2023年前半、西アフリカでは1,800件のテロ攻撃が発生し、4,600人近い死者が発生するなど、その悲惨な人道危機は悪化している。これらの攻撃のほとんどは、ブルキナファソ、マリ、ニジェールで発生した。その中でもブルキナファソの被害が最も大きく、2023年1月から6月までの間にテロに関連して2,725人が死亡した。そしてグローバル・テロリズム・レポートでは、「テロの震源地」のひとつと呼ばれている。アフリカ大陸で最もテロの影響を受けており、世界ではアフガニスタンに次いで2番目に影響を受けている。
何十年もの間、この国は紛争や不安を抱える周辺国に囲まれた「安定の島」 と呼ばれていた。しかし2016年以降、この国の治安状況は劇的に悪化しており、2022年には2回も軍事クーデターが発生している。一体、ブルキナファソの何が治安状況の悪化の原因となっているのだろうか?同国における暴力の増加につながった長年の問題があるのだろうか?これらの問題を解決していれば、現在のような事態は避けられたのだろうか?ブルキナファソにはどんな未来が待っているのか?これらの疑問に答えるため、この記事ではブルキナファソの歴史をたどり、現在の問題を検証するとともに、最後にブルキナファソの明るい未来に向けた方向性を探っていく。

ブルキナファソのワガドゥグーにある殉教者記念碑(写真:Francais / Wikimedia Commons [CC BY-SA 4.0])
ブルキナファソの歴史
11世紀から 19世紀にかけて、現在のブルキナファソの領土に当たるボルタ川上流域は、主にモシという民族が支配していた。モシ人は騎馬民族であり、主に現在の領土 の中央部に王国を築いた。モシの王国は、ワガドゥー、テンコドゴ、ファダングルマ、ヤテンガ、ブスーマからなる5つの異なる自治・独立した王国に分かれており、これらの王国は安定した行政機構を持っていたが、統一されることはなかった。やがて、1328年から1477年にかけて、隣接するソンガイ帝国を攻撃する重要な勢力としてヤテンガ王国が台頭し、ティンブクトゥを占領し、マキナの交易所を略奪した。
そして、地元の遊牧民の商人やアラブの商人を通じて、イスラム教が平和的な方法で徐々に王国に広まっていった。奴隷貿易はこの地域に侵入したが、モシ王国は1800年代までアラブやヨーロッパの奴隷貿易や襲撃に対抗することができた。そして彼らは、フラニ王国や、すでにイスラム教を導入していたマリ帝国など、他のアフリカの王国と対外貿易関係を築いた。その後の1896年に、モシ王国は数々の虐殺を含む残忍な方法でフランスに征服された。そして、フランスは、当時競合関係にあったイギリスとの合意を経て、モシ王国などいくつかの王国からなるオートボルタ植民地を作った。そしてこの植民地の国境は、異なる民族間の文化的な違いや旧王国の国境などを考慮していない、フランス独自のものとなった。
1919年、フランス領オートボルタ植民地は、コートジボワールのいくつかの州を統合して設立されたフランス領西アフリカ連邦の一部に組み込まれた。その際フランスは、モシ王国の土地とオートボルタ地域全体を、他の領土の様々な計画のための労働力の供給源と見なしており、ボルタ人の多くはセネガルやフランス領スーダン(現在のマリ)、コートジボワールの労働場に送り込まれた。そして、各植民地にはフランスに輸出するための物品が2~4品目割り当てられ、沿岸部の商業作物地帯を中心に、頭税の賦課や強制労働などの強要による出稼ぎ労働によって植民地は維持された。それによりフランスの植民地では、子供、老人、身体障害者を除くすべての人が、頭税を納め、強制労働をする必要があり、多くのボルタ人は、フランスへの納税のためのお金を稼ぐために沿岸地域に移住して働かざるを得なかった。
こうした労働力が搾取される状態は、やがて農村経済のニーズと衝突し、食用作物の生産を妨げるようになり、1931年までにオートボルタとニジェールでの飢饉を引き起こした。そうして1932年、植民地政権は植民地支配から逃れる人々がイギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)などに流入したことを受け、領土を他の植民地に分割した。第二次世界大戦後、多くの人々は領土自治を求める動きを再開し、1947年にオートボルタは復活した。
そして1956年、フランス海外領土の組織改正が始まり、翌1957年にフランス議会で承認された新組織措置により、各領土にかなりの自治権が認められた。また、1958年、オートボルタ共和国はフランス共同体の自治共和国となった。その後1960年にオートボルタ共和国は独立した。
独立後の政治
