「戦争は終結した。」2021年8月15日、アフガニスタンで武装勢力タリバンの広報官が首都カブールの制圧を宣言し、こう述べた。タリバンが勝利し政権を掌握したことで、アシュラフ・ガニ政権は事実上の崩壊となった。この「戦争の終結」とタリバン政権の再誕生による影響は、アフガニスタンだけでなく周辺の地域にも波及しており、各国は対応を迫られている。当記事では、この出来事に対し様々な反応を見せた、アフガニスタンの北側に位置する中央アジアの国々(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン)に注目する。
中央アジアの国々の指導者らは、これまでにもタリバンや他の「イスラム過激派」と称されるようなグループなどの拠点となったり、標的にされていると度々主張してきた(※1)。一方で、中央アジアでは人口の大半がイスラム教を信仰しているとされ、イスラム教は多くの市民の日常に根付いた宗教である。1991年に中央アジア各国が独立する際には、指導者らはイスラム教徒としてのアイデンティティを強調することで国民の支持を集めて自身の地位を向上 させようとした。
中央アジア各国の政治は、宗教とどのように関わり、どのように利用してきたのだろうか。この記事では、中央アジア諸国の政治とイスラム教がどのような関係にあるのかを探っていこう。

1920年代、モスクではなく学校へ行くことを促すソ連の政策をイメージした絵 (写真:Jean-Pierre Dalbéra / Flickr [CC BY 2.0])
イスラム教と中央アジアの翻弄の歴史
中央アジア5カ国はいずれもイスラム教徒が人口の過半数を占め、イスラム教徒の割合が最も少ないカザフスタンで70%(2009年時点)、最も多いタジキスタンで98%(2014年時点)であると推測されている。しかし、イスラム教徒が多いからといって、イスラム教がこれらの地域で歴史的に国家や政治において常に重んじられてきたわけではない。
中央アジアにイスラム教が定着したのは8世紀頃とされる。遡って7世紀、中東で勢力を拡大していたイスラム王朝(※2)は、征服地域の拡大やイスラム教の布教によってさらに勢力を強めるため、トルクメニスタン南部周辺の地域を侵攻し、制圧した。その後8世紀、現在のカザフスタンとキルギスの国境付近で、中国の王朝である唐との中央アジアでの覇権をめぐっての戦いにイスラム王朝が勝利した。これによってイスラム王朝が中央アジアでの実権を握り、以後400年にわたってイスラム王朝による支配体制が続いた。そうした動きを通じて、中央アジア地域にイスラム教が定着していったのだ。
17世紀以降、大国化を目指し着実に勢力を拡大していたロシア帝国が中央アジア地域への侵略を進めた。それからは、中央アジア地域におけるイスラム教はロシア帝国の政策に翻弄され続けた。当初、ロシア帝国はイスラム教文化を支持するように見えた。礼拝施設であるモスクを建設し、イスラム文学の発展に資金を割り当てていたのだ。しかし、ロシア帝国が奨励していたのは彼らが「公式」と認めたイスラム教であった。例えばカザフスタンの遊牧民の間で信仰されていたような現地の慣習などを含んだ地域に根付いたイスラム教は奨励されなかった。中央アジアにおいてイスラム教は既に無視できない大きな存在であり、ロシア帝国による統治を妨げる可能性があったため、ロシア帝国が「公式」と定めたイスラム教を積極的に推奨することで管理の体制を築き統制を図ろうとしたのだと考えられる。
そしてロシア帝国による中央アジア地域の支配がほぼ確立した19世紀半ばごろには、ロシア帝国の政策はイスラム教の活動をさらに抑制する形をとっていた。ロシアで主流の宗教となっていたキリスト教へ改宗させるために宣教師がこれらの地域に送り込まれたり、イスラム教聖職者の数が制限されたり、許可を受けていないモスクやイスラム教の教育施設の開設が禁止されるなどの措置がとられた。ロシア帝国にとって宗教は統治の手段であり、なかでもイスラム教に対する介入は強まっていった。
