「平和の祭典」、オリンピック開催が近づくとこの言葉をよく耳にするようになる。4年に一度開催される国際的なスポーツの祭典、オリンピック。各国を代表する選手が様々なスポーツを行い、その得点や出来栄えなどを競う歴史ある大会だ。オリンピック憲章の根本原則は、その目的について「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てること」と定めている。しかしメディアを中心にその平和的側面だけが強調されるようになり、いつしかオリンピックは「平和の祭典」と呼ばれるようになった。果たして本当にそうだろうか。必ずしも「平和」とは言えない側面が存在するのではないか。そしてメディアは、そのオリンピックの真の姿を映し出していると本当に言えるのか。本記事で探っていこう。

オリンピックマークのモニュメント(写真:InspiredImages / pixabay)
オリンピックと平和の歴史
オリンピックの起源は今から約2,800年前、紀元前776年に古代ギリシャのオリンピア地方で開催された競技会まで遡る。古代オリンピックは神々の父と信じられていたゼウスに捧げられた宗教的祭典であり、現在と同じく4年おきに開催されていた。
古代オリンピックも、現在のように「平和の祭典」とされていたのだろうか。その答えは「平和」の意味によるだろう。そもそも平和とは何か。「単に暴力が起きない」というだけではなく、「協力や対話によりその状態が永続する」という意味もあり、その両方が備わった状態を「平和」とする定義が存在する(※1)。古代オリンピック期間中は停戦協定が結ばれ、周辺の全ての紛争が一時中断されていた。このことから、暴力が起きないという意味では平和を重んじているように思われる。しかし、大会で実施された競技は戦車競走や乗馬、槍投げといった戦争で実際に使用される乗り物・動物・武器を用いたものや、ボクシングやレスリングを中心とする格闘技など、戦争を意識したものが多かった。実際、古代オリンピックは戦争の準備として利用されていたという指摘もある。これらのことを鑑みると、決して平和的とは言えないだろう。
その後古代オリンピックの伝統は、競技の追加や参加資格の拡大など発展を遂げながら12世紀あまり続いた。しかし西暦393年、ローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教とし、全ての「異教」の祭りを禁止したことで、その歴史は終焉を迎える。

古代オリンピックの格闘技の様子を描いた美術作品(写真:Antimenes painter / Wikimedia Commons [CC BY-SA 3.0])
それから約1,500年後、フランスの教育者であったピエール・ド・クーベルタン氏の働きかけによって、オリンピックは復活の道を歩み始める。クーベルタン氏は単なるスポーツの祭典ではなく、スポーツを通じて平和の実現に寄与することをその目的に掲げた。冒頭で述べた通り、オリンピック憲章にもそのことが記載されている。この時初めてオリンピックと平和が結び付けられたと言えよう。現代オリンピックの始まりである。
オリンピックの非平和的起源と仕組み
こうして現代オリンピックは、「平和」というもっともらしい理念を掲げ復活した。しかしもう一度問う。オリンピックは本当に「平和の祭典」なのだろうか。
まず、現代オリンピックの設立意義について検討したい。先に述べたように、クーベルタン氏はオリンピックの目的として世界平和を掲げた。しかし、彼の描いた「平和」に疑問を抱かずにはいられない。実は、彼はかなりの白人至上主義者であり、「人種はそれぞれ価値が異なり、他のすべての人種は優れた本質を持つ白人に忠誠を誓うべきである」という発言を残している。同時に、クーベルタン氏は自らを「狂信的な植民地主義者」とも称しており、「フランスの植民地時代の栄光を取り戻せ!(Rebronzerla France!)」というスローガンのもとフランスの植民地拡大を画策していた。さらに、クーベルタン氏はドイツのナチス党の熱烈な支持者でもあり、1936年に開催されたベルリン五輪については「ヒトラーの熱意とリーダーシップがもたらした、素晴らしい大会」と絶賛している。