独立後の1960年に制定されたオートボルタ憲法では、大統領と国民議会の選挙が認められ、初代大統領としてモーリス・ヤメオゴ氏が選出された。しかし、1966年にクーデターが発生し、汚職と経済問題を主な原因としてヤメオゴ政権は転覆した。その後、数年間は政権が度重なり交代を繰り返す不安定な状況が目立った。そして1983年には、軍人トマ・サンカラ氏をリーダーに据えた集団によるクーデターが発生し、その後彼が国の実権を握ることとなった。
1983年、サンカラ氏は国民革命評議会(CNR)と革命防衛委員会(CDR)を設立し、大衆を動員してCNRの革命プログラムを遂行した。これは、オートボルタの人々が、とりわけ都市化の問題、農業用地へのアクセス困難、衛生環境の不備による伝染病、医療や教育へのアクセス制限、女性の疎外、飢饉などに直面していた状況下で起こった。こうした問題の多くは、統治体制の不備だけでなく、フランスによる植民地支配と、独立後のフランスの影響がもたらした永続的な遺産に起因するものである。
サンカラ氏は、公共支出を抑制し、政府内の汚職と闘い、外部からの影響と搾取を減少させることに努めた。この国の農民にとって綿花は主要な換金作物であったが、フランス国営の組織開発のためのフランス企業(CFDT)がその前に大きく立ちはだかっていた。サンカラ氏はアフリカ人、特に自国民が自分たちの資源を管理するよう呼びかけた。例えば、サンカラ氏は国民に対し、「ファソ・ダン・ファニ」として知られる伝統的な衣服の生産のために、地元で綿花を加工することを奨励した。つまり彼は、地元の綿花農家に利益をもたらし、国の経済を向上させるという観点から、人々が地元で作られた衣服を着ることを奨励し、公務員にはその着用を義務付けたのだ。
さらに、サンカラ氏の大統領在任中には、新生児死亡率の低下、識字率と就学率の向上、政府における女性の地位向上など、他にも多くの大胆な変化と大きな成果がもたらされた。彼の政権は、すべての国民が毎日少なくとも2食の食事と安全な飲料水を利用できるようにすることを目指した。また、環境問題に対処するため、サンカラ氏は大規模な植林活動を開始した。その結果、オートボルタは食糧の自給を達成することができ、主にフランスからの援助を打ち切った。フランスからの援助は、国を援助するのではなく、依存を維持するシステムであると彼は考えていたのだ。
そして、彼の政権樹立1周年には、国名をオートボルタからブルキナファソに改名した。これは、現地の言語であるモシ語とデュラ語で「誠実な人々の土地」という意味である。しかし、サンカラ氏は国内外の抵抗や世論と自分の考えの相違に直面し、国内は政府の抑圧的な政策や全体的な方向性を巡り緊張が高まっていった。そして1987年、サンカラ氏はクーデターにより暗殺され、元軍人仲間のブレーズ・コンパオール氏が政権を握った。

トマ・サンカラ氏(左)と彼の記念碑の入り口の様子(右)(左:写真:Unknown, Burkina Faso Government / Wikimedia Commons [fair use])(右:写真:Lamin Traore(VOA) / Wikimedia Commons [public domain])
その後、新政府は人民戦線(FP)を結成し、革命の目標の継続と追求を約束した。しかし、革命計画はすぐに放棄され、革命前の体制が再開された。コンパオール政権では多くの政治犯罪が常態化し、反対派や批判派に対する圧力や贈収賄のおかげで政府は生き延びることができた。そして、その中で賄賂の受け取りを拒否し、政府からの圧力に抵抗する勇気ある者の多くは殺されることとなった。その一人が、調査報道ジャーナリストであるノベール・ゾンゴ氏である。彼は大統領の運転手の弟の死など、政治や経済、社会に関するスキャンダルを調査していたのだが、1998年、彼の車が焼失した状態で発見され、車内には2人の同僚と弟も乗っていたという。
この事件後、世論の大きな反発を受け、賢人会議が設立され、最終的には1997年に政権によって撤廃された大統領の任期制限の復活を勧告した。そして2000年の憲法改正によって、大統領の任期制限の復活は実現することとなった。しかし、ゾンゴ氏の殺害については罰せられることはなく、犯罪の不処罰は政権による汚職の一つとして常態化していた。2010年代に入ると、コンパオール大統領とその周辺による権力の独占は、汚職、悪政、不処罰と相まって、多くの人々を貧困に陥れ、ブルキナファソ国内での不平等を拡大させた。そんな中、コンパオール大統領は、大統領の任期制限を再び撤廃する国民投票を実施しようとし、民衆による激しい抵抗を受けることになった。この抵抗を受け、2014年10月、コンパオール大統領は辞任し、コートジボワールへと逃亡した。
