2020年11月21日、ミャンマー総選挙におけるシャン州北部の選挙区でシャン諸民族民主戦線(SNLD)の候補者に54票差という接戦で勝利した与党国民民主連盟(NLD)の議員が殺害される事件が発生した。SNLDはこの事件に関して関与を否定しているが、政党間の溝が深まったと思われる。また、このシャン州をはじめ、カチン州、カイン州、モン州などでも、深刻な治安問題が原因で投票すら実施することができなかった選挙区もあった。
近年、ミャンマーの平和を脅かす存在として大きな問題となっている西南部ラカイン州での紛争とそこから逃れるロヒンギャ難民に対して、世界各地で注目が集まっているが、ミャンマー北部や東部にも長年続く複数の武力紛争が現在も存在する。この記事ではこのミャンマー北部や東部のシャン州、カチン州、カイン州の紛争に焦点を当てて紹介していく。
目次
ビルマの誕生
ミャンマーはインドシナ半島北西部に位置し、バングラデシュ、インド、中国、ラオス、タイと隣接しており、南部、西部はベンガル湾、アンダマン海に面する。人口は約5,600万人でそのうち約6割がビルマ人というアイデンティティを持っており、その他を多数の少数民族で構成している。また公用語はビルマ語のみでその他多数の少数民族の言語や英語なども使われている。国土の北部及び東西部は高地で、南部は南北にエーヤワディー川が流れ、その川沿いに人口500万人を超えるヤンゴンや首都ネーピードーなどの大都市が存在し、低地のデルタ地帯が広がっている。
歴史を遡ると、様々な王国や帝国が拡大・合体・分裂を繰り返した結果、今の様々な民族が暮らす領土を確定する国境線ができた。その代表的な王朝が1057年にできたパガン王国で、ビルマ人が中心となり建設した。パガン王国は約200年にわたって存続したが、13世紀後半に元軍の襲来によって崩壊した。その後、現在のミャンマー周辺は分裂状態となり、北部はシャン人が、南部はモン人とビルマ人が支配したが、南部では次第にビルマ人が優位となり、16世紀前半には再びビルマ人が現在のミャンマー南部を統一し、トゥングー朝を建設した。現在のシャン州やカチン州が位置する場所にはシャン人が中心となったインワ朝が建設されていたが、16世紀にトゥングー朝に滅ぼされた。シャン人はその後小規模の首長を中心として自治を行う複数のグループに分かれたが、トゥングー朝と朝貢関係で結ばれた。その後も現在のミャンマー周辺の国家は分裂と統一を繰り返したが、19世紀に入りイギリスやオランダからの圧力が強まり、1824年から1826年の第一次英緬戦争、1852年の第二次英緬戦争を経て1885年に現在のミャンマーの領土がイギリスの支配下になった。
当時のイギリスは現在のインド、パキスタン、バングラデシュを含む地域をインド帝国として支配していた。イギリスの植民地となったビルマとその周辺の州は、首都を南部の都市ラングーン(現ヤンゴン)とし、そこを中心にイギリス領インド帝国のビルマ州として統治された。一方、シャン人、カチン人、カレン人が住むビルマ北部や東部の地域はインド帝国ビルマ州の一部であったが、それぞれフロンティア地域と指定され、半自治政府を置き、地域を治めるように指示されたため、植民地化以前に続いて一定の自由な自治が認められた。しかし、植民地時代以前は上記のように小規模の首長を中心とする複数グループに分かれていたため、フロンティア地域内では少しずつ異なる言語や文化を持つ人々が混在していた。そこでイギリスはこれらの地域の監視を容易にするために独断で約135の民族に分類した。
独立:ビルマからミャンマーへ
第二次世界大戦期の1942年から1945年までの日本による占領、その後イギリスによる再占領を経て、1948年にビルマ政府は新憲法を策定し、ビルマ連邦として独立を果たした。シャンやカチンなどのフロンティア地域として自治を行っていた地域のほとんどは、1947年に現在のシャン州の都市パンロンで開かれたパンロン会議で完全な自治と国の財産の平等な分配が約束されたため、ビルマ連邦の州として独立することに合意した。しかし、1962年、軍事クーデターにより政府が倒され、ネー・ウィン大将率いる革命評議会が政権を握った。ネー・ウィン氏は仏教を根幹に据え、国全体の経済の国有化を目指すビルマ式社会主義を導入し、直接的な支配を行うため連邦制度を廃止した。これに反発した北部や東部の州では抵抗するための武装勢力が誕生した。
1988年、社会主義による独裁政権に不満を持った大規模な民主化要求デモが発生した。このデモは軍によって鎮圧されたものの、その後軍の青年グループによるクーデターが起こり新たな軍事政権が誕生した。この政権は反政府武装グループによる抵抗を恐れ、少数派民族地域の支配ををさらに強めた。またビルマという国名は、ビルマ連邦の最大民族グループの名前であり、非ビルマの少数民族の支配をより明確なものとするため、1989年には国名をビルマからミャンマーに変更した。ミャンマーの名前は、ビルマの英語の発音(mranma)に由来する。1988年の民衆によるデモに応えるべく1990年にはミャンマー総選挙が実施された。選挙ではアウンサン・スー・チー氏率いるNLDが議席の90%以上を獲得して勝利したが、政府は結果を無視して権力を保持し、その後約20年間にわたって軍事政権が続いた。
