2020年9月、マレーシアの現首相であるムヒディン・ヤシン氏のクアラルンプールで行われた演説で、驚くべき発言があった。それは、マレーシアのような多民族国家で「人種的な偏見に基づく政治」が行われ続けることは許されるべきでない一方で、それを完全に消し去ることができない可能性があると述べるものであった。首相自らが、これまで「人種」に準じた政治が行われたことを認めたととれるこの発言は衝撃的である。また、同首相は自分自身をマレーシア人というよりマレー人だと発言した記録も残っている。
マレーシアでは、国民の大半がマレー系、中国系、インド系のいずれかのアイデンティティを持っており、政治では民族的な政党がそれぞれの利益を代表する仕組みが取られてきた。連邦憲法には現在国民の約7割を占めるマレー系の国民が他の民族に比べて(※1)優遇されることが明記されており、1957年の建国以来、民族差別的な政策がとられてきた。2018年、マハティール・モハマド前首相が今や世界のほとんどの国が加入している人種差別撤廃条約を署名・批准する方針を固めた際には、主にマレー系の大反発が起こった。これにより条約署名の決定は覆り、現在もマレーシアは条約に加盟していない。本記事では、その背景にある歴史や構造について探っていく。

マレーシアの市場の街並み(写真:Trey Ratcliff / Flickr [CC BY 2.0])
マレーシアの成立
マレーシアの歴史は15世紀初めのマラッカ王国成立にまで遡ることができる。マラッカは東アジアと中東をつなぐ戦略的な場所であり、とりわけ東南アジアにおいて香辛料取引の主要な貿易港となった。香辛料だけではなく、マレー諸島の金や中国の絹織物や茶も、南アジアや中東、ヨーロッパに向けてマラッカを経由した。このような交易の拠点にあったために、イスラム教を含む他地域の宗教や文化がマラッカに伝来し、王国もその影響を受けた。最盛期には、中国やアラブ半島、ペルシャ、インドなどから商人が訪れ、これが後の多民族国家を織りなす礎となる。
アジアにおける貿易の中心地としてマラッカの名は、16世紀初めまでにヨーロッパに広まった。1509年、その当時東アジアへの海路を探し求めていたポルトガルによって支配され始めてから、マレーシアはその後もオランダやイギリスといったヨーロッパ諸国の植民地支配を受けた。それまで、先住民であるマレー系は農業を中心とした生活を送っていた。鉱山やプランテーションの開発を行ったイギリスの植民地政策によって労働力不足が起こると、1800年から日本軍が侵攻する1941年までの間に、数百万人もの中国人が鉱山労働者や農園主、商人として働くために東南アジアの島々に流入し、インド南部からタミル人がゴムのプランテーションの労働力としてマレーシアに連行された。このように多くの移民が入ってきたことで、植民地当局は分割統治を行なった。分割統治とは、ほとんどのマレー系は村に、中国系は町に、インド系はプランテーションで従事したということである。これによって、分割した州のそれぞれで、民族に応じて独自の宗教や言語を運用することとなった。また、イギリスは植民地支配を容易にするために、社会の多分野でマレー系の利益や権利を守るという協定をマレー系の支配者と結んだ。
独立とマレー系優遇政策
第二次世界大戦が終結し、日本軍がマレーシアから撤退してから、民族独立の動きが高まった。背景には、1941年に宣言された、大戦後の世界平和のための基本原則を打ち立てた大西洋憲章(※2)の存在があった。アジア各地で起こった独立運動がマレーシアの地でも発生するのは避けられないと判断して、イギリスは部分的に自治権を認めるマラヤ連合という新植民地国家を考案した。この案は、従来様々な形で保護を与えられてきたマレー系の優位性を否定するものであったため、マレー系はマラヤ連合案に反対して1946年に「統一マレー国民組織(UMNO)」を創設した。UMNOの相次ぐストライキ、デモ、ボイコットによりマラヤ連合案は頓挫した後、イギリスとUMNOの間で交渉が行われ、1948年にイギリス領マラヤ連邦に再編された。
