2020年1月15日、アフリカで最大の人口、経済規模を有するナイジェリアで発生したビアフラ(Biafra)戦争の終焉から50年が経過した。世界ではほぼ忘れ去られたとも言えるこの戦争だが、大規模な飢餓が起こり、推定死者数は最大300万人にのぼるとされている。これは、現在も続く第二次コンゴ戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争に次ぐ、第二次世界大戦以降最悪な戦争の1つと言われている。2050年までに世界で3番目の人口になると予想されるナイジェリアだが、ビアフラ戦争の面影は未だに深く残っている。この記事ではそんなビアフラ戦争の原因や、そこで独立を目指し戦ったイボ(Igbo)の人々の現状、そして今後の展望について探っていく。

ナイジェリア独立を記念して行進する人々(写真:iammatthewmario / Pixabay)
ナイジェリアの「国家無き民」
ビアフラ戦争の核となったのは、イボの独立のための戦いである。イボはナイジェリアでも最大規模の民族の1つだ。最も大きいものは北部に住み、主にイスラム教徒で構成されるハウサフラニ(人口の約3分の1)で、南西部に住み、主にキリスト教徒・ヨルバ教徒で構成されるヨルバ(人口の約14%)、南東部に住み、主にキリスト教徒で構成されるイボ(人口の約14%)と続く。その他にもナイジェリアには現在500以上の言語と、約250の小さな民族が存在する。
ナイジェリアがこれほどにも多民族国家である理由は、元々それぞれ独自の国家を持っていた民族グループが、イギリスの植民地化によって1つにまとめられ、1つの国となったからである。イギリスの政治・経済的利益に基づいて国境が引かれたため、そこに暮らす人々の政治的・文化的背景は考慮されなかった。その中には機会があれば単独国家として独立したいと考える人が多い民族もあり、そのようなグループは「国家無き民」(※1)と呼ばれる。
今日世界には少なくとも100以上の「国家無き民」がある。その構成人数がもっとも多いのはトルコ、イラン、イラクに分散しているクルドの人々と、ナイジェリアのヨルバ、イボである。それぞれの人口は推定約4,000万人にのぼる。これらの中には、過去に独自の国家を持っていたものもある。ヨルバとイボも独立国家を有していたが、イギリスの植民地化により主権を失った。実際、ヨルバが12世紀に設立したオヨ王国は、15世紀から18世紀にわたり周辺で最も政治的に重要な国であった。また、イボも10世紀にンリ王国を設立しており、1911年に主権を失うまで存在していた。
イギリスの植民地支配とナイジェリア形成
17世紀に始まった大西洋奴隷貿易によって、主に中央、西アフリカに住む人々は奴隷として南北アメリカの農場で働かされた。アフリカの人々が南北アメリカに送られるのに利用される港の1つとしてラゴスがあった。ラゴスは、当時独立国家だったラゴス王国の主要都市であり、現在のナイジェリアの最大都市である。

現ナイジェリアの奴隷の作業場(1746年)(写真:Parr, Nathaniel, engraver/Wikimedia [public domain])
18世紀までアフリカからの奴隷の主な輸送者はイギリスだった。しかし1807年、イギリスは奴隷貿易を禁止し、他のヨーロッパ諸国にも奴隷貿易を中止するように働きかけた。反奴隷運動の一環、そして経済的利益を理由としてイギリスはラゴスを攻撃し、その支配者を追放した。そして親英であり、奴隷貿易に反対する者を新たな支配者に置いた。初めイギリスはラゴスに軍事援助を提供していたが、10年後の1861年にはイギリスはラゴスを自国の領土として併合した。ヨーロッパ勢力がアフリカで領土争いを繰り広げており、ラゴスにおけるイギリスの影響力が脅かされていたためである。
