世界では毎日、数えきれないほどの出来事が起こり、情勢も日々変化している。そのような中で、1年前、ないしは数年前に起きた出来事を覚えているだろうか。「○○テロから1年」、「○○災害から1年」。このような報道、特集によって、その出来事を思い出すことはないだろうか。メディアには「今」を伝えるだけでなく、「あのとき」を伝える役割がある。現代社会を理解するためには、「今」だけではなく、その経緯を理解することが必要だ。世界で過去に起こった出来事を知り、現代の情勢との結びつきを理解することは、今日の国際情勢を深く知ることにつながる。

ロンドンテロ事件(2017年)から1周年の追悼式典(写真:Number 10 / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
報道のあり方の1つに、「アニバーサリー・ジャーナリズム」というものがある。アニバーサリー・ジャーナリズムとは「重要」だとされている過去の出来事の、何周年を契機に記事を書くことを意味する。物事が起こってしばらく経っても記事が書かれるのは、他の出来事よりも重要視され、特別に選ばれているということである。アニバーサリー・ジャーナリズムのあり方を分析することによって、報道機関の世界観、報道の優先順位をより深く理解することができるだろう。報道は、歴史に残すべきものを決める1票となる。この記事では、人々の記憶や「歴史」の形成に報道がどのように関わっているのかを見ていこう。
日本のアニバーサリー・ジャーナリズム
日本の新聞における国際報道に関するアニバーサリー・ジャーナリズムの現状を見てみよう。過去5年分(2014/7/1~2019/6/30)の日本3大紙(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞) (※1)について分析した。国際面の記事の中(※2)で、タイトルに「1年」または「1周年」というキーワードが含まれ、かつアニバーサリー・ジャーナリズムだと判断できるものを調べた。すると、ある出来事から1年経ったことを記念して書かれたと考えられる記事は、朝日新聞で72記事、毎日新聞で102記事、読売新聞で135記事の合計309記事であった。これらの報道について、詳しい傾向を探っていこう。以下においては、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞の3紙を合わせて、日本の国際報道という観点から分析を行う。
まずは、関連国の傾向について見てみよう。下図は、関連国として登場する回数が多かった国のトップ10を示したものである。また、右端の図は、日本と関係する記事の割合をグラフにしたものである。
グラフを見ればわかるように、アメリカに関連した報道が12.2%と最も多かった。また、トップ5にはフランス、中国、韓国、ロシアが含まれており、これらは通常の日本の国際報道の傾向とほぼ一致している。アメリカや中国、韓国に関しては、あらゆる出来事が1年後に報道されていた。2位のフランスについては、パリで度々発生したテロについて多く報道された。5位にランクインしたロシアはウクライナ問題が関心を集めたために通常よりも報道量が多くなり、これはウクライナに関する記事も多くなった理由だといえよう。また、6位の北朝鮮に関しては、米朝首脳会談や日本との拉致被害者に対する調査合意が注目された。その他、フィリピンではIS関連の戦闘、台風など様々な分野で報道されていた。また、ミャンマーではロヒンギャ問題やアウンサン・スーチー氏関連、タイではバンコクのテロやクーデターが注目された。以上のトップ10か国だけで、該当記事のうち52.8%と、半分以上を占める結果となった。
地域別ではアジアについての記事が55.7%と半分以上を占め、続いてヨーロッパが23.0%、北米が12.8%となっており、アフリカや中南米の記事はそれぞれ4%前後しかなかった。それぞれ地域の偏りもまた、通常の国際報道の偏りと似ている。また、上のグラフが示すように、日本が関連した国際報道は4.9%と、トップ10に入っているいくつかの国よりも大きな割合を占めている。この中では、沖縄でのオスプレイ航空機の事故や、北朝鮮の拉致被害者に対する調査合意に関する記事が取り上げられていた。このことから、日本に関する出来事は取り上げられやすく、自国中心的な報道の傾向が見える。
ここまでは、報道の地域的な偏りについてみたが、どのような内容について報道されているのであろうか。下図は、報道内容による割合を円グラフで示したものである。
報道内容別に見てみると、政治的な内容を含んだ記事が一番多くみられた(41%)。この中でも、大統領など国の要人が就任してから1年経ったことを記念して書かれたものが多く(49記事)、特にアメリカのドナルド・トランプ大統領の就任(2017)から1年を機に書かれたものが、これらの内の32.7%(16記事)を占めていた。要人の就任から1年経ったことに関する記事は、アジアとヨーロッパ、北米を除くとエジプトのアブドルファッターフ・アッ=シーシー大統領に関する記事が、朝日新聞で1つあっただけであった。
2番目には、テロに関する記事が多かった(14.2%)。それらの内、パリ(2015)、ベルギー(2016)、ベルリン(2016)などヨーロッパで起こったテロ事件に関する記事が63.6%を占めていた。また、紛争に関する記事は、比較的多くみられた(8.4%)ものの、地域的な多様性がみられたわけではない。紛争関連の記事の内、実に6割以上がミャンマー、フィリピンなどのアジアの国が関連した紛争だった。コロンビアの和平合意(2016)から1年経ったことに関しては6記事あったものの、これは1つの新聞でシリーズ化されたものであるために、日本の国際報道全体で注目されたとは言いがたい。
また、同様に物事が起こってから3年後を記念して書かれた記事についても分析すると、3紙合計で42記事見つかった。これらにおいても、国の要人の就任から3年経ったことを機に書かれた記事が目立ち(12記事)、その中でも、北朝鮮の金正恩委員長の就任から3年経ったことに関する記事が半分を占めた(6記事)。該当記事の内、実に77.4%がアジアの国が関連した報道であり、アフリカに関しては、リビアのカダフィ政権崩壊に関する記事が1つだけであり、中南米、オセアニアに関しては1つも記事がなかった。起こってから3年後にも報道されている事柄は、1年後に関する報道よりも、さらに偏った地域で起こったものが多くみられた。
このように、アニバーサリー・ジャーナリズムとして扱われるものを内容別に見ても、特に東アジア、ヨーロッパ、北米で起こったものが優先的に報道されていることが分かる。
歴史に残されない大事件?
