの、教育を受けスキルを持つ若者は急激に増加しており、優れた労働力の供給が加速している。その一方で、比較的スキルを求められるような雇用の創出は進んでいないのが現状だ。基本的には、公的部門の仕事により優れたスキルを求められることが多いのだが、公的部門の雇用が進んでいないことが原因の一つだという指摘もある。そのため、市場で求められる労働力と、実際に優れたスキルを持つ若者との間に大きなギャップがあることから失業率が高くなっているという見方があるのだ。

首都チュニスの電車の駅近くでたばこを売る男性(写真:Carsten ten Brink / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
さらに追い打ちをかけるように、2020年のコロナウイルスによる影響により、農業に次いで二番目に大きな産業である観光業が大きく影響を受け、国際通貨基金(IMF)からさらに新たなローンを組む計画がなされている。観光業における月間収入は2019年と比較して約30%減少しており復活の兆しはみられず、また観光業に従事していた約16万5千人もの人が職を失った。
残る課題2:政治、安全保障
そして次に政治的な課題として、連立政権の難しさが挙げられる。2019年の選挙では、エンナダ政党(18%)、新党「チュニジアの心」(16%)、以下小政党が各5~6%を占める結果となり、ある政党が大多数を占めるような結果になっていない。エンナダ政党と新党「チュニジアの心」は当初、連立政権をつくることを拒否していたものの交渉を重ねるなど、厳しい状況も見られた。結果的に連立政権は誕生したものの、政党間のバランスがうまくとれず不安定であることも不安な要素である。

チュニジアの議会の様子(写真:Martin Schulz / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0] )
またもう一つの課題として、過激派組織の温床となっている点がある。2015年から2016年にかけて、シリア、イラクに拠点を持っていたISへの人員流入は他国に比べて非常に多く、6,000~7,000人がチュニジアを去っていたという。これはチュニジアよりも人口の多いエジプトやアルジェリアの数倍にもあたる数で、いかに多いかがわかるだろう。上記で述べたような不安定な経済状況による若者の失業率は非常に高く、不満がたまっていることが、彼らが国を去る最大の理由だといえる。また、紛争の続く隣国リビアの不安定な状況もチュニジアの治安における大きな不安要素である。これに対しては、政府が国境線付近のセキュリティ管理を行い対応に努めてきている状況だ。チュニジア国内では、2015年に首都チュニスの博物館付近にて大規模な銃撃事件が発生した。これにより22人が死亡、多くの観光客がけがを負う事態になった。この事件から5年が経過し、テロ発生に対する政府の動きは迅速化してきた。しかしながら、現実に起こった出来事の対策をするだけでは十分ではないだろう。若者が抱いている不満を取り除くことが、問題の根本的な解決につながるはずである。
最後に、チュニジアにおける国外からの干渉についても触れておこう。周辺国のアラブ首長国連邦(UAE)が、チュニジアでの内政干渉、そしてクーデター計画にも関与していたのではないかという疑いがあるようだ。UAEのモハメド・ビン・ザイド皇子は、過激派武装勢力やムスリム同胞団のような運動を政権の脅威としてとらえている。彼は自身の独裁体制を維持したいという思いから、チュニジアが「アラブの春」の動きから民主化を遂げる前例をつくってほしくないという見方もできるだろう。また、2017年に起こったカタール危機が関係しているという見方もある。カタール危機とは、周辺国であるサウジアラビア、エジプト、UAE、バーレーンの4か国がカタールとの国交を断絶することを発表した出来事だ。カタールが上記4か国と対立するイランと友好関係があること、そしてムスリム同胞団の支援をしていたことが理由であった。2017年当時、カタールはチュニジアの民主化運動並びにエンナダ政党の勝利をたたえるような見方を示したことから2国の関係は近いものとなっていった。それと同時に、カタールと対立するUAEやサウジアラビアとの関係は遠のいていったのと同時に、このカタール危機の複雑な関係性に巻き込まれる可能性も懸念されていた。カタールに加え、カタールと友好関係を持つトルコもチュニジアの内政に関心が強く、チュニジアには国外からのプレッシャーがかかっている状況といえるだろう。

チュニジアの首都チュニスの様子(写真:Stephen Downes / Flickr [CC BY-NC 2.0])
まとめ
これまで「アラブの春」から始まった各国の動きを見てきたが、長い独裁政権から抜け出し民主化を成し遂げることは決して簡単なことではない。経済の停滞や、外部からの干渉などいくつもの問題を抱えていることが、さらに民主化の実現を難しくしているともいえる。しかしそんな中でチュニジアは、比較的民主化においては成果を上げてきた。今後、新政権が複数の課題をどのように乗り越えていくかがカギとなってくるだろう。また、「アラブの春」が起こった他の国々についても、安定した状況を保つことができるよう望むばかりである。「アラブの春」から10年が経過したからこそ、改めて今後の中東・北アフリカ地域の動向に注目していきたい。
脚注
※1 チュニジアには、首相と大統領の双方が存在し、首相は大統領によって選出される。
ライター:Naru Kanai
グラフィック:Yumi Ariyoshi
チュニジアはアラブの春の発端となった場所というイメージしかありませんでしたが、今回の記事で新たな側面を知ることができました。
アラブの春についてもなんとなく知っているだけだったが詳しく解説が読めて理解が深まった。
チュニジアに焦点を当てたこともなかったので大変勉強になった