実際、アフリカ支配をめぐるヨーロッパ勢力間の競争は激しく、それがヨーロッパ勢力間の直接的な紛争に繋がる恐れがあった。それを防ぐためにヨーロッパ諸国の首脳は1885年に開かれたベルリン会議でアフリカの植民地化にかかる原則を確認、合意し、それを契機にヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が本格化した。そして現在のナイジェリアにあたる領土は公式にイギリスの植民地となったのである。
当初、イギリス支配下のナイジェリアは北部と南部の2つに分かれていた。しかしこの2地域で適用されたイギリスの支配方式は全く異なるものだった。北部ではその地域の既存の首長を通して間接的支配を行い、そこに住む人々の権威主義的な政治体制を残したのに対し、南部ではイギリスの民間企業、ロイヤル・ニジェール・カンパニー(Royal Niger Company)を通じた直接的支配が行われた。このロイヤル・ニジェール・カンパニーは独自の民間軍を使用して領土を管理していた。その結果、北部の人々はヨーロッパ文化の影響をほとんど受けなかったのに対し、イボを中心とした南部の人々はキリスト教を信仰し、イギリス式の高度な教育を受けるなど、ヨーロッパ文化の影響を大きく受けるに至った。
1914年、それまで分割していた南部と北部が合併し、ナイジェリア単一の植民地が形成された。つまりハウサフラニ、ヨルバ、イボを中心とする多くの民族が1つに国にまとめられたのである。そして、イギリスによる植民地支配に反対する彼らの共通の願いがナイジェリア共通のアイデンティティ、ナショナリズムとして発展していった。

ナイジェリアの独立記念式典(1960年)(写真:Lord777/Wikipedia [CC BY-SA 3.0])
1960年にナイジェリアは独立を果たした。しかしそれにより、植民地支配からの脱却というナイジェリア全体のナショナリズムを正当化する理由がなくなってしまった。そうして、主に過去に独自の国家を有していた民族、特にイボの、民族としてのナショナリズムの再出現に繋がっていったのである。
ビアフラ戦争勃発の背景
独立後、イボのエリートたちはナイジェリアの政治、経済、軍事等の上層部で影響力を拡大していった。元々南東部で暮らしていたイボであるが、商人や文芸家を中心に、北部を含むナイジェリアの他地域へ積極的に移転する者もいた。
しかしより裕福で、より高度な教育を受けているイボは徐々に、特に北部において多くの人々の反感の対象になっていった。選挙や政治の目に見えた不均衡と腐敗は、結果的に連続的なクーデターを引き起こした。
転機は1966年のクーデターだった。元々北部出身だった当時の首相がイボの将軍により暗殺されたのである。このクーデターの公的な理由は、首相たちが苦しい貧困の中で生活している国民たちを犠牲にして派手な生活を送り、公的資金も横領していたからであるが、しかし北部ではこのクーデターはイボがナイジェリアの政治的支配権を得るために行ったものとして認識されていた。それにより、北部ではイボの人々が数多く虐殺され、100万人もの人々が元々の故郷である南東部へ移ることとなった。その反動でクーデターが再び発生し、その結果、北部の将軍ヤクブ・ゴウォン氏(Yakubu Gowon)が新たな国家元首となった。
このような緊迫状況の中で、イボ出身の軍事総督チュクエメカ・オドメグ・オジュク氏(Odumegwu Ojukwu)はナイジェリアの中央集権化緩和をゴウォン氏に要求した。しかしゴウォン氏はこれを拒否し、代わりに地域の分離を避けるためにイボの地域をより小さな地域に細分化した。これに対応する形でオジュク氏は1967年に、イボ地域はビアフラ共和国として独立することを宣言した。これがのちに第二次世界大戦以降最悪の戦争の1つ、ビアフラ戦争へと繋がっていく。
ビアフラ独立をめぐる争い
ビアフラの独立宣言の背景にある重要な動機は、ナイジェリア南東部に石油備蓄が集中しており、他地域と比較してイボが享受できる利益が比較的少ないことに対する不満だった。ビアフラの指導者オジュク氏は、この戦争において石油会社は、より有利な契約を提示することでビアフラの味方に付くと予想していた。しかしそれらの会社はゴウォン氏率いるナイジェリア政府を支持した。そしてその政府は無論、ビアフラの独立を認めなかった。というのも、もしビアフラが独立に成功した場合、他のグループ(特にヨルバ)も独立を求めると脅してきたためである。
