2021年4月20日、チャドのイドリス・デビ大統領が反政府勢力との交戦地域を視察中に戦死したと報じられた。強権的な政治を推し進めてきた中で6期目の再選が確実だろうと言われていた矢先のことだった。その後30年に渡って政治的実権を握っていたデビ大統領の死を受けて、憲法で定められた継承順位の規定に反して暫定大統領の座に就任したのは、デビ大統領の37歳の息子マホマト・イドリス・デビ陸軍大将だった。この一連の動きは実体の伴わない民主主義というチャドの現実を反映している。また、チャドの抱えてきた問題は周辺国の紛争やその他の安全保障の問題とも複雑に絡み合っていることから、地域一帯への影響も懸念される。この記事ではチャドの問題や周辺国との関係性などを中心に見ていく。

5期目の当選を果たした2016年の宣誓式におけるチャドのイドリス・デビ元大統領(写真:Paul Kagame / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
チャドの歴史的背景
アフリカ大陸中央部に位置する内陸国であるチャドは、リビア、スーダン、ニジェール、ナイジェリア、カメルーン、中央アフリカ共和国と隣接し、人口は約1,700万人である。現在のチャドの領域とその周辺には古くから様々な民族や政治組織が形成された。それに加え、7世紀頃からは他の地域からアラビア語を話す人々などの流入も多く見られた。それに伴いイスラム教も持ち込まれた。こうした動きから、この地域一帯に住む人々のアイデンティティは流動的になっている。9世紀頃からはカネム・ボルヌ帝国、バギルミ王国、ワダイ王国などのイスラム教国家が誕生し覇権が争われた。19世紀になるとスーダンからの武装勢力が侵攻し支配権が奪われるも、その後すぐこの地域に侵攻してきたフランス軍と衝突し支配権はフランスに移った。この時フランスの勢力と共にキリスト教の信仰も持ち込まれ、現在では北部や中部にはイスラム教徒、南部にはキリスト教徒が多く住んでいる。
チャドがフランスからの独立を果たしたのは1960年で、初代大統領に就任したのは南部のキリスト教徒のフランソワ・トンバルバイエだった。しかし、チャドが独立を果たした後もフランスは政権の「支援」という名目で、フランスの利益に繋がる政権への影響を及ぼし続けていた。その後強権的な政権およびフランスの関与に抵抗するために様々な勢力が生まれた。1960年代半ばにはチャド民族解放戦線(Frolinat)とチャド民族戦線(FNT)が設立されたがトンバルバイエ政府の要請もあり、これらの勢力を抑圧する目的でフランスの介入を許した。独裁的な政治を行ったトンバルバイエ大統領は1975年にクーデターで倒され、その後、中央政府も崩壊することとなった。
その中からもともと反政府勢力を率いていたヒセーヌ・ハブレ氏が台頭し、フランスやアメリカの支援のもとで大統領に就任した。また、1970年代からはムアンマル・アル=カダフィ率いるリビアと激しく対立した。対立のきっかけはリビアがFrolinatを支援したことだったが、リビアによるチャド北部への侵攻によりチャド、リビア両国間の対立は一層強まった。中でも、リビアとの国境地帯であるアオゾウ地帯は資源が埋蔵していることから1973年以来約20年にも渡ってリビアに占領されていた。これらのリビアの攻撃に対抗するためにフランス軍も介入した。このチャドとリビアの紛争の後期には戦場で機関銃などが搭載されたトヨタ製の自動車が主要な武器として使用されたことから、「トヨタ戦争」とも呼ばれている。
フランスやアメリカの支援により誕生したハブレ政権は、自らに敵対する勢力や政権を批判した人々を残忍な方法で殺害したり、「民族浄化」を掲げ大規模な虐殺を行ったりし、4万人の命を奪った。そのような中で、チャドの軍隊で活躍していたイドリス・デビ氏がハブレ政権打倒を目指し1989年に反乱を起こした。ハブレ政権がアメリカとの関係を深めることで自国の影響力が低下することを恐れたフランス、スーダン、リビアの3カ国の後押しも受け、1990年にデビ氏は首都ンジャメナに軍を進めた。
政治状況