その翌月、1年以内に選挙を実施するという条件のもと、暫定政権が発足した。ミシェル・カファンド大統領の「何も同じことは繰り返さない」という声明は、ブルキナファソの人々にとって大きな意味を持つものであり、彼らが正義を手に入れ、政治が改善されることへの希望を高めるものとして捉えられた。政権移行後、まず政府はコンパオール政権下で弾圧の手段となっていた大統領警護連隊(RSP)の解散に取り組んだ。RSPは、ゾンゴ氏の殺害を含む政治的暴力行為や暗殺に関与してきた長い歴史があった。その後解散の通告を受けたRSPは2015年9月にクーデターを起こすも失敗に終わり、それにより新政府の地位が確立されることとなり、11月には大統領選挙が行われた。
そして、その選挙により選出されたのが、コンパオール政権下で首相兼議会議長を務めていたロシュ・マルク・クリスチャン・カボレ氏であった。しかし、カボレ氏を含む新政権の中心人物はコンパオール元政権にも関わっていた者が大半であり、先述のカファンド元大統領の声明が水の泡となることとなった。そして新大統領は、2015年から隣国マリからブルキナファソに飛び火した紛争を筆頭に、数々の難題に直面することとなり、以降もブルキナファソ北部ではテロ攻撃が頻発し、国中に広がっていった。

ブルキナファソ北部の過激派の兵士たち(写真:aharan_kotogo / Wikimedia Commons [CC BY-SA 4.0])
広がりゆく反乱
マリに端を発し、ブルキナファソにまでその範囲を拡大している紛争は、歴史的にトゥアレグ民族がその人口の多くを占めていたマリ北部に起源を遡ることができる。トゥアレグの人々は数千年にわたってサハラ砂漠やその周辺に住んでおり、その大多数はマリに居住している。しかし、1960年にマリがフランスから独立して以来、トゥアレグ人が住む北部地域は開発の面で取り残されてきた。政府が北部における包括的な開発を推進しなかったこともあり、1960年代以降で4度の反乱が起こった。1982年、リビアの指導者ムアンマル・カダフィ氏は、リビアをすべてのトゥアレグ人の祖国と宣言し、多くのトゥアレグ人を軍隊に引き入れ、他のトゥアレグ人はリビアで職を得ることとなった。
2011年、いわゆる「アラブの春」でカダフィ政権が崩壊した後、トゥアレグ人の兵士たちは先進的な武器を携えて故郷のマリに戻った。そこで故郷の貧困、干ばつ、病気を目の当たりにした彼らは、地域の自治と発展のために戦うアザワド解放国民運動(MNLA)を結成した。MNLAは急速な勢いでマリ北部を掌握し、アザワドという独立国家を宣言した。しかし、トゥアレグ住民の間で対立する思惑や、アンサール・ディーン(アルカイダ傘下)などの新たな武装集団の出現が、MNLAのアザワドに対する思惑を妨げた。そして、そんなアザワドが長続きすることはなく、フランス等の軍事介入によってマリ政府は領土を奪還し、紛争はゲリラ戦へと形を変えることとなった。その結果、マリの情勢は複数のグループとマリ国軍との間の紛争が続いており、現在も不安定なままである。
2012年、ブルキナファソ政府はすでにマリから不安定な情勢が広がる可能性を懸念し、当時のマリのディオンクンダ・トラオレ大統領と北部での武装勢力との会談を求めていた。ブルキナファソの当時のコンパオール大統領は、紛争の平和的解決を求めるため、世俗的なトゥアレグ独立派組織であるMNLAと、アルカイダにつながるアンサール・ディーンの双方と会談した。最初の接触は、最終的な交渉の現実的な詳細を決定することを目的としていた。また、ブルキナファソはコンパオール政権時代、イスラム過激派との共謀疑惑が上がっており、それが理由で攻撃を免れたという噂が根強くあった。2014年のコンパオール政権崩壊後、MNLAとイスラム主義グループは支持を失い、そのうち後者はブルキナファソに目を向け、同国に対し攻撃を行った。そしてこの攻撃はブルキナファソだけでなくニジェールにも広がることとなった。

綿を運ぶ女性(写真:CIFOR / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
現在の課題
ブルキナファソにおける暴力的過激主義の台頭は、コンパオール政権の終焉、貧困の継続、腐敗と悪政の永続化、政府の不公正さといった要因が複合的に絡み合っている。2018年時点で、ブルキナファソの全人口のうちの83%がエシカル(倫理的)貧困ライン (※1)以下で生活していると推定されている。そして、特に農村部の人々は公共サービスや司法を利用する上で長い間困難に直面してきた。