以上のことから、クーベルタン氏の描く「平和」には大きな偏りがあったと言わざるを得ない。彼がオリンピックを復活させた背景には、白人の優勢を示し、ヨーロッパの団結を強めて帝国を拡大していくという目的があったのではないかという指摘もある。したがって現代オリンピックは、偏った思想のもとに設立されたものであると言える。

1936年ベルリン五輪。表彰式でナチスの敬礼をしている。(写真:Stempka / Wikimedia Commons [CC BY-SA 3.0])
加えて、聖火(※2)の非平和的な起源についても言及したい。現在、聖火リレーはオリンピック開催を盛り上げる上で欠かせない一大イベントとなっている。しかし現代オリンピックの開催当初から実施されていたわけではなく、1936年のベルリン五輪から導入されたものだ。それはなぜか。現代と同じように大会を盛り上げるという理由もあるが、実は他にも重要な目的があった。聖火リレーを通じてドイツの威厳を世界に向けて示す一方で、ドイツ国民、特に若者をナチス党へ惹きつけるためのプロパガンダとして利用しようというナチス政権の思惑があったのである。これに関連して、最近ではアメリカで2021年開催予定(2021年5月20日現在)の東京五輪の放映権を持つNBCが聖火リレーについて「ナチスの宣伝活動に由来するような伝統は廃止されるべきだ」と訴える寄稿文を掲載し、話題となった。
次に、大会の仕組みを見ていこう。スポーツの性質上、オリンピックは他者との協力ではなく、競争の場である。選手を競わせ、勝敗を明らかにし、順位をつけることは、調和や協調を意味する「平和」と相反するものではないだろうか。
さらに、その種目についても検討する必要がある。現代オリンピックにも、古代オリンピックで見られたような、戦争と関連する種目が存在する。戦車競走はなくなったものの、射撃やアーチェリー、フェンシングといった武器を使用する種目は現存している。また相手を攻撃するという意味で暴力性を伴う格闘技にはレスリングやボクシング、柔道、空手、テコンドーなど様々なものがある。その技術を競うスポーツとしての存在価値を否定しているわけではない。しかし「平和」をそのスローガンとして掲げる大会で、暴力性を内包し、戦争と関連付けうる競技を実施すること、そこには大きな矛盾があるように思われる。

オリンピックの射撃種目の様子(写真:The U.S. Army / Flickr [CC BY 2.0])
ナショナリズムを促すオリンピック
オリンピックの非平和的側面はその起源や仕組みだけにとどまらない。ナショナリズム(※3)を助長するという非常に重大な問題もある。オリンピックでは、2016年から導入された難民選手団(※4)を除く全ての選手は、一個人としてではなく一国の代表として参加しなければいけない。国単位でその勝敗を競い、メダル数も国別でランキングされる。観客も他の国を「ライバル」もしくは「敵」とみなし、自身の母国に所属する選手を応援する。そして各国政府やメディア、各企業もまた自国の応援を促す。その様子はまるで、国の美徳を競っているかのようだという指摘もある。
このように国単位でチームを構成し、選手や観客の帰属意識を高める性質は戦争と共通している。国際的なスポーツ大会では、国民の一体感や他国への反感が高まる傾向にあるということが多くの研究で示されている。オリンピックが「射撃のない戦争」と揶揄される所以である。同時に開催国は開会式や閉会式、表彰式などを通じて自国を最大限にアピールし、自国の威厳を高めている。これもナショナリズムを助長する要素の一つと言えよう。また「自分たち」と「それ以外」という区別の対象となるのは、必ずしも国籍だけではない。人種や性別などもそうだ。歴史的にオリンピックは人種差別に関する問題を多く抱えてきた。そしてそれは今なお続いている。

国旗を振って自国を応援する人々(写真:s.yume / Flickr [CC BY 2.0])
