ヨーロッパの南東部に位置するバルカン半島で何やら不穏な動きが起きている。
約10万人もの犠牲者を出したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年~95年)。ユーゴスラビア解体の動きを受けて、1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナは独立をめぐり国民投票を実施した。独立を望む大半のボシュニャク人(当時の人口の44%)とクロアチア人(17%)に対して、反対をしていた多くのセルビア人(33%)が投票をボイコット。民族間の対立が深刻化する中、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言を行った。その翌月には軍事衝突が生じるようになり、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。それぞれ自民族の勢力圏の拡大を目的としていたため、紛争は「陣取り合戦の」様相を呈していた。そのため、安定的な自民族の勢力圏を確保する目的で、「民族浄化」が実行され、国際連合が「安全地帯」と指定していたスレブレ二ツァでは8,000人以上が組織的に殺害される大虐殺が行われた。1994年からNATOがセルビア人勢力に対して開始した空爆によって、セルビア人勢力は反撃の力を失い、和平交渉への本格的な参加を決定。翌年11月には紛争当事者が和平協定デイトン合意に調印し、紛争は終結を迎えた。

2001年のサラエボ。紛争終結から数年経っても傷跡が残る(写真:Virgil Hawkins)
合意の結果、国はボシュニャク系及びクロアチア系住民が中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア系住民が中心の「スルプスカ共和国」という2つの主体から構成される一つの国家となった。また、デイトン合意調印の過程でボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国双方に属するブルチコ行政区も設立された。
ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国はそれぞれの主体が独自の大統領、政府を有するなど高度に分権化されており、現在この2つが国内で並立する国家連合として外形上は一国を成している。紛争終了から20年経過した今でも、和平合意の実効の一環として、民生面での和平履行を監督するボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表が駐在し、EUの軍事部隊(EUFOR althea)も派遣されているなど、国際社会の支援を受け続けている。また、EU加盟という目標に向かって国家として平和的に発展を遂げている、はずだった。
しかし、実際は和平協定合意後も民族間での緊張は存在し続けていた。特にセルビア系住民が中心のスルプスカ共和国での非セルビア人への差別は顕著で、スルプスカ共和国内で非セルビア人が暴力犯罪被害者になる数はセルビア人の10倍以上と報告されている。2002年には全欧安全保障協力会議(CSCE)がスルプスカ共和国内での非セルビア人に対する暴力事件とそれに警察が関わっていたことを報告している。
そんな中さらに緊張が高まるような出来事が起きた。2016年9月25日、建国記念日を堅持するための国民投票が実施されたのである。ここでの建国記念日とはセルビア系住民が中心のスルプスカ共和国が一方的に導入したもので、セルビア正教会の宗教的な祝日にあたる1月9日のことを指す。これに対してサラエボの憲法裁判所は祝日の設定が非セルビア人の差別につながるため、憲法違反とし、建国記念日の撤廃を命じる判決を下した。この判決に対して、スルプスカ共和国のミロラド・ドディク大統領は反発。スルプスカ共和国側は9月25日、建国記念日を堅持するための国民投票を実施した。
国民投票の結果、投票率は55.8%であったものの、約99.8%が憲法裁判所による建国記念日設定禁止を拒否するという結果になった。ドディク大統領は「輝かしい歴史の1ページを刻んだ」と演説し、1月9日を建国記念日とし続ける意向を示した。
スプルスカ共和国側がこれほどまでに建国記念日にこだわるのには、ボスニア・ヘルツェゴビナからの独立を果たしたいという思惑が背景にある。国民投票の実施、建国記念日の設立はスプルスカ共和国がボスニア・ヘルツェゴビナから離脱する足掛かりになるのではないかと懸念されている。
スプルスカ共和国のこういった動きを好ましく思っていないのはボスニア・ヘルツェゴビナ連邦だけではない。米国やEUは建国記念日の設立がデイトン合意に違反するとして、スプルスカ共和国に憲法裁判所の判決を受け入れ、国民投票の中止を求めてきた。スルプスカ共和国の独立を恐れているのである。EUの外交政策担当者は「国民投票は法的根拠がないため、違憲判決を覆すことはできない」とし、「法的プロセスや建設的な話し合いによって、この建国日問題が解決するように支援していく」と述べた。
また、意外にもスプルスカ共和国と同盟関係にあるセルビア共和国の政府は国民投票に反対した。EU加盟を目指すセルビアとしてはEUの反対する憲法設立を支持できないためである。その一方でロシアのプーチン大統領は国民投票の実施を支持すると表明した。 ボスニア・ヘルツェゴビナの動向は諸外国にも注目されていることがわかる。
第一次世界大戦前から、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれていたバルカン半島。武力紛争は終結したが、根底にある問題は根強く残っている。今のボスニアは、100年前、25年前のボスニアとはいろいろな意味で大きく異なっている。しかし、現在の政治的な対立と民族間の摩擦は懸念の材料である。今後もボスニア・ヘルツェゴビナ及びバルカン半島から目が離せない。
ライター:Ikumi Kamiya
グラフィック:Mai Ishikawa