2020年9月、西アフリカに位置するコートジボワールでアフリカ初となる無国籍者を守る法的プロセスが承認された。無国籍者とはどの国からも国民として認められていない人々のことを指し、多くの無国籍者は医療・教育・財産的権利が保障されないなど、さまざまな問題を抱えている。そして、コートジボワールには多くの無国籍者がいるとされている。その背景には、植民地時代の強制移住、独立後の政治的対立、周辺国を含めた武力紛争など様々な問題が複雑に絡んでいる。以下では、それらの背景とコートジボワールの現状および展望について考察していく。

コートジボワールの大都市アビジャンの様子(International Monetary Fund / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
歴史的背景
西アフリカでは気候や農耕スタイル、対立や紛争などによって、民族の形成や活発な人口移動がされてきた。現在のコートジボワールの領土でも、多くの人が様々な理由から移動し多様な民族形成がなされてきた。強大な一つのグループが存在し支配するというよりも、相対的に規模の小さいグループがそれぞれの統治システムを持ち併存していたのだった。19世紀から現在のコートジボワールに他国による進出が始まり、1843年には東部の海岸にフランスの要塞が作られた。しかし、本格的な植民地化が始まったのは1880年代後半からである。こうして現在のコートジボワールは今日のセネガル、マリ、ブルキナファソ、ニジェール、ギニア、ベナンと共に「フランス領西アフリカ」としてフランスに統治された。このようなフランスとの関わりの中で、取引商品の象牙からフランス語で「象牙海岸」という意味を表す「コートジボワール(Côte d'Ivoire)」と呼ばれ、現在の国名の由来になった。
フランスは、コートジボワールの土地が肥沃であることに目を付け、土地を占領、プランテーション化しようとした。その際に、近隣の植民地から人々を強制移住させ、カカオやコーヒーのプランテーションでの労働者として働かせた。このフランスの移住政策によって、1960年には総人口370万人のうち、コートジボワールの国境の外で生まれ、移住した者は13%に上った。
独立後の政治
1960年にコートジボワールは独立し、その独立当初からコートジボワールの大統領を務めたのがコートジボワール民主党(PDCI)のフェリックス・ウフェ・ボワニ氏である。このボワニ大統領の下でコートジボワールは1980年代まで経済成長、「イボワールの奇跡」(イボワールはコートジボワールの意)を遂げた。ボワニ大統領の時代に南部のプランテーションで生産されるカカオとコーヒーの商品価格が高騰した。しかし、発展を遂げる南部と北部では格差が広がった。この問題に対しボワニ大統領は、北部で商業的な食糧生産を推進したが、南北の格差はボワニ大統領の時代以降も残ることになる。

コートジボワールのカカオ農家(Nestlé / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
経済発展の下、労働力を確保するためボワニ大統領は自由な移民政策を行った。例として、法律でコートジボワール国籍を取得しなくても、コートジボワール国民として完全な権利を与えた。また、1970年から75年までの5カ年計画ではボワニ大統領は「農地はそれを利用する農家に帰属する」と宣言し、国籍を問わず積極的な開墾、農作業を推進した。
このようなボワニ大統領の自由な移民政策により、近隣国からの移住者はわざわざコートジボワール国籍を取得する必要がなかったのである。ここに、コートジボワールに無国籍者が多い背景を見ることができる。
「イボワールの奇跡」において、コートジボワールとフランスの関係について触れておかなければならない。フランスは独立後も様々な形でアフリカ諸国に大きな影響力を持とうとした。具体的には軍事基地を維持したり、植民地時代に使用されたCFA(アフリカ金融共同体 Communauté Financière Africaine ※1)フランという通貨を西アフリカ諸国内で使用させたりした。CFAフランのシステム(※2)ではアフリカ諸国は自由で自主的な経済政策を行うことが難しく、真の独立と言えないと指摘されている。
