「青い目と金髪のヨーロッパ人が毎日殺されているのを見ているので、非常に感情的になる。」これは、2022年2月の英BBCの番組内でのロシア・ウクライナ戦争に対するウクライナの元副検事総長の発言である。元副検事総長にインタビューしていたBBCのキャスターはこの発言に対し、「その感情は理解、尊重できます。」と延べた。また、同じ2022年2月に米CBSニュース特派員が同じロシア・ウクライナ戦争に対して、「ここはイラクやアフガニスタンのような、何十年も紛争が続いている場所ではありません。ここは比較的文明的で、比較的ヨーロッパ的都市です。」と発言した。
以上は、欧米メディアにおける武力紛争の被害者への注目や同情の程度が、外見や出身地域によって差がつけられている事例である。報道価値の観点からみると、アジア、アフリカ、中東などでの武力紛争と違って、ヨーロッパで発生する紛争は注目と同情に値するということが示唆されている。
日本においてもロシア・ウクライナ戦争は報道を独占してきた。2022年の前半でミャンマー紛争による死者はロシア・ウクライナ戦争を上回っていたにも関わらず、日本の大手新聞では、後者に関する報道が前者に関する報道の500倍近い量となっていた。またそこには、アジア・アフリカ・中東での武力紛争には見られないような感情移入された人道報道も多く見られる。ロシア・ウクライナ戦争では被害者個人に焦点が当てられ、その顔や名前、現状が日本のメディアに度々発信されてきた。反対に、それ以外の世界の武力紛争の現状とその被害者個人の人間としての苦しみは、メディアによってほとんど注目されることがない。
報道量やその報道内容の作られ方の違いを生む原因が複数考えられる中で、紛争被害者の外見や出身地域はどこまで重要視されているのだろうか。この記事では、報道される人と報道されない人がいるという事実の背景を探っていきたい。

アメリカにてロシア・ウクライナ戦争を想う人たち(写真: Alek S. / Flickr [CC BY-ND 2.0])
偏る国際報道
これまでGNVは、日本の国際報道の偏りとその背景に何があるのか調査してきた。まずいえるのは、日本の国際報道の量で見ると、欧米や東アジアに大きく偏るという特徴があることである。例えば、類似の出来事や現象が欧米とそうでない地域において発生したとき、後者地域における被害者や影響を受ける人数が前者を大きく上回っていたとしても、注目されるのは前者である。
このような傾向は、武力紛争、テロ攻撃、難民、デモ、などに関する報道においてみられる。難民に関する報道量に注目してみると、ヨーロッパ地域に報道が偏る。例えば2015年に発生した難民について、GNVの調査がある。2015年の世界の難民のうち、ヨーロッパで発生した難民の割合が3.3%、難受け入れ地域のうちヨーロッパの割合は11.7%であった。難民の発生国、受入国ともにヨーロッパの占める割合は多いとはいえないにも関わらず、日本における同年の難民に関する報道の50.1%がヨーロッパ地域に関するものであった。
加えて、自然災害においても同様の傾向がみられる。例えば、東アフリカでは、2022年8月の時点で、雨量不足および人道支援不足よって2,000万人もの人々が食糧危機などの影響を受け、世界最大の干ばつ被害が生じた。にもかかわらず、この深刻な干ばつについての報道は、ヨーロッパの干ばつについての報道よりも少なく、食糧不足が発生していなかったヨーロッパ地域の干ばつのほうが報道量は多かった。

エチオピアの干ばつ地域で手をつなぐ子どもたち(写真: UNICEF Ethiopia / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
これらのニュース以外にも、一部の地域を重視する報道の事例は他にある。例えば、中南米の複数の国では、2019年から2023年現在の間にかけて、中絶合法化に向けた大きな社会運動や法律改定の動きが発生している。それにもかかわらず、2022年にアメリカで起きた法律改定のほうが圧倒的な報道量であった。また、人種差別に注目する報道においても登場する国の多くは欧米の国々が占める。
国際報道の偏りの背景にあるもの
欧米と東アジアが大きく注目されるといった偏りの背景として、日本の観点からみて距離が近いことや、貿易や安全保障などにおいても関係が深いことが挙げられるかもしれない。しかし、それだけで説明できるのだろうか。距離は統計的に報道量と関連していることが確認されているが、純粋な距離でいえば、欧米が日本に近いわけではない。逆に東南アジアは距離が近く、貿易、人の交流において関係が深いにも関わらず報道量が少ない。また、中東も日本のエネルギー供給において非常に重要なのに報道が少ない。
また、ロシア・ウクライナ戦争は、大国が絡み、核兵器の関連も指摘されているために、国益上の理由から注目されるとも考えられる。しかし、人道報道がロシア・ウクライナ紛争のウクライナ人被害者にばかり集中することについては国益で説明をすることが難しい。どのような人・地域であってもその困難さを抱えているならば、人々は共感しあう余地があるはずである。また、過去に大国・核兵器が関わっていなかったにも関わらず、ヨーロッパで起きてさえすれば、その紛争は大きく注目される傾向にある。例えば、1990年代のボスニア紛争は、当時のより規模の大きいアフリカでの紛争よりも、日本メディアで大きく注目された。ヨーロッパの紛争は注目に値するという一つのパターンが形成されているようである。

