ベトナムではここ数年で政治犯による逮捕者が増えている。アムネスティ・インターナショナルによると、2021年1月の時点で少なくとも170人が収容されており、これは1996年以来最も多い人数である。また、前回のベトナム共産党大会があった2016年時点の84人という収容人数からは2倍以上に増えている。逮捕者の中には、政府に批判的なことを論じたジャーナリストやブロガー、SNS利用者、他にはベトナムに住む少数民族や宗教的なマイノリティも含まれている。
ベトナムは人口の約13%が90以上の少数民族の人々で構成されている。その中の53の少数民族は政府によって認められているが、それ以外は政府によって少数民族として認められていない。それぞれの民族は様々な言語や文化的背景を持っている。近年経済成長が進むベトナムだが、多数派の民族の人々と比べると、少数民族の人々多くは未だにかなりの貧困状態にあったり、政治的な抑圧の対象になったりすることが多い。本記事では、ベトナムの少数民族の人々が直面する社会的脆弱さとそれに起因する貧困問題が起こる背景について探っていく。

モン人の女性(写真:Rod Waddington / Flickr [CC BY-SA 2.0])
ベトナムのマイノリティ
ベトナムはインドシナ半島東部に位置し、南北に長い国土を持つ。人口は約9,800万人で、そのうち約87%はキン人(Kinh)というアイデンティティを持つ人々が占める。彼らは主に、主要な都市の多いデルタや海岸平野に暮らしている。キン人の中では無宗教の人も多いが、大乗仏教を信仰している人も人口の13.7%いるとされている。
これに対してベトナムの人口の約13%を占めている少数民族の人々は、ベトナムの国土の4分の3を占める山地や丘陵地帯という、都市から離れた地域に住んでいるケースが多い。また、民族によって使用されている言語や宗教に違いがある。少数民族ごとの人口の割合を見ていくと、規模が大きい方からタイ人(Tay(※1))が2.0%(196万人)、タイ人(Thai(※1))が1.9%(186.2万人)、モン人(Muong)が1.5%(147万人)、クメール人(Khmer Krom)が1.5%(147万人)と続く(※2)。マイノリティが信仰している宗教としては上座部仏教やカトリック教会、ベトナムで生まれたホアハオ教やカオダイ教、プロテスタント、ヒンドゥー教、イスラム教などがある。

カオダイ教の式典(写真:Shawn Harquail / Flickr [CC BY-NC 2.0])
ベトナムの歴史
多様な民族を内包し一つの国の形態を取っているベトナムだが、どのように現在のような国の形が出来上がっていったのだろうか。現在のベトナムがある地域の歴史を振り返って考えていく。
紀元前2世紀から、現在のベトナムの北部から中国の南部にかけての地域にキン人が暮らしていたと考えられている。その後、紀元前1世紀に秦人(当時の中国)が現在の中国南部からベトナム北部にかけての地域に南越国を樹立した。以後10世紀までは、南越国は漢、隋、唐などの中国王朝から一定の独立性を保ちながらも、その支配下にあった。一方で現在のベトナムの中部はチャム人によるチャンパーという王国、南部は現在のカンボジアの地域を中心としたクメール朝が支配をしていた。
11世紀初頭になると中国から独立し、現在のベトナム北部に大越国を樹立し、これが長期的な王朝となった。11世紀から15世紀にかけては大越国、チャンパー王国、クメール朝、明(当時の中国)が現在のベトナムの領土などをめぐり領土争いを続けていた。11世紀、12世紀にはチャンパー王国がクメール朝に攻撃され衰退していった。しかし、クメール朝も1220年にチャンパーから撤退し、同じく衰退していった。一方で、大越国は度々中国からの干渉も受けた。1406年には大越国が明の支配を受けたが、約20年後に独立を回復し、大越国は明との間で朝貢関係(※3)をとるようになった。

チャム王国で作られたとされる彫刻(写真:Daniel Mennerich / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
