世界では様々な出来事が起こっている。しかし、その大半は断片的にしか報道されず、報道から見える世界は非常に限られている。ところで、この報道されない世界はどのようにして生まれるのだろうか。メディアはどのような判断に基づいて報道するかどうかを決めているのだろうか。ニュースの重要性を決める要素は、エリートが登場するか、意外性はあるか、ニュースの受け手と関連性があるか、など10個(※1)に分けられるという研究がある。報道機関は、これらを考慮してニュースの価値を決める傾向がある。今回はこのうち、エリートについてみていきたい。
日本の国際報道では、政府関係者や国際機関など、大きな影響力を持つ人や組織が話題にした事象を重要なものと判断する傾向があるようだ。GNVで過去に取り上げた分析を見てみよう。環境問題の中でも比較的最近問題視されるようになったプラスチック問題についての報道は、2018年のG7サミットまでは報道量が極端に少なかった。また、持続可能な開発目標(SDGs)という言葉は、国連で採択された2015年は報道量は多くなかったが、2017年の国連ハイレベル政治フォーラムで日本政府がアピールしてから報道量が増加した。はたまたアフリカの貧困に目を向けてみると、この問題を強調した2005年のG8サミットの時だけ極端に報道量が増加していた。その上、2005年以降に貧困が悪化したにも関わらず報道量は下がるという奇妙な現象も見られた。
いずれも報道量が増加したタイミングで発生した問題ではない。また、そのようなタイミングにならないと報道できないようなテーマでもない。どれも報道量が増える前からずっとあった深刻な問題、あるいは重要な取り決めだ。実際に被害に苦しんでいる人がいたり、普通に生活する人々にも関係したりするテーマであり、報道するための切り口になる要素はたくさんあったはずだ。しかし実際には、影響力のある国が興味を示すようなイベントでもない限りほとんど報道されてこなかったという現実があるようだ。報道と、影響力を持つものたち、すなわち「エリート」との間にはどのような関係があるのだろうか。これがこの記事のテーマだ。

EU首脳による非公式会談の様子(写真:European Council / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
他国の報道とエリート
先ほど見た日本の国際報道における報道とエリートの関係は、他国での報道でも見られるようだ。これについてみていく前に、まずエリートが一体どういうものなのかをはっきりさせておこう。エリートであるかどうかは、経済的・政治的・文化的関係によって決められる。例えば、経済的な影響力が大きいアメリカや中国は国家としてエリートになる。また、国会議員や官僚は政治的に大きな影響力を持っているため、国内ではエリートと言える。あるいは発行部数が多く、政治界・経済界からの定評があり、古くから存在するような報道機関もエリートと言える。以上を踏まえて、ここではアメリカとフランスの報道を見ていこう。
まずはアメリカの報道について考えてみよう。アメリカでメディアの存在が大きく注目された例としてよく引き合いに出される事例に、ベトナム戦争がある。この戦争については、メディアが写真や中継を用いて生々しい情報を伝えたことがきっかけとなり反戦機運が高まった結果、アメリカは戦争を続けることが難しくなったという考え方がある。これは一見すると、メディアが自らベトナム戦争の問題を認識し、エリートに対抗してジャーナリズムの力で戦争を止めたように見える。
しかし、実は反戦報道はメディアが自発的に始めたものではなく、アメリカの一部の議員が戦争を進める大統領に疑問を呈し、議会の中で反戦の声が高まっていった時期から始まったという研究がある。つまり、議会というエリートの場で話題になったことが反戦報道のきっかけとなったということができる。逆に言えば、エリートの間で話題にならない問題は報道されにくい傾向があるということになる。報道機関は主体的に情報を得るというよりは、むしろ政府などのエリートから情報が与えられるのを待ち、エリートが設定する問題枠組みを模倣するという受動的な性質を持つようだ。
