経済危機から抜け出せないスリランカ

執筆者 | 2025年12月18日 | Global View, アジア, 政治, 経済・貧困

世界銀行が2025年に発表した報告書の中で、スリランカの貧困レベルは2019年の2倍以上に達していると推定された。これと同時に、世界銀行の評価ではスリランカの経済成長が再開しており、2025年の国内総生産(GDP)成長率は約4.6%、2026年には約3.5%になると予測されている。

しかし世界銀行は、特に生活費の上昇や福祉の縮小に直面している一般世帯にとって、この経済回復はまだ完全ではないと警告している。実際に、多くの人々の生活環境は悪化する一方で、全体的には経済成長が進んでいる。経済成長と貧困が同時に進行している今の状況は、この国にある根深い矛盾の現れであり、スリランカにとって最も困難な経済問題の1つだ。ここには、スリランカの歴史に深く絡んだ複数の要因がある。

本記事では、スリランカの現在の経済状況と、その背景にある脆弱な経済構造を形成してきた歴史的な要因について探っていく。

スリランカの最大都市コロンボにあるマラダーナ駅からの眺め(写真:Nazly Ahmed / Flickr [CC BY-NC-SA 2.0])

富の王国から帝国の支配へ

この島は、古代から現代に至るまで変動に富んだ経済史を経験してきた。2500年前にはすでにこの島はローマ、ギリシャ、アラビア、中国からの商人をつなぐ主要な海上貿易拠点であった。紀元前300年頃から紀元後1200年頃にかけて、高度な灌漑システムと共に、大規模な米、穀物、香辛料の栽培が発達した。穀物やその他の作物に加えて、10世紀までの間で島の宝石や象が主要な輸出品となった。 

この発展において、島の北部を拠点とする一貫した政治組織が重要な役割を果たした。紀元前300年頃からは、アヌラーダプラなどの初期シンハラ王国が灌漑と農業計画を統括し、南部では小規模な政治共同体が半自治状態を維持しつつ北部との交易や貢納を行った。その結果、この島は南アジア地域における重要な農業中心地として台頭した。

しかし10世紀後半、南インドの強大な王朝による度重なる侵攻がこの長らく確立された体制を不安定なものにしていった。これらの侵攻は島の民族構成にも変化をもたらし、島内の不安定な政治の一因となった。島の大部分はシンハラ系のグループが支配していたが、時が経つにつれて南インドからタミル系の人々が移り住んでくるようになった。

さらに、1214年には行政の中心地が急に移転し、島の農業中心の経済に重大な変化が生じた。これは南インドの王国がこの島を侵略し、シンハラ系の多くの人々が島の北部から南部に移住したことによる。これにより、灌漑システムを管理する何世紀にもわたる行政基盤が崩壊した。行政の崩壊により灌漑システムは管理が行き届かなくなったため、農業生産は減少した。これにより13世紀から15世紀にかけてこの島の広い範囲で経済は衰退した。

その後、この島の経済の多くは3つの植民地主義勢力によって支配された。具体的には、1505年から1658年の間はポルトガル、1658年から1796年の間はオランダ、そして1796年から1948年はイギリスがそれぞれセイロン島を支配した。ポルトガルやオランダから来た入植者は、セイロン島に拠点をおいて沿岸貿易と香辛料の輸出を掌握した。例えばオランダ統治下のセイロン島は、医薬品や食品に用いられる希少で高価な香辛料であるシナモンの世界的な産地であった。ポルトガルとオランダは、シナモンをはじめとする諸商品の生産と輸出の独占とそこから得られる権益の確立を目的として、この島の貿易を支配しようとした。

この島は1802年にオランダからイギリスへ正式に割譲された。イギリス統治下で農業に2つの重要な変化がもたらされた。1つ目はコーヒー農園の設立であり、2つ目は1860年代に作物病によりコーヒー産業が崩壊した後にもたらされた茶栽培の導入である。どちらの変化も、現地の消費ではなくヨーロッパの需要と輸出の機会によって推進された。

