ここ数ヶ月、世界の多くの国で南米ベネズエラがニュースを賑わせている。元来、ベネズエラは豊富な石油埋蔵量で知られ、かつては独裁政権が蔓延るラテンアメリカにおける民主主義と発展の要でもあった。しかしながら、ハイパーインフレーションによって食料や薬品、その他基礎的なサービスが不足するようになり、その緩和を求める人々が抗議運動を起こし、治安と権力の維持を試みる政府との暴力的衝突が生じている。
どのような経緯を経て現状に至ったのか、以下でその詳細を見ていく。

機動隊に立ち向かう抗議者 写真: Efecto Eco (CC BY 3.0)
1959-1999年:ポピュリズムへの道
1959年1月23日、マルコス・ペレス・ヒメネスによる独裁政権は終わりを告げ、ラテンアメリカでは最長のひとつともいえる民主主義体制が始まった。それ以来、社会主義の国民行動党(AD)とキリスト教社会党(COPEI)の二大政党政治が継続してきた。
最初の15年間は堅実で多角的な経済発展を成し遂げた。しかし、第一次石油危機(1973年)における石油販売の高収益によってベネズエラ経済は石油収入に大きく依存するいわゆる「石油レンティア国家」(Rentismo Petrolero)状態となった。また、私欲や政治的利益に目がくらんだ政治家たちによって石油産業が国有化されるに至った。あらゆるインフラと石油関連施設が接収され、新設された国営企業であるベネズエラ石油公社(PDVSA)の管理下に置かれることとなった。上に挙げた「石油レンティア国家」であるが、1980年代に石油価格が大幅に下落したために大失策に陥った。
資源不足、経済政策の失敗、大衆迎合的な政治判断などを理由に、政府は介入を通じ、かつて強かったボリバル通貨をその管理下においたが、これが1983年の「黒い金曜日」と呼ばれる経済崩壊を招いた。ボリバルの価値はわずか2か月で半減し、後年には貧困をもたらした。やがて1989年には大衆による「カラカス暴動」が起こった。
状況の悪化と民主主義的政策への反感の広まりから、1992年には2つのクーデターが試みられた。どちらも失敗に終わったが、最初のものはウゴ・チャベス中佐に主導された。失敗後、チャベスは拘留され投獄されたが、体制反旗の象徴として市民の間で人気を博した。チャベスの人気によって、当時の大統領ラファエル・カルデラはチャベスへの提訴を取下げるよう命令した。このことによってチャベスは訴追を免れ、さらに大統領選挙への出馬が可能となった。
社会正義、既存体制の転覆、石油収入の公平な分配、新たな憲法の制定といった力強い言葉に後押しされ、1999年2月ウゴ・チャベス中佐は大統領となった。彼は自らの政権を「ボリバールの革命」と称した。

ベネズエラでの石油関連施設 写真: Jumanji Solar (CC BY-NC-SA 2.0)
1999-2013年:「ボリバールの革命」
チャベス政権の滑り出しは順風満帆とは言えなかった。就任直後の4年間は経済状況の悪さとも相まって、政策は多くの抗議運動やストライキを招き、失敗に終わったとはいえ新たなクーデターも試みられた。
チャベス大統領は2004年の国民投票で不信任を受けたものの、石油収入の増加(1999年にはバレルあたり10米ドルだった石油価格は36米ドルに上昇している)を背景に、「使命('Las Misiones')」と謳う一連の社会計画を打ち出した。計画には批判もあったが広く受け入れられた。国際社会からは、貧しい地域にこのような政策を差し伸べたと歓迎される一方で、公金の不正使用であってプロパガンダを浸透させるための手段であるとの批判もあった。
不信任投票をかわして体制強化を進めたチャベス大統領は、「21世紀の社会主義」と称して自らの経済・社会政策を急進化させた。このことは私有地や企業、基本サービスの大規模な接収につながり、公共セクターの範囲と従業員数が拡大した。更には、政府による為替相場への介入が増加し、生活必需品の価格を固定するに至った。これらの政策は多くの民間セクター側やエコノミストから批判されたが、国民の多くは改革を支持していた。
その後の国内情勢の特徴を挙げると、経済的には、インフレの進行と生活必需品が常には入手できない点に求められる。これらは抗議運動につながり、多くは政府が主導する反抗議運動と衝突した。反抗議運動は公的セクターの従業員も運動に参加していたとされた。社会的には、暴力が増加して2016年までにはベネズエラの3都市が世界で最も危険な都市の上位10位に指定された事が挙げられる。また、国際的には、ベネズエラは安価な石油供給を通じて地域諸国に対して政治的影響力を行使しており、チャベス政権はこの影響力の源泉を盾に国際的非難をはねつける事が可能であった。
経済状況が一層悪くなるにつれて人々はその原因を追及するようになった。政権側は国内・国外の勢力が「経済戦争」を仕掛けているとして非難した(国内勢は経営者や野党、国外勢はアメリカ、EUなど)。野党側としては、チャベス大統領が提唱した政策、「21世紀の社会主義」を非難した。状況は極めて悪かったのだが、そのカリスマ性からチャベス大統領は比較的高い支持率を維持し、2012年の選挙で3選を果たした。