マラヤ連邦が成立した1948年から、12年間にわたって植民地政府の打倒を目指すマラヤ共産党の運動が活発になり、イギリスは本国から遠く離れた地での闘争鎮圧に苦戦した。その間、UMNOや裕福な中国系によって設立された「マラヤ華人協会(MCA)」、インド系を代表する「マラヤ・インド人会議(MIC)」と話し合いを重ね、最終的に1957年8月にマラヤ連邦(※3)はUMNOの指導者アブドゥル・ラーマン氏の下でイギリスからの完全独立を果たした。マラヤ連邦は、1963年にシンガポールとサバ州、サラワク州を加えて現在のマレーシア連邦が成立したものの、その2年後にシンガポールが分離独立した。その理由には、マレーシアはマレー系を優遇する政策をとろうとしたのに対し、中国系が大部分を占めるシンガポールは平等政策を求めたことで軋轢が生じたことがある。

UMNOのリーダー、アブドゥル・ラーマン氏による独立宣言(写真:Brian J. Chong / Flickr [CC BY 2.0])
独立後、マレーシアの政治や経済の体制の枠組みを決める連邦憲法制定の交渉において、マレー系と中国系の間で分野に応じた取引が行われた。これにより、政治面、文化面に関してはマレー系(※4)に、経済面に関しては中国系に主導権の配分がなされた。また、マレー系と先住民には特別な地位を付与することが明文化され(連邦憲法第153条)、文化面においては、マレー的価値としてマレー系が信仰するイスラム教を国教とすること(同第3条)や、マレー語を国語とすること(同第152条)等のマレー的価値を優先することが定められた。それに対して、経済関係閣僚職の割り当てを含む経済政策立案の実権が中国系に与えられた。
独立後の政治では、UMNOやMCA、MICなどの与党政党連合の国民戦線(BN)が独立当初から2018年まで、与党として政権を握ることになった。BNの60%をUMNOが確保しており、政治面においてマレー系の意見が反映されやすくなっている。
新経済政策(NEP)
しかし、憲法制定に関して合意ができたところで民族間の問題が収まったわけではなく、時には民族間の衝突が暴力に発展するケースもあった。独立当時、国内人口の約半数を占めていたマレー系の多くは、平均所得が低い最貧層であったため、他の民族グループに対する反感を持っていた。同時に、優遇されているマレー系に対するデモやヘイトスピーチが中国系によって繰り返されたことで、マレーシア史上最悪の民族間の衝突事件が1969年に起こった。これは「五・一三事件」とも呼ばれ、マレー系の青年と中国系の青年の喧嘩を契機として、UMNOによるマレー系のデモの参加者が暴徒化したことが数時間で騒動につながり、銃撃や放火などによって196人の死者が出た。
五・一三事件の背景にもあった民族間の経済格差を是正するために、マレー系と先住民からなる「ブミプトラ(マレー語で、土地の子の意)」を資本所有や雇用の面で優遇する政策はブミプトラ政策とも呼ばれる。この新経済政策(NEP)は、一種のアファーマティブ・アクション(※5)であり、事件後の1971年から始められた。政策の基本理念は、イギリスの植民地統治がもたらした種族別職業構成と分業体制の解体を試みたことにあると言われている。

首都にあるクアラ・ルンプール・タワー(写真:SławomirGajowniczek / Wikipedia Commons [CC BY 4.0])
NEPでは、マレー系に公教育の枠を一定数割り当てるクオーター制が用いられたり、住宅ローンの利息を減額したりするなどして、広範囲にわたって中国系との格差是正に向けた動きがとられた。元来は1969年の民族暴動に対応する政策であったため、20年で終わるはずだったこの政策は、形を変えて現在(※6)に至るまで続いている。貧困の撲滅と社会の再構築という二本柱の下で、民族間の所得格差や貧困問題を解決する一因にはなったかもしれない。マレーシアでは、1971年から1990年には年率6.7%の高い経済成長率を記録したと同時に、ジニ係数(※7)で測られる所得格差(※8)もある程度減少した。
その一方で、マレー系の中での経済格差もあり最貧層にいるマレー系に対する支援は十分ではない。また、国全体で見れば所得格差が縮小されているにも関わらず、民族をもとにしたクオーター制が奨学金や公務員の任用について続いていることで中国系、インド系からの不満もある。さらに、マレーシアで行われている民族を基盤にした優遇政策はそのほかの問題も引き起こしている。その1つに、多くのマレー系が優遇政策に依存し、アファーマティブ・アクションなしでは生きていけないと考えていることなどが指摘されている。つまるところ、NEPとそれに続く政策の評価については結論が出ていない。