1471年には、大越国が長年争っていたチャンパー王国の首都、ビジャヤを陥落させた。これによって大越国は北部だけではなく現在のホーチミンなどがある南部地域でも支配力を強めた。人の移動も生まれ、北部から南部に移住するキン人が増加したり、南部に住んでいた多くのチャム人やクメール人が大越国の領土に組み込まれて、キン人の文化への同化を強いられたりした。
16世紀になると、大越国では王権が弱体化し有力な武将が実権を握るようになり、再び王朝が南北に分裂した。その後、18世紀末に南部の阮福暎氏が戦争を通じて1802年に北部を抑え、国号を越南と改めて現在のベトナム全土を統一した。この戦争において、当時東南アジアで布教活動をしていたフランス人の宣教師が義勇軍を組織して阮氏に協力をしていた。これはヨーロッパの国々によるアジアでの植民地支配が広がる中、フランスは越南への進出を狙っていたからだと考えられている。越南はこれに対して鎖国体制やキリスト教禁止を打ち出して抵抗していた。
19世紀中頃に、越南でフランス人とスペイン人の宣教師が殺害されたという事件を口実に、フランスのナポレオン3世は越南に侵攻した。越南軍も応戦したが、ダナンから上陸され、サイゴン(現在のホーチミン)をフランス軍に占領され、約2年間かけてサイゴンを含む越南の南部の地域一帯(コーチシナ)をフランスに制圧された。
フランスはその後インドシナでの支配力を強めていった。カンボジアや、越南の北部へ侵攻し、保護国とした。さらにフランスは越南の宗主国という位置づけだった清とも戦争しこれに勝利したため、対外的にも越南のフランス領化を認めさせた。その後ラオスもフランスの保護国とし、19世紀の末にかけてフランスはこの地域をフランス領インドシナ連邦として確立させた。
フランス統治下のインドシナでは、科学や地理など西洋の教育や、ローマカトリック教が取り入れられた。さらには、フランスによってプランテーション農園を作るために、山岳地帯の開発が進められた。一方で、1917年のロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンと呼ばれる各国共産主義政党の国際統一組織が結成され植民地解放を支援し、フランス統治下にあったインドシナでも共産党の設立や、共産主義思想、独立を求める動きが生まれていた。しかし対するフランスはこうした動きを阻止しようとしていた。
1939年に第二次世界大戦が始まりフランスはドイツに宣戦布告したが、翌年の1940年にドイツによって首都のパリを占領され、その結果フランスはドイツに降伏した。勢力の弱まったフランスに代わり、1940年から1945年にかけては日本軍がベトナムを占領した。
1945年に日本が連合軍側へ降伏すると、インドシナ共産党を中心として組織された民族統一戦線であるベトミンが、駐留していた日本軍に対して一斉蜂起し、臨時政府を樹立した。さらにはベトナム民主共和国として独立宣言を行った。一方でインドシナの植民地支配を再開させようとしたフランスは、イギリスとアメリカの支援を受けて、ベトナム民主共和国と戦争を始めた。戦いは長期化したが、1954年にベトナム民主共和国側が勝利し、フランスとの間で休戦協定を結んだ。この協定では、ベトナムを一時的に北緯17度線で南北に分け、1956年に統一選挙を実施することが決められていた。
しかしアメリカとベトナム(南部)はその選挙を拒み、実施に至らなかった。さらにアメリカは17度線以南の地域にベトナム共和国を樹立したため、ベトナムは北部のベトナム民主共和国と南部のベトナム共和国とに分断された。アメリカがベトナム共和国への軍事支援を強める中、この両者に対抗する南ベトナム解放民族戦線が生まれた。この組織はベトナム民主共和国を中心とした統一を目指し、ベトナム民主共和国から支援を受けるという構図ができていった。きっかけには諸説あるが、1965年にアメリカがベトナム民主共和国への空爆を開始したことから、第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)が起きたとされている。激しく長い戦争の後、1975年に北部のベトナム民主共和国が勝利し、国に再統一が果たされ、国号を現在のベトナム社会主義共和国(以下ベトナム)にした。

ベトナム共和国の成立を宣言(写真:manhhai / Flickr [CC BY-NC 2.0])
