「抗生物質」。読者の皆さんも一度はその名を聞き、あるいは服用した経験があるのではないだろうか。抗生物質とは、細菌などの微生物の成長を阻止する物質のことで、肺炎や結核、細菌性食中毒、膀胱炎、とびひ(伝染性膿痂疹)などのあらゆる細菌感染症に効果がある。今や世界中で、1日に1,000人あたり約16回抗生物質が服用されており、人々の健康維持に欠かせない薬となっている。
しかし、その抗生物質が「効かない」時代がすぐそこまでやってきている。抗生物質に耐性を持つ「スーパーバグ」(薬剤耐性菌)が発生し、従来なら可能であった感染症の予防や治療が困難になるケースが世界中で急激に増加しているのだ。スーパーバグによる感染症で死亡する人の数は、世界で年間約70万人にものぼる。なぜ医学の発展した現代において抗生物質が効かなくなっているのか、本記事ではこの問題の本質に迫る。

抗生物質(写真:PublicDomainPictures / Pixabay)
事例紹介:一人の少年から見る抗生物質耐性問題
イギリスのインディペンダント紙が取材したある事例が、この抗生物質耐性問題の恐ろしさを物語っている。ここではその事例を紹介する。
インド・デリーにすむ15歳の少年ラマンは、友人と遊んでいる際、咳をしたときに痰に血が混じっていることに気が付いた。帰宅した後、母親と一緒に病院を受診すると、ラマンは結核だと診断され、4種類の抗生物質が6か月間処方された。病気の症状と薬の副作用によって、ラマンはめまいや吐き気、脱力感に悩まされた。しかし半年たっても症状は一向に良くならず、さらに3か月間の服薬を続けた。それでも回復しなかったため、別の病院で精密検査を受けた。すると、多剤耐性結核(MDR-TB)にかかっていたことが判明した。9か月間服用していた薬のうち2つがラマンには効果がないもので、いまだに結核に感染した状態だったのである。ラマンは、さらに6か月間注射を続け、加えて異なる抗生物質をいくつか服用しなければならない。それまでの9か月間に加えてさらに2年間の治療が必要となった。
このような長期間にわたる服薬治療により、患者は体力が低下し、時には難聴など深刻な副作用に苦しむこともある。また治療費が高額であることから、家族は貧困に苦しむこともある。しかしこの治療をもってしても、多剤耐性結核患者の半分以下しか治らない。加えて、これよりももっと危険なケースである、「超多剤耐性結核」が存在する。これは従来の多剤耐性結核よりも広範な抗生物質に耐性を持つ耐性菌が原因となった結核で、これに罹ると治る可能性が3分の1ほどしかない。
ラマンが多剤耐性結核だと診断され、治療を開始したのは幸運なことだった。世界保健機関(WHO)のデータによると、世界では15歳未満の子どものうち、1年間に100万人の子どもが結核にかかり、そのうち23万人が死亡している。

多剤耐性結核を患っているインドの子ども(写真:CDC Global / Flickr [CC BY 2.0])
このような薬剤耐性菌の存在は、決して結核だけにとどまらない。今や全ての抗生物質に対して耐性を持つ細菌が見つかっているのだ。
なぜ抗生物質が効かなくなっている?
抗生物質耐性やスーパーバグの蔓延を招く最大の原因は、世界中での抗生物質の過剰使用と不適切な処方・服用である。これにはいくつかの側面がある。
まず、我々人間が抗生物質を服用しすぎているというものである。必要でないにもかかわらず、抗生物質を処方する・服用するケースが多発している。たとえば、ほとんどの風邪やインフルエンザなどのウイルス性の病気である。抗生物質は細菌には効果があるが、ウイルスには効果がない。それにもかかわらず、多くの人は、風邪やインフルエンザは抗生物質によって治るものだと信じきっており、抗生物質を求めてしまう。これにより不必要な場面で抗生物質が処方されることが多くなり、過剰使用を招いている。また医師が処方した抗生物質を、症状が改善したからといって自己判断で服用を中止したり、余った抗生物質を別の機会に使用したりするケースもあり、これもスーパーバグの繁殖を招く要因となっている。

ジフテリア菌(写真:Sanofi Pasteur / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
薬剤耐性を止めるために副次的な防衛手段として、耐性菌が検出された場合にのみ処方する抗生物質が「できるだけ使用を制限する抗菌薬」としていくつか指定されているが、WHOの調査によると、調査を行った65か国中49か国において、処方されている全ての抗生物質の半数以上をこれらの薬が占めるという事態が起こっている。
また特に発展途上国では、予算が十分にないために適切な薬が手に入らず、身近にある抗生物質を不適切に処方してしまったり、政府や医療機関での管理体制が整っておらず、薬の処方に関するデータの記録が不十分だったりというケースも多い。このように抗生物質耐性問題の背景には様々な原因が複合的に作用しており、対策は一筋縄ではいかないようだ。
さらに、家畜に対する過剰使用も大きな原因の一つだ。抗生物質の全使用量のうち、約半分の量が家畜に対して使用されている。家畜の病気を予防し成長・繁殖を促進するために、健康な動物に対して大量の抗生物質が使われているのだ。この結果、人間と同じく、家畜・動物からも薬剤耐性菌、つまりスーパーバグが検出されており、動物においても「治らない」病気の蔓延が懸念されている。さらに動物で発生した薬剤耐性菌が人間に伝染することもあり、動物におけるスーパーバグ問題はかなり深刻なものとなっている。