さらに2019年には、主に北部のスーム州の農村部における長年の社会的不公正と排他的な施策が、遊牧民であるフラニ人からの戦闘員のリクルートにつながった。そして、それによって政府の十分な対応がない中で多くの地方自衛勢力が台頭したことにより、治安情勢はさらに複雑化することとなった。2018年から2019年の1年間で、ブルキナファソのテロ攻撃件数は127%の増加、死者総数は驚異の587%の増加を記録するなど、情勢が大きく悪化したのだ。また、当初はイスラム過激派と国家間の紛争として始まった紛争が、今では地域コミュニティ間の紛争へと変化してきている。非効率的な政治運営や政府による民間人への横暴、そしてそういった犯罪の不処罰、雇用機会の不足、極度の貧困は、過激派集団が地元住民を紛争へと誘う強い動機となっている。
そして、その紛争の結果として、アルカイダやIS(イスラム国)に所属する武装組織がブルキナファソの大部分の土地を占拠し、数百万人が避難する事態となっている。これは、ブルキナファソにフランス軍が駐在している中で起こってきた事態である。
その後、2022年1月にポール・アンリ・ダミバ大佐がカボレ政権を倒し、同年9月にはイブラヒム・トラオレ陸軍大尉がダミバ氏を追放して移行大統領に就任した。トラオレ氏の移行政権は、2024年7月に民主的な選挙を実施することを目指している。
2022年9月のクーデターの1月後、トラオレ氏は過激派勢力との闘いを誓い、ロシアなどからの支援を要請すると共に、兵士の訓練と諜報活動の必要性を強調している。
しかし、そんな移行政府の思惑は外れることとなる。西側諸国がウクライナに対し莫大な軍事援助を提供したのとは対照的に、ブルキナファソの紛争に対して西側諸国は武器の販売などを拒否したのだ。そしてこのことが、ブルキナファソが中国、イラン、トルコ、北朝鮮、ベネズエラを含む西側諸国以外の他のパートナーとの関係を拡大している一因とも考えられる。
このようなパートナーの多様化に加え、移行政府は2022年10月、国土防衛ボランティア(VDP)として知られるボランティア防衛軍に参加する5万人の民間人を募集するキャンペーンを開始した。新政権は、ブルキナファソ人だけが国土安全保障のために戦うべきだと表明し、国の経済的困難のため、トラオレ大統領は大統領としての通常の給与を受け取らないと表明した。彼はまた、2023年1月に愛国支援基金を立ち上げ、ブルキナファソ人やそのほかの人がブルキナファソの防衛を金銭的に支援できるようにした。
しかし、これらの措置により、フランスとの外交関係は悪化の一途をたどっている。ブルキナファソは2023年にフランス大使に国外退去を要請し、その後、フランス軍が国境内で反政府勢力と戦うことを認めていた軍事協定を打ち切る決定を発表している。

イブラヒム・トラオレ大統領(写真:Lamin Traore(VOA) / Wikimedia Commons [public domain])
解決へ進むべき道
ブルキナファソは武力紛争の結果、大きな被害を受け続けているが、それは近隣諸国も同様である。マリやニジェールも同じ結末を辿っており、ブルキナファソの国境以南の国々でも攻撃が起きている。
そのため、その暴力と情勢の不安定さの解決に向けた議論や行動は地域的かつ全体的なものでなければならないのは明らかである。これまでのところ、国内での行動や外国からの介入を含む軍事的な解決策は効果を上げるどころか逆効果にさえなっており、暴力が暴力を生むことが後を絶たない。ある調査によると、過激派グループに参加する人の71%は、家族や友人の殺害や逮捕など、政府の行動がそのような過激派グループと原因となっているという。
しかし、ここで最も重要なことといえるのは、これらの国が直面している社会問題に取り組まなければならないということだ。貧困、失業、社会的不平等は、紛争が発生し拡大する状況を作り出した大きな要因であり、また紛争はこの状況をさらに悪化させているのだ。紛争は何百万人もの人々を避難させ、さらに多くの人々の生活を破壊した。人道支援は重要な要素だが、それと同時に政府による統治体制、そして諸外国による政策の改善が不可欠である。国民のニーズに応える政府を作り、また国際レベルでは裕福な国の利益だけを反映しないような政治・貿易システムの改善が、この紛争の解決に大きく貢献することになるだろう。
※1 GNVでは世界銀行が定める2021年現在の極度の貧困ライン(1日1.9米ドル)ではなく、エシカル(倫理的)な貧困ライン(1日7.4米ドル)を採用している。詳しくはGNVの記事「世界の貧困状況をどう読み解くのか?」参照。
ライター:Gaius Ilboudo
翻訳:Yudai Sekiguchi
グラフィック:Ayaka Takeuchi