2021年9月14日、ニュージーランドのマオリ党は、ニュージーランドの国名を「アオテアロア」に変更することを求める署名活動を開始した。「アオテアロア」とは、マオリ語で「長く白い雲のたなびく国」を意味し、ここではニュージーランド全体を指している。マオリ党は、この国の先住民であるマオリの人々を代表すると主張している政党である。ニュージーランドでは、2020年6月時点で、国内人口の16.7%を占める約85万人がマオリのアイデンティティを持っていると推定されている。署名は、開始から36時間で4万筆が集まり、2021年9月末には6万筆を突破した。放送局の世論調査によれば、41% の回答者が、アオテアロアを正式な国名にする、またはニュージーランドとの併用を望んでいるという。この動きの背景には、何があるのだろうか。本記事では、主にニュージーランドの過去を振り返りながら、現在までの動向を解説する。

ニュージーランド国民党の代表と会見する、マオリ党のメンバー(写真:nznationalparty / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
ニュージーランドの歴史(~1840年まで)
通説によれば、人類は1300年頃、南太平洋のポリネシアの島々から船で渡り、現在ニュージーランドと呼ばれる地の北部に到着したと言われている。人口が増えていく中、人々は2つの島の各地に移り住み、個別のコミュニティーを形成していった。コミュニティー間の争いは、交渉や軍事的な手段によって解決されていた。人々は書き言葉を持たなかったので、歌や物語を通じて神話や民話が伝承された。
その後17から18世紀にかけて、ヨーロッパからの探検家がニュージーランドに到達した。なお、ニュージーランドという現在の国名は、17世紀にその地を訪れたヨーロッパ人によって名付けられたものである。1800年初頭から、ヨーロッパの捕鯨船がニュージーランド北部を訪れ、ヨーロッパ人と先住民の間で交易が行われるようになった。ヨーロッパ人は食料や現地の労働力を求め、先住民はマスケット銃などの武器などを求めて取引が行われた。ヨーロッパから人々が到着するまで、それぞれのコミュニティーを超えた先住民族の総称は存在しなかったが、ヨーロッパから来た人々と自らを区別するためポリネシア語で「通常」を意味する「マオリ」という名称が先住民の間で使われるようになった。そしてマオリの人々は、ヨーロッパから来た人々を「パケハ」という名称で呼ぶようになった。後に、パケハの人々とは、主にヨーロッパ人の祖先を持つ人々を指すことになった。本記事でも、マオリとパケハの人々をこの定義に従って用いる。
19世紀には、ヨーロッパから来たキリスト教宣教師の活動も活発になった。このような交流を通じ、マオリの人々に西洋の生活様式が少しずつ広まっていった。宣教師は、マオリの人々から食料と住まいを首長から受け取り、見返りとしてマスケット銃を提供した。銃を入手したマオリのコミュニティー間で対立が生じ、1818年から1840年まで「マスケット戦争」と呼ばれる軍拡競争がニュージーランドで発生した。この戦争により、約2万人が亡くなったとされている。また、ヨーロッパから持ち込まれた感染症が理由で亡くなる人々の数は、戦争による死者を遥かに上回っており、マスケット戦争の期間、現在のニュージーランド領土内で、病気など通常の要因により、約12万人が亡くなったとされている。
戦争と病気の影響を受けて、マオリの経済が崩壊しかけていた。その当時、パケハ(主にイギリスからの入植者)と協調してきたマオリの人々は、新たにフランスがニュージーランドの支配に関心を示したことについて危機感を抱いたこともあり、これまでは資源をめぐり争うこともあったマオリの様々なコミュニティーの首長たちは一致団結し、マオリによる国家の形成(※1)を目指した。この際、これまでイギリス人宣教師との間で信頼関係が築かれていたことから、マオリはイギリスとの連携を目指した。マオリの首長は、ニュージーランドでパケハの人々を管理してきた見返りとして、イギリス国王に庇護を求める独立宣言を1835年に発表した。
この独立宣言を快く思っていなかったイギリスは、1830年代後半に大規模な定住計画を打ち出し、ニュージーランドの植民地化を視野に入れるようになった。定住計画に伴い、イギリス政府はニュージーランドでも本国の法律を適用して新たな入植者を管理したいと考えていた。一方、マオリの人々は、不法行為をするパケハの人々への対応や、外部からの脅威に直面していた。それぞれの状況に照らし、イギリス政府とマオリの首長が交渉を行った結果、1840年にワイタンギ条約が締結された。この条約では、主権をイギリスに譲渡してマオリの人々を外部の脅威から守ることや、マオリが保有している土地の権利を保障する代わりに、マオリの土地を買収できる権利(排他的先買権)をイギリスだけに付与することなどが定められた。しかし、条約締結後、ワイタンギ条約の存在があるにも関わらずマオリとイギリスの間で領土や主権を巡るトラブルが勃発する。これには、ワイタンギ条約内で交わされた「主権」の範囲をめぐり双方の見解が異なっていたという見方や、条約締結後に経済力を持ったパケハがマオリの土地買収を進めたことで想定以上にマオリの主権が奪われたことが原因であるとする見方などがある。いずれにせよ、マオリとパケハの間での主権や土地の権利をめぐる問題は、現代まで長く続くこととなる。

