2023年3月で、アメリカ主導のイラク侵攻開始から20年を迎えた。アメリカのジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領が、イラクのサダム・フセイン政権の大量破壊兵器保持という虚偽を口実として、イラクへの攻撃を開始した。アメリカ主導の多国籍軍によってフセイン政権は倒された。
2011年に米軍が撤退し、戦争の終結が宣言された。その後も、戦争によって政治体制やインフラが機能不全に陥っていたイラクは、安定せず、イスラム国(IS)の登場で再び大規模な武力紛争が発生した。そんなイラクだが、2023年現在は2003年以降最も安定していると言われているが、その一方で局地的な紛争や、政治や経済などにおける課題も多い。現在イラクはどのような状態にあるのか?歴史・政治・社会・対外関係の観点から、イラクの今を見ていこう。

イラクの首都バグダッド(写真:MohammadHuzam / Wikimedia Commons [CC BY-SA 4.0 DEED])
イラクの歴史
イラクは、面積約43.8万平方キロメートル、人口約3,965万人の中東に位置する国である。多様な文化、言語、民族的背景を持つ人が暮らしている。人口の約6割がイスラム教シーア派アラブ人、約2割がイスラム教スンナ派アラブ人、約2割がクルド人、その他トルクメン人やアッシリア人などのアイデンティティを持つ人で構成されている。言語はアラビア語、クルド語共に公用語であり、イスラム教徒だけでなくキリスト教徒なども混在する。
この地域では、古代に世界最古とされる文明であるメソポタミア文明が誕生した。8世紀、現在のイラクの首都であるバグダッドは、アッバース朝の首都となり、以来イラクの古都として栄えた。その後16世紀以降はオスマン帝国領となり、第一次世界大戦後はイギリスの委任統治領となった。1932年にイラク王国として独立したが、1958年のイラク革命により王政が崩壊し、イラク共和国となった。1968年、アフマド・ハサン・アル・バクル将軍により、バアス党政権が樹立される。バアス党は、アラブ社会主義国家の形成を主張する汎アラブ主義(※1)政党で、シリアやイラクを中心に活動する。
そしてバクル氏の辞任後、1979年、サダム・フセイン氏が大統領に就任した。彼はバクル政権下で、革命指導協議会の書記兼副議長を務めており、大統領と並んで実質的にイラクを支配していた。バクル氏の辞任後、大統領に就任し、革命評議会議長、首相も兼任した。彼は国内では大規模な秘密警察組織によって反対勢力を抑圧し、対外的には好戦的な姿勢を取った。1980年にはイラン革命後のイラン政権との対立を背景に、イランへの侵攻を開始し、このイラン・イラク戦争は1988年まで膠着状態が続いた。
1990年には、石油資源の所有をめぐる対立から、クウェートに侵攻した。イラク軍の撤退を求める国際連合の安全保障理事会決議に従わなかった為、1991年アメリカをはじめとする多国籍軍がイラクへの武力行使に踏み切り、湾岸戦争に発展した。敗北したイラクに対し、米英を中心に厳格な経済制裁が科せられ、これにより50万人以上の子どもを含む多くの人々が亡くなり、イラク国内での人道危機が引き起こされた。イラクの大敗は南部のシーア派と北部のクルド人の反乱を引き起こしたが、フセイン氏はこれらの反乱を武力で鎮圧した。数千人が難民となり、100万人 以上のクルド人が周辺地域へ避難し、さらに数千人が拷問・殺害された。湾岸戦争後、多国籍軍によりイラク北部にクルド人の避難所が設置され、クルド人は事実上の自治権を獲得した。これは後のイラクのクルディスタン自治地域の基盤となる。
2001年にアメリカで同時多発テロが起きると、アメリカのブッシュ大統領は、イラクがアメリカでのテロに何らかの形で関与し、大量破壊兵器を製造・保持しているとして、2003年に米・英軍を中心とした連合国軍でイラクに侵攻した。後に、アメリカの侵攻の口実はいずれも虚偽であったことが分かっている。フセイン氏は米軍によって捉えられ、一党独裁体制は崩壊し、その後アメリカ主導のイラク占領が始まった。2004年には占領政権によって、イラク暫定政府が作られた。フセイン氏はその後、2006年にイラクで「人道に対する罪」で有罪判決を受け、処刑された。

サダム・フセイン氏(写真:Matt Buck / Flickr [CC BY-SA 2.0 DEED])
