2018年9月14日、YouTubeのキルギス音楽チャンネルに投稿された動画がたちまち物議をかもした。19歳の少女ゼレ・アシルベク・キジ氏(Zere Asylbek kyzy)が歌う「キズ(Kyz:少女)」という歌のテーマは、女性への尊敬だ。歌詞には「そんな服を着るな、そんなことをするな」と言われることのない、アシルベク・キジ氏自身が抱くより良い将来への希望が表現されている。
にもかかわらず、この動画に寄せられた否定的なコメントの大部分は彼女や動画に登場する他の女性の服装に向けられたものであった。アシルベク・キジ氏の服装は紫のブラジャー、スカート、ジャケットというものであり、他の女性は伝統的なキルギス文化やイスラム文化を思わせる衣装から現代的でインフォーマルな服装、果てはビキニという多様な格好をしていた。動画に対する強い反発と極端な議論がなされたことを受け、キルギス音楽チャンネルは動画のコメント機能を閉鎖した。しかし、好評価と否定的な評価の割合はそれぞれ44%、56%となっており、アシルベク・キジ氏が広めようとしたメッセージの適切性を巡って世論が二分されていることを反映している。この論争の背景には何があるのだろうか。

ゼレ・アシルベク・キジ氏の「キズ(少女)」の動画より(写真:Nick Potts)
割れた世論
似たような議論が2016年7月のキルギスでも起こっている。伝統衣装をまとった女性と白黒のニカブ(イスラム教徒の女性が着用する顔を覆うベール)を着けた女性が写った看板が路上に掲げられたのだ。看板には「哀れな人民よ、我々はどこに向かっているのか」というメッセージが書かれていた。つまり、ニカブはあくまで中東の衣装であり、キルギスの人々にとっては外国から押し付けられた文化の象徴とされたのだ。このキャンペーンには地方自治体が資金提供をし、大統領であるアルマズベク・アタムバエフも賛同していた。
「Kyz」と同様、この「哀れな人民(Kairan elim)」キャンペーンは社会的な反発を巻き起こし、メッセージに示された立場の賛否を巡って世論を二分した。キャンペーン反対者は看板を燃やしたり破ったりして抗議を行い、中には代替看板を掲示した人もいた。その看板にはキルギスの伝統衣装を着た女性とミニスカートを履いた少女が並べられており、西洋文化が「哀れな」キルギスの人民に押し付けられているというメッセージが書かれていた。
このような議論は当初は女性の衣装、権利、自由を巡ってなされた。しかしそれ以上に、キルギス民族とは誰を指すのか、文化を規定するものとは何か、そして民族はどこに向かうべきかに関する世論の深刻な亀裂を示している。民族的価値や伝統の再興を望む人、共通の宗教に基づいたアイデンティティの形成を望む人、あるいは西洋文化に圧倒されているとされる現代に民族の将来を見出す人など様々な意見がある。
アイデンティティに関するこのような論点はマスメディア技術の普及に伴ってより公に議論されるようになった。しかし、議論はキルギス民族の歴史に由来するものである。特に前世紀、ソ連によってキルギス共和国の国境線が引かれた時や共産主義イデオロギーの下で宗教が抑制された時、また1990年代の始めにソ連から独立を果たした以降の歴史に影響を受けている。したがって、現在におけるキルギス民族のアイデンティティの危機や女性の外見を巡る論争を理解するためには、キルギス民族の歴史を検証することが重要である。

ビシュケクの市場(写真:Jasmine Halki / Flickr [CC BY 2.0])
ソ連支配以前のキルギス民族のアイデンティティ
キルギスの領土は前世紀より小さく、またキルギス共和国は独立して27年に過ぎないが、キルギス民族の歴史は2000年以上にわたる。古代のキルギス民族はチュルク語族に分類される遊牧民族であり、宗教的慣行はシャーマニズム、アニミズム、トーテミズム、多神教、一神教、先祖崇拝などであった。出自や言語からはキルギス民族は、歴史を通してアジア全域からヨーロッパへと広まったチュルク語族に属する関係にある。
キルギスを含めた古代チュルク遊牧社会では、女性が宗教的慣行において最高位を占めていたこともあり、女性が社会において高い地位を占めていたことを示す証拠がある。しかしながら、8~12世紀にかけてイスラム教がもたらされた結果としてキルギス民族における女性の地位は低められた。また、イスラム化によって民族衣装も変化した。女性は動物の毛皮で作られた帽子ではなく、顔を覆う長いスカーフを身に着けるようになった。ただし中東のニカブとは対照的に、キルギスにおけるイスラム風の衣装は現在でも明るくカラフルなものである。
さらに、遊牧生活を営むこともあり、キルギス社会の宗教が多様化する傾向からは、イスラム以前の信仰を持っておりイスラム教の戒律や伝統が比較的緩やかであることがわかる。この時期におけるキルギス民族のアイデンティティは特定の社会・政治的団体、言語、民族、共有文化、宗教にどの程度関わっているかを軸に形成された。恒常的な移民の流入や、定期的に異なる帝国の統治をうけたことを理由として、キルギス民族にとって広い意味での国家アイデンティティはほとんど、或いは全く重要ではなかった。しかし、中央アジア地域をロシア帝国およびソ連が70年にわたって支配したことによって、キルギス民族のアイデンティティや伝統、規範、そして社会構造は大きく形を変えた。
ソ連支配下で変わりゆく女性の社会的地位と国家アイデンティティの構築
中央アジアは、19世紀後半にロシア帝国に支配されて以来、1990年代初頭までソビエトの支配下に置かれ続けた。この時期に急速な現代化が進んだ。また、ロシア文化が義務教育を通して広められると同時に、宗教、遊牧的な生活様式、この地域における伝統や規範のいくつかは抑制された。
中央アジア諸国がロシア帝国および1917年の十月革命後の赤軍に対して抵抗した際、宗教は、諸国を団結させるという特別な役割を果たした。中央アジアでは国家アイデンティティが欠落しており、またイスラム教によって団結しうることに気づいた共産党の指導層は、主だった土着集団の言語の違いに基づいて新たな行政単位を設立した。その目的は人々を分断させることによって、支配を容易にすることにあった。しかし、このような中央アジアでの民族言語学的な分割は、完全とは程遠い。というのも、同地域の民族は交じり合い、規模の大きな都市では共存していたからである。とはいえ、分割は行政を単純化する役割を果たした。
分割によってカラ=キルギス自治州が1924年に設立され、結果として現在のキルギス国境線が画定した。この自治州は1926年にキルギス自治ソビエト社会主義共和国となり、1936年12月5日にはキルギス・ソビエト社会主義共和国となった。即物的な共産党イデオロギーの下、ソ連全体で宗教を無くそうとするキャンペーンもあった。中央アジアでは、イスラム教に則った法的機関や教育機関が閉鎖され、伝統文化は公的領域から私的領域へと追いやられていった。

