「恐怖のキャンペーンが激化している」。これは、2020年8月に10の国際人権団体がスリランカ政府の動きに対して発表した共同声明の一部である。政府による「恐怖のキャンペーン」のターゲットとなっているのは弁護士や人権擁護活動家、ジャーナリストであり、彼らに対する脅迫や逮捕などが増加しているのだ。なかでも、ジャーナリストに対する暴力や脅迫は2019年以降急増しており、民主主義の根幹が揺らいでいる。
実のところ、スリランカの近代史においては常に報道の自由の抑圧が問題となってきた。しかし、近年その危機感がさらに高まっている。当記事では、長い間抑圧されてきたスリランカにおける報道の自由の歴史を振り返るとともに、現在どのような危機に陥っているのかを見ていく。
スリランカの歴史:植民地支配と紛争
スリランカは、主に仏教を信仰する多数派のシンハラ人、主にヒンドゥー教を信仰するタミル人、他にスリランカ・ムーア人などが住む多民族国家である。シンハラ人は北インド、タミル人は南インドにルーツを持つとされ、隣国インドとの関係が深い。大航海時代のポルトガル、オランダによる植民地支配を経て1802年以降はイギリスの植民地支配を受けていたが、その後1948年にイギリス連邦内自治領として独立、1972年には自治領からも完全独立を果たした。しかしこの約150年に及んだイギリスによる支配は、少数派であるタミル人を官吏に重用してシンハラ人を統治させるといった分割統治(※1)であり、確執が生じる原因となった。

Vemaps.comの地図を基に作成
スリランカにおける民族間の確執がさらに深まった原因には、イギリス連邦内の自治領として独立した後、1956年の選挙でシンハラ人を優遇する政策を掲げたソロモン・バンダラナイケ氏が首相に就任し、一部のタミル人が反発した出来事がある。自治の開始に伴って多数派であるシンハラ人に権力が移っていった。以降、差別的な政策に反発した人々などによる暴動が頻発し、一部の過激化したタミル人らが反政府勢力「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」を結成しスリランカ北部・東部の独立を要求、1983年には本格的な紛争へと発展した。
紛争が激化した1980年代後半は、スリランカ政府、LTTEそれぞれとジャーナリストとの確執も深まっていた。1980年代には政府の権威主義的な政治体制が確立し、強いメディア統制が敷かれた。一方で、LTTEの支配下でもLTTEに批判的な報道を行ったジャーナリストが脅迫や暴行を受けるなど、報道への圧力が常にかかっていた。このようなジャーナリストの抑圧の背景には、戦時下における情報が集団の士気に影響を及ぼし、自集団の士気を上げ、逆に相手の士気を下げるなどの効果があることが考えられる。また、自身の政権や地位を確立・強化する手段としての情報統制の意味もあってか、スリランカ全土で報道の自由が奪われていた。
2005年から2015年:報道の自由の「暗い10年」
度重なる和平交渉の甲斐なく紛争が続く2005年、スリランカ自由党に所属していたマヒンダ・ラジャパクサ氏が大統領に就任し、兄のゴダバヤ・ラジャパクサ氏が国防長官に就任した。マヒンダ・ラジャパクサ氏は選挙中からLTTEへの強硬的な姿勢を掲げ、権威主義体制はさらに強まった。それに伴い、2005年以降ジャーナリストに対する暴力や脅迫、一部インターネットの遮断を含む各種メディアへの妨害がさらに増加した。
マヒンダ・ラジャパクサ政権での大きな出来事としては、2009年に約30年続いた紛争の終結を宣言したことが挙げられる。しかしこれは和平合意によるものではなく、LTTEを壊滅させたことによる終結であった。さらに、終結によって紛争の全てが解決したわけではなく、紛争終結に至るまでに政府が戦争犯罪や人権侵害に関わったなどの様々な疑惑がある。スリランカ政府は民間人の犠牲者ゼロを謳っていたにも拘らず、政府の残忍な攻撃による民間人の死が相次いで明らかとなった。特に終結直前にはLTTEによる民間人を盾とした作戦もあって、多くの民間人が犠牲となり、民間人を含む死者数は紛争期間全体を通して8万人から10万人にも及んだとされる。
