これまでのGNVの記事では、日本の国際報道における様々な偏りを明らかにしてきた。例えば、大手新聞(朝日新聞、読売新聞、毎日新聞)の2015年分の国際報道量に関する分析によると、アフリカと中南米に対する報道があまりにも乏しく、この2つの大陸の報道量を合わせても、たった1ヶ国であるフランスに関する報道と同レベルだった。NHKの国際報道にも似たような傾向が見られている。またトピック別の報道で見ても、武力紛争、大事件、自然災害、宗教などにおいて、大きな偏りが確認されている。報道される国と出来事・報道されない国と出来事との差が極端で、問題や被害の規模とはほぼ関係なく他の要因で報道量が左右されていることも明確だ。ほとんど報道の対象にならない世界の大きな出来事や問題が決して少なくない。
上記の記事で見られるその現状から「貧しい国は報道されない」という結論にたどり着いてしまう。GNVの別の記事に於いてもそのような傾向が見られ、「貧困」という現象が世界で非常に深刻な問題でありながらも、ほとんどマスコミに取り上げられていないのが現状である。しかし、このような大まかな傾向は見られても、単純ではない。例えば、国のGDP(国内総生産)が比較的に多いインド、ブラジル、インドネシアなどの大国に対しても報道が少ない現状がある。これらの国は、大国でありながらも貧困が蔓延しており、一人当たりのGDPは比較的に少ない。報道されないのは「貧しい国」ではなく、「国民が比較的に貧しい国」と言ったほうが正確かもしれない。

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この背景には、人種や階級に基づいた潜在的な差別意識の存在は否定できないが、それ以外にも、読者・視聴者がその報道の対象者に「共感しやすい」かどうかも大きいと考えられる。報道対象者の人種、民族、言葉、文化、生活水準・生活スタイルが自分の状況に近ければ近いほど、その出来事を自分に重ねやすく、関心を持ちやすいという現象である。例えば、工業先進国に住む人は、貧困が蔓延しているスラム街や乾燥地帯の藁でできている家に住む人々の生活や置かれている現状について想像・共感しにくいと考えられる。この観点から、自然災害、武力紛争、テロの被害者などに関する報道は、発生場所が中東やアフリカより、生活水準における馴染みのあるヨーロッパのほうに関心が持てると報道機関が判断していると言える。結果的に、社会経済的地位によって報道されるか否かが決まる。
共感できるかどうかという観点から、もうひとつの要因が挙げられる。自国中心主義だ。この思想は全国的に活動している報道機関の方針の基盤のひとつとなっている。これは国際報道量が報道全体の1割以下に止まっていることの要因でもあり、国際報道の内容にも大きな影響を与えている。安全保障、貿易、観光などにおいて日本との関係が強い国は報道の対象になりやすい。アメリカ、中国、朝鮮半島が常に大きく取り上げられる理由はここにある。報道されるかどうかだけではなく、取り上げ方にも影響する。例えば、サウジアラビアの国王が2017年3月に日本を訪れた際、日本の大手報道機関はサウジアラビアにおける日本企業のビジネスチャンスや、国王の富裕のありさまなどの側面に注目した。しかし、サウジ国内での公開斬首刑などの深刻な人権侵害や、イエメン紛争において、大規模な飢饉を引き起こしているサウジアラビアによる空爆や海上封鎖などの問題に触れることは稀だった。

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また、国外で起きるあらゆる事故、事件や、ノーベル賞などの国際的な受賞、宇宙飛行なども自国の国民が関わっているかどうかが報道の有無の大きな決め手である。スポーツ報道においては、自国・自国民の関与・成績は報道を決める圧倒的な要因と言っても過言ではない。
娯楽番組にも同じような傾向が見られる。例えば、テレビ東京の「世界ナゼそこに?日本人」という番組では、普段報道されることがほとんどない世界が舞台となるという意味では珍しい番組だが、番組の目的は決してそこにあるわけではない。その場所に住んでいる日本人を探し、どのように暮らし、なぜそこにいるのかを探る内容であり、ホームページには番組の目的は「海外での日本人の活躍に共感し、日本人であることに誇りが持て、日本を応援するドキュメントバラエティ」と明記されている。
出来事・現象の性質も当然、報道されるかどうかに関係してくる。ニュースは本質的に急な変化に敏感であるためにドラマティックやセンセーショナルな出来事が取り上げられやすい。国内報道において、病気による「死」よりも交通事故による「死」がニュースになりやすいと同じように、飢餓による「死」よりも、武力紛争やテロによる「死」は取り上げられやすい。「貧困」という現象は性質的に取り上げられにくい。また、感情に訴える印象深い映像が存在する場合、報道の仕方も変わる可能性がある。シリア紛争でたくさんの子どもが殺されている中、怪我をした一人の子どもが無表情で救急車に乗っている姿がたまたまカメラに捉えられ、世界中で大きく取り上げられた例である。

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しかし、国際報道の量は、国外の事情、自国とのつながり、出来事・現象の性質だけではなく、報道機関自体の性質や慣習にも関係する。例えば、出来事の現場へのアクセスが容易か否かが要因のひとつになる。ネタがまだ「新鮮」なうちに現場に到着できなければ報道される可能性が大きく下がる。これは特にカメラを使用するテレビという媒体において重要である。入国拒否や危険性もアクセスの壁ともなりうるが、ほとんどの場合において報道機関の拠点からの距離や交通事情がカギとなる。また、一時的な派遣は時間もコストもかかる。ここで報道機関の特派員や支局の配置が肝心になってくる。この配置は報道の長期的な優先順位・戦略を反映するものである。例えば、NHKはアフリカや中南米には総支局がほとんど設置されておらず、これらの地域に関する報道の乏しさとも明らかに関連している。自国との関連が強い出来事など、他の要因が揃っていれば、アクセスのあらゆる問題は乗り越えられるが、重要視されるような側面がない限り、現場までのアクセスが国際報道への大きな壁となる。
以上のように、報道の偏りには様々な要因があるが、その結果、国際報道を通して、非常に偏った世界像が読者・視聴者に届けられているというのが現状だ。「自国中心主義」をもとに報道活動を行うこと自体は必ずしも問題ではないが、世界を理解するためには、客観的に世界を見つめることも重要だ。世界の問題が複雑に絡み合っているグローバル化の時代に、「自分の国には関係ない出来事」と勘違いし、世界の大きな部分に常に目を背ける事が自国のためになるとは思えない。しかし、世界全体を対象にしたジャーナリズムには費用がかかる。読者・視聴者も世界に関する情報の重要性を認識し、報道機関にその需要を示す必要があるのかもしれない。
こんにちは。今回、この記事を拝見させていただき、非常にためになるなぁと思いました。そこで質問なのですか、サブサハラ•アフリカ地域、南アジアなどの貧困地域に関しての報道で日本人が「共感」を抱いてくれるには、どのような記事が良いとお思いですか?