「イボワールの奇跡」の崩壊
コートジボワールの状況が変化し始めたのは1980年代のカカオとコーヒーの世界価格の暴落からであった。国民所得は減少し、1987年には、国が破産寸前の状態になった。そこでフランス政府は1948年以来変わっていなかったCFAフランの為替レートを1994年に50%切り下げた。CFAフランの切り下げは、コートジボワール国内でインフレを引き起こし、経済恐慌と貧困を促進した。
そのような経済危機の中、独立当初から大統領を務めたボワニ大統領が1993年に亡くなった。ボワニ氏の後継として当時国会の議長であり、PDCIのコナン・ベディエ氏が大統領を代行することになった。しかし、国内には、ボワニ政権の時に首相を務めた共和連合(RDR)のアウサン・ワタラ氏が後任に相応しいと考える人が存在し、「ベディエ対ワタラ」の政治対立構造が成立した。この対決は1995年の選挙で勝敗が明らかになるはずであった。
さて、ワタラ氏の家系は植民地以前から現在のコートジボワール北部とブルキナファソの複数の箇所に住んだことがあり、北部と北部出身者を中心に根強い支持があった。また、父はブルキナファソの村の首長を務めており、ワタラ氏自身以前にブルキナファソ国籍を取得したことがあったらしいということが囁かれていた。
ベディエ氏はこういったワタラ氏の経歴に着目し、ワタラ氏の選挙への立候補自体を阻止するため選挙法を改定した。内容としては「40歳以上でなく、父と母の間に生まれた生粋のイボワール人でない者は、共和国大統領に選出されることはできない。また、コートジボワールの国籍を放棄したことがない者でなければならない」というものであった。ワタラ氏を「生粋のイボワール人」でないと主張し、明らかに、ワタラ氏を狙い撃ちした法律だということがわかるだろう。
結局、ワタラ氏は出馬を断念し、ベディエ氏は第2代大統領になった。ベディエ大統領は「外国人」に対する敵対心を強め、「生粋のイボワール人」とみなさないものに対する差別政策を実施した。ベディエ大統領とワタラ氏の政争は「イボワール人対外国人」「南部対北部」という対立構造に単純化されたのである。
そのようなベディエ大統領期の政情の不安定と経済の低迷に対し、1999年、給与の未払いなど待遇の不満を訴えた軍人が軍事クーデターを起こした。この軍事クーデターの結果としてローベル・ゲイ将軍の軍事政権が誕生した。
軍事政権発足直後のゲイ氏はあくまでも反乱兵のスポークスマンであると主張していたが、徐々に大統領の座に野心を募らせた。結果として、最大の敵となるワタラ氏の大統領選挙の立候補を防ぐため、ベディエ氏と同様に、ゲイ氏はイボワール人性の思想を利用した。新たな憲法にベディエが改定した選挙法の内容を盛り込んだのだ。結局、ワタラ氏は両親が生まれながらのコートジボワール国籍の保有者であることを示す書類とともに大統領選挙への立候補を申請したが、不正を疑われ、裁判所で却下されたのだった。しかしながら、ゲイ軍事政権の最高意思決定機関がワタラ氏の政党の支持者であったことやゲイ氏に有力な協力者がいなかったことから、2000年の選挙においてイボワール人民戦線(FPI)のローラン・バグボ氏に敗北したが、ゲイ氏は自ら勝利を宣言した。バグボ氏が率いるFPIは不正選挙に抗議するとともに、ワタラ氏率いるRDRを排除するため各地で暴力行為を繰り返した。この騒乱の中ゲイ氏は国外逃亡を余儀なくされた。
バグボ大統領の政治と紛争
軍事政権を打倒し大統領となったバグボ氏もイボワール人性を重視する政策を実施し、北部出身者を政府から排除するといった、ワタラ氏の支持者が多く住む北部の住民に対して強硬な姿勢をとった。また、2002年7月に大統領選の指標となる地方選挙で野党のRDRが多くの議席を獲得した。バグボ大統領を支持するものはワタラ陣営も含めた政府が発足することに対して不満を抱えるなど国内の状況は緊張していた。
