2021年9月、ウズベキスタンは独立30周年を迎える。しかし、独立してから今日に至るまで、誕生した大統領はわずか2人である。イスラム・カリモフ氏とシャフカト・ミルジヨエフ氏だ。初代大統領であるカリモフ氏は、四半世紀にわたって大統領として君臨し、権威主義的な独裁政治を行ってきた。そのカリモフ氏の死後、2016年に新大統領に就任したのが現大統領でもあるミルジヨエフ氏だ。彼は政権を握るとすぐに強権政治からの脱却を掲げ、ウズベキスタンを改革すると期待されてきた。では実際に、どのように変化したのだろうか。その謎を探る。

タシケントの街並み(写真:Woweezowee / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
ウズベキスタンの歴史
ウズベキスタンは中央アジアに位置する国である。人口は3,280万人で、中央アジア5ヵ国(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン)の中では最も多い。首都タシケントは世界で最も古い都市の一つであり、人口200万人を超える中央アジア最大の都市だ。ウズベキスタンの人口の大多数はイスラム教徒で、中でもスンニ派が最も多く全体の93%を占めている。また経済面では綿花や金、石油や天然ガスが主要産業となっている。
ウズベキスタンの歴史を簡単に見ていこう。現在のウズベキスタンとその周辺地域では、様々な侵略者による征服と分裂が繰り返され、実に多くの王朝・帝国が建設されてきた(※1)。16世紀から17世紀にかけては、今日のウズベキスタンの領土を含む中央アジアにはヒヴァ・ハン国など複数の勢力が存在しており、それらの王朝・帝国はロシア帝国と交易していた。1860年代、勢力を強めていたロシア帝国は中央アジア方面への南下政策を強化。1865年にタシケントを占領すると、2年後には軍政機関を置き、タシケントはロシア帝国による中央アジア支配の拠点とされた。その後ロシア帝国は、19世紀の終わりまでに中央アジア全体を征服したが、ロシア革命を経て1924年に民族・共和国境界画定が行われ、ウズベク・ソビエト社会主義共和国が誕生した。以降同国は60年以上ソビエト連邦の支配下に置かれていたが、1991年のソ連崩壊に伴って独立を果たし、ウズベキスタンが誕生した。
カリモフ時代の独裁政治
独立直後に行われた1991年12月の直接選挙で、ウズベク・ソビエト社会主義共和国の時代から大統領を務めていたカリモフ氏が当選を果たし、以来2016年まで約27年間にわたってウズベキスタンの大統領を務めた。元来ウズベキスタン共和国憲法は、大統領の任期は1期につき5年、連続2期までと規定していた。しかし、カリモフ氏は大統領任期に関し数回憲法を改定し、その度に以前の当選回数は無効になったと独自の解釈を適用して4度もの当選を果たした。その選挙自体も形式的なものであり、内実は自身が当選するように仕組まれた非民主的なものであった。このような独自の憲法解釈や選挙制度の操作からも伺えるように、カリモフ政権では権力が少数の手に集中し政治的自由のない権威主義体制を取り、長年にわたって独裁政治を行ってきたのである。

カリモフ前大統領 (写真:Saeima / Flickr [CC BY-SA 2.0])
権威主義の影響は、政治的側面にとどまらず人権侵害としても現れ出した。ウズベキスタン共和国憲法では信教の自由を保障しているにもかかわらず(第31条)、カリモフ氏は自身の脅威となり得る宗教団体を徹底的に抑圧した。また、各宗教団体は政府当局による許可が下りなければ活動が認められないとされていたが、イスラム教団体はそれに乗じて頻繁に不当な不許可処分を受け、活動を制限された。
権威主義体制下では、報道の自由も例にもれず抑圧対象であった。検閲を禁止し、報道の自由を保障する憲法第67条はカリモフ政権下で形骸化し、メディアは政府によって厳しく管理された。ジャーナリストは脅迫・逮捕・拷問の危険にさらされ、次第に政府を批判することはタブー視されるようになっていった。
カリモフ政権下で行われた人権侵害のうち、最も悲惨な結果を招いたのが2005年のアンディジャン事件である。ウズベキスタン東部のアンディジャンで武装集団が刑務所を襲撃し、政治犯を含め約500人の受刑者を解放した。それに呼応するように、何千人もの人々が貧困や政府の弾圧に対する不満を訴え、カリモフ氏の退陣を求めるデモが起きた。その鎮圧の際、デモ参加者の多くは非武装であったにもかかわらず治安部隊は無差別に発砲し、子供を含む数百名が殺害された。この事件について、欧米諸国や欧州連合(EU)その他の国際機関はカリモフ氏を厳しく批判したが、カリモフ氏は治安部隊の発砲を否定し続けた。さらに第三者による事実調査を求める多くの国々や国際組織の要求を拒絶、アンディジャンへの記者の立ち入りを制限し、目撃者、デモの参加者に圧力を加えて真実は闇へと葬られたのであった。