1917年に起こったロシア革命では、ロシア帝国が崩壊しソビエト政権が誕生した。当初ソビエト政権は、イスラム教徒などを含むロシア帝国時代に抑圧されていた少数派を保護すると宣言し支持を集めていた。しかし次第に政権の反対勢力が影をひそめると、ソビエト政権も政策を転換し、イスラム教に対する抑圧を強める。ソビエト連邦が形成され、中央アジア5カ国が構成国となった1920年代には、モスクが閉鎖され、女性の頭や体を覆うヒジャーブ(※3)の着用も禁止された。さらに1920年代には、ロシア語教育が義務化されロシア語が公用語に採用されると、イスラム教徒が信仰の際にも多く用いるアラビア語は次第に衰退していった。聖典であるコーランをはじめとするアラビア語で書かれたイスラム書籍などへのアクセスが困難となり、中央アジア地域と近隣のイスラム圏との交流にも壁が生じたのだ。

1921年にソ連で発行された、女性の解放を訴えるプロパガンダポスター(写真: Wikimedia Commons [public domain])
支配下の全国民の協力が必要となった第二次世界大戦下では、イスラム教は禁止されるよりも統制される方針へと転換された。1943年、中央アジアに「イスラム教徒精神行政局(SADUM)」と呼ばれる機関が設立され、ソ連の管理下にあるこの機関の下でイスラム書籍の出版や聖職者の訓練が行われた。聖職者は政府などから任命され、モスクは登録制となった。こうした政府の徹底した管理下に置かれたイスラム教は、その管理下から外れない限り、政府によって「良い」イスラム教とみなされた。一方で政府による介入が強まるほど、政府による管理を受けない形の信仰を求めて、「悪い」と政府にみなされたイスラム教も発展した。「悪い」イスラム教は集団農場や地下などで穏和に発展していたのだが、ソ連はこうした政府の目の届かない活動を反政府的な策略であると考え、「危険」で「脅威」だとみなしていた。
中央アジア諸国の政治とイスラム教
1980年代、ソ連の政治改革に伴って、中央アジアでのイスラム教の統制にも緩和の傾向がみられた。アラビア語での書籍の出版や宗教教育が再び可能になり、市民にとってイスラム教がより身近となった。ソ連が崩壊し中央アジア5カ国が独立した1991年には、アフガニスタンやサウジアラビアなどのイスラム教とのつながりが深い国々が中央アジアのイスラム復興を支えた。
しかし中央アジアの国々は独立後も、国家がイスラム教徒に対してレッテルを貼り、宗教を政治化するソ連の政策を引き継いでいるように見受けられる面もある。実質的にイスラム教の管理・統制を行ってきたイスラム教徒精神行政局(SADUM)は解体されたが、各国にはそれに代わるようなイスラム教の規制委員会が設けられた。ウズベキスタンでは1994年から1997年にかけて、政府が認めていない「非公式」なイスラム教への迫害が激化した。厳格なイスラム教徒の表徴とみなされていた長い髭を生やした(※4)男性が恣意的な拘禁や嫌がらせを受けたり、モスクが閉鎖されたり、「非公式」なイスラム教の聖職者らの失踪が相次いだりした。また、政府の管理下にあるメディアを通して、厳格なイスラム教徒は「テロリスト」や「過激派」であるというレッテルが貼られた。近年に入っても、例えばタジキスタンでは、男性が髭を生やすことや女性がヒジャーブを身につけることは「外国」の礼拝の仕方であるとされ、国家の規制を受ける。

礼拝を行うキルギスの人々(写真:IHH Humanitarian Relief Foundation / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
このように、中央アジア諸国でのイスラム教は絶えず政治と切り離せない関係に置かれてきた。その背景には、各国指導者の自身の権力基盤を維持したいという思惑が考えられる。人口の大半が信仰するイスラム教において、宗教的指導者の求心力が高まれば自身の立場が危うくなるだろう。一方で、全てのイスラム教を完全に規制してしまえば市民の反感を買ってしまう。そのため、「イスラム過激主義」に対する恐怖を煽ることで、イスラム教への介入を正当化している側面がある。イスラム教の信仰は安全保障の面から捉えられ、各国政府は安全保障を理由に人々の信仰に干渉し続けている。実際、中央アジア各国の独立した1990年代以降も、カザフスタンやタジキスタンでは過激派の動きが活発になったことにかこつけてイスラム教への取り締まりも厳しさを増していった。
外交手段としてのイスラム教
中央アジア以外の国も、中央アジアでのイスラム教を政治利用しているといえる。ソ連が崩壊し中央アジア各国が独立した後、各国ではモスクの不足など、イスラム文化を復興させる経済的余裕がなかった。そこで、サウジアラビアやトルコといったイスラム教とのつながりの深い国々が支援を行いはじめた。こうした支援の背景には、単にイスラム教徒への慈善活動というわけではなく、国家レベルでの様々な思惑があるとされる。

