2020年1月11日、中東、オマーンのカブース・ビン・サイード国王が10日に72歳で死去したと国営メディアが伝えた。元首としてアラブ最長である約50年にわたって国王であり続けた彼は持病の結腸ガンが悪化しており終末期にある、と以前から報道されていたものの、中東地域を中心とした国際関係のキーマンであるだけに訃報は世界に広がった。というのも、彼は、独裁による人権侵害が問題視されていたが、一方で、国を発展させた為政者であり、「中東の平和への星」と呼ばれるほどの外交戦略を取り仕切ってきた優秀な人物としても知られているのだ。この記事では、オマーンの歴史的背景も交え、権威主義の実態や、オマーンの外交戦略、後継者問題について説明していく。

2010年、米国ロバート・ゲーツ元国防長官と握手する故カブース前国王(写真:U. S. Department of Defense[Public Domain])
オマーンの概要
アラビア半島東岸、インド洋に面した人口約500万人の国、オマーン。人口は北部の首都マスカットを中心とした海岸線沿いに集中しており、近隣にはアラブ首長国連邦(UAE)、サウジアラビア、イエメンが、ホルムズ海峡に面した飛び地の対岸にはイランが位置している。ホルムズ海峡では毎日、世界の石油の約3分の1が輸送されており、地政学的に重要な位置を占めている。冒頭でも述べたように、オマーンは長年にわたって独裁が続いている絶対権威主義国家である。この国の成り立ちには変動の歴史がある。古くからオマーンの商人は中東から東アフリカにかけて交易で栄えてきた。16世紀初頭のポルトガルによる占領や、その後、統治権を取り返し繁栄したものの、蒸気船の出現により帆船を主に使っていたオマーン商人は次第に衰退してしまい、19世紀終わりにはイギリスに植民地化された。イギリスにより、内陸地域のオマーンと沿岸地域のマスカットに国が二分される歴史を経験しながらも、1963年、故国王、カブース氏の父、カブース・ビン・タイムール氏を主導とした革命によって独立し、今のオマーンが形づくられた。このように、オマーンには侵略と革命が繰り返されてきた歴史があるのだ。
オマーンを宗教の観点から着目すると、興味深いことが見て取れる。オマーンは、他のアラブ・中東諸国と同様にイスラーム教徒が多いが、特徴的なのが、国王をはじめとした、国民の多くがイスラーム教イバード派を信仰していることである。この宗派は、保守主義と寛容性を重視していることで知られており、世界のイバード派信者の約4分の3がオマーン国民であるとされている。そのため、オマーンでは国民の生活にイバード派の宗教観が根付いているのだ。
経済にも目を向けよう。他の中東の国と同様に、オマーンの国の収入の大部分は石油や天然ガスといった天然資源に依存しており、その割合はGDPの48%、政府収入の78%にものぼる。オマーンは、1964年に内陸部で石油が発見されたのち、この石油を主とした天然資源に目をつけ、その輸出により急速に経済発展してきたのだが、近年になってその天然資源依存を脱却しようという動きが見て取れる。石油価格の下落などによって国の経済が機能しなくなってしまう脆弱性に危機感を覚え、太陽光や風力を用いた再生可能エネルギーや観光業によって脱石油による損失分を埋め合わせる計画を立てているのだ。このような経済構造の改革も含めて、2040年に向けて更なる発展を目指して「オマーンビジョン2040」も打ち出しており、国全体での未来志向の様子がうかがえる。