洪水時のフィリピン、マニラの低所得住宅地(写真:Jörg Dietze / Flickr [CC BY 2.0])
そして、統計分析から、貧困状態が報道量に大きく影響するということが明らかである。つまり、貧困率が高くなればなるほど、報道量が減る。これで、貧困率が低い欧米地域と、貧困率が高いその他の地域の間にある報道量の格差については、ある程度説明がつく。しかし、貧困だから報道されないだけなのだろうか。冒頭の事例のように、「青い目と金髪」の人だからといった外見的な要素も、報道量の差を生み出す一つの要因として関係している可能性がある。
報道関係者はどう考える
国際報道で報道される量は地域によって大きく偏っているとはいえ、その背景には報道の対象となる人々の外見や出身地域がどれほど影響を与えているのかは、データを用いて統計的に特定しづらいものである。そこで、国際報道の偏りについて現役の報道関係者の意見を聞くことにした。テレビ局の関係者3人(それぞれは別の放送局に所属)と、全国新聞紙関係者1人に個別にインタビューした。ここでは氏名を使用せずに、A氏、B氏、C氏、D氏と表現する。以下でそれぞれの見解をまとめる。
まず、国際報道において取り上げられる国や地域が偏るのは、支局の数が限られており、報道できる地域に限界が生じるからだという全員に共通する見解があった。支局がなく、独自で映像を獲得できない地域に関しての報道をするときには、欧米メディアなどから映像を購入する。そのため、必然的に欧米メディアの報道傾向が反映されるのだと言う。また、世界について報道できる枠は小さい。この限られた放送時間や紙面の中で新しい話題に触れ説明しようとすると、普段から報道されている国での話題より、長い時間や紙面を要する。そのため、視聴者や読者にすでになじみのある地域、国、事象がニュースとして選ばれる傾向にある。
加えて、報道内容を取捨選択する人の知識量も、報道価値の決定に影響することもあるとD氏は言う。視聴者や読者がなじみやすい国は、報道する側にとってもなじみ深い。そのために、報道される地域が固定されるという傾向がある。そうして、これまで報道対象として目を向けてこなかった地域については、報道されないままになるという悪循環が生じているとの指摘があった。

日本、東京のテレビ局概観(写真:Wally Gobetz / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
報道対象へのなじみ深さに加え、報道の対象になる人々への共感のしやすさも報道価値の決め手になるという。生活水準や生活スタイルが日本と近い地域に住む人やそこでの出来事には、共感しやすいと思われる。その共感のしやすさから、生活水準などにおいて日本と似た国での事象は自分事として捉えやすく、日本社会の視聴者や読者からの注目を得やすい。これは、上記の貧困率の高い国に対する報道が少ないという統計分析とも一致する見解と言える。また、C氏は、特に日本ではロンドンやパリ、アメリカに憧れる風潮が昔からあると指摘し、それらの地域で起きたことを報道すると視聴率にもつながるために報道されやすいと言う。
また、日本がG7の国であるという自負は、欧米への仲間意識を生み、憧れも相まって欧米に関する報道が多くなるとC氏は言う。そしてこの自負は、高所得国で豊かな自分たちは貧困な国や地域より上位にあると認識させる側面があるともいう。結果として、上下関係に基づき、日本で共感されにくい低所得国での事象をないがしろにする報道の傾向についても示唆した。
報道内容のストーリー性や珍しさも重要で、突発的に起こった紛争や自然災害は報道対象に選ばれやすいことが、インタビューした報道関係者の共通見解だった。アフリカ地域における紛争や干ばつを、日々起きている珍しくないことだと、ことの重大性を見誤り、たとえ日本以外のメディアからそのような報道のネタを入手しても、国際報道として扱わないという判断がされやすいとA氏はいう。また、大国が関与する、あるいは大国の対立といった、重大そうで簡明なストーリーとして描きやすい話は、積極的に報道されるという。
また、日本社会の傾向として、人権意識が低い事もD氏は指摘する。加えてC氏は自国中心的風潮がつよい日本社会では、他国への関心がそもそもあまりないとも言う。こういった事情から、日本社会では人道報道自体が少ない。ロシア・ウクライナ戦争において例外的に人道報道が多いように感じるのは、単に戦争関連報道に付随して人道面にフォーカスしたにすぎず、人道支援を煽るなど、特別な意図があるわけではないという。ロシア・ウクライナ戦争に関する報道についても最終的な関心は、有事の際、日本に影響しかねない大国の動きに向けられているのではないかとの見解があった。「あくまで政治的な興味のもと、ショーとして楽しむ、ある意味日本における無慈悲な姿勢があると感じている」とC氏は述べた。

メモを取る記者(写真:President Of Ukraine / Flickr [CC0 1.0])
日本社会における「白人」への憧れ?