アンディジャン事件での発砲の痕が残る学校の校舎 (写真:Tienshan / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
またカリモフ政権の強硬な姿勢は、経済政策にも表れている。カリモフ氏は国際通貨基金(IMF)が提唱した市場経済への急進的な転換案を受け入れず「ウズベクモデル」と呼ばれる漸進的に経済体制を切り替える政策を採用し、独自路線へと進んだ。これは国家が厳しく通貨供給量を管理し、海外経済への依存度を限定的にすることで経済安定化を図るものである。ウズベキスタンでは2008年のリーマンショックや2010年の欧州債務危機の影響が少なかったという点で、このウズベクモデルは一定の成果があったとも言える。しかし、厳しい外貨規制などの貿易障壁により、ウズベキスタンは海外直接投資(FDI)をほとんど得られなかった。カザフスタンやキルギスなど、他の旧ソビエト連邦諸国はIMFの提言に従って急激な経済システムの転換を行ったが、ウズベキスタンは孤立主義を貫いたのであった。また輸出部門において構造改革が実施されず、少数のエリート層が綿花や金などの主要な輸出品の生産を管理する体制が続いた。これにより、それらの輸出品の生産者は経済的恩恵を受けることができなかった。さらに、政府に介入されることなく商品やサービスを提供し、社会経済基盤を整備する民間セクターの拡大は経済成長をもたらすとされるが、国家による管理・統制が厳しいウズベキスタンでは、その拡大が許されなかった。
カリモフ政権下の深刻な社会問題であった強制労働と児童労働も忘れてはならない。ウズベキスタンは世界最大級の綿花輸出国であるが、政府は毎年数百万人の市民を強制的に動員して綿花の栽培と収穫を行っていた。そのうち200万人以上が子どもであり、一部の主要都市を除く多くの学校では、子どもたちが綿花の収穫に動員されるため、毎年2ヶ月ほどの休校を余儀なくされた。
このように長きにわたって独裁政治を行ったカリモフ氏であったが、2016年9月に死去。約27年間続いた独裁支配はついに終焉を迎えたのであった。
新時代の改革
カリモフ氏に代わって新大統領に就任したのが現大統領のミルジヨエフ氏である。2003年から首相を務めていたこともあり、カリモフ氏の死去後すぐに暫定大統領に指名された。その後、2016年12月の大統領選を経て正式に大統領に就任した。ミルジヨエフ氏は政権を握るとすぐに数々の抜本的な改革を発表し、カリモフ時代の強権政治の打破を宣言した。

ミルジヨエフ大統領 (写真:Presidential Press and Information Office / Wikimedia Commons [CC BY-SA 3.0])
政治分野では、選挙の透明性・開放性の向上が図られた。2019年6月に採択された選挙法典は、欧州安全保障協力機構民主制度・人権事務所(OSCE / ODIHR)の勧告が一部採用された。また議会選挙の際には議員候補者や党首のテレビ討論会が初めて開催された。報道の自由が抑圧されていたカリモフ政権下では、選挙報道も非常に偏っていたため、選挙の公平性は改善したと言えよう。さらにミルジヨエフ氏は州知事と市長を大統領の任命によってではなく、国民の直接選挙によって選出することを提案し法律を改定、タシケントなど一部地域のみではあるものの実現された。
またミルジヨエフ氏は立法・行政においても透明性を高めるべく、メディアが議会の活動を取材・報道することを許可した。さらに汚職防止機関を設立するなど、当局の活動の制度的、組織的、法的枠組みを改善し、汚職を撲滅するための行政改革にも取り組んだ。
ミルジヨエフ氏による改革はこれだけにとどまらない。カリモフ政権下で最も批判を受けていた人権侵害も、緩和への道を歩み始めた。政府は宗教団体への弾圧を緩和し、未登録の団体への弾圧も取りやめた。またカリモフ時代、政府を批判するなどの政治的動機で逮捕されたほとんどの政治犯は2017年、刑務所から釈放された。さらに、2019年には収容者に対する拷問で悪名高かったジャスリック刑務所も閉鎖された。