そこでは占領中のアメリカの決断により、バアス党員が公職から追放された。これまでバアス党の一党独裁体制が続いていたイラクでは、主要な人材は全てバアス党に所属していた。バアス党を追放し、治安組織も一斉に解散させたことで、政治的・安全保障上の空白が生まれ、暴力行為が激化し、治安は悪化した。米軍やアメリカの民間軍事会社による占領に対する反発・抵抗が続き、また占領下での拷問や民間軍事会社による虐殺が行われた。これまで独裁政権下で抑え込まれていた宗派を軸とした権力闘争も、治安組織の解体により激化し、2006年から2008年頃にかけてシーア派とスンニ派の宗派対立は紛争状態となった。2003年以降、イランが支援するシーア派の民兵組織が急増した。
2011年に米軍がイラクから撤退し、占領が終了した。2012年にスンナ派官僚関係者が複数人逮捕されたことをきっかけに、シーア派政権への抗議デモが起きた。これを治安部隊が鎮圧に動いたことで、2013年には再び宗派を軸とした権力闘争が激化した。2013年の民間人の死者数は7,157人で、前年の3,238人から倍以上増加した。駐留米軍の撤退と武力紛争による混乱状態を好機とし、かつてアメリカの占領に反対し、米軍と戦っていたスンナ派勢力や元バアス党員らで結成されたイスラム国(IS)がイラクやシリアで台頭し始めた。彼らは、中央政府の信用失墜や弱体化を図るために治安当局を攻撃し、シーア派を標的としたテロを頻発させた。スンナ派地域やクルディスタン地域政府(KRG)への攻撃も行ったISは、シリア北部からイラク中部に至る広大な土地を掌握し、2015年には支配地などの面で最盛期を迎えた。しかしアメリカやロシアを中心にISに対する軍事作戦が本格化すると、支配地や勢力など各面で縮小傾向に転じた。2017年に入ると、イラクの治安部隊やシーア派主体の民兵組織、KRGの治安部隊「ペシュメルガ」などがそれぞれISへの攻勢を強め、同年ISはイラクの支配地域のほぼ全てを喪失した。
政治情勢
ここからは、イラクの現在の政治情勢を見ていく。イラクには全土を代表する政党がなく、南部のシーア派住民を支持基盤とするシーア派政党、中部のスンナ派住民を支持基盤とするスンナ派政党、北部のクルディスタン地域を基盤とするクルド政党に大別される。それぞれの地域で、その地域を支持基盤とする派閥の複数の政党が争う為、結果として多党連立政権が組閣される。また、イラクの選挙制度の下では、すべての民族、宗派の主要政党が政権に参加し、野党を作らない。
この選挙制度は2003年、米軍を中心にイラクの政権の立て直しを図る連合暫定施政当局(CPA)により導入された、ムハササ・タイフィアと呼ばれるものだ。これは元々1992年にバアス党の支配に反対するグループが提案したもので、議員の民族・宗派によって、役職を割り当てる。この制度によってアメリカが2003年にイラク統治評議会を発足させ、2005年の議会選挙以来今日まで用いられてきた。民族・宗派的アイデンティティを政治と関連付けさせるこの制度は、イラク社会の宗派間の分裂を深める原因となった。そして政治エリート間の団結の欠如をもたらし、それが個人の私利私欲による汚職や非効率な政治につながり、外国の内政干渉を助長したと考えられている。
2004年にCPAからイラク暫定政府に統治権限が移譲され、2006年には戦後初めて民主的に選出された政権が発足し、シーア派政党のヌーリ・アル・マリキ氏が首相を2期連続で務めた。2008年にはイラク議会でアメリカとの安全保障協定が承認され、2011年には米軍の撤退が完了した。2014年にはシーア派政党のハイデル・アバディ氏が首相に就任し、スンナ派やクルド人を含む政権を樹立した。2018年にはアディ・アブドゥル・マハディ氏が就任した。2003年以来、政権交代のたびに、政治・経済改革を約束してきたが、効果的な改革はなされないまま、汚職や高い失業率、不十分な公共サービス、アメリカやイランの内政干渉への国民の不満がたまっていた。

ムハンマド・スダニ首相(写真:UNESCO Headquarters Paris / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0 DEED] )
そんな国民の不満が爆発した結果、2019年10月にバグダードとイラク南部で、選挙制度改革を望む抗議活動が起き、イラク広域に広がった。デモ参加者と治安部隊の衝突により、開始から半年で約600人の参加者が死亡し、2万人以上が負傷した。これは2003年以降イラク史上最大の抗議運動となり、当時のアディ・アブドゥル・マハディ首相は辞任した。2020年に新たにムスタファ・アル・カーズィミー首相による政権が発足したが、具体的な改革は見られなかった。最近でも、2021年から約1年間で、約25億米ドルの公的資金が、官僚を通じて実業家に流出する汚職事件が起きている。