ジャーナリストも様々な攻撃の標的となってきた。前述したLTTE支配下での脅威に加え、政府側からの攻撃として特に悪名高い作戦としては「ホワイト・バン・コマンド」が知られている。これは、政府に批判的なジャーナリストや活動家らが路上で突然白いバンに誘拐され、殺害されるというものであり、少なくとも66人がその被害に遭った。この作戦にはゴダバヤ・ラジャパクサ国防長官が関わっていたとされる。他にも、2009年には国防長官の汚職疑惑の証拠をつかんだとされる週刊新聞の編集者が殺害される事件が発生している。紛争の終結が宣言された後もジャーナリストは標的となり続け、翌2010年の大統領選挙前にはラジャパクサ兄弟に批判的なメディアが様々な脅迫を受けた。

大統領時代のマヒンダ・ラジャパクサ氏(写真:Mahinda Rajapaksa / Flickr [CC BY-NC 2.0])
2015年から2019年:僅かに見えた明るい兆し
ラジャパクサ兄弟の権威主義的な体制によって暗雲の立ち込めていたスリランカだが、紛争が終結すると治安も若干の改善が見られた。さらに、2015年の大統領選挙で当時の与党から離脱し野党の党員として立候補したマイトリーパーラ・シリセーナ氏が勝利したことで、状況は一層改善傾向にあった。シリーセナ氏は、これまで政治的に敵対してきたラニル・ウィクラマシンハ氏を首相に迎え、これまでにない政治体制を取り、ラジャパクサ政権で強められていた大統領の権限を手放した。またシリセーナ政権下では、これまで抑圧されてきた報道の自由を取り戻すことも掲げられた。憲法改正によって情報へのアクセス権を国民の権利として認め、前政権で行っていたニュースサイトの遮断解除などメディア統制の緩和を図った。さらに、前政権で行われてきたジャーナリストの恣意的な逮捕や失踪を調査する独立委員会が設立され、過去の事件の真相究明にもあたった。

スリランカの新聞(写真:Denish C / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
しかし、明るい兆しも長くは続かなかった。シリセーナ大統領が一度は離党した前政権の与党スリランカ自由党の党首を引き継いだことで、前政権のメンバーが内閣に加わりシリセーナ政権内で影響力を持つようになった。さらに、債務危機に陥ったスリランカでは経済が低迷して政治的緊張も高まり、シリセーナ氏は次第に求心力を失っていった。こうした政権の混乱もあってか、2017年頃から再び一部のインターネットが遮断され、前述した調査委員会も殆ど機能しないままシリセーナ政権は終わりを迎える。
2019年以降:ラジャパクサ兄弟タッグ、再び
シリセーナ政権下で取り戻されるかのように思われた報道の自由であったが、2018年10月以降再び差し迫った脅威にさらされることになる。マヒンダ・ラジャパクサ氏が一時的に首相に就任し政権に戻ってきたのだ(※2)。マヒンダ・ラジャパクサ氏の首相就任の直後から複数のメディアが彼の支持者らに乗っ取られた。その後2019年11月の大統領選挙で兄ゴダバヤ・ラジャパクサ氏が大統領に、マヒンダ・ラジャパクサ氏は首相に就任した。ゴダバヤ・ラジャパクサ大統領は紛争下で戦争犯罪に関与したとされる人物を次々と政府高官に任命した。ラジャパクサ兄弟の政権奪還に伴って、ジャーナリストに対する暴力や脅迫の急増も報告され、報道の自由の制限は日に増し厳しくなっていった。
さらに、ゴダバヤ・ラジャパクサ政権では、マヒンダ・ラジャパクサ政権での悪事の数々を闇に葬る動きを見せている。2020年にはマヒンダ・ラジャパクサ政権下の殺害・失踪事件を捜査していた警察高官らが国外追放等の形で排除され、スリランカ軍の攻撃による被害者の賠償と説明責任を行うとした2015年の国連人権理事会での決議の共同提案を撤回することを表明した。2015年まで続いた「暗い10年」の悪夢が再びスリランカを襲っている。