お祈りの様子(写真:Giorgio Montersino / Flickr [CC BY-SA 2.0])
政治犯の解放は、政府を批判する権利が認められることを意味する。ミルジヨエフ氏はメディアへの抑圧緩和も打ち出した。ジャーナリストは汚職や人権侵害、政治イベントなどについて報道することが可能になり、印刷媒体はもちろんのこと、ニュースサイトもここ数年で爆発的に増加した。特にニュースサイト「クン」(Kun.uz)は、知事らの汚職や市民への侮辱、部下への暴行などをスクープしたり、強制労働問題の特集を組むなど政府に対する批判的な報道を積極的に行い、市民から支持を集めている。さらに、2016年にはミルジヨエフ氏の命により、願書を提出し法案に意見を述べるためのオンラインポータルも設立された。
また、ミルジヨエフ氏は市民やジャーナリストによる発信を認めるだけでなく、当局側からの発信も行った。ミルジヨエフ氏は説明責任を約束し、当局は外国メディアを含めインタビューにも少しずつ応じるようになった。それまで発砲の事実を否定し、国際機関等による捜査も拒否し続けてきたアンディジャン事件についても10年以上もの沈黙を破り、治安部隊が平和的な抗議者に発砲したことを初めて認めた。しかし、その理由については明言を避け、事件当時ウズベキスタン政府はアンディジャンとの通信を遮断していたため、発砲は政府の指示によるものではない、との説明にとどまっており、結局事件の真相は分からないままである。

タシケントのテレビ塔(写真:Aleksandr Zykov / Flickr [CC BY-SA 2.0] )
ミルジヨエフ氏は経済及び社会問題の解決にも尽力した。経済分野では複数為替レートの一本化(※2)、外貨交換及びビザ制度の自由化、輸入関税の引き下げなど様々な政策により貿易障壁を撤廃し、徐々に経済自由化の基盤を整えていった。さらに綿花畑での強制労働の廃止に向けて、その元凶であった各地域に綿花の生産量を割り当てる生産割当制度を撤廃したほか、ジェンダーの固定観念の根絶のため学校の教科書の見直しを行うなど、ミルジヨエフ氏はウズベキスタンの抱える多くの課題に積極的に取り組んでいった。
改革の成果と残された課題
ここまで、ミルジヨエフ氏による数々の改革を見てきた。カリモフ時代の独裁の影は消え去り、ウズベキスタンは生まれ変わったかのように見える。しかし、事はそう簡単ではない。
確かにミルジヨエフ氏による選挙プロセス改革や行政改革により、ウズベキスタンが徐々に民主化を遂げていることは事実である。エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)が世界167ヶ国を対象に調査し、毎年発表している民主主義指数の世界ランキングで、ウズベキスタンは2007年に160位であったが2019年では157位に浮上。しかし、微々たる変化であることは言うまでもない。アメリカの民主主義を擁護する無党派国際NGO団体フリーダム・ハウスが毎年発表する政治及び市民自由度も、2020年時点で100点満点中わずか10点であった。2017年は3点であったのが、2018年には7点、2019年には9点になったことを鑑みると、改善傾向にあるとは言えるだろうが、世界的に見ればまだまだ「非民主的」で、社会的に「不自由」な国家であることに変わりはないだろう。