ワイタンギ条約の調印を再現した復元図(写真:Archives New Zealand / Flickr [CC BY 2.0])
イギリスによる支配へ
ワイタンギ条約の後、イギリスによる土地の買い取りが進むにつれて、事実上ニュージーランドにおけるイギリスの「主権」の範囲は広がっていった。マオリの人々は、土地の売買に関する条約が守られていないとして、度々イギリスに訴えを起こしたが、聞き入られることはなかった。イギリス人の裁判官がワイタンギ条約を法的に無効であると述べた事例は、マオリの人々の権利を無視してきたことの象徴とされている。19世紀後半から、ワイタンギ条約を見直し、土地の返還を求める動きがマオリの人々の間で発生したが、イギリス政府との交渉は尽く頓挫した。この問題については現在も条約の内容をめぐって、様々な議論がされている。
所有地の拡大を進めたことで、ニュージーランドの支配権を握ったイギリスは、植民地政府を創設し、自国にとって有利な法律や制度を整えていった。その結果として、マオリの人々の土地はさらに失われ、場所によっては言葉や文化さえも失われる状況が作り出されていった。以下、土地関連・経済社会・言語文化に分けて、ワイタンギ条約が締結された後、マオリの人々が置かれた状況について見ていく。
ワイタンギ条約が締結される以前、マオリの人々は、国内の大部分の土地を保有していた。条約制定後、植民地政府は排他的先買権を利用して土地を次々に買い取り、1860年には国内の北島の土地の80%を植民地政府が所有するようになった。急激に土地が失われる状況に直面し、イギリスへの隷属化を危惧したマオリの人々を中心として、土地取引の反対運動が発生した。北島の土地所有権をめぐる争いが拡大し、土地売却を求めるパケハと土地売却を反対するマオリの人々に、植民地政府も加わる形で、1860年から12年間にわたってニュージーランド戦争が勃発した。
ニュージーランド戦争の勃発を受け、植民地政府は1863年から1865年にかけて反乱鎮圧法、ニュージーランド入植地法、先住民土地法を制定した。マオリから土地を奪うための法律が制定されたことで、戦争に関与したマオリの土地が没収され、1865年までには南島の99%を植民地政府が所有することになり、北島の土地の一部も没収された。さらに、1865年から1890年までの間に土地譲渡法が制定され、300万ヘクタール以上の土地の所有権が植民地政府に移転することとなった。結果として1920年までに、マオリの人々が保有している土地の割合は、北島と南島を合わせてわずか8%となった。

1841年当時、ウェリントンのイメージ図(写真:Archives New Zealand / Flickr [CC BY 2.0])
経済社会面でも、大きな変化が起こっていた。ニュージーランド戦争をきっかけに、マオリの人口が減少していった。1840年のワイタンギ条約締結時は約7万人から9万人と推定された人口は、19世紀末まで減少し続け、1896年には約4万2千人まで減少した。その背景には、戦争による死者に加え、入植者が持ち込んだ新たな感染症の影響を受け、大人になるまでに亡くなるマオリの人々が増えていったことが挙げられる。一方、その間パケハの人口は増加し続けたため、マオリはますます少数派となり、経済資源や政治的な影響力が減少した。
政治的にはどのような状況にあったのだろうか。1853年から、植民地政府によって最初の下院議員選挙が行われた。当時、土地を所有していなければ選挙に参加できなかったため、マオリの多くの人々は投票することができなかった。というのも、マオリの人々は、コミュニティーとして土地を所有していたため、投票権の要件である個人としての土地を持っていなかったからである。最初の選挙では、5,849人の有権者のうち、マオリの人々はわずか100人程度だった。その後、マオリを政治的に同化させようというパケハの考えに基づき、1868年の選挙から37議席のうちマオリに4議席が設けられた。4議席という数字は、パケハとマオリの人口比率から換算すると非常に少なく、議席数の見直しは100年以上実現しなかった。また、投票日や投票方法をめぐっても、パケハとマオリの間で違いが存在した。
マオリの人々への差別は20世紀に入って政策面でも見られており、具体的にはマオリへの老齢年金、寡婦年金の受給額がパケハより25%少なかったことが挙げられる。他にも、マオリであることを理由に物件を借りることができなかったり、銀行や商店が「有色人種(マオリの人々)を雇わない(※2)」という方針を打ち出したりした事例も存在した。マオリの人々は、公衆トイレの使用を妨げられ、映画館やプールから隔離されることもあった。また、バーでのアルコールの提供や散髪、タクシーの乗車が拒絶され、街の通りに「マオリ人お断り」と書かれた看板があることも珍しくなかった。
また、言語文化面でもマオリの人々に対する差別が発生していた。ワイタンギ条約が締結されてから、植民地政府は教育に関する法律を制定し、初等教育制度を整備した。この時期、学校に通う児童や生徒は主にパケハであり、マオリの子供は学校教育から疎外された。1867年に、先住民学校法が制定されたものの、その内容はマオリ語を話す児童に懲罰を課し英語教育を普及するという、マイノリティのアイデンティティなどを消していこうとする同化主義的な価値観が強かった。職場やスポーツをする上で英語が必要だったため、マオリの親は子供に英語を学ぶように勧め、西洋の生活スタイルに適応することを選ぶようになっていった。マオリの子供が英語のみで教育を受ける環境になっていったことで、20世紀中にマオリ語が消滅するのではないかという懸念もあった。
言語以外でも、植民地政府によってマオリの文化が影響を受けるようになった。文化の代表例である伝統的なタトゥーは、階級や社会的地位、権威や名声の象徴とされ、デザインによって様々な意味を持っている。しかし、キリスト教を布教したパケハの宣教師から「悪魔の芸術」と見なされたため、若い男性からの支持を失っていった。