デビ大統領はザガワ民族の出身である。デビ大統領の前のハブレ大統領の政権では軍事顧問として軍の指揮を執った経験もある。ハブレ政権を倒し、デビ大統領が政権を握ることに対しては反対運動も生じ、1991年と1992年にはハブレ派を中心とした勢力によるクーデター未遂も発生した。そういった勢力を抑え1993年に大統領の座に就任したデビ大統領は就任当初、多党制民主主義をとることを国民に約束した。1996年には新憲法を制定し、チャドで初めてとなる多党制下での大統領選挙を行った。しかし、冒頭にも述べたデビ大統領による30年の長期政権は多党制民主主義から程遠いものだった。選挙前には野党の有力候補の逮捕や失踪が起きており、こういったデビ政権の動きに対して野党が選挙をボイコットした結果、実質的には多党制が機能しないまま選挙が行われていた。
また、デビ大統領は自らの政治基盤を固めるために同じ民族アイデンティティを持つ人々を優先的に政府や軍に取り入れていった。軍隊については当初から軍の将校や精鋭部隊のメンバーにデビ大統領と同じザガワ人を多く採用し、また、2003年から2004年にかけて内閣改造を頻繁に行い、自身の家族や他のザガワ人を権力の中枢に置いた。2018年4月には大統領の権限を拡大する内容の新憲法が議会で承認された。これにより首相のポストも廃止され、デビ大統領による独裁的な動きがさらに強まった。
また、フランスとの関係も継続された。デビ大統領が大統領の任期を2期までとしていた憲法に変更を加え、憲法改定後に再選を果たした2005年には、選挙から1ヶ月後にフランスを訪問した。フランスからは、チャドへの軍の派遣による後方支援といった直接的なものだけでなく、軍事面での訓練や技術に関する助言といった支援も行っている。軍事面以外にも、フランスはチャドに対して開発援助等も行っており、互いに重要なパートナーという位置にある。この関係はフランソワ・オランド前大統領からエマニュエル・マクロン大統領に政権が移行した後も変わっていない。
デビ大統領の戦死後、デビ大統領の息子が暫定大統領となり政府並びに議会を解散させたが、18ヶ月後には自由で民主的な選挙を行うことを約束している。

チャドの国会議事堂(写真:Ken Doerr / Flickr [CC BY 2.0])
チャドをとりまく経済状況
デビ大統領による独裁的な政治および国際関係はチャドの経済にも影響を及ぼしている。軍事力に重きを置くデビ大統領は国家予算の40~50%を国防安全保障費に充ててきた。世界銀行や国際通貨基金(IMF)の融資や協力の下、2003年に石油産出国となるも経済発展に結びついているとは言い難い。
これには大きく2つの要因が考えられる。まず1つはデビ大統領を始めとする政府の腐敗や横領の問題である。世界銀行は融資に先駆けて、石油産出で得た収入をチャドの抱える貧困問題の解決や教育、保健・社会サービス、農村開発、インフラ、学校の5つの優先分野に充てるための法整備を促した。そこで政府は歳入管理法の制定や政府と市民による石油収入監視委員会の設立を行った。しかしこういった法律や委員会などによる監視や規制は、石油産出に伴い得られる収入全てに対して行われるわけではない。歳入管理法で規制されるのは石油会社からチャド政府への配当金などの直接的な収入に限るため、実際に石油の採掘を行う企業が支払う法人税や輸出にかかる関税といった間接的な収入は財務省の口座に送金され、政府が自由に使用できる。また監視委員会についてもそもそもメンバー選定の段階で政府の介入があり、仮に腐敗や汚職を発見したとしてもそれらを正当に取り締まるべき司法がしっかりと機能していないという問題がある。
2つ目の要因としては、外部アクターの問題がある。石油開発にあたってはチャド政府に替わり、資本と技術を持った外資系石油会社が中心となって採掘の段階から国際市場における売買までを行っている。この外部アクターの存在によりチャドが得られる利益は限られており、残りの富は外資系企業によって国外に持ち出されている。外資系企業とチャド政府との間で交された契約に関しては非公開の部分も多いが、チャドが石油から得られるロイヤリティ(※1)は12.5%とされており、これは他のアフリカの産油国よりも低い。これにはチャドで産出される石油が低品質であることも影響しており、国際市場では割引価格で売買されている現状もある。また2006年や2016年などにはチャドでの石油事業に参入しているアメリカとマレーシアの石油会社による脱税の疑いもあった。