ナイジェリアに武器を供給していたイギリス、ソ連を含めたほとんどの欧米諸国はゴウォン氏の政権をナイジェリア全土の政府として認めていた。一方、コートジボワール、ガボン、タンザニア、ザンビアなど、いくつかのアフリカ諸国ではビアフラが独立国家として認められていた。また、フランスを中心とするいくつかの国々は、石油と引き換えに秘密裏にビアフラを支援していたが、ビアフラ軍がそれほど有利な立場になく、兵士の数も少なかったため、新しい国境を維持し続けることはできなかった。その結果、独立宣言から1年後の1968年、ビアフラは政府に海港を奪われ、内陸のみの領土となった。
ナイジェリア政府はビアフラの残りの領土を封鎖し、食糧不足から大量の飢餓が発生した。そのビアフラの窮状を知った多くの国々から食料や薬が輸送されたが、暴力などにより飢餓、病気が蔓延し、結果として最大300万人もの人々が亡くなってしまった。そして1970年、ビアフラは敗北という結果に至った。
最近の調査によると、アフリカ史上最悪の戦争の1つであるこのビアフラ戦争は、50年経った今でも人々に大きな影響をもたらしており、その戦争地域で暮らす人々は今でも身長が低く肥満ぎみで、十分な教育を受けられていない状況にある。
現在のイボ
ビアフラ敗北を受け、イボの民族としてのナショナリズムは次第に衰え、イボのアイデンティティから離れる人々も出てきた。ナイジェリア南東部の人々の多くは人名、地名をイボ語ではないものに変えた。また、イボの人々は差別を受け、ナイジェリアでは就職できない場合も多かったため、彼らの多くは1970年代初頭、イギリス、アメリカを中心とする海外へ移住していった。

ビアフラ独立を訴える人々、スウェーデン(写真:Sigfrid Lundberg/Flickr [CC BY-SA 2.0] )
しかしニジェール川の三角州地帯、ニジェール・デルタ付近での石油産業が盛んになっていくにつれてイボ地域も復活し、最終的に政界に進出するイボも多くなった。そしてイボの人々の心に依然として存在していたイボのナショナリズムに再び火がつき始めたのである。特に独立の試みが失敗した際、差別を受けてナイジェリアを去った人々にはその気持ちが強く残っていた。
1999年、「ビアフラの主権国家実現のための運動」を行う組織(MASSOB)(※2)が、独立したイボ国家をつくることを目的としてラルフ・ウワズルイケ氏(Ralph Uwazurike)によって設立された。この組織にはナイジェリアに拠点を置くビアフラ疑似政府(Biafra Shadow Government)と、海外にいるイボ民族主義者で構成されたビアフラ国外政府の2つの支部がある。そしてMASSOBは、平和的集団として平和的に目標を達成することを宣言しており、ビアフラの人々を軽んじたナイジェリア政府を非難している。その設立以来、ナイジェリア南東部で数多くの抗議運動が起こっている。しかし平和的とはいえ、得られるデータと報道が限られているためにその深刻さを推測することは難しいが、抗議者たちはナイジェリア政府、軍に日常的に攻撃されており、多くの人々が殺され、逮捕されているようだ。
2009年、MASSOBはビアフラ支持者たちの強い要望を受け、認められていないにも関わらず「ビアフラ国際パスポート」を発行し、イギリスに「ラジオビアフラ(Radio Biafra)」を立ち上げた。ラジオビアフラはビアフラの理念、「ビアフラの人々の自由」を、ナイジェリア南東部を対象にインターネットや短波放送を通じてイギリスから発信している。

ンナムディ・カヌ氏(写真:Adachineke/Wikimedia [CC BY-SA 4.0])
IPOBとンナムディ・カヌ氏の役割