ウズベキスタンの都市ヒバにあるモスクと併設されたイスラム教学校(写真:Dan Lundberg / Flickr [CC BY-SA 2.0])
サウジアラビアにとって、中央アジアでのイスラム教支援は、聖典であるコーランをほとんど文字通りに解釈することを提唱し、「純粋」なイスラム教信仰への回帰を説くワッハーブ派を広めるプロパガンダ的な狙いがあったとされる。モスクの建設の他にも、イスラム教科書の配布や教育センターの設立などを支援し、過去数十年間で多額のお金を費やしてきたようだ。
トルコも、中央アジアに限らずアフリカやヨーロッパなど世界中にモスクを建設している。これは、「ソフトパワー」の観点から国益を上げることが一つの狙いだと考えられている。つまり、軍事力や経済力といった「ハードパワー」ではなく、その国の文化やイメージによって図られる国力の向上のためにモスク建設を1つの手段としている。カタールやアラブ首長国連邦(UAE)など他の支援を行っている国も同様に、自国の影響力拡大などが支援の背景にあると考えられる。また、カタールやトルコとサウジアラビア、UAEは対立関係にあるなかで、自国の権威を見せようと他国でも対立を繰り広げていることから、中央アジア地域においても自国の味方を増やそうと影響力を競い合っているという側面もあるだろう。
タリバンと中央アジア
長い歴史を持つイスラム教と国家の関係において、この地域での存在を無視できないのがタリバンである。タリバンとは、権力争いの一環としてアフガニスタンで武力衝突が頻発していた1994年、パキスタンとアフガニスタンの国境辺りで組織された、厳格なイスラムを徹底しようとする武装勢力である。冒頭にも触れたように、2021年8月、タリバンはアフガニスタンの首都を制圧し政権を奪った。タリバンがアフガニスタンで政権を掌握したのは今回が2度目であり、1度目は1996年から2001年にかけてであった。この1度目のタリバン政権に対しては、中央アジアの国々は当初から懸念を表明し前政権を支持するなど、タリバンと関係を持つことに消極的な姿勢をとっていた。中立を宣言したトルクメニスタンを除く4カ国は治安悪化などの懸念を表明してタリバン政権に反対する姿勢をみせ、とくにタジキスタンとウズベキスタンは、アフガニスタン内でそれぞれ自国と関係が深い少数民族であるタジク人やウズベク人を中心に構成された武装勢力がタリバンと戦うのを支援していた。
一方、今回のタリバン政権に対しては、中央アジア各国の政府は前回とは異なる姿勢をとっている。タジキスタンを除く4カ国は、早い段階でタリバン政権の代表と会うために代表団をアフガニスタンに派遣した。タリバン政権を公式政府として明確に認めているわけではないが、既に緊密に接触を図っているのだ。こうした背景には、アフガニスタンとの貿易やアフガニスタンを介した南アジア等との貿易による利益を得たいという経済的事情がある。
例えばウズベキスタンでは、タリバンによる政権奪還の以前からアフガニスタンとの経済関係を拡大 してきた。これは貿易だけでなく南アジアとの接続性向上のための鉄道の開通を目指したり、ウズベキスタンの企業によるアフガニスタンの道路などのインフラ建設からも示されている。また、カザフスタンは、タリバンの勝利宣言からおよそ1か月後には代表団を派遣して両国間の貿易について話し合い、その3日後には輸出を再開させた。さらに、トルクメニスタンやキルギスでも天然ガスや電力供給のパイプライン建設のプロジェクトが進んでおり、政権が代わっても変わらず、アフガニスタンは重要な取引相手となっているのだ。
中央アジア5カ国のなかで唯一、タリバンとの公式の話し合いを設けていないのがタジキスタンである。タジキスタンもアフガニスタンと経済的な関わりがあることに変わりはない。しかし、タジキスタンのエモマリ・ラフモン大統領は、タリバン政権の構成メンバーにタジク系アフガニスタン人が含まれていないことなどからタリバン政権を批判している。タジキスタンはこれらの少数民族がタリバンによって迫害を受けることを懸念していると表明している。こうしたラフモン大統領の姿勢には、タジク人のナショナリズム感情を利用し、内外のタジク民族の支持を得ることで自身の支持層を確保したいという考えがあることも否定できないだろう。
