カザフスタンのヌルスルタン・ナザルバエフ大統領(以下ナザルバエフ大統領)は、2017年5月に現在キリル文字を用いて表記しているカザフ語をローマ字表記に変更すると表明した。2018年にまずは学校教育の場でローマ字を取り入れ、2025年までには完全にカザフ語の表記をローマ字に移行することを目指すとしている。これにともない、キリル文字でҚазақстан Республикасыと表記されていた国名もQazaqstan Respy’blikasyというローマ字表記に変更される。なぜ現在使用されている表記を変更するのか、そこにはどのような背景があるのか、そして変更はうまくいくのか、この記事で探っていきたい。
カザフスタンの言葉と文字、その歴史
現在、カザフスタンの公用語はカザフ語とロシア語となっており、政府やビジネスの場面ではロシア語が使用される場面が多い。しかし、カザフ語に対する敬意が高まる中で、近年ではカザフ語がロシア語より使用されるようになってきている。そもそもカザフスタンは117もの異なる言語が話されるマルチリンガルな国であるが、その中でもロシア語は互いのコミュニケーション手段として、カザフ語以外の言語では主要なものとなっている。2009年の調査では人口の85%がロシア語を完璧に使いこなせると答えたのに対し、カザフ語に関しては人口の62%という結果だった。
また、カザフスタンがこれまでの歴史の中で、使用する文字を変更したのは今回が初めてではない。もともと、カザフ語は独自の文字を持たない遊牧民族が使用してきたテュルク系の言葉であったが、イスラム文化の導入とともにカザフ語をアラビア文字で表記するようになる 。その後20世紀初頭にローマ字を使い始め、1917年のロシア革命後にソヴィエトによりローマ字の使用を奨励された。しかし、1938年から1940年の間に、ソヴィエトによるロシア文化推進の一環として、カザフ語はキリル文字で表記しなければならなくなった 。

カザフスタンの都市、アルマティにある店の看板(Torekhan Sarmanov/ flickr) [ CC BY 2.0 ]
なぜ文字を変更するのか?
では、人口のほぼ全員が使い慣れているキリル文字表記から、なぜローマ字表記に変えるのだろうか。そこにある様々な要因を取り上げていきたい。まず一つの要因は、ソヴィエト政権がカザフスタンに導入したキリル文字が、かなり扱いづらいものだったと言われていることにあるのかもしれない。キリル文字は 42文字あり、カザフ語では発音しないような文字も含まれていたが、一方で新しく導入されるローマ字では、もともと26文字あるローマ字に加えて、 カザフ語を表現するためにアポストロフィとローマ字を組み合わせて作った9文字を追加して使用される予定だ。これにより、カザフ語を表記することが容易になるのかもしれない。また、公的には文字の変更がカザフスタンをデジタル時代に備えるためになされるとも言われる。現在のカザフ語の表記方法では、キーボードの数字部分まで使用して文字を打たなければならない が、ローマ字を使用すると、この問題も解決するようだ。 また、2000年からの経済の急成長に伴い、西洋諸国とのコミュニケーションの必要性が増し、英語を学びアルファベットを受け入れることが求められるようになっていったという経済的な背景も見られる。

カザフスタンで現在使用されているキーボード(GaiJin) [ CC0 1.0]
文字変更の裏にある政治的背景
上記であげた理由以外にも、文字変更の背景には経済的・政策的理由も存在しそうだ。ソヴィエト政権崩壊後、近隣国であるウズベキスタンとトルクメニスタンはすぐにキリル文字からローマ字に文字を変更した。しかし、カザフスタンはそれらの国々とは異なり、1991年の独立以来政治的な面を考慮して、ロシアとの関係には慎重な姿勢をとってきていた。しかし一方で、ナザルバエフ大統領はロシアや西欧諸国、中国との関係においてバランスを取りつつ、長期にわたり国の近代化を進めてきており、“Kazakhification” (カザフ化)と呼ばれる、カザフ語やカザフスタンの伝統文化を発展させることによって、ナショナルアイデンティティを取り戻す計画を推進している。そして、ソヴィエトによる統治が終わった後も続くロシアの影響と石油の輸出に頼り切った経済から、ソヴィエト時代の過去を捨て、より発展した経済を持つ国へと成長させようとする思惑がこの政策にはある。
今回の文字の変更もこういった近代化政策の一環であると思われる。こうしてカザフスタンはゆっくりと、ロシアの文化や政治的影響から距離をとってきたのだ。具体的には、教育の場や政府が使用する言語がロシア語からカザフ語に変わっていき、外国語教育の場でロシア語と英語が同党の地位におかれ、そしてカザフ語での映画やテレビ番組を作成して自国の文化を取り上げるといったことが行われてきた。
こうして、いまだ中央アジアに影響を及ぼし続けているロシアと徐々に距離を置いてきたものの、近隣諸国に比べロシアに配慮した政策をとってきたカザフスタンがなぜ今になって表記方法を変更するのか、その理由の裏には近年のロシアの動きを指摘する声もある。ロシアは近年対外関係において、ウクライナやジョージア、シリアへの介入など積極的に他国に干渉する動きを見せている。このロシアの国際的な動向に対し、カザフスタンを含む旧ソ連下にあった中央アジア諸国は、ロシアからの影響が再び強まるのではないかと懸念しており、今回の表記変更の裏にもこのような懸念が関係しているのではないかといわれている 。