コメにある石油処理施設(写真:Ken Doerr / Flickr [CC BY 2.0])
産業面に加え、通貨の問題も経済に影響を及ぼしている。現在チャドで用いられているのはアフリカ金融共同体フラン(CFAフラン)という通貨で、1945年にフランスが植民地として支配していたアフリカの国々に共通通貨として導入したものである。CFAフランによる問題としては固定相場制であることがあげられる。CFAフランはフランスフランとの間に一定のレートを有しており、フランスの通貨がユーロに替わった今もなおユーロとの固定相場制のままである。そのためユーロ高の影響がそのまま反映され、CFAフランを使用する国々は輸出競争などで不利になる。また、外貨準備の問題もある。CFAフランを導入している国は外貨準備金の50%をフランスの中央銀行に預金しなくてはならない。フランスがこういった権限を所持することにより、チャドは現在においてもフランスによる植民地制度から完全に抜け出しきれてない状態にある。
現在、チャドの国内総生産(GDP)の3分の1は石油輸出による収入が占めている。石油の産出は経済の発展や貧困などの解決への一歩とされるはずだったが、チャドでは未だに貧困の問題が深刻で、世界の最貧国5ヵ国中の1ヵ国である。また、国連開発計画(UNDP)が発表した2020年における健康・教育・所得の3つの観点から測る人間開発指数では189ヵ国中187位であることからもチャドの抱える経済面での課題の大きさが窺える。

チャド東部の難民キャンプ(写真:Reclaiming The Future / Flickr [CC BY-NC 2.0])
反政府勢力との戦い
デビ大統領が大統領の座についたきっかけも前ハブレ政権への反政府運動だったが、就任後はデビ大統領自身も数々の反政府勢力との対立に直面した。反政府勢力の中には国外を拠点とする勢力が多い。このメリットとしては、敵対する政府からの影響を受けにくいことに加え、拠点とする国の政府からの支援や保護を得られる場合もある。サハラ砂漠にあるティベスティ地域を拠点とし、元国防大臣のユーセフ・トゴイミ氏を筆頭とするチャド民主正義運動(MDJT)はデビ政権打倒を目的とし、1998年にチャド北部で反乱を開始した。2002年1月にチャド政府との間で和平合意が締結されるもMDJT内の停戦反対派が戦闘を継続したため、2003年に再び政府との間で和平合意が結ばれた。2002年9月には結成時からの指導者であったトゴイミ氏が亡くなったこともありその後内部分裂が生じた。デビ政権下の反政府勢力として最大規模だったのは、マハマト・ヌーリ氏率いる民主主義と開発のための勢力連合(UFDD)である。スーダンのダルフール地方を拠点とするこの勢力はデビ大統領の追放を目的として、2006年と2008年に大規模な反乱を起こした。特に2008年の反乱ではUFDDはチャドの首都であるンジャメナ市内にまで侵攻した。UFDDが大統領府に迫り、一時は転覆しそうになったデビ政権であるがフランス軍の支援を得ることで難を逃れた。この反乱に際して、チャド政府はスーダンが反政府勢力を支持しているとしてスーダンとの国交を断絶した。
2009年には8つの反政府勢力が集結して勢力連合(UFR)を結成し、デビ政権を打倒することを狙って2月にリビアからチャドに侵攻した。また、2016年にはUFDDが分裂しチャド変革協調戦線(FACT)が誕生した。リビアを拠点にデビ政権の打倒を掲げる両勢力の共通点として、構成員の中にデビ大統領と出身が同じザガワ人が多くいるという点があげられる。ザガワ人が反政府勢力に多く加わるようになった背景の1つにデビ大統領への権力の集中がある。デビ大統領は政治基盤の安定化を図り一族やザガワ人を軍や政府の重要なポストに就けたが、それにより彼らの中には次なる大統領への期待を持っていた者もいた。そうした人々にとってはデビ大統領が自らの任期延長のために憲法改定を行ったことが反政府勢力活動へ転換する1つの契機となった。こうしたデビ大統領の周辺人物の離脱の動きがザガワ全体にも影響している。また、一族やザガワ人が主力として活動しているUFRがチャド北部に侵入した際にはデビ大統領が反撃に消極的だったこともあってかフランス軍の介入の動きが強まった。