幸いなことに、今までオリンピックによるナショナリズムの助長が、直接戦争に発展した例はない。しかし、国家間の緊張感の高まりにつながる可能性は否定できない。実際、オリンピックではないものの、スポーツの大会におけるナショナリズムの高まりが、紛争や暴動へと発展した事例は存在する。1969年サッカー・ワールドカップ予選・エルサルバドル対ホンジュラス戦では、その試合が引き金となって「サッカー戦争」と呼ばれる紛争が起こった。また2014年サッカー欧州選手権予選リーグ・セルビア対アルバニア戦では、試合中に観客が乱入し選手を巻き込んだ暴動が発生した。このようにスポーツ大会が国同士の争いの火種となったケースは多くあり、国際的なスポーツの大会は非平和的な戦争や事件を引き起こす可能性をはらんでいると言える。その中には当然オリンピックも含まれる。
逆に、既に存在している紛争や政治的対立が、オリンピックの大会に持ち込まれたこともある。1972年のミュンヘン五輪では、パレスチナのテロ集団が選手村に乱入、対立関係にあったイスラエルの選手11名を殺害し、大惨事となった。また、冷戦下の1980年モスクワ五輪では、ソ連によるアフガニスタン占領への抗議として西側諸国が大会をボイコットし、1984年ロサンゼルス五輪では、その仕返しにソ連及び東側諸国が大会をボイコットするなど、オリンピックが利用された事件は数多くある。
前述の通り、古代オリンピックでは少なくとも開催期間中は停戦協定が結ばれており、平和が保障されていた。それに対し、現代オリンピックは開催中でも紛争がやむことはなく、そればかりか戦争のためにオリンピックが中止された例が5回もある。こうした数々の事例を踏まえると、オリンピックを「平和の祭典」と呼ぶことに、違和感を覚えざるを得ない。
もちろん、オリンピックが完全に非平和的というわけではない。2018年の平昌冬季五輪では、韓国と北朝鮮がアイスホッケー女子に合同チームで参加し、開会式でも合同行進を行ったことは記憶に新しい。これはオリンピックを契機とする韓国と北朝鮮の友好への一歩と言っても過言ではない。しかしオリンピック後、さらなる進展が見られなかったことから、一過性のものであったようだ。やはり、平和を掲げるには不十分だろう。
しかし、様々な出自を持つ選手が一堂に会し、同じスポーツで競い合えること自体が平和的だという意見もあるだろう。それならば、国別で競うのではなく国籍を越えた合同チームを結成するなど、ナショナリズムが生まれない工夫が必要である。また国旗掲揚や国歌斉唱、国別のメダル獲得数ランキングなどを廃止することで、少しは平和的であると言えるようになるかもしれない。
「平和」を強調するオリンピック報道
ここまで、オリンピックの非平和的な性質について見てきた。では、日本のメディアはそれらを報じているのだろうか。今回、2016年から2020年までの5年間で、毎日新聞の朝刊及び夕刊で報道された記事のうち、「平和」と「オリンピック」の関係について言及しているものを取り上げ、その記事の内容を調べた(※5)。その結果、156記事が該当した。ここまで述べてきた様々な非平和的側面を鑑みると、この数字が決して少なくないことが分かるだろう。以下のグラフは、オリンピック報道に登場する「平和」という語句がどのような意味合いで使用されているかを調べ、その割合を示したものである(※6)。
最も多かったものは、「北朝鮮の協力」を平和的とする記事で、全体の24.4%を占めた。具体的には「平昌冬季五輪を南北関係改善と朝鮮半島の平和の転機としなければならない」(2018/1/11)(※7)といったものである。該当した38記事はすべて、先に述べた2018年平昌オリンピックにおける韓国と北朝鮮の合同チームに関するものであり、2016年から2018年までの間に集中していた。