この農業の転換は、大規模な土地開拓と、主に南インドから移住してきたタミル系ヒンドゥー教徒からなる労働力の流入を伴うものだった。イギリスは契約労働者制度(※1)を利用し、輸出作物からの利益を最大化しつつ支出を最小限に抑えることでこのシステムから富を搾取した。その結果、1901年までに、茶だけでイギリスの総外貨収入の54.7%を占めるに至った。セイロン島の資源から生み出された富はイギリスへ流れた一方、労働者への賃金は極めて低く、待遇も劣悪だった。

この搾取的戦略は1880年代にゴムとココナッツ農園へと拡大した。ゴムとココナッツのプランテーションは主に欧米の消費者向けに発展した。ゴムに関しては、工業化拡大と自転車・自動車の普及により、タイヤや機械部品に大量のゴムを必要とする欧米の市場で需要が急増し始めていた。プランテーションの所有者はここから多くの利益を得たが、それはしばしば現地の労働力と経済を犠牲にして行われた。

島民たちはやがて政治的独立を求める平和的な運動を開始した。1948年、セイロン島はイギリスの支配から独立を果たし、これが自治の始まりとなった。その後、国名はセイロンからスリランカへと改称された。

スリランカで収穫される茶葉(写真:Knut-Erik Helle / Flickr [CC BY-NC 2.0])

独立後の経済的苦闘

独立後から1960年代までのスリランカの経済状況は、植民地時代のプランテーション経済によって形作られていた。依然として紅茶、ゴム、ココナッツの輸出への依存が経済を支配しており、特に紅茶とゴムのプランテーションは独立後もイギリスからの入植者やイギリス系資本の所有下にあった。

1960年代から、特に1970年代にかけて、新たに独立を果たした政府は経済に対する国家統制を強化し、多くの民間産業や外資系プランテーションを国有化するとともに、公共部門を拡大した。政府の目的は、一部の人々への土地の集中を制限し、外国企業への富の流出を減らし、土地を持たない農民に土地を再分配することで、より大きな経済的公平性と地元の人々による土地所有を促進することにあった。

1972年土地改革法、そしてその1975年改正法に基づき、主要な茶園、ゴム農園、ココナッツ農園を含む大規模農地は、スリランカ国営農園公社やジャナタ農園開発委員会などの国家機関に帰属することになった。この土地の大部分は国家機関に管理移管され、残った約12%のみが最終的に土地を持たない農民に分配された。

スリランカの農村に住む多くの住民は、植民地時代のプランテーション制度により既に土地を持たないか、ごく小規模な土地しか所有していなかった。さらに、国営機関での雇用は多くの場合、低賃金、不安定な雇用、意思決定権の制限を伴うものだった。したがってこれらの場所で働く農民は、土地所有によって得られるはずだった自律性や経済的な安定をえることができなかった。結果的に、スリランカの土地改革は外国資本の所有を減らしたものの、農村の生活の改善や不平等の是正にはほとんど寄与しなかった。

国営機関もまた、非効率性や低生産性、投資不足に悩まされ、得られる経済的利益も限定的だった。例えば茶畑の植え替えや機械の近代化が遅れ、ケニアやインドなどの国々に対する競争力が低下した。

結果として国家による管理は非効率的であることが明らかになり、プランテーション部門の経済への貢献度は低下した。また、農業やその他の部門の生産性が鈍化したため、プランテーション作物からの輸出収入は、機械、原材料、消費財などの不可欠な輸入品の支払いを賄うことができなくなった

スリランカの農村部と茶のプランテーション(写真:Nigel Hoult / Flickr [CC BY 2.0])

これらの問題に対処するため、政府は輸入代替政策(※2)を導入し、国内での生産拡大と外国からの輸入に対する依存の軽減を図った。同時に、政府主導の工業化を推進し、主要産業の開発や管理において政府が中心的な役割を担うようにした。しかし、こうした貿易規制と政府の過度な関与を下支えする強力な産業基盤や十分な資金・技術が欠如していたため、国内生産者が安価な輸入品と競争したり国内需要を満たしたりすることは困難だった。

