アフリカ中部の国、カメルーン共和国が長期にわたり保ってきた「安定」が今大きく揺るがされている。カメルーンは歴史上、政治的安定を保っていると称されてきた国である。1960年の独立以来、近年まで武力紛争もクーデターも一切経験していない。1982年以降37年間にわたり同一の大統領が国を治めていることもそれを象徴していると言えるかもしれない。しかしそんなカメルーンが今、重大な危機に直面している。国内で600人以上の死者を出す紛争が勃発しているのだ。安定の国、カメルーンでなぜそのような紛争が起きてしまったのだろうか。カメルーンの歴史とともにひも解いていきたい。
カメルーンの歴史:植民地時代と分裂
カメルーンでの紛争勃発の背景には複雑な歴史的背景がある。1870年代、アフリカ分割としてヨーロッパ諸国が次々にアフリカの国々を争奪、植民地化していく中でカメルーンはドイツに植民地化された。しかし1914年に始まった第一次世界大戦においてドイツが大敗したため、カメルーンは北西部をイギリスに、南東部をフランスに明け渡された。人口比で言うと2:8であったようにそのほとんどはフランス領であった。そこからイギリス領カメルーンはさらに北部と南部に分裂した。
「アフリカの年」と呼ばれる1960年、アフリカ諸国が次々に独立していく中でフランス領カメルーンもカメルーン共和国として独立を果たした。そして1961年、イギリス領カメルーンにおいて北部、南部、別々に住民投票が行われ、北部は隣国であり1960年に同じく独立を果たしていたナイジェリアに統合され、南部は旧フランス領と連邦制をとることが決定した。
英語圏カメルーンとフランス語圏カメルーンの関係
領土的分裂を経て現在の形に落ち着いたカメルーンだが、現在でも事実的には英語圏地域とフランス語圏地域に分裂しており、その間にあるのは友好関係ではなく対立関係に近いものだった。人口の8割がフランス語圏地域にあることもあり、フランス語圏地域の勢力は徐々に拡大し、英語圏地域を圧迫してきた。
1972年に連邦制が廃止されカメルーンは単一国家となり、またその3年後の1975年、国旗が変更され、2つ描かれていた星が1つになった。それは英語圏地域とフランス語圏地域に分かれていたカメルーンが1つになったことを表しているが、実際は、連邦制廃止以来、英語圏地域出身者が国のトップになったことがないことからも、フランス語圏側の独占的な支配の拡大を表している。

カメルーンの再統一を記念して建てられた塔(写真:Z. NGNOGUE /Wikimedia Commons [CC BY-SA 3.0])
さらに、カメルーン憲法では英語圏地域の人々の文化を尊重することが規定されており、公用語としてはフランス語、英語が共に定められ、全10州の中で8州ではフランス法を範とする法体系が、2州では英国法を範とする法体系が施行されるなど、政策としてフランス語圏地域、英語圏地域の共存、平等が図られてきたにも関わらず、実際は両言語のバイリンガルの国民は極めて少なく、政府の公文書や政策が英語で印刷されたことはなかったなど、両言語が平等に扱われているわけではないようだ。このように英語圏地域は事実的に政治的排除を受けている。
マイノリティーである英語圏地域は差別的に扱われ、両者の間の不平等は解消されずに根強く残っているが、その状況を助長しているとも言えるのが、先にも述べた1982年以降37年間カメルーンを治めている、フランス語圏地域領出身のポール・ビヤ大統領である。

国連総会で演説するポール・ビヤ大統領(写真:United Nations Photo /Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
ビヤ大統領は1966年からカメルーンを治めていたアマドゥ・アヒジョ大統領の下で役人として働いていたことから有名になった。アマドゥ大統領からの信頼も厚く、官房長官、国務大臣を経て1975年、カメルーン首相となった。1979年、憲法上の大統領の後継者として指名され、1982年のアマドゥ大統領の辞任後、新たな大統領として就任した。
そんなビヤ大統領の政治のあり方は非常に権威主義的なものである。政治的決定は大統領令によってなされることも多く、議会の協議はほとんど行われない事項もある。またカメルーンには多数の政党が存在するが、実質的にはカメルーン国民連合の一党国家であり、他の多数の野党が疎外されている状況だ。フランス語、英語の差別的な扱いも彼を含む中央政府の計らいであり、大統領自ら差別的状況を作り出している。長期にわたって安定した国と称されてきたカメルーンであったが、その安定の裏側には大統領による政治的締め付けが存在したのであり、それが不安定な状況に国を導いてしまったのである。
武力紛争へ
1985年、英語圏地域の弁護士であり、カメルーン弁護士会会長のフォン・ゴルジ・ディンカ氏は、ビヤ政権は違憲であり、英語圏地域のアンバゾニア共和国(※1)としての新たな独立を要求した。しかし、ディンカ氏は政府によって裁判なしに投獄され、アンバゾニア共和国独立の主張は簡単に却下された。人口の二割ほどしかいない英語圏地域の人々が政府に抵抗してもそれは小さなものにしかならず、政府の力によって押さえつけられてしまうのだ。