ベトナムは1978年にカンボジアによる国境侵犯を口実にカンボジアへと侵攻し、翌年には首都のプノンペンを制圧した。カンボジアのポル=ポト政権と友好関係にあった中国がベトナムへ侵攻する中越戦争が発生するも中国はまもなく撤退し、ベトナムの勝利に終わった。しかしベトナムでは1945年以降長年にわたる戦争と、南北統一後にベトナム全土を急速に社会主義化したことによって、経済活動が停滞し、国内の生活の圧迫が続いていた。そこで1986年に市場経済を導入するドイモイ路線が宣言され、資本主義の導入や社会主義化の緩和、国際経済協力などが目指されるようになった。その一環としてカンボジアからも撤退し、1991年に和平協定を結んだ。
このようにベトナムは近隣地域との紛争によって領土が拡大・縮小したり、外国に占領されたりしながら、民族の居住地域の境界とは異なる部分に国境線が引かれていった。加えて、人々の動きというのは政治体制の大きな変化や戦争によって隣国へ避難するなどそもそも流動的なものである。こうして国境線の両側に同じ民族がまたがったり、民族間の区別が曖昧になっていたり、移動した先の国家に同化するなどの人間の様々な営みの中で、人々のアイデンティティが複雑に絡み合うことは世界各地で起こっている。ベトナムもまた、その一つの事例であると言えるだろう。
マイノリティが抱える教育の問題と貧困の連鎖
このような歴史を経て、今日のベトナムには様々な少数民族をはじめとするグループが存在している。中でも少数民族として、マイノリティという立場に置かれた人々はどのような問題を抱えているのだろうか。その最も重大な問題の一つとして、貧困がある。近年経済成長を遂げているベトナムだが、国内には世界銀行が定める極度の貧困状態 (1日1.9米ドル未満の所得)にある人々が約900万人(※4)存在し、そのうち約73%にあたる約660万人は少数民族の人々なのである。つまり、多数民族のキン人と少数民族とで比べると、少数民族の方が貧困状態にある割合が著しく高くなっているのだ。
ベトナムで貧困を引き起こす要因として世界銀行の職員は5つの観点をあげている。1つ目に都市から離れた高地や山岳地帯に住み地理的に孤立し市場へのアクセスが悪いこと、2つ目はマイノリティの言語や文化に対する社会的排除、3つ目は国土のほとんどを国が所有していることによる農業や林業等を営むための良質な土地へのアクセスの少なさ、4つ目は教育や仕事のために別の地域へ移動する人の少なさ、5つ目に教育水準の低さである。こういった要因の一つ一つが単独で問題を引き起こしているだけではない。むしろ、一つの要因が別の要因を引き起こし、相互に関連して問題を引き起こしているのである。中でもここでは多くの要因と関連し引き起こされている問題として教育に焦点を当てていく。

ベトナム語を学ぶクメール人の子ども(写真:World Bank Photo Collection / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
教育水準について、初等・中等教育では進学率にあまり差がないものの、高等学校への進学率になるとキン人と少数民族との間で大きく差がある。キン人は74%が高等学校に通っているのに対して、少数民族の子どもの中には進学しない人も多く、44%しか高等学校に通っていない。また、キン人と比較して少数民族の子どもたちは進級に遅れをとる子どもが多いこともわかっている。少数民族の子どもで高等学校に在籍する年齢である15歳から17歳の約12%が中学校に在籍しており、これは同年代のキン人で中学校に在籍する子どもの割合である7.5%よりも高くなっている。また、識字率にも大きな差がある。15歳以上の識字率を調べると、キン人の識字率は95.5%と高いことがわかる。一方で、違うデータであるため単純比較はできないが、 国が認めている全53の少数民族の識字率は、平均で79.8%という調査がある。しかし少数民族ごとに個別に見ていくと、トー人(Tho)、モン人(Muong)、タイ人(Tay)では識字率がキン人と同じくらい高く、95%ある。一方でラフ人(La Hu)の識字率は最も低く34.6%に止まっている。他にも識字率が40~60%台の少数民族は23ある。このことから、少数民族の間でも識字率の差が大きくなっていることがわかる。