また、タジキスタン政府が「テロ組織」とみなしている、タジキスタンを中心に活動する過激派「ジャマート・アンサルッラー」がタリバンと協力関係にあることもタジキスタン政府にとって懸念材料となっている。こうしたなか、タリバンとタジキスタンの両方が国境付近に戦闘員を増員するなどの動きがみられたが、実際に衝突につながる可能性は低いと考えられる。ラフモン大統領以外の政府高官はタリバンに対する直接的な批判を避けており、タリバン政権下のアフガニスタンと一定の経済活動も続けられている。
中央アジア諸国にとって、タリバンが政権を握ったことによる現在の懸念は、直接的な危険よりも、間接的に他の過激派グループや反政府勢力の動きが活発化することにあるだろう。タリバンのアフガニスタンでの政権奪還は、前政権の不完全で腐敗した政治に対する不満も手伝っていた。こうした不満は、中央アジア各国にも当てはまるといえる。各国はタリバンとの距離感を見極めつつも、ロシアやロシア主導で旧ソ連諸国が加盟している集団安全保障条約機構(CSTO)(※5)、中国などとの軍事演習を増加させるなど、警戒を強めている。
影響を及ぼす大国
ことの発端の一部を担っているアメリカは、今回のタリバンの政権奪還に際しては、アフガニスタンからの難民の安全確保の要請など限定的な介入に留まっているが、アフガニスタンに何年も駐留してきたことからも明らかなように、中央アジア地域に関心がないわけではない。その背景には、中央アジア地域でロシアや中国が影響力を強めることを防いで自国の影響力を増やす狙いや、「イスラム過激派」の勢力拡大を抑える狙いがあるとされている。さらにこれらの地域にある原油や天然ガスといった化石燃料に対する経済的利益にも関心があると考えられる。
アメリカは、「イスラム過激派」と称されるグループとの関係においては、アフガニスタンでタリバンが台頭する以前には協力関係にあった。1979年から1989年にかけて、反政府勢力である「イスラム過激派」の「ムジャヒディン」に資金や軍事援助を行っていたのだ。これはアフガニスタンに侵攻を進めていたソ連に対抗するためで、ソ連が撤退するまでの間続けられた。一方で、前タリバン政権時には、2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件の実行犯の中心的存在とされたウサーマ・ビン・ラディン氏の無条件での身柄引き渡しをタリバンが拒否したため、同盟国とともにアフガニスタンへ軍事介入し、タリバン政権を崩壊させた。以降、アフガニスタンにはアメリカ軍が駐留を続け、中央アジア諸国のアメリカ軍の基地をアフガニスタンでの軍事活動のために使用もしていた。だが、長期間に及ぶ駐留を批判するアメリカ国内、アフガニスタンそれぞれの世論の高まりなどもあって、2021年8月30日にアメリカ軍はアフガニスタンからに完全撤退した。

アフガニスタン上空を警備するアメリカ軍(写真:The U.S. Army / Flickr [CC BY 2.0])
対して、タリバンの政権奪還を受けて積極的な動きを見せているのがロシアである。ソ連崩壊後も中央アジアで影響力を強めてきたロシアは、タリバン政権に対して表立った批判はしていない。しかし、中央アジアでの軍事演習は増加しており、ロシア主導のCSTOは2021年9月上旬にキルギスで、同年10月後半にはタジキスタンでカザフスタン軍と合同での軍事演習を行った。タリバン政権の存在は、ロシアの軍事力に依存する中央アジア諸国においては更なる影響力拡大を見込める機会ともいえる。一方で、アフガニスタンとの戦争やチェチェン紛争(※6)を経験したロシアにとって、「イスラム過激派」の存在は警戒すべき気がかりな存在でもあるだろう。
ロシアと同様に中央アジアでの軍事演習などを増加させているのが中国である。以前から中国は、「イスラム過激派」などへの懸念から、100万人以上に及ぶ新疆ウイグル自治区で生活するウイグル系、カザフ系、キルギス系中国人のイスラム教徒少数民族を強制収容所に収容するなどの政策をとってきたとされている。タリバン政権に対しては、経済協力と引き換えに、ウイグル自治区にあたる東トルキスタンの独立を主張する反政府組織であるトルキスタン・イスラム党(TIP)との関係を断ち切るよう要求した。これには、アフガニスタンからウイグル自治区にこうした過激派が流入してくることを防ぎたい狙いがあるとされる。中国はまた、自国から逃げたウイグルの人々の避難所となるのを防ごうと中央アジア各国に軍事施設や治安インフラの整備支援を行っている。中央アジア諸国は中国への経済的依存も大きく、また、各国の指導者らにとって自身の地位を脅かす過激派組織の活動を抑えるためにも、安全保障面でも経済面でも繋がりが増しており、中央アジア諸国にとってもタリバンにとっても無視できないアクターとなっている。