ウズベキスタン国民議会の建物(写真:LBM1948 / Wikipedia Commons [CC BY-SA 3.0])
その背景には、カリモフ時代の権威主義体制を打破できていないことがある。議会の透明性は向上したとはいえ、重要事項を検討する際に外部の専門家を関与させることには消極的であり、決議の際の投票も未だ非公開である。それゆえ、議会は国民の声や政策検討のための開かれた議論の場ではなく、単なる見せかけの議論を行う場に過ぎないという見解もある。政治的不自由さゆえ強力な野党も育っておらず、権力は依然として少数の人々の手に集中しているのである。根本的な問題であるこの権威主義がなくならない限り、ミルジヨエフ氏の改革はその効果を最大限に発揮することができないのだ。
報道の自由においても、民主化同様その歩みは遅い。国境なき記者団が180ヵ国を対象に調査し、毎年発表している報道の自由度ランキングでは、ウズベキスタンは2018年165位、2019年160位、2020年156位と着実に順位を上げてはきているが、国境なき記者団による評価は5段階評価の下から2番目、「悪い(Bad)」である。これは汚職や強制労働など、一部の問題について報道することは可能になったとはいえ、大統領や重役、その家族らを直接非難することは許されず、監視・検閲が依然として存在するためである。またインターネットもフィルタリングやブロック(特定のウェブサイト等へのアクセスを遮断・制限する機能)などにより政治的・社会的トピックに関連するオンラインコンテンツ、特にウズベキスタンにおける人権侵害を論じるウェブサイトやプラットフォームへのアクセスが制限されている。当局も、インタビューに応じるようになったとはいえ、説明責任を十分に果たしている訳ではない。
アンディジャン事件については前述の通り、ミルジヨエフ政権下で長年の沈黙は破られたものの、政府は依然として非武装の民間人殺害への関与を認めていない。この事件の調査が実施され真相が明らかになること、それはウズベキスタンが人権侵害根絶へ歩み始めたことを示すある種の指標になるだろう。しかしここまでの動きを見る限り、人権侵害根絶への道のりは長い。

ウズベキスタンの世界遺産イチャン・カラ(写真:Luciano / Flickr [CC BY 2.0])
2021年、ウズベキスタンは大統領選挙を実施する予定である。ミルジヨエフ氏は改革志向の指導者としてある程度の支持を得ている。加えて政治的自由の達成がまだ不十分なせいか他に有力候補者もいないため、彼が2期目に再選されることはほぼ間違いない。ウズベキスタン共和国憲法は原則として大統領の任期を2期までとしているため、ミルジヨエフ氏にとって今がちょうど折り返し地点となる。ウズベキスタンは2019年、エコノミスト紙が「最も前進した国」に授与するカントリー・オブ・ザ・イヤーに選出されるなど、ミルジヨエフ氏の改革により新時代に突入したことは確かである。しかし、カリモフ時代から残る政治的慣行や強大な権力を持つ少数エリート層は依然として国家に大きな影響を与えており、ウズベキスタンが「民主的」で「自由」な国家となるにはまだまだ多くの課題が残されている。ミルジヨエフ氏が次にどんな一手を打つのか、その力量が問われている。今後の進展に期待したい。
※1 中央アジアでは、8世紀にアッバース朝、12世紀にテュルク人国家、13世紀にモンゴル帝国、14世紀にはティムール朝など様々な王朝・帝国が建設され、現在のウズベキスタンがある地域もそれらの領土の一部となっていた。
※2 当時ウズベキスタンには、中央銀行が発表する公式レート以外に商取引レート、闇レートなど、複数の外国為替レートが存在した。そのうち公式レートと闇レートはかけ離れていたため、闇市場の活性化につながっていた。そこで、それまで1ドル=4,000スム前後だった公式レートを当時の実勢(市場)レート1ドル=8,000スムにまで切り下げ、レートを一本化した。
ライター:Kyoka Maeda
グラフィック:Yumi Ariyoshi
ウズベキスタンが権威主義体制から少しずつ改革を進めているものの、未だ課題も多く抱えていることがよくわかりました。今後の動向にも注目したいです。
風向きが変わってきたからこそ、着目をし続ける必要があると思いました、
ウズベキスタンについて詳しく知ることは今までなかったので興味深かった
ウズベキスタンという、あまり焦点が当たらない国に着目した点が良い。
テレビや新聞などでは決して知ることの出来ないウズベキスタンの内情をとても興味深く読んだ。あまりにも長く一人の人間がトップにいることがいかに弊害を伴うか、よく理解出来た。今のの大統領がそうならないことを心から願う。