ウゴ・チャベス元大統領 写真: Alex Lanz (CC BY-NC-ND 2.0)
しかしながら、チャベス氏は再選わずか2か月後に自身が患う癌の再発を発表し、キューバで療養する旨を発表した。最後となる演説でチャベス大統領は、彼の身上に何かあった際にはニコラス・マドゥーロ副大統領を後継者として選出するよう国民に対して呼びかけた。そして2013年3月15日、チャベス大統領の死去が発表された。
2013-2016年:チャベス無き「革命」
2013年4月、選挙の不正が取り沙汰されるただ中で、また僅差でもってニコラス・マドゥーロがベネズエラの新大統領となった。しかしながらマドゥーロはチャベスのようなカリスマ性を持ち合わせていなかった。経済状況の悪化と石油価格の下落が重なり、チャベスのイメージにすがろうとしている政権の支持率に大きな悪影響を及ぼした。
マドゥーロは経済危機の原因を「ボリバールの革命」に反対する「経済戦争」に求めようとした。経済状況(と結果として生じた問題)に対処するために、マドゥーロ政権は価格管理政策をほぼ全ての消費財に拡大し、軍の規律も強化した。これらの政策は野党側からはあまりに大衆迎合的だと考えられていた。小売業者に再調達価格を下回る額での販売を命じたことにより、多くの企業が倒産し、物資の不足に拍車がかかった。その後、統制後の価格で商品を購入する人は平均で4、5時間も行列に並ぶ羽目となった。結果として、固定価格の何倍もの値で取引される闇市が賑わった。

ベネズエラのスーパーでの物資不足 写真: Matyas Rehak / Shutterstock.com
2014年には物資不足と対処不能なインフレが抗議運動の契機となった。抗議運動は警察・軍、そして「共同体(Colectivo)」と呼ばれる親政府の武装団体との衝突を起こし、40人以上が亡くなり、レオポルド・ロペス(国民的信頼のあった野党党首)が投獄された。
このような状況の下、野党は2015年末には国民議会(AN)で圧倒的多数(定数の2/3)の議席を獲得し、法律制定への実権を手に入れた。しかしながら、ニコラス・マドゥーロ率いる与党と最高裁判所(※1)は国民議会の権限を弱めようと画策した。
2017年:危機の高まり
2017年4月、最高裁判所は国民議会の権限を剥奪するとの決定を下し、マドゥーロ大統領の権限を拡大した。この決定は新たな抗議運動を招いた。このような最高裁判所の決定、700%超のインフレ率(※2)、食料や薬品の欠乏、終わりなき暴力(※3)、人道的援助を拒む政府、政府側と野党側のいかなる交渉の試みにも進展が見られないこと、これらのことが大規模な抗議運動に結実している。
2014年の場合と同様、抗議の参加者は警察・軍、そして「共同体」による強い制圧を受けた。衝突によって100人以上が亡くなり(大部分が抗議の参加者)、何千人もが拘留され、その他の人権侵害が発生している。
これら抗議運動のただ中、マドゥーロ大統領は制憲議会(AC)を設置するための選挙を要求した。制憲議会は新憲法の草案作成をその役割とする。法の規定によれば、まずは有権者に新憲法制定の必要性を問うことになっているが、最高裁判所はこのような手続きは不要との見方を示した。この決定により、制憲議会議員選挙が2017年7月30日に行われた。野党側はこの選挙が違憲であると主張し、選挙には参加しなかった。
制憲議会の違法性を主張するのは野党だけではなく、同様の理由で、多くの他国政府(アルゼンチン、ブラジル、コロンビア、アメリカなど)や地域連合(EU)が制憲議会の決定を度外視する決定を下した。これら諸国に対してベネズエラ政府は主権侵害であるとの非難を示している。いずれにせよ、幅広い権能を付与された制憲議会が召集された。権能には、議会設置の目的である新憲法の草案作成に加え、法律の改正・制定・削除、また公職者の任命・除外が含まれている。
制憲議会の発足以来、ベネズエラ政府の独裁化傾向は強い非難を招いている。また、地域同盟(Mercosur:南米南部共同市場)からは参加の一時停止措置や、アメリカやEU諸国の指導者からは体制停止へ向けた明言がなされている。中でも顕著なのが、トランプ米大統領が8月に出した声明であり、米国はベネズエラ政府への軍事介入も辞さない考えを示した。

南米南部共同市場の会議に出席するマドゥーロ大統領(右から2人目) 写真: Cancillería Ecuador (CC BY-SA 2.0)
今回の危機は、現在ベネズエラにおいてもっともひどい状態であろう。しかし、この危機の背景にある政治と石油とカネの絡みは数十年前から潜んでいる。この絡みを変えない限り、一時的に危機から脱却したとしても、根本的な問題解決にはならない。
※1: すべて最高裁判所の構成員は、チャベス氏とマドゥーロ氏の社会主義政党であるPSUVの党員に準ずる者であり、政党の関係者であった。
※2: ベネズエラ中央銀行は、政治体制の混乱を招く恐れがあるとして、インフレと物資不足に関するデータの公表を取止めている。
※3: ベネズエラのNGOであるObservatory of Violence (OVV)によれば、2016年、首都のカラカスが世界で最も暴力の蔓延る都市(人口10万人あたり140件の殺人事件が起こった。)であり、ベネズエラはエルサルバドルに次いで、世界で2番目に殺人事件の多い国(人口10万人あたり91.8件)であった。政府公表のデータに対する疑惑は深い。
ライター: Esteban Ibañez
翻訳: Ryo Kobayashi