次に多かったのは「世界平和」を指すものである。具体性に欠けた分類のように思われるかもしれない。まさにその通りである。特定の状態や地域を指して「平和」と表しているのではなく、漠然とした概念として使用されているものを分類した。「国際オリンピック委員会(IOC)は憲章などでスポーツを通じた平和の推進、男女平等の実現、環境への配慮などをうたっています」(2019/12/31)といった具合である。今回の集計では全体の14.7%、2番目に多い分類にとどまった。しかし、1番多かった「北朝鮮の協力」は特定の時期に集中していたのに対し、この分類に該当する記事は時期に関係なく散在していた。このことから、集計期間を延ばせば「世界平和」に該当する記事が最も多くなる可能性がある。
続いて「戦争がない」という意味で使用されているものが14.4%であった。これは戦争がなくなったからこそオリンピックが開催できる、といった意味合いで使用されるものが多く見られた。実際には現在も世界各地で戦争・紛争が続いているが、多くの場合「第二次世界大戦の終戦=戦争の終結」としていた。
4番目に多かったのは「核兵器がない」ことを平和的とするもので全体の8.0%を占めた。この言葉が使われるのは特に夏季五輪の時期に集中していた。その理由としては、原爆記念日が夏季五輪(今回の集計では2016年リオ・デ・ジャネイロ五輪と東京五輪が該当)の開催期間と重なっていたことが考えられる。「平和の祭典である五輪を機に『核なき世界』を世界に訴える」(2020/1/7)などがその例である。また同じ核兵器についてでも「核実験が行われない」という意味で使用している記事もあった。
次に「政治的介入がない」という趣旨で使用されていた記事、そして「難民への配慮」がなされている状態を「平和」とする記事がそれぞれ5.8%であった。また「難民への配慮」に該当された9記事のうち、6記事が難民選手団に関するものであった。さらに「国家間の対立がない」状態を意味するものが5.1%と続く。
その他にも、人種差別や性差別、地震などの災害、テロや事件、ドーピングがない世界を「平和」と表現するものがあったほか、2019年から2020年にかけては新型コロナウイルスの収束を意味するものも見られた。これは「新型コロナウイルスが収束した世界=平和」とするものである。さらに、文脈と関係なく「平和」という文言が使用されているものが7記事存在した。「新型コロナウイルスの感染拡大で、『平和の祭典』と呼ばれるオリンピックの東京大会が延期されました」(2020/8/24)など、平和に言及する必然性がない記事である。また聖火には非平和的な起源があるにも関わらず、聖火を「平和の象徴」「平和の火」「平和の灯」などと表記する記事が14記事も存在した。
ここから分かるように、「平和」本来の意味とは異なる使い方をされているものや、「世界平和」のように非常に漠然としていて具体性に欠けるものが多く存在した。これは「オリンピック=平和」というイメージが先行してしまい、安易に「平和」という言葉を使用しているのではないかと考えられる。

カナダのオリンピックスタジアム前に並べられた国旗(写真:Márcio Cabral de Moura / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
メディアが報じているのは真のオリンピックか
次に、メディアが平和とオリンピックを結びつけるとき、それを「どのように」報じているのか、その表現方法に着目してみよう。「平和」を強調することを疑問視する記事があるのか、あるいはそれを疑うことなく「オリンピック=平和」だと断言しているか。この章では、報道がどのような表現を用いているかを分類し、考察していく。
まず、この記事で述べているようなオリンピックの非平和的側面に言及する記事は5年間で一つもなかった。どの記事も平和とオリンピックの関係を肯定していたが、その表現方法は3つのタイプに分類することができる(※8)。
まずは「断定」。「平和の祭典である五輪」(2020/1/6)や「オリンピックの目的は世界の平和を確立、維持することだ」(2016/2/11)など、オリンピックの平和性を断定しているものを指す。次に「伝聞」。「平和の祭典と呼ばれるオリンピック」(2020/8/14)など伝聞の体裁ととっているものを分類した。これは「断定」ほど強く言い切ってはいないものの、平和性を支持する新聞社のスタンスを読み取ることはできる。そして3つ目が「引用・意見」。こちらは新聞社のスタンスに関係なく、第三者の言葉として報じているものを指す。記者会見やインタビューなどでの発言だけでなく、アスリートが書いたコラムなどで述べられた意見など、個人の考えであれば「引用・意見」とした。