次に見るのはフランスの報道だ。2018年、フランスでは黄色いベスト運動と呼ばれる市民運動が広がっていた。この運動は、2018年、主に燃料コストの高騰に抗議する人たちから始まった。オンラインメディアや地方の報道機関は運動の始まりである11月半ばあたりからこの運動についての報道を始めた。一方で、フランスのエリートメディアは、12月に入ってデモ隊がパリの凱旋門を破損した時に初めて報道した。

パリでの黄色いベスト運動の参加者たち(写真:Olivier Ortelpa / Flickr [CC BY 2.0])
ここで注目したい点は、フランスのエリートメディアは自身の関心が高い首都に近づくまで、市民のデモを報道しなかったということだ。ある研究によれば、エリートが登場しないニュースは、否定的、あるいは予想外な事情がないと報道されにくい傾向がある。今回の事例で言うと、デモ隊がパリの有名な凱旋門を破損したというセンセーショナルな出来事が予想外な事情に当たるだろう。逆に言えば、凱旋門の破損のような予想外な出来事がなければ、エリートメディアは黄色いベスト運動を取り上げることがなかった可能性がある。
また、貧困という問題それ自体が報道されにくいという問題もあるようだ。ニュースの作り手は、受け手に貧困層の人々がいることを想定しない傾向があるため、貧困層は、話題になる他の集団からしばしば切り離されてしまい、報道されにくくなる。
また、報道の仕方にも違いが見られた。オンラインメディアや地方の報道機関などの非エリートメディアは、この運動が主張している要求や参加者の意見など、より運動そのものに着目して報道した。一方エリートメディアは、運動が政治にもたらす影響など、運動の当事者よりもむしろエリートの世界に注目していた。このように、報道がエリートの関心に合わせるという傾向は、日本だけでなく他国でも見られるようだ。
日本の国際報道とエリート
この記事の最初では、日本の国際報道にエリートが影響を与えていることを確認した。今度は報道量や記事の中身を確認しつつもう少し踏み込んで見ていこう。まず、GNVが収集した、2015年から2020年の朝日新聞・読売新聞・毎日新聞の国際報道の記事を分析した。各記事について特定されている「ニュースの主体」(※2)の項目を使って、国際報道のうちどれくらいの記事がエリート目線で語られているのかを見ていく。なおここでは、政治家や官僚などの政治的エリートに着目して検討を進める(※3)。
GNVが持つ2015年から2020年までの新聞3社全ての国際報道の記事総数(※4)は、99,625本だった。そのうち、エリートが主体の記事は、56,677本あった。つまり、国際報道に限ってのことではあるが、全体の約57%がエリート主体の記事だということになる。続いて「一般人」が主体の記事の12,626本、「国家とその関係者・会議(末端)」が主体の5,784本が続く(※5)。国際報道の記事の半分以上の主体が政治的エリートであるという事実をどう考えればいいのだろうか。焦点を絞って、次の3つの事例から考えていこう。
気候危機とエリート報道
1つ目の事例として、最初にも取り上げた気候危機について取り上げたい。ここでは、気候危機への対策が世界レベルの課題となったパリ協定の前後2年間(2015年1月1日から2016年12月31日)を調査した。パリ協定はすべての参加国に温室効果ガス排出量削減を求める枠組みのことであり、2015年12月に採択された。この2年間で果たして気候危機についてはどのような報道のされ方をしているのだろうか。まず、見出しに「気候」または「温暖化」が入っていた記事は、109記事(98,602文字)あった。そのうち、73記事(64,111文字)はエリートが主体となっている。約67%、文字数で言うと約65%がエリート主体であった。