この差を生んでいる原因の一つは教育を行う言語にある。ベトナムでは基本的にベトナム語によって教育が行われる。つまり、少数民族で母語がベトナム語ではない子どもの立場からすると、学校ではベトナム語が話されるため、ベトナム語を母語とするキン人の子どもよりも生活や勉強の中で困難を抱えやすく、ドロップアウトしてしまう可能性も高くなる。学校によって異なるが、少数民族の言語のうち8つの言語を科目として教えている学校もある。しかしそれでも、勉強する手段として学校で用いるのは主にベトナム語である。
また、家から最寄りの学校までの距離にも差があり、これも子供たちの教育機会に影響を及ぼしている。マイノリティの子どもたちの多くは学校までの移動距離が多く、中等学校まで9kmから70kmも離れているというデータもある。また、山間部に住む少数民族の子どもたちとそうではない人たちの家から学校までの距離を比べると、初等教育の機関で約1.3km、中等教育機関で約1.7km、高等教育機関では約7.6kmの差があり、少数民族の子どもたちの住む家から学校の方がそうでない子どもたちと比較して遠いという実態があるのだ。そして教育段階が上がれば上がるほど、家と学校の距離の差は大きくなっている。つまり、少数民族の子どもたちが住む地域の近くには高等教育を受けられる機関があまり充実しておらず、彼らが高等教育を受けるためには長距離の通学が求められると言えよう。さらに少数民族の人々が多く住む地域が、道路や交通機関などのインフラが十分に整備されていない場合は、通学により時間がかかってしまう。こうした問題に対してベトナム政府は2013年に、寄宿学校制度とそこでの食費と宿泊代に手当を出す制度を作った。2019年の時点で、制度導入前と比べて寄宿学校の数が7校、そこに通う生徒は約2.8万人増えたという。

吊り橋を渡る人々(写真:Peyman Zehtab Fard / Flickr [CC BY 2.0])
さらには、コロナ禍において教育格差を広げるような事態が起きている。ベトナムでは全国的にみると電力の供給率は高いが、主に地方の山岳地帯で電気を利用できない地域があり、この地域で暮らす少数民族の人々がこの不利益を被っている。そしてベトナムでは、新型コロナウイルスの感染が拡大してから早々に、感染防止のために全国的に休校措置が取られた。州の教育省や学校は、全ての生徒たちの学習を継続するために、オンラインでの教育プラットフォームを用意したが、これが結果的に格差を生み出す要因となってしまった。電気供給がされていないことと合わせて、インターネットへのアクセスがなかったり、教育を受けるための端末を持っていなかったりする家庭では教育を受けることができないからだ。実際に、ベトナム北部のラオカイ州のある地域では、15%の子どもたちしか教育を受けるのに必要な通信機器を持っていなかった。少数民族の子どもたちは、こうした通信環境の未整備を理由に教育を受ける機会を得られなくなる。その結果、富める人は教育を受けられ、貧しい人は教育を受けられないという構図になり、教育格差のさらなる拡大につながった。
マイノリティが抱える政治的な問題
ここまでは社会的な問題を取り上げたが、マイノリティが抱える問題はそればかりではなく政治的な問題にも及ぶ。ベトナム全体の政治的問題に起因する問題もあれば、マイノリティに特有な事情もある。まずはベトナムでどのような政治運営がなされているのかを見ていく。
ベトナムはベトナム共産党(CPV)が政権を担う、一党制の体制となっている。国会議員を選出する選挙が行われる際には、CPVに所属しない人が立候補することも制度的には可能となっているため、市民は投票し、立候補することも可能となっている。実際に、2002年の選挙の結果では、当選者498名中非共産党員が51名当選した。しかし実際には、候補者はCPVによって事前に身元を念入りに調査され、社会活動家や反共産党勢力である場合などには出馬を禁じられている。そのため、CPVは反対勢力を避け、強い影響力を維持しやすくなっている。選挙というシステムこそあるが、実際には自由で公正な選挙からはほど遠い。