人種差別撤廃条約の非批准を決定
1969年の民族暴動が発生した後も、上記のようなマレー系を優遇する政策が取られてきた。しかし、マレーシアでは現在も民族間の対立は鎮静化していない。2001年にはマレー系とインド系の間で多数の死傷者を出す衝突が起こり、1969年以来最大規模の民族間の争いとなった。マレーシアの政治は常に民族問題と関わらざるを得ない状況となっており、非営利組織「コミュニティ・コミュニケーション・センター(PUSAT KOMAS)」によって作成された人種差別報告書2019によれば、依然として人種差別が深刻であり、改善に向けた動きもそれほど進んでいないと結論付けられている。

インド風の店やレストランが立ち並んでいる、「リトル・インディア」(写真:Robert Wilson / Flickr [CC BY 2.0])
2018年、世界最悪の汚職とも呼ばれる1MDB事件が明らかになった。当時の首相ナジブ・ラザク氏自らが2009年に立ち上げた政府系投資会社、1MDBをめぐりおよそ7億米ドルにも及ぶとされる資金が不正利用された事件である。事件に関与したとして糾弾されたナジブ氏に代わり、1981年から2003年まで首相を務めた希望連盟の代表を務めるマハティール・モハマド氏が復職し、マレーシア独立後初の政権交代が行われた。
マハティール氏は、1981年から2003年まで国の首相を務め、当時はブミプトラ政策を取り入れていた。しかし、2018年5月の総選挙の政権公約では、中国系、インド系からも支持を集めるために多民族の維持を推進する政策を取り入れると述べており、ブミプトラ政策を推し進めた従来とは一転した姿勢を早くから全面に出していた。総選挙後の閣僚発表の場に加えて、首相就任後の2018年9月、国連の演説においても政府は「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(人種差別撤廃条約)」を批准する意向を示すだけでなく、人種保護に関連する国連の主要な条約をすべて批准することを表明した。人種差別撤廃条約は、1965年に国連総会で採択され、人種、肌の色、血統、国や民族に基づくあらゆる形態の人種差別を撤廃するための措置をとるよう要請している。マレーシアは、ブルネイやミャンマーと並んで、まだ条約を署名・批准していない世界で14カ国のうちの1つである。
国連におけるスピーチの中で、マハティール氏は新政府がすべてのマレーシア人に富を平等に分配することを約束すると述べた。しかし、この条約を批准することは、これまでのマレー系優遇政策を廃止しなければならないことを意味する。そのため、条約の批准によってブミプトラ政策が廃止され、マレー系が受けてきた恩恵の基盤が揺らぐとしてUMNOやマレー系のイスラム教徒を支持層とする全マレーシア・イスラム党(PAS)が政権を批判し、多数の抗議デモが2018年11月に特に盛んに行われた。結局、その月の下旬に政府は人種差別撤廃条約を批准しないことに決定したものの、政府に抗議する集会が12月に入っても開催され、改めて国の多数を占めるマレー系の多くが条約に拒絶反応を示していることが浮き彫りになった。

人種差別撤廃条約に反対する集会の様子(写真:Imranharithazmy / Wikipedia Commons [CC BY 4.0])
しかし、解釈宣言や留保を付して、マレーシアの現状を考慮した上で条約に加入することもできたであろう。また、実際に条約に批准することが、直ちにマレー系の特権を定める条項を削除して憲法を改正することにつながるわけではない。結局のところ、人々がこれほど条約批准に反対した最大の理由は、経済的に苦しい立場にあるマレー系の多くが、条約に批准することによって、ブミプトラ政策が廃止されたり憲法に規定されている特権を取り除かれるのではないかと不安を抱いたからである。マレーシア統計局が発表した2019年の世帯収入のデータによれば、月収が750米ドル以下の世帯の71.6% がブミプトラであり、これらの世帯は優遇政策がなくなればさらに困窮するだろう。
マレーシアの行方は?