そのような中で、2002年9月、コートジボワール紛争が本格化した。紛争の狼煙を上げたのはコートジボワール愛国運動(MPCI)と他2勢力からなる反乱軍(のちの「新勢力(FN)」)の挙兵であり、中核を務めたのは2000年の軍事政権崩壊の際に国外に逃亡していた軍人たちである。挙兵した反乱軍は事実上の首都であるアビジャン(※3)やその他の政府機関を襲撃した。この襲撃でゲイ氏をはじめとする約400人が命を落とした。また同時期に紛争が起こったシエラレオネとリベリアから反乱軍に参加する者もいた。また、コートジボワールから難民がリベリアとシエラレオネに到着したり、逆にリベリアやシエラレオネからコートジボワールに難民が到着したりするなど多発する紛争の中、大きな人の移動が発生した。

ローラン・バグボ氏(United Nations Photo / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
この紛争は、2002年の10月中旬には最初の休戦協定が成立した。反乱軍が北部を、政府軍が南部を支配する形で、緩衝地帯にはフランス軍、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の派遣部隊、国連平和維持活動(国連PKO)が派遣された。これらの組織の和平仲介により、2003年1月、この紛争の最初の基本的な和平合意、マルクーシ合意が締結された。コートジボワールの領土保全の必要性、新首相による国民和解政府の設立、不正な選挙要件によって人々が排除されない透明で自由な選挙を実現する憲法改定という3つの主要原則に基づくものだった。そしてマルクーシ合意では2005年10月に総選挙を実施することが約束されていた。
バグボ大統領はマルクーシ合意の履行を妨げた。特に、バグボ大統領が難色を示していたのは大統領の被選挙権に関する憲法の改定である。前述のようにベディエ氏以降の政権を握る者たちはワタラ氏を「生粋のイボワール人」ではないとし、大統領選に出馬することを妨げてきた。マルクーシ合意では政争に利用されてきた、国籍、アイデンティティの課題をなくすことによって紛争の解決が試みられた。ワタラ氏の出馬はバグボ大統領の再選を脅かすものであり、バグボ氏は大統領の権限に関わる条項の改定には国民投票が必要であり、有権者登録自体が課題である状況においては憲法改正が不可能だと抵抗した。
この紛争の間、フランスとバグボ氏の関係は悪化した。きっかけとなったのは2004年11月にバグボ大統領が北部の中心地であるブアケに空爆を行い、故意か事故かは不明であるがフランス軍の兵士9人を死亡させたことだ。フランスは報復として政府軍の空軍を全滅させた。
バグボ氏の抵抗により、マルクーシ合意の履行は停滞した。したがって、2005年10月の選挙も実施できず、1年延期されることになった。しかしながら、その延期された選挙も実施されず、和平に向けた動きは停滞してしまった。そこで、ブルキナファソの仲介によりワガドゥグ合意が締結された。ワガドゥグ合意はバグボ大統領が和平プロセスにおけて優位な立場を得て、またFNのトップであったギョーム・ソロ氏が大統領選に出馬しないことが確約され再選の可能性が大いに高まるなどバグボ大統領の警戒心を拭う和平合意であった。ワガドゥグ合意を締結したバグボ大統領は一転して、和平プロセスに積極的になり、2008年7月には南北に分断された国土の再統一を果たした。

コートジボワールで活動する国連PKO(United Nations Photo / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
10年ぶりの選挙と新たな紛争