ジャーナリストへの暴力に抗議する人々(写真:Vikalpa | Groundviews | CPA from Sri Lanka / Wikimedia Commons [CC BY 2.0])
「免責の文化」と報道
報道の自由の問題がスリランカにおいて深刻な理由の一つとして、長年の抑圧のなかで政権のトップだけではなく末端レベルまで浸透する「免責の文化」が指摘される。スリランカでは国家権力による直接的な脅迫や暴力だけではなく、「身元不明」の人間にジャーナリストや活動家らが攻撃され、そのうえ加害者らが捜査・訴追されないケースが多くある。実際、2008年から2014年まで7年間、スリランカはジャーナリスト保護委員会(CPJ)が定める各国の人口に占める「ジャーナリストの殺人の未解決件数」の割合の多い国の中で、常にトップ10にランクインしていた。
このように「免責の文化」が受け継がれてきたスリランカでは、近年さらにこの悪しき文化を継承する動きが起こっている。2020年10月に国会を通過した第20次憲法改定では、シリセーナ政権で一時は弱められた大統領の権限が再び強められた。この改定によって、大統領は裁判所や警察人事にも強い権限を持つようになり、司法や警察行政においても「免責の文化」が深く根付きつつある。
「免責の文化」が残る限り、自分の発信した言論が原因で脅迫や暴力といった被害に遭っても公権力による救済がないという絶望がついて回り、また報復や脅迫の恐怖にさらされ被害の正確な数を把握することは困難であろう。政府に批判的な言論をすれば不特定多数の人間にターゲットにされ、それらが適切に取り締まられないという現実は、ジャーナリストやメディアに対して自己検閲という選択を強要しているともいえる。
インターネットと報道
先述のように、スリランカでは紛争下で多くのメディアが脅迫や暴力の恐怖にさらされてきた。こうした中、政府の関わる人権侵害や戦争犯罪に関する多くの報道は息をひそめた。一方で、圧政に反抗するジャーナリストらはインターネットを舞台に情報発信を行い始めた。政府による情報統制や主要メディアの形骸化のなかで市民も正確な情報を得ようとインターネット上で情報を共有・拡散し、意見を表明して活発な議論を行った。2014年に起きた一部の過激化した仏教徒による暴動(※3)では、国内の主要メディアが詳細を報道しないなか、独立のジャーナリストが現地取材の成果をフェイスブックやツイッターで発信し、市民がそれを拡散した。暴動に対する警察の不作為や政府と過激なナショナリズムを掲げる組織との関係がインターネット上で露呈し、政府への批判が大っぴらにされたことで少なからず世論も影響を受けたと考えられている。
また、2015年の選挙は「サイバー選挙」とも呼ばれ、インターネット上で情報のやり取りが広く行われた。各候補者が選挙にあわせてSNSでキャンペーンを行い、ジャーナリストや有権者らは進んでインターネット上で情報の収集と発信を行い、無検閲な状態の情報や意見が広まった。こうした新たな情報の経路によって、それまでラジャパクサ兄弟を支持していた有権者層が離れていったことも、シリセーナ氏が選挙に勝利した要因の1つと考えられる。
当然、ゴダバヤ・ラジャパクサ政権はインターネット上の批判的な情報を野放しにしているわけではない。政府によるインターネット上のメディア規制は紛争中の2007年に初めて確認されており、これはタミル語によるニュースや意見を発信するサイトであった。また、政府はソーシャルメディアを「国家安全保障に対する脅威」とみなしたこともある。2021年1月にはスリランカ報道評議会法(※4)を改定し、報道評議会法の対象に電子媒体など新しいメディアも含めた。また、2019年に大規模なテロが起きた際には、SNSに広範な規制がかけられた。スリランカ政府はこの規制の目的を虚偽の情報が拡散するのを防ぐためとしているが、規制には賛否両論がある。さらに2019年大統領選挙の後には、オンラインでの発言を理由とした脅迫や逮捕者が増加している。インターネット上での報道にも苦難の道が待ち受けているようだ。