以上のように、マレーシアの政治は常に民族問題と直面してきた。また、マレーシアは最も急速に発展しているアジアの中の波に乗れないでいる。2020年には高所得国の仲間入りを目指した「ビジョン2020」も計画策定時から目標を下方修正したり、後ろ倒したりするなど、思うように進んでいない。マレー系優遇政策においても、すべてのマレー系がその恩恵にあずかったわけではなく、マレー系の中でも貧困層は十分に救済されず不満を持っている。中国系はマレーシアから、シンガポールをはじめとする他国に移住する傾向が続いており、マレーシア全体における中国系の割合は年々減少している。また将来的にも同じ傾向が続くと推測されていることから、結果的に富裕層の多い中国系から政府が徴収できる税収が減ったり、これまで主として中国系がリードしてきた経済の民間部門が衰退したり、専門家の数が減少したりすることにつながるだろう。

マレーシアの現首相、ムヒディン・ヤシン氏(写真:Atiqah Nazir / Flickr [CC BY 2.0])
2020年3月にマハティール氏が辞任し、新首相としてムヒディン・ヤシン氏が就任した。同月に、ヤシン氏はすべてのマレーシア人に経済政策の一環として約620億米ドル相当を支援することを決定した。今後もヤシン氏は、民族にかかわらずすべてのマレーシア人に対する政策を立てるのだろうか。また、現在までとられてきたマレー系優遇に対してどのような方針を打ち出すのだろうか。これからの動向に注目したい。
※1 マレー系と先住民を加えたブミプトラが67.4%、中国系が24.6%、インド系が7.3%、その他の民族が0.7%となっている。
※2 1941年8月、当時のイギリス首相チャーチル氏とアメリカ大統領ルーズベルト氏の共同宣言で発表されたもので、一般に大西洋憲章と呼ばれている。具体的には、領土の不拡大、政体を選択する権利の保障や強奪された主権と自治の回復などが原則とされており、これらの構想はのちに国際連合にも継承された。
※3 1957年、当時の名はマラヤ連邦として独立した後、1963年にシンガポール、サバ州、サラワク州を加えてマレーシアが成立。1965年にシンガポールは分離してシンガポール共和国として独立した。
※4 マレーシア連邦憲法第160条には、マレー系(Malay)の定義としてイスラム教を信仰し、マレー語を話す習慣があり、マレー文化に従い、マレーシア人の親の元に生まれた人を指す。
※5 アファーマティブ・アクションは積極的優遇措置とも呼ばれ、少数民族や社会的・経済的弱者の地位を改善したり、向上したりすることを目的とする。ブミプトラ政策では、マレー系マレーシア人の地位向上、格差是正に焦点が置かれた。
※6 国家開発政策(1990~2000年)や国家ビジョン政策(1990~2000年)、新しい経済モデル(2010~2020年)として継承された。マハティール前首相は2030年までに「所得グループ、民族、宗教、サプライチェーンにおける公正かつ公平な分配による持続可能な成長」として「シェアード・プロスペリティ・ビジョン2030(SPV2030)」を発表し、そこでは民族間、地域間などの格差を解消することが目指されている。
※7 ジニ係数とは、社会における所得分配の平等・不平等を計る指標である。0から1までの値をとり、1に近くなればなるほど不平等で格差が大きいことを表している。
※8 1970年のジニ係数には0.513であったが、1989年には0.446、2014年には0.410となっており、所得の格差が改善されつつあることが読み取られる。
ライター:Koki Morita
グラフィック:Mayuko Hanafusa
まず、憲法に人種による優遇が定められていることが驚きでした。国外からの差別撤廃に向けたアプローチが有効ともいえるかもしれないとは思いました。その外国が自国の利益を追求しては意味がありませんし、具体的にどうすればいいのかはわからない状態ですが、、、
むずかしいね。
日本でも、在日(韓国系とか中国系とかいう人種)に参政権を!とか叫ぶ政治家は、日系が受けるべき恩恵の基盤が揺らぐってことで、すぐに不人気・落選させられるでしょ? どこでも根深いんだよ、差別区別感情は