マルクーシ合意で示されたように紛争の終結には大統領選挙の実施は不可欠であった。ワガドゥグ合意が締結した後も選挙の実施が目標とされた。コートジボワールにおいて誰が有権者かを特定する有権者登録制度は1990年代から重要な問題であった。なぜならばワガドゥグ合意以前は、有権者登録のためには国民証が必要なのだが、国民証の発行には出生証明書と国籍証明証が必要であったからである。つまり国籍を証明できないものは選挙権を所有できず、選挙に参加することができないのである。紛争時期において反乱軍の支配下では行政サービスが停止していたことや戦火によって重要書類が毀損・消失したことなどにより有権者登録は困難を極めた。ワガドゥグ合意により有権者登録には出生証明書のみの提出で良いとなったため作業が大きく進められた。また、国籍法の改定によりワタラ氏の出馬が可能になった。しかし、バグボ大統領は国内の混乱を理由に、大統領選挙を延期した。
幾度となく行われた選挙の延期を経て、2010年に10年ぶりの大統領選挙が実施された。14人が大統領選挙に立候補したが、結果としてバグボ氏とワタラ氏が決戦投票に進んだ。結果はワタラ氏が54.1%の票を獲得し、勝利した。しかし、バグボ氏はワタラ氏の支持者が多い北部地域において不正が行われたと主張し、その票を除けば勝利するはずだと自らを「正当な大統領」と自認し12月14日に大統領就任宣誓式を行った。一方、国連PKOの調査は、多少の不備は存在したものの勝敗に影響を与えるものではないとワタラ氏の当選を支持した。これに基づいてワタラ氏も同日12月14日に就任宣誓式を行った。コートジボワールは1つの国に2人の大統領が存在するという状況に至った。これが新たな紛争を引き起こした。
バグボ氏はアフリカ連合を中心に退陣を促されたが拒否した。2011年2月頃から、バグボ氏の退陣を求めてアビジャンで抗議デモが行われるようになった。デモに対しバグボ氏は政府治安部隊の投入など武力で対抗し、多くの死傷者を出した。また、ワタラ派の武装勢力は一時、国土の大半を制圧し、アビジャンの大統領府を包囲した。事態は国連PKOの軍事介入が行われるにまで深刻化し、2011年4月ついにワタラ氏側の国軍によってバグボ氏が逮捕された。これによりコートジボワールの紛争は終結を迎えた。
この4ヶ月間の紛争で約3,000人が犠牲になったとされ、バグボ氏は国際刑事裁判所(ICC)に人道に対する罪の容疑で逮捕された(2021年に無罪が確定、帰国)。
コートジボワールの現在
様々な問題がありながら、ついに選挙によってワタラ氏が大統領に就任したが、コートジボワールには安定した未来がきたのだろうか。

アウサン・ワタラ氏(Paul Kagame / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
2016年の憲法改定で大統領は2期までと定められた。しかし、ワタラ大統領は憲法改定時が1期目になるため現行の憲法の下では2期目になると主張し、2020年の3期目の大統領選に立候補、当選した。野党は違反であると反発し、選挙をボイコットした。この選挙の暴動により少なくとも85人が死亡するなど、政治的混乱は払拭しきれていない。
しかしながら、2022年の7月、ワタラ大統領はかつての政敵であるバグボ氏とベディエ氏とともに「友愛の会合」を行い、ワタラ大統領はバグボ氏に恩赦を与えるなど融和的な態度を示している。
また、2020年から2022年の間に西アフリカ諸国で軍事クーデターが多発しており、その影響でコートジボワールへの難民が増加する可能性がある。さらに、軍事クーデター以前からブルキナファソやマリでは武力紛争が続いており、多くの人がコートジボワールに流入している。2023年5月の時点で22,114人が亡命者としてコートジボワールに到着している。このような周辺国からの人口流入はコートジボワールにおいて国籍、アイデンティティの問題を再び問いかけることになるかもしれない。
一方で、コートジボワールでの紛争終結から年月が経ち、状況が落ち着いたこともあり、2022年6月にはコートジボワールの紛争による難民の認定が完了した。これにより数十万がコートジボワールに帰国する可能性がある。
しかし、コートジボワールから多くの人が出国する別の要因もある。それはコートジボワールで蔓延する貧困から逃れようとする経済移民・経済難民である。その背景にはカカオなどの輸出品に関するアンフェアな価格設定などの問題も根強く残っている。経済移民・経済難民の多くがヨーロッパを目指し、過酷な道のりを歩んでいる。