1973年の世界銀行の分析によれば、1970年代初頭の厳格な輸入規制と制限的な貿易体制は、スリランカ経済を外部ショックに対して極めて脆弱な状態に陥らせた。これは主に、産業が機械、燃料、原材料などの不可欠な輸入品を調達することが困難になったためである。したがって、世界的な価格上昇や供給混乱が生じれば、生産は即座に混乱し、コストが増大する可能性があった。

武力紛争と経済的脆弱性への影響

 独立後の脆弱な経済的自立に対する決定的な打撃となったのは、1983年に勃発した武力紛争であった。この武力紛争は、民族間の長年にわたる分断に起因する政治的不満に根ざしていた。イギリスの植民地支配下において、多数派のシンハラ系住民と、主に島の北部から東部にかけて居住する少数派のタミル系住民の間の分断は顕著になった。例えば、タミル系の人々は公務員職や教育においてしばしば優遇されてきたが、これが独立後にシンハラ系の人々の間に不満を生じさせた。

独立後、シンハラ系住民が主導してきた歴代政権は、多くのタミル系住民が不公平とみなす政策を導入した。1956年の公用語を定める法律により、シンハラ語が唯一の公用語となった。これにより政府職や教育におけるタミル語を母語とする人々の就職機会は減少した。その後1970年代には、大学の「標準化」政策(※3)がタミル系の人々の高等教育へのアクセスをさらに制限した。こうした措置は、少数派のタミル系住民が感じていた政治的・経済的疎外感に拍車をかけた。

タミル自治を求める平和的努力が失敗に終わる中、1977年と1983年の反タミル暴動を含むコミュニティ間の暴力が増加した。これに対し、一部のタミル系の人々は武装組織に加わった。この動きは1970年代後半にタミル・イーラム解放の虎(LTTE)の結成で最高潮に達した。LTTEはタミル・イーラムと呼ばれる独立したタミル人国家の樹立を目的としていた。LTTEとスリランカ政府の衝突は1983年に全面的な武力紛争へとエスカレートした。この年、反タミル暴力が広範な報復行動を招き、LTTEへのさらなる兵員増加につながった。

スリランカ北部のキリノッチを走るLTTEの車両(写真:Author / Wikimedia Commons [CC BY-SA 3.0])

LTTEと政府軍の軍事的対立は20年以上続き、北部と東部の経済を壊滅させ、資源を軍事費に振り分け、投資家の信頼と観光業の発展を損なった。これらすべてがスリランカの経済の弱体化を進めることになった。 

2009年に武力紛争が終結した後、2005年に大統領に選出されたマヒンダ・ラージャパクサ氏は、同国の戦後復興における中心人物となった。彼の政権はインフラ再建、治安改善、戦争被害地域の投資誘致に注力した。こうした取り組みは国の安定化に寄与したものの、経済成長は依然として不均衡であり、開発が特定地域に集中し、政治権力がますます中央集権化しているという批判もなされている。

ラージャパクサ政権と増大する債務

この島国は、数十年に及ぶ武力紛争終結直後に最大の経済成長を経験した。2011年のGDP成長率は8.3%に達した。これは約60年間で最も高い伸び率であった。2010年から2015年にかけてGDPは年間約6.4%のペースで成長した。戦後の成長は、大規模なインフラ整備と観光プロジェクトによるところが大きい

しかし、重大なマクロ経済的弱点が表面化し始めると、この成長はすぐに鈍化した。その一因は財政管理の構造的弱点にあった。これについて、ラージャパクサ大統領政権(2005~2015年)下で下された一連の財政・統治上の決定がスリランカ経済の弱体化に寄与したと指摘されている。これには主に企業や高所得者層に長らく与えられていた減税・免税措置含まれ、その結果税収基盤が弱体化したと考えられている。2023年の最高裁判決は、同政権下における重大な政治的失敗と経済運営の失策について、ラージャパクサ氏ら関係者に責任があると認定した。この判決は、不適切な政策選択と統治判断に対する指導者らの法的責任に焦点を当てたものである。加えて、リスクの高い商業融資や経済的リターンの低い大規模なインフラプロジェクトへの依存が高まる傾向も見られた。