また選挙制度とは別に、首相はシーア派政党が擁立するという慣習がある。この慣習は選挙後の組閣交渉において、複数のシーア派政党内での首相擁立権争いをもたらしている。例えば2021年、国民議会選挙にてムクタダ・アル・サドル師率いるシーア派政党連合が第一党になった。サドル師はイラクにおけるイランの影響力に反対し、イランとの深いつながりを持つ他のシーア派指導者とは一線を画す存在だった。彼が他のシーア派政党との関係から政権の樹立に失敗すると、2022年にサドル派の議員が一斉に辞職し、次いでサドル師本人も政界から離脱した。イラクでは2021年から1年近くも首相が不在となり、サドル師の支持者によるデモや政治的空白による混乱状態が続いた。
そして2022年10月、ムハンマド・スダニ首相が新たに就任することで、1年以上の政治的空白は終了した。スダニ首相は、歴代政権と比べ、公共サービス向上への効果的な取り組みを行っているとされている。その一方で選挙制度であるムハササ・タイフィアの改革はなされておらず、汚職撲滅や劣悪な公共サービスの根本的な解決には時間がかかるのか、いまだに進んでいない。
クルディスタン地域
イラクでは人口の約2割をクルド人というアイデンティティを持つ人が占める。クルド人はトルコ、シリア、イラク、イラン、アルメニアの国境をまたぐ地域に約3,000万人が居住していると言われ、中東で4番目に大きな民族集団である。しかし各国では少数派であり、一度も永続的な国家を得たことがなく、差別や弾圧の対象になってきた。そんな中で、イラクはクルド人が唯一、自治を行っているクルディスタン地域政府(KRG)を持つ国である。
まずはKRGの歴史を簡単に見ていく。イラク北部では1960年代以降、クルド人の反政府運動が断続的に続いていた。湾岸戦争後の1991年に、米英等の連合国軍がイラク北部にクルド人保護という名目で、飛行禁止区域を一方的に設定し、北部からイラク軍が撤退した。これがきっかけで、クルド人指導者とその治安部隊ペシュメルガは、イラク北部を実効支配するようになった。その後2003年のアメリカによる侵攻を経て、2005年にはCPAとイラク統治評議会の交渉の末、新たな憲法が制定された。新憲法では連邦制が導入され、クルド人によるクルディスタン地域の自治が認められた。そして2006年にKRGが発足した。
クルディスタン地域の国内での立ち位置は、イラク連邦を構成する一地域という地位にある。KRGの主要政党はクルディスタン民主党(KDP)とクルディスタン愛国同盟(PUK)であり、その他政党を含む連立政権である。これまでKRGは2003年以降のイラク国内の混乱の影響をほとんど受けることなく、石油の輸出から得た資金を活かし、インフラの再建や行政の構築、避難民の受け入れ等の課題に取り組み、経済成長と議会制民主主義を築き上げてきた。さらに独自の治安部隊であるペシュメルガが、イラク軍の関与なく、イラク北部の安全と秩序を保っている。この点においても、クルディスタン地域は、中央政府の実質的な統治はほとんどなされておらず、統治の実態としては、事実上の国家に近い。
KRGが抱える課題はいくつかあるが、まずはイラク中央政府との関係を見ていく。2012年に、KRGとイラク中央政府の両者が領有権を主張する地域で、双方の治安部隊の衝突が起きた。2014年にはISという共通の敵の存在が、中央政府とKRGの関係を一時的に改善させた。しかしISが衰退した2017年に、KRG当局はKRG支配下の地域で独立に関する住民投票を行い、圧倒的な賛成を得た。この投票に強く反対した中央政府は、北部にあるクルド人支配地域に進軍し、イラク軍とクルド人戦闘員の衝突が起きた。2018年以降は交渉の進展により、KRGと中央政府間の緊張は緩和され、強固な協力体制構築に努めている。

クルド人の集会(写真:Levi Clancy / Wikimedia Commons [CC BY-SA 4.0 DEED])
またトルコやイランなど、クルド系組織や勢力を敵対視する国との関係性も課題である。トルコではトルコ共和国建国以来、ナショナリズムの高揚により、非トルコ系のクルド人に対して抑圧的な行動をとっている。これらの国にとって、イラクのクルディスタン地域の影響により、自国のクルド人が独立を目指し、政府に反発することは阻止したい。その狙いから、イランやトルコはイラクのクルディスタン地域に攻撃をしていて、トルコは一部地域に侵攻・占領している。