カザフスタンのナザルバエフ大統領とロシアのプーチン大統領(ロシア大統領府)[ CC BY 4.0]
ナザルバエフ大統領が2006年以来12年ぶりにワシントンを公式訪問し、ドナルド・トランプ大統領(以下トランプ大統領)との会談がホワイトハウスで行われた。両首脳は両国の戦略的パートナシップを強化し、政治や安全保障、貿易や投資について協力を強めていくことを決議した。このこともカザフスタンが経済的、政治的に欧米に接近する思惑の表れとみることができるのかもしれない。
文字の変更はうまくいく?
こうした様々な背景がある中で、キリル文字からローマ字へ文字を変更することはうまくいくのだろうか。カザフ語の表記方法が変わること自体には、国内から概ね支持が得られているようだ。しかし、この変更によって困る人たちもいるのではないだろうか。カザフスタン国内にはロシア系の人々が住んでおり、国内でカザフ系の人々に次いで2番目に大きな割合を占める民族であるが、彼らはこのカザフ語の表記変更に反対の声を上げている。先にも示したが、カザフスタンより先に自国の言語をローマ字表記に変更したウズベキスタンやトルクメニスタンといった国も国内にロシア系の人々を抱えている。しかしカザフスタンはこの2国と比べてもかなり多くのロシア系の人々が自国内に住んでおり、彼らに対する配慮も今後考えていく必要があるのではないだろうか。また、自分の名前すらどう表記すればいいかわからなくなってしまうといった声や、ロシア語で書かれてきた過去の文書が廃れていってしまうのではないかという 懸念の声もある。これに対し、ナザルバエフ大統領は、ローマ字表記に変わるのはカザフ語であり、カザフスタンからキリル文字やロシア語が消えるわけではない。いろいろな不安の声もあるが、自分たちはロシア語で世界の文化について学び、その記憶は消えることはなく、また近隣国とは常に協力していくつもりである、と述べ、不安の声を鎮めようとしているが、今後どうなっていくのだろうか。
そして、そもそもローマ字でカザフ語の発音を全て表現できるのかという問題が生じることも考えられるだろう。この問題に対してナザルバエフ大統領は、ローマ字に組み合わせる形でアポストロフィを多用することで解決しようとしている。しかしこれに対しては、言語学者などが、アポストロフィを多用するとややこしくて読みにくくなるとし、反対している 。また、アポストロフィを多用するとウェブ上でカザフ語が検索できなくなったり、SNS上でハッシュタグが使えなくなるといった問題が生じる、といった 指摘も上がっている。

カザフスタンの首都アスタナ(Ninara/ flickr) [ CC BY 2.0]
アポストロフィにはこのような問題点があげられるため、アポストロフィを多用する代わりに、トルコ語にならった音声記号を使用すればよいのではないかという言語学者もおり、実際に2017年8月に言語学者たちから、トルコ語をモデルとして発音の記号を作ることが提案された 。しかし、ナザルバエフ大統領はこの案を採用しなかった。ソヴィエト政権からの独立以来、26年間大統領であり続けるナザルバエフが考える政策には誰も異論を唱えられる状況になく、アポストロフィの多用が推し進められている。もっとも、ナザルバエフ大統領は反対意見には耳をかさないものの、世論の雰囲気には敏感であり、大統領に近しい議員は12月に、カザフ語を表記するためにアポストロフィを多用するか否かはまだ最終的な決定に至っていないと述べており 、これからアポストロフィ以外のローマ字を補助する表記方法が検討されていく可能性はある。
カザフスタンの文字変更の裏には様々な思惑や問題がありそうだが、その中でどのように文字が変更されていくのか、カザフ語を表記するためにどのような工夫がなされていくのか、その動向は興味深いものとなりそうだ。
ライターYumiko Yoshida
グラフィック:Hinako Hosokawa