2011年、テイン・セイン大統領誕生により国外からのミャンマー市場への介入の規制緩和や市場の自由化の促進、報道の自由化といった政治経済的自由化が行われ、ミャンマーの社会、経済は大きく進展した。一方で、連邦制の樹立は国家としてのまとまりを失ってしまうため消極的で、連邦制復活を期待する少数派民族地域からの反発が大きくなっている。今回は、紛争が特に激しかったカチン州、シャン州、カイン州に注目して見ていく。
カチン州
ミャンマー北部に位置し、中国・雲南省との国境に接しているのがカチン州である。人口約170万人で主にカチン人が居住している。州都はミッチーナで州の北部が山間部、南部が平野部となっておりカチン人は主に山間部に居住している。カチン人の約60%から90%がキリスト教徒であると推測されている。
カチン州は1947年のパンロン会議で合意した州であったため、イギリスから独立した当時は反乱を起こす武装集団が創設されることはなかった。しかし中央政府によって、その自治権が徐々に削られていったため、自治権の拡充のために政府に対抗する政治的組織、KIO(カチン独立機構)が1960年に、そしてその軍隊のKIA(カチン独立軍)が1961年に創設された。さらに1962年ビルマ政府が連邦制度を廃止し、国教を仏教に据えたため、KIOはこれに反発する動きを強めた。KIOの資金源ははっきりとはしないが、政府はKIOが違法薬物であるアヘンの取引を通して資金を得ているのだと主張した。またカチン州に存在する金や翡翠(ヒスイ)、熱帯性の木材といった天然資源の獲得のために政府軍が軍事介入を行った。KIOは連邦主義によるミャンマーの紛争の政治的解決を目指し、ミャンマー政府と停戦協議を続けたが、紛争は絶え間なく続き、これが実現したのは組織創設から約30年後の1994年のことであった。停戦の実現に際してカチン州の天然資源がミャンマーの軍事政権の最高決定機関である国家平和発展評議会(SPDC)の管理下となる一方、一定の自治権が与えられた。
KIOと政府の停戦合意後、平和的社会の実現に向かうと思われた中、2009年に政府軍(タトマドー)からKIOを国境警備隊(BGF)に変換する要請が出されたが、KIOがこれを拒否したことで政府軍が停戦合意を破棄した。これにより2011年6月に戦闘が発生し2012年にかけて紛争は激化した。2013年5月に沈静化の合意があったが現在に至るまで依然として紛争は続いている。民間人への被害ももたらされ、10万人前後の人々が避難を続ける大規模なものとなっている。カチン州の紛争はKIOと政府軍の中央対地方というミャンマーが抱える典型的な紛争の例であるといえる。
2018年、カチンの市民社会組織が行った「恒久的平和プログラム」の調査によると、国内避難民のほとんどは農業従事者であり、政府軍との紛争で破壊された土地の返還は最も重要な課題であるが、土地の返還をめぐり紛争が勃発するという負のスパイラルが発生している。またこの土地のほとんどは伝統的に引き継いできたものや不正に購入したもので、正式な文書による土地の保持の証明が難しいものばかりとなっている。そのような状況で政府は2017年から国内避難民に元の居住地に帰るようキャンプ地の避難民に圧力をかけている。しかし、武装集団同士の衝突は無くなっておらず、居住地や食料の保証もない場所への帰還は反発を生んでいる。
シャン州
ミャンマー東部に位置し、中国・雲南省、タイ、ラオスとの国境に接しているミャンマー最大の州がシャン州である。人口約580万人で、主に居住しているシャン人はミャンマー最大の少数民族で約200万人以上が存在すると推測されており他にも複数の少数民族が居住している。州都はタウンジーでシャン丘陵やシャン高原といった高地が多くなっている。宗教は主にビルマ人と同様の上座部仏教を信仰している。
シャン州もカチン州と同様にパンロン会議でビルマの州として自治を行うことに合意をしていた。イギリスからの独立後、シャン州では自治が行われていたが、1950年中国共産党政権に敗れた国民党軍がシャン州の山岳地帯に逃げ込んできた。ビルマ政府はシャン州の安全を確保するということを名目にシャン州に政府軍を派遣した。政府軍は国民党軍の撃退に成功するが、シャン州に対する圧力を強めシャン州の自治は衰退していった。1958年以降、これに対抗するためシャン州独立軍(SSIA)など複数の反政府勢力が誕生した。反政府勢力と政府軍の争いは続いたが、1964年に既存の反政府勢力が合併してシャン州軍(SSA)が設立された。シャン州軍はシャン州の自治権の回復、拡大を目指して戦った。シャン州にはもう一つの問題があった。それは麻薬取引の問題である。国民革命軍がシャン州に逃げ込んだ際、タイとの国境沿いのシャン州東部に麻薬関連基地を建設した。これによりシャン州はアヘンの取引が活発になっていた。後に麻薬組織も武装化し、紛争の当時者になっていった。