更には、政治や政府への批判に関しては表現の自由も厳しく制限される。ベトナムは、世界報道自由度ランキングで例年低い順位がつけられており、2021年度の結果も175位/180か国だった。政府に批判的な言論が刑法によって禁止されているため、メディアやアカデミアは政府を批判すると、逮捕や暴力など大きな身体的リスクを伴う。また、政府は2018年に採択されたサイバーセキュリティ法によって、フェイスブックやグーグル上の情報への検閲と必要に応じた削除要請も強化している。こうした状況の中では、少数民族を含めたベトナムの国民が、社会課題に対して政治的に声を上げ問題提起をすることすら難しく、ボトムアップで解決していくということはなかなか期待できない。

ベトナム共産党の旗(写真:Vuong Tri Binh / Wikimedia [CC BY-SA 4.0])
また人々の信仰についても国家の監督の下に置かれている。憲法では人々に信仰の自由が平等にあることが認められている。しかし、国内の全ての宗教団体や聖職者は、宗教的な活動をするために、党が管理する監督機関に参加し、活動のための許可を得る必要があるのだ。この許可を得ていない宗教団体は、身体的暴行や逮捕、監視、渡航制限、財産の差し押さえや破壊など政府による様々な嫌がらせに日々直面している。こうした政府当局による宗教信者への嫌がらせの報告は、マイノリティが多く住む高地や山岳地帯で特に多くなっている。更にこの管理体制は 2016年の法律によってさらに強化されたと言われている。監督機関への登録要件が強化されたり、国家による宗教団体の内政へ干渉できる度合いを高めたり、認可されていない宗教活動への罰則を科せるよう幅広い裁量が政府に与えた。このことによって、政府に認められない宗教活動をするのがますます難しくなっている。
このように国家が人々の信仰を制限するのはなぜなのか。そこには主に3つの理由があると考えられている。まず1つは、宗教によっては信仰が政府や共産党にとっての脅威になると考えているため。例えば、第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)ではフランスによる統治の影響でカトリック教徒になったモン人(Hmong)の多くがアメリカ軍側につくということがあった。ここでベトナム政府に生まれた少数民族への不信感が、現在も尾を引いているのだ。2つ目は、特に地方の場合に、人々の間で政府の役人よりも聖職者への信頼が厚いと、政府の役人の言うことは聞かずに聖職者の言うことは聞くという不都合が生じるため。3つ目は、布教等の宗教活動よりも公序良俗の維持を優先するためである。
こうした状況下で、少数民族の人々は政治的にも宗教の信仰についても制約の多い暮らしを強いられている。
改善に向けて
ここまで、ベトナムで暮らす少数民族の形成及び、彼らが抱える問題についてみてきた。様々な王国が興っては滅ぶということを繰り返し、また隣接する地域との領土争いを経て、ベトナムの国土は現在の形となった。その過程で、様々な少数民族を生み出したのだ。こうした少数民族の人々は、今もなお様々な課題を抱え、不利な状況に置かれている。ベトナムでは政治的な言論の制限があることから、国内から声を上げて改善に向けた動きを生み出すのは難しいだろう。ベトナム国外からもしっかり問題を認識し、改善を求めていくことが、解決の糸口の一つになるかもしれない。
※1 ここでいうTayやThaiは現在のタイ王国に住む人々とは関連性が無い。
※2 続いて多いのがモン人(Hmong)の1.3%、ナン人(Nung)の1.2%、ホア人(Hoa)の1.0%、ダオ人(Dao)の0.9%である。
※3 朝貢関係は、世界の中心で栄えている国という意味の「中華」である中国王朝が、周辺の「蛮夷」に対して恩恵を施す、という理念によって成り立つ外交関係。明以降は中国を宗主国、諸外国を藩属国とみなし、諸外国の君長が中国皇帝に貢物を持参し、皇帝が恩恵として回賜を与え国王に任命するという外交関係かつ貿易関係になった。
※4 GNVでは世界銀行が定める極度の貧困ライン(1日1.9米ドル)ではなく、エシカル(倫理的)な貧困ライン(1日7.4米ドル)を採用している。詳しくはGNVの記事「世界の貧困状況をどう読み解くのか?」参照。しかし、エシカル(倫理的)貧困ラインに該当する人数のうち少数民族が占める割合を示すデータが不足したため、この記事では世界銀行が定める極度の貧困ラインを用いている。
ライター:Yuna Takatsuki
グラフィック:Mayuko Hanafusa
ベトナムで教育制度にこれほどの格差が生まれていることに驚いた。