首都マスカットの景色(写真:Sam Gao / Flickr[CC BY-NC-SA 2.0])
カブース政権下のオマーン
長年にわたる独裁により強大な影響力をもっていた故国王カブース・ビン・サイード前国王。1970年に、イギリス軍からの支援も受け、無血のクーデターで父から国王の座を奪取した。1960年代から続いていた国内南部のドファールと呼ばれる勢力の反乱もイギリスとイランの力を借りて収めた彼は、その後、国王だけでなく、首相、防衛大臣、外務大臣を務め、中央銀行のトップをも兼任し、完全に権力を自己に集中させ、ほぼ50年間にわたって国のトップに君臨してきた。そのリーダーシップを発揮して、1971年には国連に加盟、石油の輸出拡大を軸とした国の経済発展に加え、国民の識字率上昇、平均寿命上昇など、前国王の父が抵抗を見せていた近代化に大きく舵を切った。集中した権力に在位期間の長さも相まって、カブース氏の国内外への影響力は甚大であり、彼の死が今後の中東地域にどのような影響を及ぼすかを推し量るのは非常に難しいといえるだろう。
ここまでは、彼の国内における功績について説明してきた。独裁はリーダーシップが発揮され迅速な政治判断がなされる場合がある反面、国民の自由が制限されるという弊害が起こりやすい。オマーンも例外ではなく、自由を求める人々が禁圧されている。例えば、人権活動家や国家権力の腐敗を描写した作家が逮捕されるといった事案も実際に発生しているのだ。他にも、インターネットアクセス制限、オンライン新聞の閉鎖、出版物の検閲などの報道の不自由や集会・結社の不自由など、「自由」には程遠い現状がある。それを示すかのように、世界の「自由」をランキングする米国NGOフリーダム・ハウス(Freedom House)による2019年版の報告書では、100点中23点と、ほとんど自由が認められていないことが分かる。2018年1月には国王を侮辱した罪での刑罰の厳罰化がなされるなど、近年になって更にその制限は強くなっており、今後更に国民に対する抑圧が強まっていく懸念が大きくなっている。

首都マスカットの王立モスク(写真:patano / Wikimedia Commons[CC BY-SA 3.0])
オマーンの外交政策
これまでは、国の背景や故国王カブース氏の内政について説明してきたが、ここからはオマーンのこれまでの外交政策について説明していく。オマーンは紛争に武力介入せず、対立する両者と良好な関係を保ちつつ、その紛争の仲を取り持つという仲介の役割を多くの場面で果たしてきた。その業績は「中東のスイス」や「中東地域平和への希望の星」と評されているほどだ。それでは、実際のオマーンの働きについて紹介していきたい。
はじめにオマーン独自の行動が注目されたのがイラン・イラク戦争(1980~1988)である。オマーンは、ペルシャ湾の安全を保つという名目で1981年に湾岸協力会議(GCC)をサウジアラビアやクウェート、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦(UAE)とともに設立した。GCCにはサウジアラビアやクウェートなどの、全面的にイラクを支持しイランに対抗する勢力がいる中で、オマーンは、イランとの関係を良好に保ったまま、行動していったのだ。イラクを支持するアメリカに対する支持を表明しつつ、アメリカにとらわれたイラン兵の送還を成し遂げるといった、柔軟な立ち回りをして緊張する対立の緩和に大きく寄与した。その後、イラクのクウェート侵攻から始まる湾岸戦争(1990~1991)でも、他のGCC加盟国とともに積極的にクウェート解放作戦を支持した一方で、1998年のアメリカとイギリスによるイラクへの軍事攻撃へは反対するといった独自の外交戦略をみせた。多くの国家の間で対立関係が顕在化する中で、敵をつくることなく振る舞ってきたオマーンは多くの国からの信頼を得てきたといえるだろう。