また地域内部の課題もある。1990年代半ばにクルド勢力の二大政党であるKDPとPUKの間で紛争が起き、それ以降クルディスタン地域は東西に二分され、二政党による分割統治が行われてきた。2023年現在、KDPとPUKの対立が深まっていて、この地域の政治は、1990年代半ばのクルド人同士の紛争以来、最も危機的な状況にある。
経済・社会情勢
イラクは石油資源が経済の大部分を支えているため、世界の石油資源の需要に応じて、経済全体が大きな影響を受ける。石油産業は、過去10年間、イラクの輸出額の99%以上、政府予算の85%を占め、世界で最も石油への依存度が高い国の一つとされている。政府予算は原油価格に左右され、原油価格が上昇すると政府予算も増加し、反対に下落するとその分財政も縮小する。例えば2020年に新型コロナウイルスにより世界の経済が停滞し、石油の需要が激減したことで、原油価格も急落した。この影響で政府は公共サービスに予算を充てることが出来ず、公務員の給与や年金も支払うことが困難になった。
また2003年のイラク戦争とアメリカによる占領以降、これまでイラクの石油市場から締め出されていた欧米企業がイラクでの生産を復活させた。その後、石油がもたらす富の多くは、採掘する外資系企業に流出してきた。また、外資系企業だけでなく、国内政治の腐敗によっても石油が生み出す資金が流出している。原油価格はその後回復したものの、石油以外のセクターを育て、石油依存を克服する根本的改革がなされるまでは、今後も原油価格の変動にイラクの経済は左右され続ける。

イラクの石油プラットフォーム(写真:Mass Communication 2nd Class Nathan Schaeffer / Wikimedia Commons [PDM 1.0 DEED] )
石油依存型の経済は、急速に増える労働人口に対して、十分に雇用を創出することが出来ていない。イラクでは2015年から2050年にかけて人口が2倍以上増えるとされていて、中東・北アフリカ地域のうち、この期間の推定人口増加率が最も高い。資本集約型の石油産業は、公共部門のみを肥大化させ、民間部門の成長を阻害し、雇用不足に繋がっている。実際、現在イラクの労働人口の約40% が公共部門で働いている。現在の雇用創出を求める国民の声に対しても、公務員の雇用増加を約束することで一時的に不満を抑え、民間部門を育てるような構造改革はなされていない。特に若者の失業率が高く、イラクの15歳から24歳までの失業率は、2022年時点で34.6% である。
経済的な問題に加え、深刻な環境問題も抱えている。イラクはここ100年で最悪の水不足に陥っていると言われていて、700万人が水資源へのアクセスの減少の影響を受けている。イラクの水不足には複数の要因がある。外的要因としては気候変動への脆弱性である。国連環境計画によると、イラクは世界で最も気候変動の影響を受ける5つの国のうちの一つである。イラクの土地の約92%が砂漠化の危険があり、気温が世界平均の7倍ものペースで上昇している。また2022年にはイラクの98%の世帯が、降水量不足の地域に住んでいると推定されている。
気候変動に加え、水道管理やインフラ整備の遅れなど、内的要因がさらに深刻な水不足や水質汚染を引き起こしている。南部の湾岸都市バスラでは特に状況が深刻で、2018年に水質汚染による感染症などの症状により、118,000人が病院に運ばれた。この深刻な水問題に対し、政府は水資源の上流地域であるイランやトルコとの協議により取り分の改善を図ったり、2023年には世界的な水危機の解決を目的とした国連水会議に参加したり、問題解決に取り組んでいる。しかしそれは他国や気候変動などの外的要因に対する取り組みで、国内の水インフラの整備や、非効率的な灌漑方法の改革などの内的要因は棚に上げているという指摘もある。

乾いた地を歩く人々(写真:UNDP Climate / Flickr [CC BY-NC 2.0 DEED])
イラクの水資源の不足と汚染の原因として、気候変動や脆弱なインフラ、管理体制を挙げてきたが、欧米の石油会社による水資源の搾取や汚染も大きな要因の一つである。石油の採掘の際には大量の水が用いられる。その水が、イラクの農業や消費に必要な水と競合し、イラク南部地域の主要水源の川に到達する前に、欧米会社の石油プラントに供給されている。また原油生産で発生する余剰ガスを焼却処分する際に発生する二酸化炭素や有毒ガスは、地域の深刻な環境汚染や健康被害を引き起こしている。