ロシアのウラジミール・プーチン大統領とトルクメニスタンのグルバングルィ・ベルディムハメドフ大統領(写真:Пресс-служба Президента Российской Федерации / Wikimedia Commons [CC BY 4.0])
まとめ
ここまで見てきたように、中央アジアにおけるイスラム教は、常に権力に振り回されてきた。政治的な思惑や権力闘争のなかで、イスラム教は様々な介入を受け、教徒たちはその自由な信仰を奪われてきた。「イスラム」の名のもと暴力を用いる組織や、国家が脅威とみなした過激派組織に対して「イスラム」を付したことで、安全保障を口実としたイスラム教への介入が純粋な宗教行為への介入まで正当化されてきたともいえる。中央アジアとイスラム教との関係を通して、国家や権力と宗教がどのような距離感であるべきなのか、改めて考える必要があるだろう。
※1 イスラム教やイスラム教徒を過激派と結びつけるような誤解がなされることがある。「イスラム過激派」と称されるグループに属する人々は、自らが信じる解釈によるイスラム思想をテロや暴力によって広めようとする。だが、ほとんどのイスラム教の聖職者はこうした暴力はイスラムの教えに反していると考えており、イスラム教徒の大半からも支持されていない。
※2 イスラム王朝とは、広義ではイスラム教徒の皇帝や国王が支配する国家の総称である。はじまりは、イスラム教の開祖であるムハンマドによるメッカの征服とされる。ムハンマドの死後の632年からは、イスラム教徒によりムハンマドの後継者として選ばれたカリフ(最高指導者)が大規模な征服活動をおこなった。このイスラム教徒によって選出されたカリフによる統治は正統カリフ時代と呼ばれ、661年まで続く。以後、アラビア半島を中心に661年から750年まではウマイヤ朝、750年から1258年まではアッバース朝が統治していた。この後も各地で分裂や建国を繰り返し様々なイスラム王朝が成立する。
※3 ヒジャーブは、イスラム教徒の女性の一部が身につける、頭や体を覆うように身につける布である。ヒジャーブはイスラム教の聖典であるコーランで厳密に定義されているわけではないが、コーランに基づくものとされ、戒律に厳格なイスラム教徒は身につけていると考えられている。ヒジャーブに関する対応は国や時代によって様々であり、女性解放などの名目でヒジャーブの非着用が推奨されたり、逆に義務とされる場合もある。
※4 イスラム教の預言者ムハンマドの言語録である「ハーディス」で、髭についての記述があり、その記述通りに、口の髭を短く顎の髭を伸ばすべきだとするイスラム教徒もいる。男性があご髭を伸ばすことは、女性のヒジャーブと同様に、戒律に厳格なイスラム教徒の表徴ともされる。
※5 集団安全保障条約機構(CSTO)は、ロシアが主導する旧ソ連構成国間の軍事同盟である。2022年1月現在の加盟国はアルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、ロシア、タジキスタンの6カ国である。ウズベキスタンは2012年に脱退したが、アフガニスタン情勢を受けた2021年8月のサミットには招待参加した。カザフスタンやキルギスは、中央アジアのなかでも自国の軍隊が小規模で、CSTOの平和維持軍やロシア軍の支援に依存している。
※6 チェチェン紛争は、1994年~1996年の第1次と、1999年からの第2次の二度にわたって、ロシア連邦からの独立を求めるチェチェン共和国とロシアの間で起こった紛争である。第一次の紛争時から、イスラム組織からチェチェンに資金提供があったとされる。その後も「イスラム過激主義」が浸透していき、第二次の紛争の開始時にはチェチェンにイスラム国家を建設することを実質的には目的としていたともされる。
ライター:Yumi Ariyoshi
グラフィック:Yumi Ariyoshi