カメルーンでのデモの様子(写真:Activist/Wikipedia [CC BY-SA 4.0]
そんな状況を一変させるきっかけとなったのは2016年の小さなデモであった。政府が発表した英語圏地域の学校、裁判所でフランス語圏地域の教師、弁護士などを採用する、フランス語が話せなければ公務員になれない、などの政策に対して英語圏地域の弁護士たちは抗議デモを行い、それに賛同した教師たちもストライキを起こした。この抗議デモ自体は暴動などを起こすものではなく、平和的なものであったが、政府は英語圏地域の活動家を過激派と称し、テロ容疑をかけた上に、英語圏地域のインターネットを遮断し、批判的なメディアを抑圧するなど、デモに対して過剰な制裁を加え、デモの実行者たちに暴力行為を行って抗議活動を終わらせようとした。そしてそのことを皮切りに政府対英語圏地域の暴動、国内紛争に発展したのである。
警察、軍は英語圏地域の人々を無差別に逮捕、拷問、殺害して力で暴動を収めようとしたが、簡単に収まる暴動ではなかった。後にビヤ大統領が英語圏地域のインターネットアクセスを回復、抗議者を解放し、バイリンガリズムと多文化主義のために国家委員会を設立、より多くのイギリス領行政長官を採用するなど英語圏地域に少し歩み寄ったことで暴動は一時収まった。
2016年の抗議デモ以降も政府に対して数々の抗議運動が行われている。それは国内にとどまらず、アメリカの国連本部前で国連にカメルーン政府に圧をかけるように求め、また逮捕された英語圏地域の活動家の解放を求めるデモが行われたこともある。その他にもワシントンD.C.やフランス、ドイツ、オランダの大使館前でも行われた。しかし、政府の対応はなかなか変わらない。

アメリカでアンバゾニア共和国の国旗を掲げ抗議運動を行う人々(写真:Lambisc /Wikimedia Commons [CC BY-SA 3.0])
さらに英語圏地域に対する差別も続いており、英語圏地域の人々の失業率は高く、さらに米国国務省が発行している人権報告書ではカメルーンの英語圏地域の人々に対する人権侵害が報告されており、彼らに対する人権侵害は取り締まられないという。
2017年10月、激しい抗議運動が再び発生し、それに加えて反政府を掲げる武装勢力も複数発足しており、政府軍と戦うようになった。政府は隣国ナイジェリアの過激派武装勢力、ボコ・ハラムに対処するために採用された反テロ法を基に暴動を収めようとしたが、現在に至るまで収まっておらず、平和的解決は進んでいない。2017年を通して420人以上の民間人、175人以上の軍隊と警察官、数百人の戦闘者が死亡し、30万人以上が家を離れなければならなくなってしまった。

カメルーン軍(写真:US Army Africa /Flickr [CC BY 2.0])
カメルーンを揺るがす国外の脅威
カメルーンの安定を揺るがしているのは国内の問題だけではなく、国外から入ってきた問題もある。まず一つはイスラム国に忠誠を誓っている過激派武装勢力、ボコ・ハラムである。ボコ・ハラムはナイジェリアを拠点とした組織で、近年、ボコ・ハラムがカメルーン北部やニジェールなどに流入し、住民の殺害、拉致を行い、何百という家を焼き払った上に、家畜などの財産を略奪している。子供を利用した自爆テロも多く、学生も多く拉致されている。カメルーンはナイジェリアからの多数の難民だけではなく、ボコ・ハラムに対抗するための300人の米軍も受け入れており、さらに対ボコ・ハラム作戦においてカメルーン軍による一般人への人権侵害も多数報告されているなど、カメルーン北部の治安情勢は非常に不安定化している。
もう一つは中央アフリカ紛争からの難民を隣国であるカメルーンが多く受け入れていることである。中央アフリカ共和国では今、歴史、権力、宗教など様々な要因を軸とした複数の武装勢力間の争いが発生している。同国では同紛争の最も激しい時で、国民の4人に1人である120万人が国内外での避難生活を余儀なくされた。カメルーンは最大の中央アフリカ難民受け入れ国であるが、241,000人の国内避難民に加え、88,000人のボコ・ハラムから逃れたナイジェリア難民、249,000人の中央アフリカ難民を抱える今、カメルーンの状況はさらに不安定なものになっている。