商業融資もスリランカ経済において重要な要素となっている。スリランカの対外資金調達の多くは、多国間と二国間の貸し手からの融資を通じて行われてきた。主要な二国間の貸し手は中国、日本、インド、フランスであり、主要な多国間貸し手にはアジア開発銀行(ADB)や国際通貨基金(IMF)が含まれる。

2014年にニューヨークでIMFの理事と会談を行ったラージャパクサ氏(写真:Mahinda Rajapaksa / Flickr [CC BY-NC 2.0])

2007年以前、スリランカが中国から受けた融資は主に低金利・長期返済の「ソフトローン」であった。これらの資金はハンバントタ港やマッタラ・ラージャパクサ空港を含む大規模インフラプロジェクトに充てられた。こうした事業はしばしば「債務の罠外交」(※4)の事例と指摘されてきた。この言葉は、中国が資金提供したインフラプロジェクトを説明する際に一部のアナリストによって用いられてきた。しかしこの解釈には異論もあり、スリランカの債務危機は主に国内の財政的脆弱性とより広く国外からの対外融資よって引き起こされたものであり、中国政府による意図的な戦略ではないと主張するもある。

実際、スリランカの債務危機はより広範な要因の複合によって形成された。2022年末までに、スリランカの対外公的債務の約5分の1は中国の貸し手に対するものであった。これには、中国の政策銀行からの公的融資と、国有企業への融資などの商業融資の両方が含まれる。

深刻な経済危機を克服するため、スリランカは2007年から2019年にかけて、ブラックロック、HSBC、JPモルガン・チェース、アリアンツなどの民間国際投資家や債券保有者から、より高い金利と短い返済期間で商業融資を増やした。その結果、すぐに大きな返済圧力に直面することとなった。

高まる危機とラージャパクサ政権の崩壊

スリランカ経済は2019年以降、一連のほぼ無関係な出来事によってさらに弱体化した。その一因が2019年の同時多発テロ事件、いわゆる「イースター爆破事件」である。4月21日、スリランカ各地の教会や高級ホテルを標的とした自爆テロが発生した。「イスラム国」(IS)の過激派によるものとされるこの攻撃では、321人が死亡、数百名が負傷する大惨事となり、観光業と投資家のスリランカに対する信頼を大きく損なった。

この事件に続き、2020年には新型コロナウイルスのパンデミックが発生した。国際観光の崩壊、貿易・サプライチェーン・国内商業の混乱により経済はさらに圧迫され、政府収入も減少した。

3つ目の出来事は政治の失策だ。スリランカの政治を見ると、2019年にマヒンダ・ラージャパクサ大統領が辞任した後、弟のゴタバヤ・ラージャパクサ氏が大統領に選出された。彼の指導下では、国家安全保障、経済改革、農業政策への重点強化を特徴とする新たな政策方向性が打ち出された。

2021年、政府は化学肥料を突然禁止し、100%有機農業への迅速な移行を目指した。この政策は公衆衛生の改善と環境・経済保護のための措置として公式に正当化された。しかし、段階的な移行期間を設けずに実施されたことなどから広く批判された。また、環境持続可能性における世界的リーダーとしての自己アピールを目指す大統領の野心を反映した政治的動機によるものと見なされた。この禁止令後、農業企業は収入を得られなくなり、食料価格は急騰し生産量は減少した。

その結果、食料・燃料・医薬品などの生活必需品が不足してハイパーインフレが起こり、その結果大規模な抗議運動が発生した。当初は平和的な運動として始まったこの4ヶ月間に及ぶ抗議活動(2022年アラガラヤ大規模抗議運動)は、最終的に大統領官邸の襲撃・占拠に至った。抗議活動中には、国家治安部隊に対する告発を含む人権侵害事例が報告された。最終的にこの抗議運動は、2022年にゴタバヤ・ラージャパクサ大統領の辞任につながった。

2022年7月に大統領公邸を占拠した抗議活動の参加者(写真:Valmedia / Shutterstock)

緊縮政策と民衆の反発

このような経済低迷と厳しい返済圧力の中、スリランカは2022年に債務返済を停止し、債務不履行に陥った。その結果、同国はIMFと世界銀行の関与のもと、債務再編の計画を開始した。