スリランカの最大都市コロンボ(写真:Nazly Ahmed / Flickr [CC BY-NC-SA 2.0])
まとめ
ここまで、スリランカにおける報道の自由の歴史と近年の状況を見てきた。インターネットの普及によってスリランカの報道は新たな局面を迎えていることに触れたが、当然インターネットが良い面だけを持つのではない。フェイクニュースや分極化・過激化、誹謗中傷、市民の体を装った権力者による恣意的な操作など、様々な懸念がインターネット上には存在する。実際、スリランカでもフェイスブックを介した暴力の扇動が指摘されている。暴力や犯罪の扇動を防ぐことと言論の自由を保障することの両立は非常に繊細で慎重に行わなければならない作業であり、プラットフォームを提供する企業の責任も問われる。それでも、報道の自由が抑圧されるなかでジャーナリストと市民をつなぐ希望となり得るのではないだろうか。
しかし根本的に報道の自由が保障されるためには、立法やその履行といった政府による行動が不可欠となる。そして、政府の行動を促すには国外から厳しい監視の目を向けることが求められる。なぜなら、既に民主主義の根幹とも言える報道の自由が揺らいでいるスリランカでは、市民の努力のみによってこれを取り返すことは至難の業であるからだ。報道の自由を奪うような政府の行動は許さないという他国からの圧力が重要となるだろう。2021年1月には、スリランカ政府はシリセーナ政権で行っていた調査委員会に代わる新たな調査委員会を設置すると発表したが、近年の動向を考慮すると、これらが実質的に機能するとは考えにくい。スリランカ政府が主体となって報道の自由を保護する更なる施策をとるように、厳しく監視し、必要があれば批判し、スリランカにおける報道の自由の抑圧を黙認しない他国の積極的な姿勢が求められる。
※1:分割統治とは、支配者が被支配者を民族や宗教、地理的要素によって分割して統治すること。被支配者同士の対立を煽ることで、被支配者同士の団結や支配者が矢面に立つことを避け、統治を容易にする狙いがあるとされる。
※2:この首相交代は、シリセーナ大統領が権力抗争のなかで関係が悪化していたウィクラマシンハ首相を解任し、マヒンダ・ラジャパクサ氏を任命する形で行われた。この任命には、シリセーナ大統領選再選への支持をマヒンダ・ラジャパクサ氏に求める目的があったとも考えられている。しかし、大統領による首相の解任はシリセーナ政権下の政策の一環で手放した権限であるとウィクラマシンハ首相は指摘し辞任を拒否した。その後裁判所がこの首相交代は違憲であると判決したことによって、ウィクラマシンハ氏の首相としての地位が改めて認められた。その後の大統領選挙では、マヒンダ・ラジャパクサ氏はシリセーナ氏ではなく兄のゴダバヤ・ラジャパクサ氏を大統領候補として支援した。ゴダバヤ・ラジャパクサ氏は、マヒンダ・ラジャパクサ氏の支援に加えて、経済低迷や治安の悪化によりシリセーナ氏への不満が高まる世論の後押しも受け、当選を果たした。
※3:2014年6月、強硬派の仏教団体であるボドゥ・バラ・セナ(BBS)に扇動され過激化した一部の仏教徒らが、イスラム教徒を標的に一斉に攻撃を行い、多数の負傷者や死者を出した。一連の暴動では、警察の不作為やゴダバヤ氏とBBSとのつながりが指摘された。反政府活動家らは、政府がBBSらの暴力に目をつぶることで多数派である仏教徒の票を獲得する狙いがあったと主張している。
※4:報道評議会法は、倫理規定など様々な制限をメディアに課し、報道評議会が違法な報道をしていないかなどをチェックするメディアの裁判所として機能するように定めるものであり、報道の自由を奪っているという指摘 もある。
ライター:Yumi Ariyoshi
グラフィック:Yumi Ariyoshi