最も多かったのは「断定」である。156記事中86.5記事で断定的な表現が使用されており、これは全体の55%に当たる。次に62.5記事、全体の40%が「引用・意見」であった。そして「伝聞」に該当したのはわずか7記事で全体の5%であった。
このことから分かるように、毎日新聞は多くの記事でオリンピックが平和の祭典であると断定的に報じている。これは、メディアがその平和性に全く疑問を抱いていないということを示している。「伝聞」を用いる中立的な記事が少ないのもその傾向を裏付けている。そして2番目に多かった「引用・意見」。なぜこのタイプに該当する記事が多いのか。オリンピック憲章には「平和の祭典」や「平和の象徴」といった文言は登場しないにも関わらず、多くの人がその言葉を口にする。その背景にメディアの影響があるのは間違いないだろう。メディアで見聞きした表現を、多くの人が使用していると考えられる。したがって、メディアが「断定」記事を書き、「オリンピック=平和」という「常識」を広めれば広めるほど、人々もそれを享受し「引用・意見」も増加するという相関関係があると言えよう。

国旗掲揚の様子(写真:Sander van Ginkel / Wikimedia Commons [CC BY-SA 3.0])
オリンピック報道におけるメディアの在り方
本来メディアに求められるのは、中立的かつ客観的な報道ではないだろうか。「オリンピック=平和」を強調するのではなく、様々な観点からオリンピックを見つめ、その真の姿を映し出す責務がある。
しかし、それを阻む2つの大きな壁がある。まず、メディアが自国中心主義の思想に大きく影響されていること。国外で起きるあらゆる事故や事件を報道するか否かは、それ自体の深刻さや規模ではなく、自国の国民が関わっているかどうかで判断される。スポーツ報道ではその傾向が特に顕著であり、自国の選手に強く着目し、讃え、応援するというスタイルを取っている。これは、自国の情報を知りたいという読者・視聴者の需要に応えているのだが、その需要に応えることで更なる需要を生んでいると言えよう。この構図が変わらない限り中立的かつ客観的な報道は望めないだろう。
もう一つの壁は、オリンピックがメディアにとっての大きなビジネスチャンスとなっていることである。人々の関心が高いオリンピックは、視聴者・読者を増やす好機であり、企業等からの広告掲載やコマーシャル放映の需要も極めて高い。つまり、オリンピックはメディアにとって恰好の収入源なのである。そのため、多くの報道機関が五輪スポンサーになっており、朝日新聞、日本経済新聞、毎日新聞、読売新聞は2020年東京五輪の「オフィシャルパートナー」、産経新聞、北海道新聞は「オフィシャルサポーター」に名を連ねている。同系列のテレビ局もその影響下にあることは言うまでもない。

毎日新聞のホームページ(写真:Kyoka Maeda)
このような事情から、メディアはオリンピックを客観的に捉えたり、非平和的側面を指摘するような記事を書かない。むしろ、無批判に受容し盛り上げる役割すら担っているのである。中立であるべき報道機関がスポンサーになっているという矛盾を指摘する者もいない。メディアがスポンサーをする是非についてここで深堀はしないが、そのことが中立かつ客観的な報道を阻害していることは安易に想像がつく。
オリンピックを取り巻く現状を様々な角度から報道することは、その問題点を浮き彫りにすることにつながる。それは一見オリンピック開催で盛り上がる人々を興ざめさせることのように思うかもしれない。しかし、今後の課題を見つけ出すことができれば、本当の平和とは何か、平和な世界とは何かが見えてくるのではないだろうか。今後も、オリンピック報道におけるメディアの動向に注視していきたい。