タトゥーを入れている男性が、マオリの伝統芸術である彫刻を施している様子(写真:Kathrin & Stefan Marks / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
マオリの権利と文化の復活
19世紀から20世紀にわたり、イギリス本国の状況や変化がニュージーランドにも大きな影響を与えた。例えば、南アフリカ戦争と二度の世界大戦では、ニュージーランドからも多くの兵士が出向した。戦時中、マオリの部隊がイギリスに大きく貢献し、帰国時には「英雄の帰還」と歓迎された。それと同時に、ニュージーランドは徐々にイギリスからの独立に向かっていた。ついに1947年、ニュージーランドはウェストミンスター憲章を採択し、イギリス議会から独立した立法機能を持つようになった。
戦争を通じ、マオリの人々はアイデンティティの感覚を持つようになった。そして戦後、マオリの権利と文化の復興に向けた動きが強まっていった。背景には、世界的な出来事や現象が関連している。戦後から1960年代にかけて、アジアやアフリカなどで多くの国が独立を勝ち取ったことがその1つである。それ以外にも、アメリカの公民権運動や、南アフリカのアパルトヘイトに対する反対運動、そして先住民の権利回復に向けた国際的な潮流などが挙げられる。当初は、不正に奪われた土地の返還とマオリ語の普及を目標としていたが、活動家や市民団体、学生を中心とした抗議運動、草の根レベルの活動がさらに多様な方向に広まっていった。都市部に移住したマオリの人々は、移住先でマオリのコミュニティーを新たに形成して文化の維持を図ったことが、復興運動発生の契機となった。こうしたマオリの人々による運動が国を動かし、戦前までのマオリの人々に対する不当な扱いが徐々に改善されることになった。以下でも、土地関連・経済社会・言語文化に分けて、第二次世界大戦後の状況をみていこう。