アラガラヤ運動後に大統領代行となったラニル・ウィクラマシンハ氏は、2022年にスリランカの経済回復に向けより厳しい措置を採用した。金利の引き上げ、資金供給の抑制、通貨の安定化により、インフレ率は2022年末の約70%から2024年半ばまでに1.7%まで低下した。また、彼が打ち出した経済安定化政策には税収源の拡大や既存商業ローンの債務再編が含まれていた。これらの措置は、スリランカが2023年に約30億ドルの大規模な拡張基金ファシリティ(EFF)(※5)に合意した際、IMFが条件として提示したものである。

債務再編に付随する条件に従い、財政改革は財政健全化を重視し、政府の公共支出拡大の柔軟性を制限した。さらに、IMFの要求に沿った中央銀行の独立性強化改革は、金融政策への政治的介入を制限し、より厳格なマクロ経済規律を課した。

ウィクラマシンハ政権下で実施された経済プログラムは、物価安定と債務再編に加え、大幅な緊縮措置を伴った。これらは生活水準と財政に直接的な影響を与えた。具体的には、付加価値税率の引き上げ、法人税・所得税率の増税、源泉徴収税の義務化など、大幅な増税と課税ベースの拡大が含まれた。これらの措置は政府歳入の増加を目的としていたが、同時に消費者と企業への負担の増加も招いた。

政府はまた、燃料と電力への補助金を削減し、コストを賄うために公共料金を引き上げた。これにより、家庭や企業にとってこれらのサービスはより高価になった。これは、財政赤字を削減するために融資を再構築する際にIMFがよく行う要求だ。政府投資の削減、公共部門の賃金凍結、一部の国家活動の縮小によって公共支出が制限され、経済における需要はさらに引き締まった。

IMF支援プログラムの下でGDP成長率や低インフレといったスリランカのマクロ経済指標は改善したものの、この成長の恩恵は国民の大半には及んでいない。公共料金値上げ、増税、補助金削減といった改革は経済安定化に寄与したが、同時に生活必需品・サービスのコスト上昇と家計所得の圧迫をもたらした。その結果、貧困が深刻化し、国民の不満が高まっている。

幅広い国民の不満と政治的圧力を受けてウィクラマシンハ氏が2024年に総選挙を実施した結果、彼に代わってアヌラ・クマラ・ディサナヤケ氏が政権を握った。ディサナヤケ氏は左派政治家であり、ジャナタ・ヴィムクティ・ペラムナ(JVP)、およびより広い政党連合である「国民の力」(NPP)連合の指導者である。この政党はマルクス主義に根ざした政治思想を持つものの、スリランカの伝統的エリート層に代わる主流派としての立場を次第に確立してきた。彼の選挙運動は、政治体制と緊縮財政に不満を抱く有権者に向けて、反汚職、政治改革、経済変革を訴えた。経済危機からの回復期にある同国において、汚職との闘い、一般市民の苦難からの保護、より公正な統治の推進を約束した。

2024年11月に国会の開会式に向かうディサナヤケ氏(写真:Ruwan Walpola / Shutterstock)

債務と成長、そして未来

ディサナヤケ政権下のスリランカは経済成長を遂げている。しかし、この成長は以前のIMF支援による厳格な改革プログラムに起因するものであり、実際には政策の不均等な実施と右往左往する政治により予想されたより大きな回復を損なっているとも指摘されている。また、IMFの条件の見直しは依然として柔軟性に欠け、さらなる緊縮措置を生み出している。 

より懸念されるのは、GDPで測られる経済成長が、特に緊縮財政が特徴的な状況下では、必ずしも一般市民の広範な回復につながっていない点だ。多くの世帯は失われた生計手段を未だ回復しておらず、労働市場の回復は遅々として進まず、食料価格は高止まりし、特に経済的に脆弱な人々の間では栄養不良が続いている。報告される数字的な成長は大多数の人々が実際に直面している深刻な状況を見えにくくしているが、スリランカの貧困水準は依然として高いままだ。