※1 平和学者ヨハン・ガルトゥングは平和には2つの種類があるとしている。あらゆる暴力がない状態を「消極的平和」(Negative Peace)、協力や平等、対話のある状態が永続的に続くことを「積極的平和」(Positive Peace)とした。本記事では、その両方が実現している状態を「平和」としている。
※2 日本語では「聖火」であるが、英語や他の言語ではオリンピック・トーチ(Olympic Torch)やオリンピック・フレーム(Olympic Flame)などと呼ばれており、「聖なるもの」という意味合いはない(トーチ:松明、フレーム:炎の意)。
※3 ナショナリズムとは、国家または民族の統一・独立・発展を推し進めることを強調し、他国や他の共同体に対する独自性優越性を確保することを目標とするイデオロギーである。一般に、自国の献身的な愛、支援、防衛を意味する愛国心とは区別される。しかし両者には類似点が非常に多いため、2つを区別することは難しいとする見解もある。
※4 難民選手団(Refugee Olympic Athletes)とは、難民となり母国から出場ができない選手で構成された複数地域の混合チームである。2016年リオ・デ・ジャネイロ五輪から導入された。
※5 毎日新聞のオンラインデータベース「毎日新聞 マイ索」において、2016年1月1日から2020年12月31日までに東京で発行された朝刊・夕刊を集計。見出しまたは本文に「オリンピック」と「平和」あるいは「五輪」と「平和」の2つのキーワードを含む記事のうち、本文表示ができないもの、オリンピックの平和性と無関係であると読み取れたものを除いて集計した。
※6 それぞれの記事を平等に計数するため、1つの記事で2つの意味の「平和」が使用されている場合、それぞれ0.5記事として集計した。例えば、1つの記事の中で「北朝鮮の協力」と「戦争がない」という2つの意味で「平和」が使用されていた場合、「北朝鮮の協力」を0.5記事、「戦争がない」を0.5記事としている。なお、今回の集計では3つ以上の意味の「平和」が登場する記事は存在しなかった。
※7 本記事で引用した記事は以下の通りである(引用順, 全て毎日新聞)
2018/1/11(東京朝刊)「文・韓国大統領:慰安婦合意「受け入れ困難」 枠組みは変えず」
2019/12/31(東京朝刊)「質問なるほドリ:なぜ五輪でSDGs? 持続可能開発で大会PR=回答・田原和宏」
2016/8/6(東京朝刊)「Features・きょうの主役:ヒロシマから吹く風 被爆3世、9秒台へ駆ける 陸上・山県亮太(24)」
2020/8/24(東京朝刊)「ニュース検定に挑戦:今回は2級 オリンピック開催がいったん決まったものの、戦争の影響により、開かれなかった大会は?」
2016/8/12(東京朝刊)「AMIGO・多様性の祭典:リオ五輪 射撃・ジョージア ニーノ・サルクワゼ(47)、ツォトネ・マチャバリアニ(18)」
2020/2/15(東京朝刊)「ボクシング:女子ボクシング 研究にも競技にも闘志 五輪目指す、鬼頭選手」
2020/8/14(東京朝刊)「質問なるほドリ:ハトはなぜ平和の象徴? 「ノアの箱舟」に逸話 ピカソが定着に一役=回答・熊谷豪」
※8 「平和」の意味の集計と同様に、1つの記事の中で2つの表現が使用されている場合、それぞれ0.5記事として集計した。なお、今回の集計では1つの記事の中に3つ全て表現が登場する記事は存在しなかった。
ライター:Kyoka Maeda
グラフィック:Kyoka Maeda
オリンピックに対して比較的ポジティブなイメージを持っていましたが、この記事でオリンピックの起源について知り、仕組みについて改めて考えたことで、そのイメージが変わりました。自分がいかに受動的に情報を得ていたのかに気付かされました。
オリンピックの成り立ちをこの記事で初めて知りました。全世界の様々な種目のトップアスリートが競い合い、讃えあう今のオリンピックを否定はしませんが、メディアや政府から見え隠れするナショナリズム的な要素には違和感を覚えます。