ここまでは、日本の国際報道に関するアニバーサリー・ジャーナリズムにおいてどのようなものが取り上げられているのかについて述べてきた。では、日本では報道によって思い出させ、「今」につなげるほどの価値がないとみなされた出来事としては、どのようなものがあるのだろうか。テロ事件、建物への悲劇、ジャーナリストへの攻撃、これらをキーワードとして、規模が大きいにも関わらず、その1年後に報道がなかった出来事について見てみよう。
報道されていないテロ事件として、2017年に起こったソマリアのテロを取り上げよう。このテロは、2017年10月、ソマリアの首都モガディシュにおけるトラック爆弾によって、587人の死者が出て、世界でも過去最悪のテロの1つである。このような大事件でありながら、発生当時に日本で取り上げていたのは、3紙を合計しても6記事しかなかった。特に注目すべき点は、1年後に、この事件について取り上げているのは1つもなかったことだ。比較材料として、2015年に発生したパリ同時多発テロ、2016年のベルギーテロ、ベルリンテロなどを取り上げよう。これらは、発生直後には3紙合計でそれぞれ441記事、130記事、58記事あった。さらには、1年後にもそれぞれ8記事、6記事、2記事書かれていた。これらに関しても死傷者は発生しているものの、これら3つの事件の死者数を合わせても、ソマリアでのテロのおよそ3分の1である。

ソマリアで発生したテロに残された車の瓦礫(写真:AMISOM Public Information / Flickr [CC0 1.0])
続いて、報道されていない建物への悲劇として、2013年に発生したバングラデシュの建物崩壊を取り上げよう。この事故は、2013年にバングラデシュの首都ダッカで、衣料品工場であるラナプラザが崩壊し、1,132人以上が死亡、2,500人以上が負傷したものである。この事故によって安全基準や規制などの脆弱性が明らかになったため、それ以来、衣料産業、特にファストファッションに携わる労働者の安全や、アンフェアトレード問題が叫ばれるようになった。しかし、これに関する日本の新聞記事は少なく、発生当時、3紙合わせても6記事しかなかった。1年後にこの事故に関する記事は読売新聞で1つ取り上げられていただけだった。その一方、報道されたものとしては72人が死亡したロンドンの高層公営住宅の火災(2017)が挙げられる。これに関する報道はその直後にも3紙合計で36記事あり、1年後にも2記事で取り上げられていた。バングラデシュの事故は、日本のファッション業界に大きく関わっているものであるにも関わらず、日本の新聞での報道は非常に少なかった。
また、あまり報道されていないジャーナリストに対する攻撃の中で、フィリピンでのジャーナリスト虐殺が挙げられる。この事件はミンダナオ島での選挙運動のさなか、2009年に起こり、34人のジャーナリストが虐殺された。 これは、ジャーナリストが1つの事件で殺害された人数としては、史上最多である。 発生当時、この事件について報道しているのは5記事しかなく、1年後には一切報道されなかった。同じジャーナリストに対する襲撃であるパリでのシャルリエブド襲撃(2015年)では、週刊紙「シャルリエブド」が、イスラムの預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことが原因で襲撃され、17人が死亡した。発生当時は37記事書かれ、1年後にも5記事で取り上げられていた。同じ報道の自由に対する攻撃でありながら、シャルリエブド襲撃は、ジャーナリストという世界中で重要な役割を果たす人々に対する脅威を喚起するものとして取り上げられていたが、フィリピンの事件はそのように扱われなかった。
このことより、報道の優先度は被害の大きさや世界が抱える問題の客観的な位置づけで決まるのではなく、発生した国によって決まることが垣間見える。

フィリピンで殺されたジャーナリストのためのメモリアル(写真:André van der Stouwe / Flickr[CC BY-NC-SA 2.0])
ジャーナリズムと歴史
これまで、アニバーサリー・ジャーナリズムという観点から日本の国際報道のあり方を見てきた。すると、歴史記事、つまり過去に起こったことに関する報道についても、国や地域の偏りは、通常の国際報道のアンバランスと似ていることが分かった。人々に思い出される、つまり思い出させるほどの価値があるとみなされるためには、出来事の規模の大きさなど以上に、発生場所が先進国であるかどうか、貿易や観光などでいかに日本と密接な関係を持っているか、普段から記者を派遣させているかなどがポイントとなることが分かった。世界で起こっていることを報道し、人々に知らせ、人々の記憶に残すことは、報道の役割の1つであろう。したがって、報道されず、さらには1年後、3年後などに報道がされない事柄は、人々の記憶にも、歴史の記録にも残りづらい。