ビシュケクにあるレーニンの銅像(写真:mauro gambini / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
反宗教キャンペーンは特に中央アジアの女性を対象としていた。なぜなら、共産党体制下では、イスラム社会の規律はイデオロギー的にもそして経済的にも受け入れ難いものであったからである。共産党のイデオロギーはあらゆる社会的側面の平等を求めており、女性も生産活動に従事することが求められた。これは経済的には有益なものだった。また、1921年から1923年の間には複婚やカリム(kalym:花嫁への支給)、花嫁の同意なしの結婚といったイスラム的慣行を禁止する法律が制定され、結婚の最低年齢が女性は16歳、男性は18歳と定められた。1927年には解放キャンペーンが加速し、中央アジアの女性にベールを着用させないようにする大々的な動きがあった。ベールを着用しないことを決めた女性には特権が付与された一方で、そうでない女性の夫には罰金や懲役が課される場合もあった。
1930年代半ばまではベールを完全に被った女性は稀であった。特に田舎では現在に至るまで明るい色のスカーフを頭に巻いた女性が見られる。ソ連時代における共産主義、教育システムを通して普及したプロパガンダ、マスメディア、また第二次世界大戦という経験を共有することで、中央アジアのソビエト共和国諸国内では国家アイデンティティが生まれた。しかし、このアイデンティティはソ連全体との結びつきが強く、諸国の独立という考えは、ソ連崩壊以前の段階では、中央アジアではそれほど共有されてはいなかった。例として、ソ連崩壊前の1991年3月にキルギス・ソビエト社会主義共和国で行われた国民投票では96.4%がソ連の維持に賛成している。つまり、キルギスの独立は解放闘争の結果ではないと言えるだろう。

キルギスの伝統的衣装(写真:Ninara / Flickr [CC BY 2.0])
独立したキルギスと不確定な将来
突然の独立によって、新時代のキルギスではアイデンティティの危機が生じた。またそれと同時に、新たな国家アイデンティティ創造のための複数の方法がもたらされた。ソ連は共産主義のイデオロギーによって複数の異なる共同体を結び付けていたが、このイデオロギーは失敗に終わった。そのためキルギスや他の中央アジア諸国の人々は、自分たちは誰か、何が自分たちを結び付けているのか、自分たちはどこへ向かうべきかといった問いに答える必要に迫られた。人々の回答は、住んでいるのが田舎か都市か、使用言語がキルギス語かロシア語かウズベク語なのか、若いのか高齢なのかによって異なり、衝突することもあった。
人々を結集するために、そして1990年にオシ(南部の都市)でキルギス人の多数派とウズベク人の少数派との間で生じた民族衝突のような対立を緩和するために、新たな枠内で強力な国家アイデンティティを作り出す必要があった。このような状況では国名までもが争点となった。国名は「キルギス人の土地」を意味するが、曖昧に引かれた国境線の内部には他の民族も含まれており、彼らのアイデンティティも考慮する必要があった。それにもかかわらず、政府はキルギスの民族的遺産を中心に据えた国家建設を推し進めた。文化を前面に出し、中央アジアで行われている民族的スポーツを振興するために世界遊牧民競技会(World Nomad Games)を開催した。

世界遊牧民競技会(2008年)の開会式(写真:Save the Dream / Flickr [CC BY 2.0])
政府はキルギスの現代化と世俗化を推奨している。もしイスラム復古というイデオロギーを採用するならば、政府の統治に対する異議が生じ、社会の安定性が損なわれるだろうと予想されているからだ。若い世代の中には歌手のゼレ・アシルベク・キジ氏のように現代化という方向性を受け入れ、さらにジェンダー平等と将来を選択する自由を求める者がいる。しかし、女性が国家アイデンティティと密接に結び付けられている以上、女性の服装は好ましい国家の将来像を巡る議論の中心的な争点であり続けるだろう。
ライター:Kamil Hamidov
翻訳:Ryo Kobayashi
グラフィック:Saki Takeuchi
何を自分のアイデンティティにすべきかというのは非常に難しい議論だと思った。
個人的には、アイデンティティとは個々人が「何をよりどころに自分という存在を見出したいか」で決めるものであり、皆がアイデンティティを一つだけに統一する必要がないと思った。
国や他人に縛られることなく、一人ひとりが自由にアイデンティティを形成し、皆がそれを尊重できるような社会になればよいなと思った。
方向性が固まるまでは論争が続くと思いますが、暴力沙汰などにならないことを願うばかりです。