2017年7月、核兵器禁止条約が国連総会において122か国の賛成で採決された。核兵器は「無差別殺戮兵器」と呼ばれることもあり、一発で何十万人もの人を殺害することができるものである。核兵器禁止条約とは核兵器の開発、保有、使用などを例外なく禁止する条約で、これまでの核兵器を制限する条約と比べてさらに一歩踏み込んだ包括的なものとなっている。そして2022年6月、本条約の締約国会議が初めて開催された。締約国会議には、49の締約国のみならず、34の非締約国がオブザーバーとして参加した。しかし、アメリカやロシアなどの核保有国やアメリカの核の傘に入っている国々の多くは、本条約にも今回の会議にも参加していない。
この核兵器禁止条約に積極的に参加している地域がある。それは太平洋の島嶼国らだ。フィジー、キリバス、パラオ、サモアなど、太平洋諸国全14か国中10か国がこの条約に批准あるいは加入している。その他条約に批准していないものの、締約国会議にはオブザーバー参加した国もある。なぜ太平洋諸国で、この条約への取り組みが盛んになされているのか。その背景として、過去にこの地域で大規模に行われてきた核実験の歴史があると言える。
本記事では、核実験の全体的な概要や、太平洋諸島諸国での核実験の詳細、今なお続く被害やそれに対する取り組みなどについて述べていく。

マーシャル諸島における核実験の様子(写真:International campaign to abolish nuclear weapons / Flickr[CC BY-NC 2.0])
核実験の概要
核兵器が一番初めに作られたのは、第二次世界大戦中の1945年のことである。アメリカ、イギリス、カナダなどの連合国らがドイツ、イタリア、日本などの枢軸国に対抗するために、科学者を総動員して開発・製造を行った。核兵器は、ウランなどの元素に中性子が衝突することによって起こる核分裂を利用した兵器である。核分裂によって放出されるエネルギーはおよそ数千万度に達し、その破壊力は直径数キロの範囲に及ぶため、従来の火薬と比べて桁違いに強力なものであると言える。実際1945年に日本の広島に核爆弾が投下された際は、直径6キロの範囲に被害が及び約14万人が死亡し、長崎の際は、被害は直径7キロの範囲に及び約7万人が死亡した。
核分裂という高度な科学技術を必要とするため、新たな核兵器の開発には、核実験を行うことでその機能や影響について調べることが必要となる。核実験は大きく4種類に分類することができ、それぞれ大気圏内核実験、大気圏外核実験、水中核実験、地下核実験である。大気圏内核実験は、地上で行われるものや航空機から投下されるものがある。爆発時に土砂や塵が巻上げられ、灰などの放射線降下物が大量に発生する。大気圏外核実験はロケットを使って実施され、その目的は敵国の衛星の破壊を検証することなどである。大量のスペースデブリが発生するほか、爆発によって生じる電磁パルスは地上の電子機器に影響を及ぼす。水中核実験は、船舶から核爆弾を水中に吊り下げて爆発させるなどの方法で実施される。放射性の水が拡散し、周辺を汚染してしまう。地下核実験は、成功した場合は放射性降下物が発生しないが、爆発後に地盤沈下が発生し、さらに爆発によって地面に穴が開いた場合は大量の放射性物質が漏れ出てしまう。
次に各国の核実験の歴史について見ていく。アメリカは、1945年から1992年の間に1,030回の核実験を行った。1945年7月にニューメキシコ州で世界初の核実験であるトリニティ実験を行い、その後もその他の州や太平洋にあるマーシャル諸島、キリバスなどで実験を実施してきた。ソ連は、1949 年から 1990 年の間に 715 回の核実験を実施した。多くの核実験をカザフスタンのセミパラチンスク核実験場で行ったほか、ロシアの各地でも散発的に実験を行ってきた。フランスは1960年から1996年までの間に210回の核実験を行った。はじめは植民地であったアルジェリアで核実験を行っていたが、アルジェリアが独立を果たしてからは、実験場をフランス領ポリネシアに移した。イギリスは計45回の核実験を実施し、その実験場は主にオーストラリアやキリバスであった。中国は45回の核実験を行い、国内の北西部が主な実験場となった。北朝鮮は計6回の核実験を行い、そのすべてを2000年以降に実施している。インドは3回の核実験を実施し、パキスタンは2回の核実験を実施した。核兵器開発プログラムを放棄した南アフリカや、核兵器を保有しているとされるイスラエルも過去に核実験を行ったと思われる。