2016年のGCC加盟国による会議の様子(写真:U.S. Department of State / Wikimedia Commons[Public Domain])
そのほかにも、中東での衝突では毎回、独自の外交戦略により各国との適切な距離間を構築してきた。オマーンは2010年以降中東・北アフリカ諸国で民主化の流れが起こった「アラブの春」以降のシリアのバッシャール・アル=アサド政権と外交関係を維持した唯一の湾岸国とされている。また、イエメン紛争ではサウジアラビアの率いるアラブ連合軍へ参加しないなど、中東各地で影響力を発揮しようとするサウジアラビアと一定の距離をとり、俯瞰的に中東情勢を監視している。その上、紛争での負傷したイエメン人数千人を国内の病院で受け入れ、無償で治療を施したともいわれている。2017年6月にほとんどの中東諸国に国交を断絶されたカタールに対しては、逆に貿易関係を強化したことにより、オマーン製品のカタールへの輸出が増加し両国の取引量が2,000%増加しており、外交的な戦略が経済にも好影響を与えている。このように、オマーンは何十年にもわたって不安定な中東地域の仲介者としての役割を果たし、評判を高めてきている。
サウジアラビアと距離をとっているのと同様に、アメリカに対しても中立的な立場を貫いている。1980年、1990年、2000年にアメリカと軍事協定を結び、2001年のアメリカでの同時多発テロ事件の後には協力する姿勢を示すこともあれば、アフガニスタンへの爆撃にオマーンの軍事施設を使用させなかったり、安全保障のためにアメリカから金銭支援を受けていながらもイランへのアメリカの姿勢に全面的に賛成しているわけでもない。アメリカに依存していないことこそが、外交戦略がうまくいっている秘訣なのかもしれない。
実際に、アメリカとイランの関係でオマーンは非常に重要な役割を果たしている。2013年にはオマーンが主導して両国の間で核問題について話し合う場を用意した上、2015年7月にイランと欧米各国の間で結ばれた核合意の締結に大きく寄与した。しかし、2018年5月にはアメリカ、ドナルド・トランプ氏大統領がイランとの核合意を撤回すると発表したことに対して、「対立はあらゆる当事者にとって利益がない」という声明を発表した。カブース氏の病状の悪化も相まって、反イランの立場を強めるトランプに対しては仲介役としてのオマーンも十分な外交戦略を打ち出すことができず、苦境に立たされている部分があるとも考えられる。

2014年のイラン核交渉前の大臣らによる集合写真(左からイラン、EU、オマーン、米国)(写真:U.S. Department of State / Flickr[Public Domain])
オマーンの仲介役としての外交の恩恵を受けているのは中東諸国やアメリカに限らない。2007年3月下旬には、ペルシャ湾水域でのイギリス海兵隊がイランに逮捕され、緊張が高まったとき、オマーンが釈放の手配に重要な役割を果たした。また、2009年夏にスパイ容疑で拘留された3人のアメリカ人の帰国を成し遂げた交渉でも中心的な役割を果たしている。2015年には、フランス人、2016年にアメリカ人2人、2017年にオーストラリア人とインドのカトリック司祭のイエメン釈放に成功するなど、中東の紛争における世界各国からの頼みの綱とされているともいえるだろう。
今後の動向
国営放送が訃報を伝えた数時間後、新国王として故国王の従兄弟、文化大臣でオマーンビジョン2040の委員長を務めるハイサム・ビン・タリク氏を任命すると報じられた。カブース氏には子供も兄弟もおらず、後継者を明らかにしていなかった。しかし、カブース氏が生前、遺言として、王位の承継者の名前を入れた封筒が秘密に保管されていたとされており、その遺言に従って迅速に任命されたのだ。
新国王は「地域の安定を追求しているため、多くの紛争を鎮静化して、前向きな役割を果たし続ける」と宣言しているものの、カブース氏の逝去により、前国王が作り上げてきた中立・仲介役としての国内外からの国のイメージをどこまで維持できるかは不透明だ。逆に、新国王がすべてをそのまま継続するならば、人権問題に関しても改善されずに続いていくことも考えられ、着任したばかりの新国王がどのような政策を打ち出すかが注目される。新国王の手腕はいかに、彼の外交面、内政面、双方での努力が望まれる。
ライター:Taku Okada
グラフィック:Saki Takeuchi
オマーンについて長期政権で独裁という印象が強かったのですが、
外交面で柔軟な立ち回りをしているとは知りませんでした。
中東にはやはり紛争などのステレオタイプなイメージがありますが、
オマーンにはぜひそれを壊して平和の星としての役割を果たしてほしいと思います。
国内の人権問題と外交関係での友好関係の構築に試みという2つの側面があることが面白いなと思いました。新しい国王に期待ですね。
オマーンは外交政策についてほとんど知らなかったので、今まで抱いていたイメージとは大きく異なり驚きました。
新国王が統治するオマーンが興味深いです。