カメルーンに逃れてきたナイジェリア難民(写真:USAID U.S. Agency for International Development /Flickr [CC BY-NC 2.0])
和平への働きかけ
このような悲劇的な状況に対してカメルーンの安定を取り戻すための対応はなされているのだろうか。その実態は、今回の紛争に対して全くの無関心ではないものの、事態はさほど重く受け止められていないのか、早急な対応はほとんど行われていない。まず、カメルーンのイスラム教、キリスト教指導者たちが仲介を試みて平和を呼びかけており、彼らは軍、反政府勢力双方に銃を置き、暴動を止めるべきだという声明を発表した。カメルーンにはイスラム教徒、キリスト教徒が多いため、その指導者たちの発言には本来影響力があるはずであるが、政府は武装した反政府勢力だけが銃を放棄すべきだと主張し、彼らの仲裁活動はなかなか思うように進んでいないようだ。
また、国外からの対応として、アフリカ連合の議長も2018年7月にカメルーンを訪れ、ビヤ大統領と意見交換会を行い、カメルーンの問題の実態について話し合ったが、ビヤ大統領の平和の促進に対する決意表明を受け入れただけにとどまり、アフリカ連合のカメルーンの問題への介入の提案が拒絶されたことについてもそれ以上強く主張することはなかった。また、国連安保理ではこの紛争について協議が行われたものの、なんらかの声明や議決は採択されていないままである。
今後のカメルーン
2018年10月に大統領選が行われたが、85歳のポール・ビヤ大統領が再び当選を果たした。その得票率は71%と高かったが、ビヤ陣営による得票数上積みの不正行為が指摘されており、平等な選挙であったとは言い難い。少なくともこの紛争勃発の責任の一端を担うであろう大統領が圧倒的権力を持ち続ける以上、カメルーンに再び平和が訪れる日は来るのだろうか。また、英語圏地域とフランス語圏地域の和解も進んでおらず、外部からの和平への働きかけも弱いままである状況の中でこの紛争は今後一体どのように展開していくのだろうか。国内だけではなく国外からの問題も複雑に絡み合うカメルーンが再び安定の国と称される日が来ることを願うばかりである。
※1 アンバゾニア共和国(南カメルーン連邦共和国):西アフリカ海岸線と南アフリカ海岸線の出会う場所はアンバス湾と呼ばれており、今回独立を主張した南カメルーン共和国がアンバス湾の周辺地域に位置するためアンバゾニア共和国とされた。
ライター:Wakana Kishimoto
グラフィック:Saki Takeuchi
カメルーンという名前はよく知っていましたが、イギリス領とフランス領で分裂していたことさえ知りませんでした。
隣国の中央アフリカの紛争も酷いものですが、その難民を多く受け入れるのも本当に大変だと思います。
この紛争の要因として国外からの影響が挙げられており、決して他国が放置して良い問題ではないことがわかりまひた。
無数の言語があるアフリカでは、このような言語の壁による対立は、カメルーンに止まらず他の国でも起こっていそうだと思いました。
非常に難しい問題ですが、言語に関係なく活躍できる社会が実現には何が必要なのか、すごく考えさせられます。
理念や目標として大いなる理想を掲げたとしても、実態としては数の暴力によってマイノリティが圧迫されるという事態の象徴だと感じました。日本でも広く議論されているダイバーシティの問題と共通する部分があり、マジョリティ側がアファーマティブアクションのように手を差し伸べていくほか、表現の自由をしっかりと保障する必要があるのかなと、思います。
使用言語が異なることによって生じる問題は、(勿論容易ではないものの)テクノロジーの発展がその解決に寄与する部分が大きいと思うので、様々な面からのアプローチによって早期の和平が実現されることを願うばかりです。
「安定」の良し悪しはどう捉えるかによって全く変わるなと感じました。
様々な問題をはらんでいるけど表面上は「安定」をとるか、変革を起こすために「安定」を壊すのかの境目に立っていたカメルーンがついに行動を起こした、という風に感じました。
英語圏もフランス語圏も文化的にある程度独立した地域なので、国として独立するのが最善策ではないかと思いますが、争い事なくスムーズにそれが行われることはないんでしょうかね。
経済格差なんかもありそうですね、人口の流入にも関わりそうです。
1つの国で言語が異なることでこのような紛争が起こっており、さらに、政府がそのような政策をとっていることにも驚きました。大統領が変わらない限り状況が良い方に変化する可能性は低いと思うので、国連や他国の支援が必要だと思いました。
歴然な力関係が存在する二つの地域における連邦制は、人間の性とも言える差別意識(優越感を持つことによって自己を正当化させる意識)を醸成させるため、将来的に不用意な対立を生んでしまうことを学びました。差別意識のような人間の「自己保存」の本能に反してもうまく行きはしないので、自己保存を逆手に取る国家制度設計(または国際機関の支援)が必要だと考えます。英語圏地域とフランス語県地域が対等な関係性のもと共創していく国となることを願います。