次に実験を制限する動きについて見ていく。1963年、アメリカやソ連、イギリスなどの国の間で部分的核実験禁止条約が結ばれ、地下核実験以外の核実験が禁止された。フランスや中国はこの条約に参加していない。この条約の目的は、大気圏での核実験や水中核実験を禁止し、放射線などによる環境汚染を防ぐことだとされている。しかし当時アメリカ、ソ連、イギリスは地下核実験の技術をもっており、条約締結後も実験の継続が可能であったのに対し、フランスや中国にはその技術がなかったため、先発核保有国らが核兵器の寡占状態を制度化する思惑があったのではないかという疑いもある。1996年、地下での核実験をも禁止する包括的核実験禁止条約が国連総会で採択されたが、アメリカ・中国などはこの条約に批准しておらず、発効には至っていない。また、現在ではほとんどの国が核実験を行っていないが、これには技術の発達によってコンピュータ上で核実験のシミュレーションが行えるようになったという背景もあるようだ。
このように核実験の概要を見ていくと、多くの核実験が太平洋諸島諸国で行われたのが分かる。実際に数字で見ると、1946年から現在までの間にアメリカ、イギリス、フランスの3か国によって315回もの核実験がこの地域で行われてきた。先ほど述べたように、マーシャル諸島、フランス領ポリネシア、キリバスなど、高所得国の植民地が主な核実験場となり、実験によって甚大な被害を被ってきた。以下、特に大規模に行われたアメリカによるマーシャル諸島での核実験とフランスによるフランス領ポリネシアでの核実験について詳しく述べる。
マーシャル諸島
マーシャル諸島は1,200 以上の島から構成され、もともとは無人島であったが1世紀頃からミクロネシアから人の移住が始まり、そして18世紀頃からイギリスやドイツなど列強諸国の人々が入植するようになった。1886年にドイツの保護国となり、第一次世界大戦後の1920年から日本の委任統治領となった。第二次世界大戦中は要塞として軍事利用され、大戦後は信託統治領としてアメリカに統治されることとなった。1986年に独立を果たした際、アメリカとの間に「自由連合協定」を結んだ。その内容は、アメリカがマーシャル諸島に財政支援をするかわりに、アメリカが引き続き防衛や安全保障を管轄するとういものだ。

検診を受けるマーシャル諸島の被爆者(写真:ENERGY.GOV / Wikimedia Commons [Public domain])
1946年から1958年までの間に、アメリカはマーシャル諸島で67回もの核実験を行った。実験は主にビキニ環礁とエニウェトク環礁の核実験場で実施され、大気圏内核実験と水中核実験の双方が行われた。実験期間中の爆発エネルギーの合計は108.5メガトン(※1)に達し、マーシャル諸島領内の2,000以上の島と地域に放射線が降り注いだ。放射線の影響によりマーシャル諸島全体で火傷や先天異常、がんなどの健康被害が発生し、また核実験場となった場所ではサンゴ礁が壊滅するなど環境への影響も出た。
1946年から1958年まで実験期間中、ビキニ環礁とエニウェトク環礁の住民はロンゲリック環礁やキリ島などの無人島へ強制的に移住させられた。ビキニ環礁については、1968年にアメリカ当局によって放射線量の十分な低下が宣言され、1972年に島民100人ほどが帰還した。しかし後の調査で高レベルの放射線が残っていることが分かり、島民らは1978年に再避難させられた。いまだにビキニ環礁の島民は帰島できていない。エニウェトク環礁は1977年から除染作業が進められ、1980年には環礁の西側の安全が宣言されて島民の帰島が進んだが、現在もなお放射線が残っている地域もある。
特に被害の大きかった実験として、1954年に実施されたキャッスル・ブラボー実験が挙げられる。これは大気圏内核実験であって、爆発エネルギーは15メガトンに達した。ビキニ環礁で行われたこの実験では、ロンゲラップ島やウトリク環礁などの想定されていなかった場所にも灰が降下し、島の住民は事前にこの実験について知らされていたものの、避難措置がとられていなかったために被爆した。この被爆については、アメリカが人体実験のために意図的に被害を生じさせた可能性が指摘されている。また第五福竜丸という日本の漁船も、ロンゲラップ島周辺を航行している最中に被爆した。さらに実験に関わった兵士やアメリカ海軍の船に対する被害も報告された。