ディサナヤケ政権下でも緊縮政策は継続された。2025年11月、ディサナヤケ氏は2026年度予算案を議会に提出した。この予算案もIMFの条件に明確に沿ったものであり、ウィクラマシンハ政権と同様の厳格な措置を反映していた。具体的には、公共支出の大幅削減、間接税の拡大、福祉給付の削減、特定品目への輸入関税引き上げ、国有資産の民営化推進などが盛り込まれている

2025年末までに、政府アナリストはスリランカの債務がGDP総額の約96%まで低下すると予測していた(2022年は約130%)。債務対GDP比率の低下は債務持続可能性の改善を示す可能性がある一方、歳入に占める債務返済比率は政府の差し迫った財政制約を反映している。2025年には政府歳入の約60%が債務利払いに充てられる見込みである。過去数年間も同様の傾向が確認されており、2023年には政府歳入の約80%が、2024年には57%がそれぞれ債務の返済に充てられた。

その結果、2025年の政府歳入のうち公共サービスに充てられる額は半分未満に留まり、重要分野への支出が制約された。スリランカの2025年度予算によると、債務返済後の政府収入の残余分は公共サービスに配分され、総収入の12が保健分野、6.4%が教育分野、5%が農業分野、さらに11%が運輸・都市開発分野に割り当てられた。今後の見通しとして、2026年度予算は高水準の債務返済義務が継続すると示唆している。これは貧困対策や公共福祉の向上に向けた取り組みを著しく制約する。

現大統領の今後の軌跡はウィクラマシンハ前大統領と同様の道を辿るようであり、2026年度予算はこれを反映している。スリランカで実施されている緊縮政策は、IMFが設定した条件に大きく影響されていることは明らかだ。現政権は左翼的な代替政策を掲げて選挙を勝ち抜いたものの、実際には前政権のマクロ経済政策をほぼ継続している。貧困層と中産階級の生活水準は10年前よりも悪化しており、国民の不満は依然として高い。残された核心的な課題は、何によってスリランカ国民が求めてきた持続可能な未来は実現できるのか、ということだ。

スリランカの最大都市コロンボの風景(写真: Just a Brazilian man from Brazil / Wikimedia Commons [CC BY 2.0])

 

※1 契約労働とは、正式な契約(契約書)に基づき、労働者が一定期間、他者に対して労働を提供することを約束する制度である。通常、労働場所への移動費、住居費、食費、賃金、または債務返済と引き換えに行われる。労働条件はしばしば過酷で搾取的であった。

※2 ここでの輸入代替政策とは、輸入代替工業化(ISI)を指す。これは、輸入規制、関税、ライセンス要件などの貿易制限を通じて国内生産を促進し、外国からの輸入への依存を減らそうとする政府の開発戦略を意味する。スリランカでは、1960年代から1970年代初頭にかけてISI政策が特に顕著に行われ、広範な国家介入と外国為替管理が実施された。外貨の節約と国内産業の育成を目的としたこれらの政策は、限られた資本、技術、産業能力によって制約され、結果として非効率性と供給不足を招いた。

※3  1970年代初頭に導入されたスリランカの大学「標準化」政策は、使用言語と地区に基づいて学生に異なる合格基準点を適用することで大学入学基準を調整した。公式には地域間の公平性を促進する措置として正当化されたが、この政策は医学部や工学部などの競争率の高い学部へのタミル系学生の入学を不均等に減少させた。この政策は少数派のタミル系住民の間での大きな不満の原因となった。

※4 この用語は、債権国が意図的に借り手が返済困難な条件で巨額融資を行い、返済問題発生時に政治的・戦略的優位性を債務国から得るという外交戦略を指す。

※5  EFFは、構造的弱点に起因する中長期的な国際収支問題に直面する国々を支援するために設計されたIMFの融資の枠組みである。EFFプログラムは通常、マクロ経済の安定性と債務持続可能性の回復を目的とした構造改革、財政再建、金融政策調整の実施を条件とした複数年にわたる財政支援を伴う。

 

ライター:Mohammad Istiaq Jawad

翻訳:Seita Morimoto

グラフィック:Yumi Ariyoshi

 

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