では、果たして外見は日本の国際報道に影響を与えているのか。日本社会ではいわゆる「白人」(※1)への憧れ意識が見られることがメディアのオピニオン記事などで指摘されることがある。例えば、報道の文脈で言えば、番組に外国人がコメンテーターとして登場する場合、その人は大抵欧米の「白人」であるとの指摘がある。中東問題・アフリカ問題ならば、中東・アフリカ出身の人が出るということは考えにくい。報道番組以外のメディアにも類似の傾向がみられる。
今回インタビューした報道関係者の一部は、外見や出身地域といった要素が報道価値の判断基準になる可能性があると指摘した。日本社会自体において、いわゆる「白人」への憧れ意識が存し、それが判断に影響を与えている可能性があるという。例えば B氏は、日本人は自分たちを「白人」寄りだと考える傾向があり、そうではない人に共感がしづらいのかもしれないと指摘した。またA氏は、ベラルーシ女性アスリートの外見が報道の決め手になった事例を語った。選手が東京五輪で自国の独裁政権を批判した事実が、ある報道関係者の目にとまると、ある担当者は、その「白人」らしい容姿を気に入ったことを理由に、選手の声を取り上げる旨を社内で主張したという。A氏はこのとき、ルッキズム的な判断で報道内容が決められる側面があると感じたという。日本社会が「白人」の容姿を好む傾向に、報道関係者が迎合することもあると指摘した。
人道的感情は対象地域によって異なる?
では、メディアを消費する人たちは、出身地域が異なる2人が類似の問題に直面しているとき、その2人に対して異なる反応をみせるのだろうか。そこで、フィクションの新聞記事を作成し、それに対する人道的反応を測るという実験調査を行った。
実験では2つの大学生集団を回答グループとし、それぞれにとある地域の外国人男性の難民認定の是非に関するアンケート調査(※2)を行った。一方のグループ(53人)には外国人男性の出身地域をヨーロッパと説明し、もう一方のグループ(51人)には外国人男性の出身地域をアフリカと説明した。記事には、男性の出身地域以外全て同じ内容が書かれている。おおまかな記事の内容は、男性が日本政府に難民認定を求め、それを政府が検討中であるというものである。参加者には記事を読んで、男性を難民として日本に受け入れるか、第三国に送るか、本国に送還するかといった3つの選択肢のうちどれが最も望ましいと考えられるかを直感的に選んでもらった。

アンケートに答える人(撮影者:Rei Oishi)
アンケートの回答結果の割合を比較してみると、両グループにおいて差はなかった。両グループとも回答者の約3分の2が難民認定をするべきだと答え、約3分の1が第三国への送還をするべきだと回答した(※3)。今回の調査では、難民認定の是非を問う質問に対して難民となった人物の出身地域は影響しなかったようだ。
実験に使った記事は調査用のフィクションのものであると示しており、調査対象は大学生のみであったため、この調査には限界がある。テレビやニュースの視聴者の多くは中高年層である事から、中高年層に対する調査であれば結果が異なっていたかもしれない。しかし、少なくとも今回の「難民認定」について問う調査では、対象とした大学生たちに、出身地域に基づいて価値判断を行う傾向は見られなかった。
まとめ
国際報道は、量やその報道内容の作られ方の違いを生む原因が複数考えられ、それらが複雑に絡み合っている。だからこそ、報道される人の外見や出身地域が、注目や同情の程度の判断材料となっているのかは特定しにくい。例えば、貧困率は報道の偏りを生む要因の一つというのは明らかになっている。しかし同時に、欧米の高所得国は、人口の多くを「白人」とされる人が占めている。つまりこの地域に住む多くの人についていえば、生活水準と外見という2つの要素が重なっているのである。ゆえに、高所得国とそうでない地域とで報道格差が生じる背景には、外見的な要因も決め手として関係してくる可能性は、否定し切れない。