気候危機は地球規模の問題だ。したがって取り上げ方がエリートに偏ってしまうと、問題の本質や全体像が把握できなくなる恐れがある。例えば、気候危機により実際に被害を受けている人々や受けると予想される人々がいる。また、企業による温室効果ガスの排出や人々による過剰な消費が気候危機と関連しているといった側面もある。エリートが関わる政治・経済の話は気候危機を知るための切り口の一つに過ぎず、被害者の実態や気候危機の原因となる企業や消費者の行動、とるべき具体的な対策など、気候危機はさまざまな切り口から考えることができる。
エボラとエリート報道
次に挙げる事例は、エボラ出血熱だ。エボラはアフリカで度々発生しているが、そのうち2022年現在で最大のものである、2014年3月にギニアで始まり、リベリア、シエラレオネへと拡大し、2年間続いた大流行を取り上げる。この流行により、疑い例を含み28,616例が確認され、致命率は40%にも達した。ここでは流行期間を含む2015年1月1日から2016年12月31日の2年間に絞って分析していこう。この期間の国際報道で、見出しに「エボラ」を含む記事は、47記事(26,605文字)あった。そのうち、現地政府や世界保健機関(WHO)の発表や、支援や措置を行う外国政府などのエリートが主体の記事は、25記事(11,696文字)だった。記事数の約53%、文字数の約44%がエリート主体の記事ということになる(※6)。

報道機関の前で発表を行う政府関係者(写真:Mecklenburg County / Flickr [CC BY-NC 2.0])
また、47記事のうち、現地目線、つまり医療従事者や患者、そしてその家族などを中心に書かれた記事は8記事(10,693文字)だった。記事数で見れば約17%と少なく感じるかもしれないが、現地の声を伝える場合は特集記事になることが多い。そのため、1記事あたりの文字数は多くなり、現地目線の記事はエボラ出血熱全般を扱った記事の約40%となる。エリートが登場しない記事でも比較的現地目線の情報が多く取り上げられた背景には、エボラの状況は意外性があり、また特にネガティブな要素を含んでおり、規模も大きく、継続的に報道されているからだと考えられる。
ウィキリークスとエリート報道
3つ目の事例には、ウィキリークスを取り上げる。ウィキリークスとは、機密情報の暴露を行う組織のことだ。有名な暴露情報には、2010年にイラクで米軍のヘリが市民を殺害している映像や、2016年のアメリカ大統領選に出馬していたヒラリー・クリントン氏の陣営に不利となるようなメールなどがある。ここで暴露される情報は、エリートにとって都合がいいものではないことがほとんどだ(※7)。ウィキリークスの創始者であるジュリアン・アサンジ氏は、2010年にイギリスでウィキリークスの活動とは関係のない件で逮捕されたが、仮釈放中の2012年にイギリスにあるエクアドル大使館に亡命した。しかし2019年、エクアドルは、イギリスによる逮捕を認め、現在イギリスで拘束されている。そしてアメリカへ引き渡す手続きが進められている。
ここでは、アサンジ氏がイギリス警察に逮捕された2019年に絞って見ていきたい。2019年1月1日から2019年12月31日までの1年間で、見出しに「ウィキリークス」または「アサンジ」が含まれる記事は、27記事(14,236文字)だった。その中で、エリート主体のものは、8記事(3,946文字)だった(※8)。エリートが主体の記事は、記事数で約30%、文字数で約28%になる。

ウィキリークス創始者のジュリアン・アサンジ氏(写真:Darryl biatch0 / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
前2つの事例に比べて、エリートが主体の報道の割合は記事数、文字数ともに低いように見える。しかし、内容を見ていくと問題はそんなに単純ではないことがわかる。そもそも、ウィキリークスが発信する情報は、エリートにとって都合の悪い情報や行動であることは先ほど見た通りだ。エリートが自身に都合の悪い情報を隠蔽する動機があるとき、そのエリートを問うことこそがジャーナリズムではないだろうか。