被爆者らには体のかゆみや嘔吐などの健康被害が出て、さらに数十年が経ってから甲状腺がんなどを発症する例も多く挙がっている。アメリカの国立がん研究所が2010年に行った調査によると、ロンゲラップ島で発生しているがんの約55%がキャッスル・ブラボー実験での放射性降下物が原因となっているものであるそうだ。環境について見ても、サンゴ礁とそれが維持していた生態系が壊滅した。ロンゲラップ島には今なお放射性汚染物質が残っていると思われ、島民はいまだに帰島できていない。
2017年、当初マーシャル諸島は国連において核兵器禁止条約の採択に賛成票を投じていたが、国会において本条約への批准がアメリカとの自由連合協定に違反することが懸念され、批准には至らなかった。しかし2022年の締約国会議には、同国は核実験の被害を受けた国としてどのような被害者支援策が提案されるのか注視するために、オブザーバーとして参加した。
フランス領ポリネシア
フランス領ポリネシアは118の島からなり、そのうち67の島に人が住んでおり、その他は無人島である。この地域はソシエテ諸島などを中心に元々ポマレ王朝が統治をしていたが、1844年にフランスの保護国となり、続いて1881年に同国に併合された。第二次世界大戦後の1946年にはフランスの海外領土となり、地方議会が設置され、さらにフランスの国会の代表を若干名選出する権利が与えられた。その後も部分的に自治権が拡大することはあったものの、完全な独立は果たしていない。
1966年から1996年までの間に、フランスは仏領ポリネシアで193回もの核実験を行った。実験は主にムルロア環礁とファンガタウファ環礁の核実験場で実施され、大気圏内核実験のみならず地下核実験も行われた。国際原子力機関(IAEA)の調査によると、放射能は実験場であったムルロア環礁とファンガタウファ環礁や、危険区域として避難措置がとられていたトゥレイア環礁のみならず、タヒチ島などにも拡散し、多くの人が被爆した。長期間続いた実験によって、推定でフランス領ポリネシアのほぼ全人口に相当する11万人が被爆したようだ。しかしフランスは放射線量を隠蔽してきたと言われている。イギリスの調査会社のインタープリトとアメリカのプリンストン大学が共同で行った調査によって、2006年にフランス当局が示した住民の被爆線量が、実際の結果よりも2分の1から10分の1ほど低く見積もられていることが分かった。環境にも甚大な影響が出ており、ムルロア環礁ではひび割れや地盤沈下、地すべりなどが度々発生しており、長期的に見ると環礁全体で大規模崩落が起こる可能性もある。
このようなフランスの核実験に反対し、国際環境NGOであるグリーンピースは、ムルロア環礁付近に船舶を航行させて抗議活動を行っていた。しかし1985年、同団体が所有するレインボーウォーリア号がニュージーランドのオークランドの港でフランスの諜報員によって爆破され、これによって1人が死亡した。この船は、オークランドからムルロア環礁へと向かい抗議活動を展開することが計画されていた。フランス当局は当初この件への関与を否定していたが、後に同年の後半にイギリスの新聞によって当時のフランソワ・ミッテラン大統領がこの爆破計画を承認していたことが明らかになり、ミッテラン内閣のトップレベル数名が辞任に追い込まれた。事件を遂行した諜報員のうち2人が、ニュージーランドの裁判によって過失致死などの罪状で懲役10年の判決を受けたが、フランス政府の交渉によって1年で釈放された。
不十分な補償と非核への動き
ここまで見てきたような核実験の被害は決して一時的に終わるものではなく、長期的に続くものである。放射線の被爆は、長期的に見て被爆者のその後の発がんリスクを高めることが分かっている。実際にマーシャル諸島では、1948年から1970年までの間に生きていた住民の中で、被爆が原因となったがんが推定されているだけでも170件発生した。また1986年から1994年の調査によって、マーシャル諸島の被爆地では、肝臓がんのリスクがアメリカ平均に比べ、男性で15倍、女性で40倍高いことが分かった。このように長期にわたって被害が続いているにも関わらず、十分な補償はされていないといえる。1986年の自由連合協定では、アメリカがマーシャル諸島に対して1億5千万米ドルの補償が決定されたが、これは今後も続くがん被害に対する補償も考えると十分ではないと指摘されている。