撃墜されたチャドの戦闘ヘリ(写真:David Axe / Flickr [CC BY-NC 2.0])
周辺国との関係
チャドには上記以外にも複数の反政府勢力が存在し、その多くがリビアやスーダンを拠点に活動している。そのため、リビアやスーダン政府やリビアやスーダンにある他の勢力との繋がりを完全に否定することは出来ない。また同時に、チャドの政府軍に関しても、重要なポストに就く軍人の多くはチャド北部の出身でリビアやスーダンの反政府運動との繋がりがあり、反政府勢力の動きは一国内では完結しない複雑な問題である。チャドの置かれている現状をより俯瞰的に理解するためにもこれらの周辺国との関係を探っていく。
2003年、スーダンのダルフール地方で武力紛争が始まり、徐々にエスカレートしたためチャドは多くの難民を受け入れた。2005年にはスーダンからの難民は約20万人にものぼった。またこうした人の流れを追って、スーダン政府がスーダンの反政府勢力や難民キャンプを狙いチャドへ攻撃を行ったためチャドもそれに応じ戦闘が行われた。その中でチャドとスーダンの両政府は互いに相手国の反政府勢力を支援していると非難し合い、関係がより悪化していった。こういった背景もありチャドとスーダンとの関係は複雑化していたため、互いに国境を越える紛争を停止する合意や対立関係を解消する協定による歩み寄りと敵対の姿勢を繰り返した。その後、2010年にデビ大統領とスーダンのオマル・アル=バシール大統領が会談し、両国の国交は回復した。しかし、ダルフールでは今もなお暴力が増加しており、チャドに避難してくる難民は後を絶たない。
リビアとの関係も深い。前述のとおりチャドはカダフィ政権下のリビアと長らく対立していた。カダフィ政権が崩壊した2011年以降リビアでは中央政府が確立されず、国家として安定していない状況下にある。それを契機としてチャドやスーダンの反政府勢力が定期的にリビアに渡り、それぞれの政府に敵対するリビアの勢力からの支援を得ようとしている。デビ大統領の命を奪ったFACTもそのひとつだった。

The Africa ReportとOCHAのデータを元に作成
隣国ナイジェリアでの紛争もチャドに波及した。ナイジェリアを拠点とする過激派組織の1つであるボコ・ハラムはチャド国内にも侵攻し、テロ行為などを行ってきた。加えて、チャドの反政府勢力が隣国を拠点にしていたのと同じように、中央アフリカ共和国の反政府勢力もチャドを拠点にしていた。そうした中で、クーデター後の中央アフリカ共和国の安定化を支援する名目で、2013年にはチャド軍が中央アフリカ共和国東部に駐留した。
このようにチャド周辺では様々な勢力が越境し互いに影響を及ぼし合っている。そうしたことからこれらの紛争は、国家という単位だけでは理解することができず、「内戦」という言葉もふさわしくない。また、周辺国からの影響が及びやすく互いの連携が必要とされる場面も多い。国連平和維持活動(PKO)の国連中央アフリカ共和国チャド・ミッション(MINURCAT)もその1つである。MINURCATではダルフールでの紛争の影響を受けるスーダン隣国のチャド、中央アフリカ共和国において難民の保護や支援を目的としたが、これは4年で撤退しチャドが引き継いだ。
自国のみならず周辺国での紛争も経験してきているためからか、チャド国軍は強いという評価がされており、チャド国外にも軍隊が派遣されている。国外へのチャド国軍の派遣の1つに中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)の活動がある。2013年にクーデターにより政府が転覆した中央アフリカ共和国に対して介入したECCASのミッションは主にチャドによって担われていた。ECCASのこの活動はアフリカ連合(AU)に引き継がれたが、後に、チャドの参加が状況の不安定化につながっていると批判され、翌年に撤退した。各国のボコ・ハラムとの戦いに際してもチャドは自国の軍隊を周辺国に派遣している。ナイジェリアを拠点としていたこの勢力に対しては、同じく被害を受けていたナイジェリア、ニジェールと連携し、チャド軍が主導的な役割を担った。またマリで生じた反政府勢力との抗争や軍事クーデターによる混乱は隣国のニジェールやブルキナファソにも拡大しており、サヘル地域(※2)への脅威が高まっていることから、チャドは2021年初めにこれら3カ国の国境地帯に1,200人の兵士を送ることを約束した。