しかし実際には、エリートに懐疑的な見方をする記事は見当たらなかった。アサンジ氏の立場からの主張をテーマとしていた記事は、読売新聞の「米送還に『抵抗する』 アサンジ被告弁護人」という記事1本(325文字)のみだった。そしてこの記事も、文字数が325字と多いわけではなく、各国の主張に対する具体的な反論は説明されていなかった。また、アサンジ氏の主張に主眼を置いているわけではないが、アサンジ氏が主体となっている他の記事であっても、アサンジ氏の主張について明言されているのはたったの3記事(2,457文字)だった。そして逮捕プロセスの不透明性や容疑の不十分さなどの具体的な点には触れず、逮捕の経緯や理由、政治や外交関係に与える影響などについて述べたものがほとんどだった。このように考えると、主体がアサンジ氏であったとしても、エリートの視点に偏った記事がほとんどだということが見えてくる。
エリート報道の原因と問題
ここでは、なぜ報道はエリートの視点に寄り添うのかについて見ていこう。まず第1の問題は、報道機関が情報源をエリートに依存していることだ。報道機関は、政府による記者会見やプレスリリースを重視する傾向がある。記者会見やプレスリリースを通じて、エリートは効率的に情報発信をすることができ、記者は効率的に情報を受け取ることができる(※9)。これにより、エリートが発信する情報が報道により反映される。あるいは報道機関も、エリートはその国を代表するものとして正当性があると考えているのではないだろうか。
また、アクセス・ジャーナリズムと呼ばれるジャーナリズムの手法がある。これは、ジャーナリストが取材対象となるエリートと関係を築き、リーク情報を入手するという手法だ。日本では、政治家に対して行われるこのようなシステムのことを番記者制度と呼ぶ。このような情報源に頼ると、報道機関は情報源との関係悪化を恐れて情報源に不利な情報をあえて発信しなくなるという問題が起こる可能性がある。さらに、エリートから与えられる情報に頼るあまり、報道機関が自分で情報を収集しないようになり、結果として報道がエリート中心になる恐れもある。

記者会見の様子を映す何台ものカメラ(写真: Asian Development Bank / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
第2の問題は、ジャーナリストという職業そのものがエリートになっているということだ。日本のマスコミは少数採用であり試験もあるため、一般的に入社は難しく、難関大からの就職者が多い。2018年に東洋経済が行った入社難易度ランキングでは、日経新聞・朝日新聞・読売新聞が50位以内に入っている。つまり、記者も政治エリートと同じレベルの大学を卒業しているということも多い。これは報道機関にとっては、優秀な人材であるということも重要だが、情報を得るための人脈確保にも有益だろう。また、記事を書く記者がエリートと同じ目線で物事を見る傾向にある可能性がある。例えば、記者は自身が想像する読者が関心を持つような記事を書こうとするという説があるが、記者がエリートの読者を意識しているとき、エリートが関心を持ちそうな情報を優先的に報道することが予想される。
記者がエリート以外を意識しにくくなる他の要因として、情報源を開拓したり地域の住民に聞き込みをしたりする時間が少なくなってきていることが挙げられる。記者にとっては、記者会見やプレスリリースに注目したりエリートとの関係を深めたりする方が、コストや時間を有効に活用できると考えているのかもしれない。そのことによって、権力から離れた貧困層とジャーナリストとの間に距離ができてしまい、貧困層が報道されにくい、あるいはされたとしても実態と報道に温度差が出てしまう構造があるという指摘がある。