またフランスは、フランス領ポリネシアで被爆した民間人のうち、わずか63人への補償しか行っていない。背景として、フランスの核実験犠牲者補償委員会が核実験で発生した放射性物質と被爆者のがんとの間の因果関係を認めていないということがある。補償が不十分であるのみならず、フランス当局は核実験の被害者への謝罪すらもしていない。

フランス領ポリネシアにおける核実験の様子(写真:Pierre J. / Flickr [CC BY-NC-SA 2.0])
このように実験場として利用されてきた太平洋諸島諸国では、非核に向けた前向きな動きも見られる。まず、1986年に発効したラロトンガ条約が挙げられる。これは、南太平洋を非核地帯として、締約国の領域内における核兵器の製造、取得、所有、実験、放射性物質の海洋への投棄などを包括的に禁止するものである。条約締結の背景として、ここまで見てきたようにこの地域で核実験が多数行われたこと、さらに核廃棄物の投棄で海洋環境が汚染されることへの懸念などがあった。南太平洋の13の独立国(※2)すべてがこの条約を批准している。核実験を終了させるために、この地域の民間人によるデモ活動も見られた。1995年、クック諸島の人々がタヒチ島の島民とともにデモ行進を行い、核実験の中止や平和を訴えた。
核兵器禁止条約においても太平洋諸島諸国は重要な役割を果たしたといえる。本条約の交渉会議において、太平洋諸島諸国は積極的に声明を出してきた。また、この条約の発効には50か国の批准が必要であったが、そのうちの10か国を太平洋諸島諸国が占めている。
まとめ
ここまで見てきたように、太平洋諸島諸国では大規模に行われた核実験によって人体にも環境にも甚大な被害が生じ、住民は今なおがんなどによって苦しめられている。それにも関わらず、アメリカやフランスなどの加害国は被害を過小評価あるいは隠蔽し、十分な補償を行っていない。それどころか、人体実験の目的であえて被害を生じさせた疑惑も浮上している。このような負の歴史を背景に、太平洋諸島諸国は核兵器を禁止する条約を締結させたり、積極的に参加したりしている。
今後も核実験の被害者に対して十分な補償がされるよう動向を注視するとともに、核兵器のない世界が実現されるよう見守りたい。

核兵器禁止条約の第一回締約国会議で演説するフィジーの首相(写真:UNIS Vienna / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
※1 おもに核兵器の威力を表す際に使われる単位であり、1メガトンは1トンの100万倍である。目安として、日本の広島と長崎に投下された核兵器の爆発エネルギーの合計は0.037メガトンであった。
※2 オーストラリア、クック諸島、フィジー、キリバス、ナウル、ニュージーランド、ニウエ、パプアニューギニア、ソロモン諸島、トンガ、ツバル、バヌアツ、西サモア
ライター:Koki Ueda
グラフィック:Ayane Ishida
日本は被爆国ですが、核兵器禁止へ向けて報道されるのは8月6日あたりしか見受けられず、核兵器が国民の関心の外にあるように思います。条約への動きは、核兵器のない世界へ働きかける責任のようにも感じます。
太平洋の人たちを何だと思ってるんでしょう。
核実験した国は誠実に謝るべき。誠実に補償すべき。
広島長崎への原爆投下からもうすぐ80年。今、有事に備えるために、戦力や核兵器が必要という声が強まっています。そのような意見が出てくるのも仕方のないことかもしれませんが、核実験で被害を受けた人々がいるということ、核が人体に及ぼす影響についても知っておく必要があると思いました。
記事を興味深く拝読しました。一部の高所得国が「核兵器には抑止力があるから」という主張を現在強めていますが、そうではないということがこの記事からも伝わってきます。核実験の下で長い間危険にさらされ、命までも落としている人々の存在を忘れずにいるためにも、こういった記事が世に出ることは貴重だと考えます。