豚舎で飼われている子豚(写真: Natural Resources Conservation Service / Wikimedia (Public Domain)
このように、抗生物質を人や動物が過剰使用してしまうことにより、それに耐性のある細菌が加速度的に発生してしまい、結果として治る病気も「治らない」状態を生み出している。
進まない抗生物質の開発
さらにこの状況を悪化させているのが、多くの大手製薬会社が新しい抗生物質の開発から撤退していることである。
抗生物質耐性問題の持つ喫緊の課題は、従来の抗生物質に耐性を持つ菌に対抗するための新薬を開発することであり、それが「今」耐性菌に苦しんでいる人々を救う唯一の手段なのである。また、抗生物質が適切に使用されていたとしても、細菌は常に進化を続ける。人類の健康のためには新しい抗生物質の開発が必要不可欠である。
しかしながら、多くの製薬会社は、新しい抗生物質の開発は「低収益だ」として着手したがらない。抗生物質よりも抗がん剤を開発した方が2倍の収益を上げるともいわれている。現に、過去30年間で、新たに開発された抗生物質はほとんど存在しないのである。ガーディアン紙の取材によると、専門家は「政府は、企業が従来の抗生物質を生産するのと同様に、新薬の開発を進められるよう企業にインセンティブを与え、抗生物質の販売を容易にする必要がある」と述べている。
人類は抗生物質耐性を止められるか
このまま抗生物質耐性問題に対して何も対策を取らなければ、2050年には年間1,000万人もの人々がスーパーバグ(薬剤耐性菌)によって死亡すると推定されている。この数字はガンによる死亡者数を上回るものである。特に、アジア・アフリカ地域においてかなりの死者が出ると予想されており、その数はアジアで473万人、アフリカで415万人にも上る。またヨーロッパやアメリカでも、それぞれの地域で年間30万人近くが薬剤耐性菌が原因で死亡することが予想されている。またそれだけではなく、経済的な損失は1年で100兆米ドルを超えるとも言われている。
現在、WHOが中心となって世界中の国や機関を巻き込み、早急に様々な対策を打ち立てている。ここではそのうち二つの対策を紹介する。まず一つ目に「グローバル抗菌薬耐性監視システム(GLASS)」である。これは世界レベルでの抗菌薬耐性に関するデータを収集・分析・共有することのできるシステムで、地域社会や国に対し、薬剤耐性問題への対策を促進する目的を持つ。次に、「グローバル抗生物質研究開発パートナーシップ(GARDP)」である。これは2016年にWHOと顧みられない病気の新薬開発イニシアティブ(DNDi)によって設立された非営利組織で、国境を越えた官民の連携を通じて新たな抗生物質の研究開発を推進している。既存の抗生物質の改善と新しい抗生物質の開発促進を通じて、2023までに4つの新しい治療法を開発・提供することを目指している。

東南アジアの家畜における抗生物質耐性に関する実験授業(写真:Richard Nyberg, USAID Asia / Flickr [CC BY-NC 2.0])
2018年11月にはアメリカ・スタンフォード大学の化学者らが、薬剤耐性菌の一つ、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)による感染症の新しい治療方法を開発した。新しい抗生物質を開発するのではなく、既存の一般的な抗生物質に添加剤を付与するだけで、薬剤耐性菌による感染症に効果があることが分かったのだ。このことは抗生物質耐性問題を克服する、大きな一歩に繋がるのかもしれない。
抗生物質耐性問題が解決に向かうためには、様々なアクターによる取り組みが必要不可欠だ。政府機関には、抗生物質の使用や薬剤耐性菌(スーパーバグ)による感染症に対して監視・管理体制を強化すること、また製薬会社に対して抗生物質の開発へのインセンティブを与えることなどが求められる。医療機関・医療従事者には、医学的に必要とされる場合にのみ抗生物質を処方すること。農業関係者には、健全な家畜の成長促進や病気予防を目的とする抗生物質投与を行わないことが求められる。また患者側にも、医師が不要と判断した際には抗生物質の処方を求めないこと、抗生物質の服用を自己判断で中止しないこと、余った抗生物質を別の機会に使用したり他の人と共有したりしないことが求められている。
果たしてこれらの対策は、驚異的なスピードで進化を続ける細菌・スーパーバグに打ち勝つことができるのか。勝負の行方は、人類がいかに本気でこの問題に取り組むことができるかにかかっている。抗生物質耐性問題は、もはや他人事では済まされない。スーパーバグの脅威は、もうすでに我々人類の健康を猛スピードで奪いつつあるのだ。
ライター:Yuka Matsuo
これまでスーパーバグの発生は仕方のないことだと思っていましたが、我々の服用方法もその一端を担っていることに驚かされました。私自身、抗生物質の使いまわしや独断で摂取することがありますので、まずは個々人の理解が必要ですね。
短期的なスパンで物事を捉えがちな人の性が如実に現れている問題なのかな、と思います。だからといって仕方ないで終わらせられるはずはなく、解決に向けて必要な取り組みが明らかな以上、それぞれのアクターが主体的に行動あうるような国際的な取り決めを設定することが求められます。