1960年代後半になると新たな当事者が台頭するようになっていった。独立時衰退したビルマ共産党を中国が支援し、ビルマ共産党がシャン州北部へ侵攻し、州内に拠点を置く武装グループを吸収し、強力な反政府勢力となった。これは麻薬による資金調達で軍事力の拡張を狙ったものである。その結果シャン州軍は1976年に解散することになった。その後、1989年にビルマ共産党の内部が起こした反乱により、ビルマ共産党はMNDAA(ミャンマー民族民主同盟軍)、NDAA(民族民主同盟軍)などに分離した。その結果、政府軍はMNDAAなどの反政府組織と1989年に停戦合意を行った。1990年代から10数年にわたり、グループ間の争いはあったものの比較的安定した時代となった。
2009年4月、政府軍司令部により停戦合意に達した武装グループを政府側の国境警備隊にする宣言が出され、反政府勢力は政府軍からの圧力が強まった。その後、NDAAなど、シャン州北部の武装グループは他州で同じく警備隊への変換指令を拒否したKIOやTNLA(タアン民族解放軍)などと組むことにした。これらのグループとシャン州北部の武装グループの同盟を北部同盟と呼び、政府軍や国境警備隊と戦闘が起きるようになった。この争いは現在も続いており、数千人が国内外に避難する状況である。
カイン州(旧カレン州)
ミャンマー南東部に位置し、タイとの国境に接しているのがカイン州である。人口約160万でカレン人やモン人など多くの民族グループが居住している。州都はパアンで山岳地帯が広がっている。
ビルマの独立以前はKNAという政治団体として活動していたが、独立のころに反政府武装組織のKNU(カレン民族同盟)という反政府勢力に発展した。KNUは1947年のパンロン会議ではビルマの州として自治を行うことを拒否した。しかし、ビルマ政府はカレン州として引き入れようとしたため、1949年にKNUと政府軍よる紛争が始まった。初めは政府軍が国中の武装集団のサポートを受けて攻め入ったが、カレン州は山岳地帯であったため、戦いづらく、大きな戦闘になることは少なかったが州全体で紛争が頻発した。状況が大きく変化したのは1988年、政府軍は軍による統治を確立させるため、カレン州の支配に動き出した。1989年、カレン州の支配の過程で軍事政権により州の名称がカイン州に変更された。そして1994年の政府軍からの攻撃によりKNUはほとんどの支配領土を失った。その結果、民主カレン仏教徒軍(DKBA)のように複数の武装集団がKNUから分離していった。これらの複数の武装集団はそれぞれ政府に協力的な集団であったり、政府に反抗を続ける集団であったりと形態はさまざまであった。
2013年5月にはカインの5つの武装グループによる政治的団結のための会議が開かれ、グループ間の緊張の緩和が模索された。また、KNUは2012年に政府と停戦合意を結び、着実に状況が改善されてきている。しかし州内の山岳地帯には多数の避難民が存在し、隣国のタイにも10万人の難民が存在するなど問題は残っており、彼らが懸念するのは多数の武装グループの存在であり、グループ間や政府との緊張がなくならない限り、避難民が元の生活に戻ることは難しいようだ。
まとめ
全国でみれば、2020年の総選挙は与党の圧勝で大きな変化はないと言える部分はある。では、ミャンマーが抱える多くの紛争は今後どうなるのだろうか。紛争が続いている地域では前回の選挙に比べて、影響力や軍事力を拡大し、選挙に影響を及ぼしている武装勢力が少なくないという見方もある。現在もカチン州、シャン州、カイン州などでは、多くの市民が基本的な人権の保障や自治権を求めている一方で、さまざまな当事者が資源や権力をめぐる争いを続けており情勢は安定していない。ミャンマー政府は自治権を与えることによる少数派への影響力の低下あるいは反乱を恐れて武力行使を行っているのかもしれないが、市民が平等に扱われ、安全に生活できるように、紛争解決のための対話を続けていくことは必要である。
ライター:Kaito Seo
グラフィック:Yow Shuning
ミャンマーという比較的小さな国でも、いくつかの地域に分かれていたことから問題が起こっていることを理解しました。これから人々の意思がきちんと伝わった政治に変革していくことを願うばかりです。
ミャンマーのあまり報道されてない部分がよく解説されていてわかりやすかったです。
それぞれのグループの意思が尊重された形で問題が収束されていくといいなと思いました。
日本のメディアはあまり扱わない点を知ることができました。
少数派の資金調達源が麻薬やアヘンであることに驚きました。
仮にこの紛争が解決しても、その後にまた麻薬やアヘン取引の問題が浮上してくるでしょう。何をもって解決というか難しいなと思いました。