ここまでは政治的エリートと報道の関係を見てきたが、経済的エリートと報道との関係も深いようだ。欧米諸国を対象とした研究は、広告を出す企業はそれを発信するメディアの報道に強い影響を与えることを示している。また、日本のメディアは国外進出する日本企業に対して好意的に報道する傾向がみられている。先ほどの事例に沿っていうと、気候危機の問題では環境にやさしい技術を開発した企業についての記事(※10)や、低所得国の植林に金銭的支援を行った企業についての記事(※11)が見られた。一方、これらの企業が温室効果ガスを大量に排出し、温暖化を促進させる行動をおこなってきたという事実には触れられていなかった。こうした記事は、その企業の印象を上げることで、事実上の広告として機能するとも言える。このように、報道機関とスポンサーとなる企業の間には、互恵的な構造ができているようだ。もう一つの要因として、報道にナショナリズムが反映されている可能性も考えられる。報道機関には、自国民が喜ぶニュースを報道するインセンティブがあるからだ。
このように、エリート目線の報道がなされる背景にはさまざまなものがあるが、これらはいったいどのような問題を引き起こすのだろうか。まず考えられるのは、エリートによるプロパガンダの影響を受けやすくなるということだろう。エリートは、その影響力を用いて報道機関に特定の情報を印象付けさせたり、扱いを軽くさせたり、意義を唱えさせたりすることで報道に干渉するという説がある。これによりエリートに都合のいい情報が都合のいい形で伝えられやすくなる。
また、エリートが関心を持たないような問題や現象について知るのが難しくなるという問題もある。その結果、犠牲になる人々が無視されることに繋がる可能性がある。このような報道の状況では、実際に直面している深刻な状況を認識することができず、エリートの責任を問うこともできないまま問題は悪化していくということに繋がりかねない。
番犬が番犬であるために
これまで見てきたように、報道とエリートの間には密接な関係があり、それが社会の抱える重大な問題の存在に気づかない、あるいは気づいたとしても重要視しないという結果につながっている。さらにエリートは、記事の主体として、あるいは情報源として、はたまた話題の提供源として、様々な関わり方で報道に影響を与える。さらに、その関係は構造的なものも含まれており、断ち切るのは容易ではないように思える。こうした問題に対して、何ができるだろうか。
1つの改善策としては、情報源の多様化が考えられる。政府の発表を待つのではなく、現地の記者が持つ情報をより活用することで政府を介さずに情報を得ることができるようにすることが望ましいのではないだろうか。あるいは、日本の記者教育を見直す必要もあるかもしれない。アメリカではジャーナリストになるためには、一般的に報道についての技術や倫理を学ぶコミュニケーション学や報道学の学士号を取得していることが求められる。一方日本では報道機関が入社した記者を育てるのが一般的だ。このような教育体制では、新人記者は先輩記者の指導を受ける中で、権力側に偏る姿勢を持ったジャーナリストが育成される傾向があると指摘されている。報道倫理を携えたジャーナリストを養成するための環境整備が求められる。しかし、これらの取り組みを報道機関に期待することは難しい。報道機関側には取り組みを実行する動機が弱いからだ。
では他にはどのような取り組みが考えられるだろうか。例えば、エリートメディアとは異なる目線で書かれた記事を伝える報道機関がある。このようなメディアは、オルタナティブメディアと呼ばれる。例えば、人道支援などを行う非政府組織が立ち上げた雑誌、ニューインターナショナリストがこれに当たる。この雑誌は、エリートより世界の弱者に焦点を当てる報道を行っている。また、当事者自身が声を上げるという取り組みもある。例えば、ホームレスが販売者である雑誌、ビッグイシューは社会的弱者の目線での報道をおこなっている。また、国際ストリートペーパーネットワーク(INSP)は、世界各地のストリートペーパーの間で記事を共有し、配信するというサービスを行っている。オルタナティブメディアには、社会的弱者によりフォーカスした報道が期待される。

ビッグイシューを販売する男性(写真:Sacha Fernandez / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
インターネットが普及した今日では、エリートメディアでなくとも十分な情報発信を望むことができる。エリートから離れた報道を増やし、報道の多様性を確保することが1つの改善策となるだろう。いずれにせよジャーナリズムが、真実を映す鏡、権力を見張る番犬であるためには、まずはエリート以外の方向に目を向けることが必要だ。
