2019年9月、インドネシアの西パプアで、人種差別的な発言に対抗するデモが発生した。ワメナという高地の町でデモに参加していた住民は警察部隊によって鎮圧され、40人近くの死亡者が出る事態となった。しかし、西パプアの住民とインドネシア政府との対立は今回が初めてではなく、このような衝突は何十年もの間繰り返されている。これらの摩擦の背景には、西パプアの住民に対する人権侵害や独立の問題も含め、様々な要因が潜んでいるのだ。この記事では、この西パプアで起こっている現状について探っていく。

西パプア独立のためにオーストラリアで実地された抗議デモ(写真:Nichollas Harrison/Wikimedia [C.C. BY-SA 3.0])
西パプアの背景
西パプア (※1)はインドネシアの東側に位置し、パプアニューギニアと国境を接している。約250のメラネシア(※2)系の先住民グループが暮らしており、現在では人口の約半数がパプア先住民、残り半数がインドネシアの他島の移民で構成されている。
西パプアは、他のインドネシアの領土と同じく1800年代からオランダの植民地とされており、1942年から1945年までは日本によって占領されていた。第二次世界大戦の終結後、インドネシアはオランダから独立することができたが、鉱物資源などが豊富な西パプアだけはオランダ領として占領され続けることとなった。しかし、西パプアの人々の独立を求める声は高まり続け、1950年代にはついに、オランダが国際連合と共に西パプアの独立に向けての準備の支援を始めることとなった。1961年12月1日、独立宣言が行われ国旗が初めて公表された。
一方で、インドネシア政府は、西パプアが含まれていた植民地の形がそのまま「インドネシア」となるべきだと主張し、その豊富な資源の開発計画を進め始めた。他にも複数の外資系企業が西パプアに目をつけており、例えばアメリカの鉱業会社フリーポート(Freeport)は、後のインドネシア大統領にもなった陸軍少将ハジ・ムハマド・スハルトと西パプアの鉱山の利権について交渉を進めていた。この交渉は秘密裏に行われ、オランダにも西パプアにも一切知らされることはなかった。
1962年になると、インドネシアは武力的に西パプアを侵略しようと試みたが、オランダ軍がインドネシア軍の戦略を傍受していたため、失敗に終わった。そんな中、アメリカはインドネシアとオランダの争いを停止させるため、ニューヨーク協定という協定の締結を提案した。この協定の内容は、まず西パプアをオランダから国連に引き渡し、その後1963年にインドネシアに引き渡すというものであった。オランダは、アメリカなどからのプレッシャーに加え、長引く争いを終結させるため、協定を結ぶに至った。西パプアの住民はこの協定について何も知らされておらず、協定が結ばれたことが後に知れ渡ると、インドネシア政府の乗っ取りに反対するため、自由パプア運動(Free Papua Movement)を起こした。この運動は今もなお続けられている。
ニューヨーク協定の中には人民投票を行うという合意もあり、「自由選択投票」と呼ばれる人民投票では、男女約80万人の西パプア人全員が、独立するか否かの意思決定を行う権利を与えられたはずだった。しかしながら1969年の実際の人民投票では、インドネシア政府が恣意的に1,026人の代表を選び、インドネシアからの独立を選択する者を脅迫していたという。結果的に代表者の全員一致で独立は否決され、インドネシアに残るという決意を下すこととなった。代表者らが脅しを受けていたことや、実際は西パプア住民全員が投票できたわけではなかったことから、この選挙は「不自由選択投票」と呼ばれるようになった。
この不自由選択投票の2年前には、既にフリーポートはスハルト政権との交渉を終えており、西パプアのエルツベルグ鉱山を共同事業で開拓することで合意していた。そしてこの投票後、フリーポートはイギリス・オーストラリア系鉱山会社のリオ・ティント(Rio Tinto)とも共同でグラスベルグ鉱山の開拓を始めた。グラスベルグ鉱山は金に関しては世界一、銅に関しては世界2位の生産量を誇る。その他にも、イギリスの石油会社BPや日本の三菱グループも次々と西パプアで事業を開始していたが、インドネシア軍はこれらの大手企業と親密な関係を持ち、不法ビジネスなども行っていたと囁かれている。
インドネシアへの併合以降