ニジェールで訓練中のチャド軍兵士(写真:US Africa Command / Flickr [CC BY 2.0])
この地域にこだわり続けるフランス・アメリカ
強力な軍事力を誇るチャドの軍隊は、アフリカから離れたフランスやアメリカにとっても有益となっている。特にフランスは19世紀末以降、独立を果たした後も様々に形を変えながらチャドへの関与を継続してきた。ハブレ政権やデビ政権での反政府勢力との戦いへの支援や、リビアによりチャド北部が攻撃された際のチャド軍の支援など軍事的介入も多く行われた。
同様にチャドもフランスへの軍事支援を行ってきた。2013年にフランスがマリ北部から反政府勢力を撤退させる際の支援や、2014年にサヘル地域で過激派勢力を抑えるための軍事作戦を開始したときには、チャドも参加した。こういった過激派勢力との戦いにおける連携を図るため西サヘルのフランス語圏であるモーリタニア、マリ、ブルキナファソ、ニジェール、チャドの5カ国は2014年にG5サヘルを設立し、フランスもG5サヘルの合同軍と共同で軍事活動を行っている。
首都ンジャメナ近郊に空軍基地を構え、約5,000人がサヘル地域での活動を行っているフランス軍にとってチャドはアフリカ大陸における重要な戦略拠点である。それと同時に、政権が安定しないリビアの情勢を注視する上でもチャドはフランスにとって重要な拠点であるといえる。経済的な観点では、チャド周辺諸国の持つ天然資源や市場に容易にアクセスできるという利益もある。前述のCFAフランもフランスにとっては経済的利益の1つである。フランスにとって、チャドとの密接な関係を保ち、影響力を及ぼすことで、チャドのみならず、地域での軍事的、経済的な利益を確保することができるという思惑がある。

対過激派勢力の軍事作戦を前に旗揚げを行うフランス軍とチャド軍(写真:U.S. Army Southern European Task Forc / Flickr [CC BY 2.0])
アメリカにとってもチャドは過激派勢力対策における重要なパートナー国であり、ハブレ元大統領が大統領の座に就くときやリビアがチャドに侵攻してきたとき、サヘル地域での軍事強化の場面等でフランスと共にデビ政権を支援してきた。リビアをテロ支援国家としてみなしていたアメリカにとってもチャドは重要な位置づけにある。加えて石油事業に対する期待もある。中国に次ぐエネルギー消費国であるアメリカは新たな石油供給源を求めてアフリカでの開発を推し進めようとしており、チャドの石油開発でもアメリカの大手石油会社が中心的に携わった。
まとめ
反政府勢力との戦闘中にデビ大統領が亡くなったことが発表された直後、フランスのマクロン大統領はチャドを訪れ、追悼の意を表した。葬儀への列席のみならず、民主主義に反した形で暫定大統領の座に就任したデビ大統領の息子の政権を支持する立場の表明には、民主主義よりもチャドとの関係性の現状維持を重要視する姿勢や変わらぬ干渉の意図が窺える。
憲法に違反した大統領の就任に対しては軍内部からの批判の声もある。チャドにおける30年続いた長期政権が終わりを告げたが、18ヶ月後に約束された選挙を控えた今は「移行期」と呼べるものになるのだろうか。選挙を経てチャドは民主主義へと向かうのか、現状維持のまま進められるのか。チャドのこれから、そしてサヘル地域のこれからが注目される。
※1 特定の地域で採掘する権利を得て、採掘した鉱物を商品として国外で販売することができる代わりに、鉱山保有国に支払う鉱山使用税。
※2 サハラ砂漠の南縁で、西はセネガルから東はエリトリアまでのアフリカ大陸を東西に横断する半乾燥地域を指す。
ライター:Rioka Tateishi
グラフィック:Takumi Kuriyama