とても興味深く読んだ。近年は特にオリンピックが金儲け化しているところは納得だ。メディアの力とは、また意味とは、とても考えさせられる内容だった。オリンピックがまるでお祭りの如く各国で盛り上がるのは一見楽しくいいことのように思うが、例にもあったように戦争にも発展しかねない現実を知ると恐ろしくもある。積み上げた歴史を変えるのは簡単ではないだろうが、もしも国民の認識を変えることでオリンピックが良いように変化していくことができたなら素晴らしいと思う。そのためにもメディアの力は欠かせないと感じた。
古代オリンピックと現代オリンピックの違い、復活した経緯、またオリンピックが平和の象徴だとしたのはメディアの力が大きいなど、初めて知る話ばかりでした。オリンピックのことだけでなく(例えば今ならコロナ報道など)、人はいかにメディアに踊らされているか、身につまされる思いです。とても面白い記事でした。
確かにオリンピックを非平和的に報じているものを見たことがないし、私たちはメディアにオリンピックは平和的なものだと植え付けられているのかと驚きました。とても興味深い記事でした。
一般的には、言及しにくいはずのオリンピックの矛盾について詳細に分析されていて、最近開催国になったこともあり、正の側面しかみていないことに気付かされました。また、もともとのオリンピックの形から大きく変化はしているものの、現在も根本にあるのは競争、闘争というのには間違いはないのではないかと思いました。
逆に、オリンピックが「平和の祭典」と言える理由や、平和に寄与した例を知りたくなりました。
この記事を読んで、オリンピック=平和とするのには確かに違和感を覚えました。改めてメディアが真実を報じないことの罪深さみたいなものを感じましたし、メディアの本来の在り方を今一度考えるべきだと思いました。
オリンピックの起源は世界史の教科書によく載っていると思いますが、復活のきっかけは初めて知りました。そして、その復活によってオリンピックの意味合いが変わったことがとても印象的でした。オリンピックの開催期間中や開催地決定までの期間は、オリンピックに関する報道が増えると思うので、そういったオリンピックが注目されている時期に、オリンピックの歴史などこの記事に書かれているようなことも併せて報道してほしいと思いました。
記事中であったナショナルチームのように、国や人種に関係なく楽しめるような大会になるよう、スポーツが手段として活用されるようになればいいのかなと思います。
凄く分かりやすくて読みやすい記事でした。いろんな例が詳細に書かれており、今まで見えていなかったオリンピックの側面が垣間見れて面白かったです。いろんな感動を生むオリンピックだけど、一歩間違えれば戦いを生んでしまう危険性をはらんでいるのですね。
これからオリンピックを見る目が少し変わりそうです。
大手メディアが無批判に「平和の祭典」を増幅しているのはそうだと思う。
ただ記事中に「平和の祭典である」ことの検証が無いのは片手落ち。
深淵を覗く時、深淵もまた。
ご指摘ありがとうございます。確かに、本記事ではオリンピックの平和的側面については触れていません。
ただGNVでは「報道されない世界」に関する情報・解説を提供しています。日本では報道されていない、もしくは報道量が極めて少ない出来事、現象を中心に情報を発信しています。「オリンピックが平和の祭典である」ということは、記事中にもある通り多くの報道がされているため、本記事では深くは触れていません。既にある報道と見比べていただき、オリンピックの良い面、悪い面を少しでも知っていただけましたら幸いです。お読みいただきありがとうございました。
とても興味深い記事だと思いました。自分がいかにメディアが演出する「オリンピック」という言葉が生み出すイメージをそのままに受け取り、その批判的側面を見ていないかを痛感しました。「平和」という言葉だけが先走りして、実際の問題については目が行っていないどころか、オリンピック自体がナショナリズムを引き起こしている側面もあり、だからこそ今オリンピックのあり方自体を問い直さなければならないと感じました。ありがとうございます。