インドネシアの一部となった西パプアでは、独立に向けて準備してきた議会、国旗、パプア国歌も全て使用が禁じられている。西パプアという名前すらもイリアン・ジャヤと改名され、土地は軍事地帯にされてしまった。また、主に鉱物、木材などの天然資源の恩恵を受けていたのは海外の企業やインドネシア政府であり、西パプアで都合のいい統治を行うため、他のインドネシアの島々から多くの移民が送り込まれ、先住民たちとの緊張関係がさらに高まった。
先にも述べたように、西パプアは非常に豊富な資源を持っており、発展の目覚ましい地域となっていても何ら不思議ではない。しかしながら、西パプアはインドネシアの中で一番貧しい地域とされている。インドネシア全体の貧困率が11%であるのに対し、西パプアでは25%以上にも上り、読み書きができない住民が人口の35%にも及ぶ。また、西パプアの都市の55%以上は移民が住んでいるが、他島からの移民の乳児死亡率が4%であるのに比べ、先住民の乳児死亡率は18%だ。先住民と政府関係者や移民とのあいだに起こるトラブルも頻発しており、先住民への差別行為がデモの引き金となることも少なくない。
このような差別問題の他には、鉱山活動や森林伐採による環境破壊などに対してもデモが相次ぎ、独立を求める声と共に武力による抵抗も増す一方である。
1973年には自由パプア運動の中から西パプア解放軍(West Papua National Liberation Army)が設立され、武力を用いてインドネシア政府への対抗を開始した。主な事件として挙げられるのが、1984年のジャヤプラ市への攻撃であるが、すぐにインドネシア軍に鎮圧され、反撃にあうこととなった。その結果、多くのパプア先住民が難民となり、パプアニューギニアへの逃亡を余儀なくされてしまった。しかし、西パプア解放軍による活動は今も続けられている。2018年12月には、西パプア解放軍が橋を建設していた30人余りの労働者を攻撃し、死亡させるという事件が起こった。西パプア解放軍は、建設労働者はインドネシア軍の兵士だと主張し、橋は警察と政府軍の利益のために建設されているものだと正当化しようとした。このように、解放軍と政府軍や警察の双方からの激しい武力行為があり、解決に至るには厳しい道のりとなっている。
1998年、スハルト大統領失脚後には、西パプア問題を少しでも解決しようとインドネシア政府からいくつかの解決策が提示された。その中の一つが、1999年にできたパプア民族議会(Papua People’s Congress)だった。その議会はパプア地域内の諸問題を解決したり、中央政府に政策提案したりといった役割を果たす場所として機能するはずだった。当時のアブドゥルラフマン・ワヒド大統領も、独立を支持していなかったものの、西パプアの貧困や紛争はインドネシア政府にも責任があることを認め、西パプアの人々に意見を述べる機会を与えるとしていた。しかしながら、2000年にパプア民族議会が独立を宣言すると、ワヒド大統領は議会の承認を取り消し、警察と軍を西パプアに送り込んだ。大統領の一連の行為に憤慨したパプア先住民は、他島からの移民を攻撃。政府が軍を使って抑えつけるなど、激しい攻防が続いた。2001年にパプア民族議会の代表がインドネシア軍に暗殺されると、独立運動は一旦落ち着いたかに見えた。
しかし、2002年には、西パプア独立キャンペーン(Free West Papua Campaign)の創設者であるベニー・ウェンダ氏が、独立集会を指揮した疑いで逮捕された。インドネシア政府の当局関係者の主張によれば、その独立集会は暴力的であり、警察官が殺される事態にまで至ったというが、ウェンダ氏は関与を否定し、政治的な理由での逮捕だったと言われている。その後、ウェンダ氏は収容所からの脱獄に成功し、パプアニューギニアへの逃亡を経て、数か月後にイギリスに政治的亡命をした。現在はイギリスを拠点に西パプア連合解放運動の議長を務めている。

ベニー・ウェンダ氏(写真:Richter Frank-Jurgen/Flickr [C.C. BY-SA 2.0])
西パプア問題の現状