(写真:Moe Minamoto)
「今」に関する事実を伝えることは、もちろん報道における大きな役割である。しかしその一方で、アニバーサリー・ジャーナリズムを通じて過去と今をつなぎ、歴史を「作っていく」ことに寄与しているともいえる。このことは、今起こっていることに対する評価や、歴史に対する認識が変わるきっかけになるかもしれない。世界各国とのつながりが強まっていく今、報道のあり方はこのままで良いのだろうか。歴史にも関わる存在である以上、地域や出来事の規模など、報道のバランスを再考する必要があるのではないだろうか。報道のあり方が変わっていけば、人々の歴史に対する認識とともに今の世界への理解が深まるかもしれない。
※1 各社のオンラインデータベースを参照した。国際報道記事の定義については「GNVデータ分析方法【PDF】」を参照。
※2 読売新聞は、電子データベースにおいて「分類」のうち「国際」を選択したため、国際面以外に掲載されている国際報道も含んでいる。
ライター:Moe Minamoto
グラフィック:Moe Minamoto
面白かったです。
事件の発生当時は報道されていないが、1年後や3年後にアニバーサリージャーナリズムとして多く取り上げられるなどの事例はあるのでしょうか。事件当時は注目が集まらなかったのに、数年後に注目されるようになる原因などを推測するのも興味深いと感じました。
とても読みやすい文章でした。日本の報道に偏りがあることは感じていましたが、外国で起きた出来事の報道について、ここまで国ごとに差があるとは…驚きです。
やはり日本の新聞はいつも同じような国ばかりを報道していますね。
先進国は気にするが発展途上国はどうでもいいという、いつものやつですね。
メディアがこれでは、読者の世界に対する包括的な興味なんて生まれるはずもないですね…
しっかりして欲しいです。歴史誤認や、将来の世界史の教育にも影響しそうで怖いです。
もうすでにかなり影響しているでしょうけど。
日本の報道に偏りがあると感じましたが、これほど偏りがあるのは知らなかったです。
アニバーサリージャーナリズムを分析することで、より日本の国際報道の偏りが顕著に表れている気がしました。被害、規模などによる平等な報道がされればいいなと思いました。
報道機関が「歴史」をつくるという役割を果たしているという点では「~から1か月」「~から半年」よりも「~から10年」などのような報道が重要度が高いのではと思いました
そのような役割をもっていることを報道機関自身は意識できているのでしょうか
報道機関は歴史に残す出来事を選択することができる立場、というのは新しい視点でした。
報道機関は、偏りのない報道で、偏りのない歴史認識をつくってほしいと思います。
アニバーサリージャーナリズムに注目することで、日本の報道が何に注目しているのかがよくわかりました。読者が興味を持たないことと報道されない世界があることの悪循環だなと思いました。
日本の多くの新聞では「どれだけ身近な出来事か」がかなり重要視されている。遠い異国のジャーナリストが国家権力によって殺害されるニュースよりも、通り魔によって市民が殺害されるニュースの方が、報道価値があると考えられている。長いスパンで見れば、どちらが注目されるべきニュースかは判断できる。「身近な視点」だけでなく、「広い視点」でニュースを選択していきたいと思う。
筆者の問題意識としては、「国や地域に偏りなく重大な国際ニュースを報道せよ」ということでしょうか。もちろん、それは大事なことですし、ド正論だと思います。でも一体、どれくらいの日本国民が国内でそのようなニュースが日常的に供給されることを望んでいるでしょうか。すなわち、報道機関もビジネスをやっている以上、需要が乏しいニュースを定期的に広範囲にわたって供給するのは難しいのでは?ただでさえ新聞社・通信社の経営は厳しいですし、ニーズが比較的少ないニュースのために大きなコストをかけられないでしょう。もちろん、人々が求めるニュースだけ提供しているのでは報道機関としての責任を果たしているとはいえません。ですが今の日本のジャーナリズムは「報道すべきこと」と「人々が報道してほしいもの」のバランスを取るのがとても難しいと思います。