さらに、報道される地域が偏ることは慣習的に形作られてきたものであるとも説明できる。これまで取り上げてきた地域に注目し続けている傾向がみられる。この背景には、歴史に記録と教育においても、欧米とそうでない地域において大きな情報量の差も挙げることができる。地域とそこに住む人に対するイメージに基づいた区別を無意識に行い、背景知識を持たない国や地域については、報道する側も、受け取る側もなじみにくさを感じる。
その結果、報道される地域は慣習的に固定されるという悪循環が生まれる。これを断ち切らない限り、日本の国際報道の偏りは解消されないのではないか。理由が何であれ、国際報道量に地域間で大きな格差が生じていることは間違いない。果たしてこのままで良いのだろうか。
※1 そもそも「人種」という言葉は、各社会の都合で本来明確に分類できないものを強引かつ作為的に分類するために作られた概念に過ぎない。ここに科学的根拠はない。ゆえに、「白人」という表現も一般化されたものであり、生物学的にそのような分類は存在しない。
※2 今回使用したフィクションの記事と質問内容は以下の通りである。記事①の回答人数は53人。記事②の回答人数は51人である。
記事①見出し:中央ヨーロッパA国人男性の難民認定 結果は来週にも
本文:中央ヨーロッパのA国出身の男性の難民申請への判定がまもなく明らかになる。このA国人男性(29歳)は、2019年に来日し、母国での迫害を理由に難民認定を求めていた。A国は武力紛争こそ抱えていないが、少数派に対する弾圧が近年加速しており、強制送還されれば逮捕や拷問の恐れもあると専門家は指摘する。中央ヨーロッパの周辺国も現状を問題視しており、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)はこの男性の状況は難民認定に値すると発表している。現在、日本政府は男性の難民申請を受け入れ、日本での定住を許可するのか、第三国での定住を促すか、難民認定せずに送還するかどうかを検討しており、来週にもその結果が出る予定である。
記事②見出し:東アフリカA国人男性の難民認定 結果は来週にも
本文:東アフリカのA国出身の男性の難民申請への判定がまもなく明らかになる。このA国人男性(29歳)は、2019年に来日し、母国での迫害を理由に難民認定を求めていた。A国は武力紛争こそ抱えていないが、少数派に対する弾圧が近年加速しており、強制送還されれば逮捕や拷問の恐れもあると専門家は指摘する。東アフリカの周辺国も現状を問題視しており、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)はこの男性の状況は難民認定に値すると発表している。現在、日本政府は男性の難民申請を受け入れ、日本での定住を許可するのか、第三国での定住を促すか、難民認定せずに送還するかどうかを検討しており、来週にもその結果が出る予定である。
質問内容:記事で取り上げられていた男性について、日本政府は以下のうちどの対応をするべきだと思いますか?
回答選択肢:(1)難民認定をする(2)第三国への定住を促す(3)本国へ送還する
※3 記事①の回答者数内訳は、(1)難民認定をする36人、(2)第三国への定住を促す16人、(3)本国へ送還する1人。記事②の回答者内訳は、(1)難民認定をする33人、(2)第三国への定住を促す16人、(3)本国へ送還する2人であった。
ライター:Rei Oishi
とても結果の気になるアンケートでした。
日本の平和ボケはよく言われますが、人権意識の低さの指摘にはハッとさせられました。
もちろん、発信元であるメディアの報道に偏りが生じることはよろしくありませんが、その改善は我々読み手のリテラシーや資質の向上あってのものなのではないのでしょうか。
そうでなければ、我々はメディアに舐められ切ったままだと思うので。
報道関係者へのインタビューにより報道現場でどのように偏りが生まれている背景を知ることができ、勉強になりました。
「青い目と金髪のヨーロッパ人が毎日殺されているのを見ているので、非常に感情的になる。」
BBCの中でこういった発信があったのはびっくりです。しかもBBCの人たち、あんまり差別的だって自覚してなさそう、、