最後に移民や避難民の問題を見ていく。イラクには少数民族が存在する。2003年のフセイン政権崩壊以降、民族や宗派対立が激化する中、少数派の非イスラム系イラク人の多くが、避難を余儀なくされた。2014年にISがイラクで台頭した際には、ヤジディという少数民族が標的となり、何十万人ものヤジディ人が避難した。こうした、ISの攻撃から逃れた避難民の帰還がいまだに進んでいない。2023年初頭の時点で、100万人以上のイラク人がいまだ避難生活を送っている。
対外情勢
最後に対外関係を見ていく。フセイン政権崩壊後のイラクでは、主にイランとアメリカが影響力拡大を争ってきた。
イランとは政治や経済、文化のあらゆる面で密接な関係にある。イランは、フセイン政権時代、弾圧を受けていたシーア派勢力を受け入れていた。フセイン政権崩壊後、イラクに帰国し政権幹部となったシーア派が多く、イラクのシーア派政党はイランとの結びつきが強い。イランはシーア派政党や、それと連携する民兵組織への資金提供や訓練を実施してきた。またそれらの民兵組織が、イランの内政干渉に反対するデモを弾圧することで、間接的にもイラクの政治と安全保障に影響力を持つ。またイランは、イラクにとって最大の貿易相手国でもあり、特に電力部門の依存度が大きく、2021年時点でイラクの電力の約35%を、イランからの天然ガスと電力輸入に頼っている。また文化的な共通点も多く、両国共にシーア派イスラム教徒が多数を占め、クルド人人口も多い。イランは、イランからイラク北部に亡命したクルド人反体制派への攻撃も行うこともあった。

イラク侵攻中の米軍(写真:Lance Corporal Kevin C. Quihuis Jr. (USMC)Sgt.Luciano Carlucci (USMC) / Wikimedia Commons [PDM])
一方アメリカは、2003年にイラクに侵攻し、フセイン政権を崩壊させ、占領を開始した。占領統治の下では、バアス党を解体し、民族ベースの政治制度を導入した。これが結果的にイラクに分断と混乱を招き、宗派対立やISの台頭に至らしめた。2014年にISがイラクで勢力を拡大すると、イラク政府の要請を受けて2011年の撤退以降、再び米軍はイラクに駐留し、大がかりな軍事介入を行った。以降、訓練や援助、支援を通じて、イラクへの影響力を拡大させ、IS衰退後も駐留を継続した。2003年からこれまでに戦闘やテロに巻き込まれるなどして亡くなった民間人は、およそ20万人にのぼる。
イラク情勢は、イランとアメリカの対立に振り回されている。お互いのイラクでの影響力をそぐことが、両者のイラクでの影響力拡大の目的の一つとなっている。2020年1月には、米軍が、イラクに訪問中のイランの上級将校、カセム・ソレイマニ司令官を暗殺した。この事件以降、イラク議会は駐留米軍のイラクからの早期撤退を求めている。イランに支援されたイラクの民兵組織によるアメリカの基地等への攻撃も相次いでいる。2021年をもって、イラク駐留米軍は、戦闘活動を終了したが、訓練や支援は継続し、駐留軍はまだ残っているため、基地への攻撃も継続されている。
また隣国トルコはクルド人問題でイラクへの軍事介入を進めている。イラク北部の一部を占領し、2023年現在でも激しい空爆が行われている。1980年代から独立国家の建設を目指すクルド労働者党(PKK)がトルコ国内で武装闘争開始以来、トルコはPKKを「テロリスト集団」と見なしている。そんなPKKはイラク北部を本拠地としているため、トルコ軍はイラク北部を標的として、攻撃を繰り返している。一方でトルコはPKKとの闘いを支援するKDPとは友好な関係にあり、エネルギー事業においては、クルディスタン地域政府と良好な関係を築き、トルコとクルディスタン地域間の独自のパイプラインから、原油輸出を行ってきた。その他にもイラクの水源の上流地域に当たるトルコとは、水資源の配分についての問題も抱えている。
まとめ
豊富な石油資源や人的資源を有しているにも関わらず、腐敗が蔓延る、エリート中心のイラクの政権は、アメリカとイラクの板挟み状態にあり、これを活かしきれていない。しかしさらに石油産業を推し進めれば、環境汚染や健康被害、そして気候変動に繋がり、それがまた水不足を深刻化させるといった悪循環を及ぼしうる。そして今もなお局地的な紛争が続いており、治安も不安定な状況にある。イラクの安定と人々のより良い生活の為に、根本的な政治・経済的改革は進んでいくのだろうか。イラクの今後の動向に注目していきたい。
※1 19世紀後半から20世紀初頭にかけて生まれたもので、アラブ諸国間の文化的・政治的統一を目指す、民族主義的な考え方のこと。
ライター:Chika Kamikawa
グラフィック:Ayane Ishida