他にも、地域機構であるECOWASは「イボワールの奇跡」の崩壊の一因となったCFAフランを廃止し新たな通貨としてエコ(Eco)を2027年に導入すると発表している。Ecoではフランスに対する外貨準備の預入の義務の廃止やフランス代表派遣の廃止によりフランスはアフリカ諸国に対して干渉を薄めると言われている。果たして新通貨の導入は真のフランスからの独立を意味することになるのかということにも今後は注目していきたい。

投票が終わった人を区別するために青いインクを着ける様子(United Nations Development Programme / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
まとめ
これまで述べてきたようにコートジボワールにおける国籍問題や移住から発生する他の問題の背景には、植民地時代からの大量の労働移民、そして政治的対立や武力紛争があるということがわかるだろう。コートジボワールによる無国籍者を守る法的プロセスの承認を皮切りに、無国籍の問題はコートジボワールだけでなく西アフリカ地域としての課題として取り上げられるようになった。コートジボワールも所属するECOWASは国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などと協力し、無国籍者の保護と解決に向けて、無国籍者の決定手続きを確立する法の草案を作成した。コートジボワールも2024年までに無国籍の問題を解決すると発表するなど、着実に課題解決に向けた取り組みがされている。しかし、このような国籍を含めたアイデンティティに基づいた対立課題の根本的な解決には、格差の是正や差別の撤廃などが必要になるだろう。
※1 CFAはアフリカのフランス植民地(Communauté Française d'Afrique)の頭字語であったが、独立後はアフリカ金融コミュニティ(Communauté Financière Africaine)へと変更された。
※2 CFAフランの特徴は主に以下の3つ:
- フランスフラン(ユーロ誕生後はユーロ)との固定交換レートであること
- アフリカ諸国は外貨準備率の50%をフランス財務省に預け、さらに金融負債のために20%を追加すること
- コートジボワールの発券銀行にあたる西アフリカ諸国中央銀行(BCEAO)理事会にフランス代表が派遣されること
※3 コートジボワールの首都は内陸にあるヤムスクロだが、アビジャンは事実上の首都機能を果たすコートジボワールの最大都市である。
ライター:Misaki Nakayama
グラフィック:Ayaka Takeuchi
普段日本ではアイデンティティで悩むことはない。植民地だった過去や発展の過程、争いで事態が複雑化しており、創造しにくい問題だと感じた。記事を通して、コートジボワールに興味が持てた。
コートジボワールについては西アフリカの国で元植民地だったことくらいしか知らなかったけど、この記事のおかげで独立後の政治が大まかに分かった。中南米諸国もそうだが、植民地支配から独立した国々は政情不安で軍事クーデターが非常に多い感覚。無国籍者に国籍を与えたら当然無国籍者は減るけど、無国籍のそもそもの問題(様々な権利が国籍に縛られてしまっているなど)は解決されないし根本的な原因の除去は達成できるんだろうか。
アフリカ地域における、ヨーロッパ諸国の介入がもっと知られるべきと感じました。コートジボワールがフランスの介入や影響を大きく受けているように、ヨーロッパの高所得国の影響で不安定な状況に陥っている国は多いと思います。それがほとんど知られていないという現状を、もっとGNVでも取り上げてみてほしいです。
コートジボワールといったらカカオくらいしかイメージしかなかったですが、権力争い、それに伴う紛争など、なかなか複雑な情勢がありますね、、
政治的対立に関して、丁寧に読んでいても混乱するほど複雑に絡み合っていて、解決するにも一筋縄には行かないのだろうなと思った。
現在、アイデンティティの問題は融和の方面に進んでいるように感じられるので、このまま逆行しなければいいなと思いました。