※1 ①エリートが登場するか、②有名人が登場するか、③娯楽に関することか、④意外性はあるか、⑤特にネガティブな情報か、⑥特にポジティブな情報か、⑦規模は大きいか、⑧受け手との関連性はあるか、⑨以前のニュースの続報か、⑩会社の姿勢に合致するか。
※2 ①国家とその関係者・会議(中央) 、②国家とその関係者・会議(末端) 、③企業とその関係者・会議 、④国際機関とその関係者・会議 、⑤NGO / NPOとその関係者・会議 、⑥武装勢力 、⑦宗教団体とその関係者・信者 、⑧一般人 、⑨富裕層、 ⑩中間層、 ⑪貧困層、 ⑫研究者、⑬動物、 ⑭宇宙、⑮民族、⑯ 難民、⑰報道機関、⑱医療従事者、⑲有名人、⑳無 の20項目。
※3 ここでは、主体が「国家とその関係者・会議(中央)」または「国際機関とその関係者・会議」に分類されるとき、その記事はエリートが主体の記事だということにする。
※4 2015年1月1日から2020年12月31日の朝日・毎日・読売新聞の東京朝刊に掲載された国際報道の記事。
※5 その他の数値は、※2の番号に合わせて、②5,784、③4,669、⑤226、⑥1,789、⑦483、⑨56、⑩20、⑪66、⑫797、⑬168、⑭69、⑮252、⑯562、⑰420、⑱391、⑲2,159、⑳9,941だった。なお、1記事について2つ以上の主体が設定されることがあるため、合計数と総記事数は一致しない。
※6 エリートが主体の25記事のうち、WHOの初動の遅さに触れている記事も5記事(2,789文字)あった。これはエリートを批判する記事と考えることもできるが、この5記事のいずれも2015年1月25日にエボラ熱に関する特別会合で対応の失敗を認めた後の記事であり、エリートが話題にした出来事を報道するという、メディアのエリートへの従属性を否定できるものではなかった。
※7 ドナルド・トランプ氏は、2016年の大統領選挙期間中、クリントン氏に不利な情報を暴露したウィキリークスを絶賛していた。
※8 エリート主体の8記事のうち、1つはエクアドルの情報漏洩についての報道であり、アサンジ氏の逮捕と直接的な関連性はなかったが、ここでは見出しに明確な条件をつけた調査を行なっているため、形式的にエリート主体の国際報道として他の7記事と同様に扱うことにした。なお、当該記事の詳細は次のとおり。「エクアドル、全国民の情報流出 口座残高・個人番号… アサンジュ氏含め2千万人分」朝日新聞2019/09/19
※9 記者クラブとは、官庁や議会などの公的機関や業界団体に対して情報公開を求めるために結成された報道機関による自主的な組織である。クラブに所属する報道機関は、取材に関して特権的な立場が与えられている。報道各社は記者クラブを通じて効率よく政府発表を報道できるようになるが、これは政府という情報源に依存することにつながる。
※10 朝日新聞 2015年12月15日 <視点>実質排出ゼロ社会、新技術が導く 温暖化対策、パリ協定採択
※11 朝日新聞 2015年8月16日 (科学の扉)森林で温暖化対策 森林守るほど途上国に利益
ライター:Seita Morimoto
ここ数日の国内報道を見ても、大手メディアがエリート層に寄りすぎであることは明白だが、当記事で国際報道でもエリート層に極端に着目し、その他の世界・人々の声が届いていないことが良く分かる。日本にも海外同様、中立にジャーナリズムを学ぶ場を作る必要があるということには同意する。オルタナティブなメディアに注目してみる、という点は全く思いつかなかったので利用してみたい。
理想は、メディアが「番犬」の役割を果たすことですが、エリートや企業との結びつきにより、偏った報道がされている実態を理解しました。ウィキリークスなど、直接エリートから情報を入手しない方法も現れましたが、権力でねじ伏せられていると感じます。
私たち読者も、多様な媒体を使用し、エリートからの視点が多い報道を鵜呑みにしない努力が求められていると思いました。