問題は現在でも続いている。外国メディアやNGOはほぼ西パプアに入れない状態だ。2015年にジョコ・ウィドド大統領が海外メディアを解禁したものの、深刻な現状は以前と変わらない。2014年に新しく西パプア連合解放運動(United Liberation Movement for West Papua)が始まった。西パプア独立を求める主要な3つの運動を一体化したこの団体は、メラネシア・スピアヘッド・グループ(Melanesian Spearhead Group)にオブザーバーとして参加することができた。メラネシア・スピアヘッド・グループは1986年にできたメラネシア諸国の地域組織で、現在はフィジー、パプアニューギニア、ソロモン諸島、バヌアツの4カ国とニューカレドニアで構成されている。ところが2015年にインドネシアが準加盟国として加わったことで組織内で西パプアの領域を代表することとなった。この国々の中では、主にバヌアツとパプアニューギニアが西パプアの独立を支持しているが、インドネシアとの貿易関係を良好に保つため、表向きは、西パプアの独立を完全に支援することはできていないのが現状である。
2017年、ウェンダ氏は、国連の非植民地化特別委員会の議題として西パプアの諸問題を提起することや、人権侵害調査を実施することを求める請願書を同委員会に提出した。およそ180万人もの住民が署名した請願書だったが、委員長が、西パプア問題を議題として議論する権限がないという決断を下したため、国連はそれをすげなく却下した。

パプア、ムリア地区(写真:Frans Huby/Wikimedia [CC BY 3.0])
インドネシア併合以降、西パプア住民によるデモは頻発しており、2019年9月のデモも決して新しい動きではない。しかしながら、今回のデモは以前に比べるとまるで規模が違う。これまでは数百人程度の規模のデモが西パプア地域内だけで行われていたり、ウェンダ氏のような亡命したリーダーが活動したりするだけにとどまっていた。しかし今回のデモでは、数千人もの規模で抗議が行われており、西パプアの住民だけではなく、他島のインドネシア人も差別反対運動に参加し、理不尽な扱いに対抗する人々の輪が拡大してきている。
西パプアの多くの人は、依然として独立を問う国民投票を求めているが、インドネシア政府は国民投票を断固として拒否している。ウィドド大統領は、暴動や社会の秩序を乱す者は許されないと主張している一方で、西パプア問題に取り組む姿勢も一部垣間見せている。しかしながら、西パプアの人口がインドネシアの人口のうちたった2%に過ぎないせいもあるのだろうか、周囲を取り巻く政治家たちの関心は低く、問題がないがしろにされていることは否めない。
そんな中、今でも住民によるデモや暴動、政府や警察による人権侵害が続いている。多くの負傷者や死者が出ており、事態が落ち着く気配すら見えてこない。たとえ、政治的な方法による解決の日は遠いとしても、悲惨な暴力の連鎖に歯止めをかけるには、西パプアやインドネシアの外からの注目も必要不可欠であろう。
※1 「西パプア」とは、インドネシア領となっているニューギニア島の西部のことを指しており、パプア特別州と西パプア特別州を含む。
※2 メラネシアとは南太平洋に点在する島嶼群の一つ。オーストラリア大陸、ポリネシア、ミクロネシアと合わせた地域をオセアニアと呼ばれている。
ライター:Namie Wilson
グラフィック:Yow Shuning
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国連やNGOも出入り出来ない状態となってくるとどうすればこの問題は解決していくのでしょうか。
実際にはHuman Rights Watch などのNGOはあらゆる手段で西パプアには入ろうとしています。
しかし、国連のように署名運動を認めないという現状が続いています。
この問題を解決するには、インドネシア政府と西パプア住民がしっかり話し合って協力することが大事になると思います。例えば、インドネシアのアチェ地域も独立運動もしていましたが、現在は自治体などができたので、独立運動は収まっています。西パプアもこのような状態になるのが一番現実的かもしれません。
西パプアがそのような状態になっていると初めて知りました。西パプア、インドネシアの外からの注目も必要であるのに、国連やNGOも出入りできない状態ではこの問題の解決は難しそうですね。
ただのデモで40人近くの死亡者も出るなんて、パプア人がかわいそう。
西パプアには豊富な資源があるにもかかわらず、インドネシアで一番貧しい地域であるのはとても不平等だと思った。
ウェンダ氏が提出した歎願書が国連の委員会の委員長に「議論する権限がない」として却下されたという事実は、国連が国という構成員でできているゆえ利害が絡むと途端に機能しなくなるという現実をきれいに表しているなと感じました。新たな国連の体制を模索しなければならないと痛感します。