2012年、ラジオビアフラの放送から有名になったイギリスとビアフラの市民、ンナムディ・カヌ氏(Nnamdi Kanu)は、著名なイボの人々で構成された、ビアフラ先住民組織(IPOB)(※3)を設立した。2015年のナイジェリア選挙後、IPOBはラジオビアフラを通してナイジェリア政府の腐敗を批判し、ビアフラ独立国家の設立について発言した。当然ながらナイジェリア政府はこれに反対し、カヌ氏は「治安妨害、民族的な扇動および反逆罪」の容疑で2015年10月19日にナイジェリア治安部隊によって逮捕された。彼は2017年、健康上の理由で保釈が認められた。
さらにナイジェリア政府はラジオビアフラを取り締まり、何人かのラジオ関係者を刑務所に送り込んだ。2015年8月から2016年8月の、国際人権NGO、アムネスティー・インターナショナルの報告では、少なくとも150人のビアフラ活動家がナイジェリア治安部隊によって殺害されたことが分かっている。そのうち、2日間にわたるビアフラ記念イベントだけで、60人が銃撃により死亡した。
またグーグル(Google)社の検索傾向を計るトレンド分析によると、これらのイベントを経て「ビアフラ」という用語への関心が高まっていることが分かった。しかし、2017年9月のカヌ氏の突然の隠遁、ナイジェリア政府がIPOBをテロ組織へ指定したことなどにより、2017年末には関心の波は沈静化していた。
ビアフラ独立の展望
ビアフラ独立運動において中心的な役割を果たしたカヌ氏の隠遁の事実があるにも関わらず、2018年にはまた新たにイボの活動家たちによる抗議が発生し始めた。2018年5月、ナイジェリア南東部では非合法なビアフラ国旗を掲げたとして、何十人ものビアフラ抗議者たちが逮捕された。
直近では2020年4月に、死んだと報告されていたカヌ氏が沈黙を破り、生きていることを証明するべくFacebookに登場した。カヌ氏が政界に復帰した今、最終的にナイジェリアからの独立を目指すビアフラの展望は何なのか。はっきり明言することは難しいが、ビアフラ戦争から50年が経過し、ナイジェリアの世代交代も進んでいくにつれて、状況は変化しつつある。
アフロバロメーター(Afrobarometer)(※4)がナイジェリアの人々のアイデンティティについて世論調査した結果、彼らの中での民族グループの一員としての意識が国家の一員としての意識よりも強いという人々の割合は25%(2011年~2013年)から15%未満(2014年~2015年)まで減少していることが分かった。状況が急速に変化する中で平和が保たれている限り、ナイジェリアのいわゆる「国家無き民」は単にナイジェリアという「国」の中に存在する「民」 として収まり続けるかもしれない。
しかし現状はそう単純ではない。イボを含むあらゆる民族グループの人々のアイデンティティに強弱があり、変化することもある。ビアフラ戦争の歴史を思い出し、そこから学ぶことによって、同じ悲劇を繰り返すことなく、いつの日か世界の「国家無き民」の夢が平和的に達成されることを願うばかりである。
※1 「国家無き民」(stateless nation)という言葉は矛盾を抱えている言葉であり、さまざまな見解も存在するため必ずしも適切な言葉ではない。イボの人々はナイジェリアの国籍を有しており、その国家の一部である。また、「単一民族国家」が事実上世界には存在しないため、ほぼ例外なく、現在の国家は「多民族国家」である。しかし、多くの人々が同一のアイデンティティを持っており、現在所属している国家を拒否し、別の国家として独立することを望む傾向が強い場合、「国家無き民」という言葉が使われる。
※2 Movement for the Actualization of the Sovereign State of Biafra (MASSOB)
※3 Indigenous People of Biafra (IPOB)
※4 アフロバロメーターはアフリカ各地で各分野に関する世論調査を行う団体。
ライター:Yani Karavasilev
翻訳:Wakana Kishimoto
グラフィック:Saki Takeuchi , Yow Shuning
アイデンティティの複雑さも関係している問題だということがよくわかりました。