図書館で展示されている、マオリ語の本(写真:Christchurch City Libraries / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
多くのマオリの人々にとって、国内で最も重要なのは土地にまつわる問題だった。1920年、マオリの人々はニュージーランドの土地の8%を保有していたのに対し、第二次大戦前は、わずか1%に減少していた。1970年代から、土地の没収に対する抗議運動が続出したことをきっかけとして、1975年にワイタンギ条約法が制定された。この法律に基づいて設置された法廷では、マオリの土地請求権や関連事項の調査が行われた。その後、法廷の権限が拡大し、1840年以後に発生した請求を審議できるようになった。1990年代からは、不当に没収された土地の返還と損害賠償の請求が始まった。2020年で45周年を迎える法廷は、土地に関連する多くの問題を可視化してきた。
次に、経済社会面に目を向けると第二次世界大戦後、高価格な農作物の輸出によって支えられ、ニュージーランド経済は発展を遂げた。戦前はマオリの人々の75%が地方に暮らしていたが、戦後になると仕事を求めて都市に移住し、1960年代までに60%の人々が都市の中心部に住むようになった。高い賃金を受け取るようになったことでマオリの経済状況が改善し、人々は質の高い医療にアクセスできるようになった。乳児死亡率や感染症による死亡率は大幅に下がったが、一方で社会経済的な問題は根深く残っており、平均寿命ではいまだにパケハと比較して短い傾向にある。また、選挙制度が見直されたことで、マオリの議席数も増加し、マオリの人々の公共政策や福祉を管轄する「マオリ開発省」も設置された。
最後に、言語文化面について述べる。1955年にマオリ教育委員会が設立され、マオリの人々が教育の中に正式に位置づけられることになった。その後、マオリ語を学校教育に導入することを求める活動家の団体「ンガタマトア」やマオリ語の団体が協同して議会に嘆願書を提出したことが国を動かし、マオリ語の教育プログラムや放送の開始につながった。また、小学校に入学する前の子供たちにマオリ語を教育するプログラム「コハンガレオ」やマオリ語の小学校がコミュニティー内で誕生し、マオリ文化の復権運動が活発化した。その結果、英語とマオリ語のバイリンガル教育を実施する学校や、マオリ語専門学校の数が増加していった。最終的に1987年、マオリ語は英語と並んで国の公用語と認定された。
1980年代から、マオリ語のテレビやラジオ番組が始まったことも、マオリの権利保障に重要な動きであった。ニュージーランドでテレビ放送が始まった1960年から20年間にわたって、マオリの人々がテレビに登場したのは主に歌手などの芸能人としてであり、マオリ語で放送される番組はなかった。しかし、マオリ語が公用語に認定された時期から、マオリの教育、文化や慣習を紹介する番組が現れ、マオリ語の普及や認知に大きな役割を果たした。2003年、政府はマオリ語の国営放送を公的資金で運用すると定めた法律を制定し、現在は2つのテレビ局がマオリ語で放送されている。

マオリのテレビ番組の撮影現場(写真:Michael Coghlan / Flickr [CC BY-SA 2.0])
その他の文化的な側面においても、復興の動きが見られた。キリスト教宣教師による非難に苦しんだ伝統的なタトゥーは、1970年代から支持を獲得し、若者からの関心が高まった。また2000年代に入ると、伝統的なマオリの衣装がフォーマルな場で着用されるようになった。
前途多難
前述の通り、マオリの地位や状況は少しずつ改善されてきた。しかし、マオリの人々は、非マオリ人と比較すると、依然として社会的及び経済的に不利な立場に置かれているのも事実である。例えば、健康面や生活環境に関して、マオリ人と非マオリ人との間で大きな格差が残っている。ここでも、具体例を土地関連・経済社会・言語文化に分けてみていこう。
まず、土地にまつわる格差である。現在もマオリの人々へ土地を返還するための動きがあるが、土地問題が解決されたとは言い難い。ほとんどの土地請求に係る問題は未解決のままであり、現在国内人口の16.7%を占めるマオリの人々は、国土の5%の土地しか保有していない。
経済社会面からもみてみよう。マオリの人々の生活環境は戦前と比べて改善されつつあるとはいえ、非マオリ人との経済格差は未だに存在している。2012年の時点で、貧困状態で生活している国内の子供のうち半数以上がマオリの人々であり、失業率は年々上昇している。マオリの親は構造的な差別や貧困の影響もあり、相対的に収入が少ないため、子供に充てられる教育資金が少ない。親の収入の違いによって教育格差が生まれ、マオリの教育水準が低くなっている。マオリの子供は、学校を卒業した後、給料が少ない製造業や卸売業に就職する可能性が高くなり、その後の生活に苦しむ負のサイクルが生まれている。
また、学校でマオリ語の教育が認められる環境が整ってきたとはいえ、2000年代に入るとマオリ語の話者は減少傾向にあり、若年層でのマオリ語話者の割合が少ないのが実情である。現在もマオリ語の使用に対して反発の声が非マオリ人から一定数上がっており、マオリ語を使い続けている国内の放送タレントは、多くの誹謗中傷を受けているという。
さらに、マオリの人々と文化に対する偏見が未だに残っているという問題もある。議会でマオリに対する侮辱的な発言がみられたり、議会の西洋的な服装規定に異議を唱え、ネクタイを着用しなかったマオリの議員が退席を命じられたりする事例が現在も存在している。選挙制度に関して、小選挙区制でマオリの一定の議席数が配分される仕組みが現在とられているが、他の政党から反対の声もあがっていた。このような差別や不利益に対する、一種のアファーマティブ・アクション(※3)として、ある大学の医学部の入学試験では、優先的にマオリの学生を受け入れているという。

2020年、初めてマオリの女性としてニュージーランドの外相に任命された、ナナイア・マフタ氏(写真:Public Policy Forum / Flickr [CC BY-ND 2.0])
未来への展望
ここまで、マオリの土地問題、経済社会、言語文化を中心に、ニュージーランドの歴史を概観してきた。マオリの人々は、世界の他の多くの先住民と比較すると、人口の割合が比較的に多いことや、文章化されたワイタンギ条約が結ばれたこともあって、社会的に保障されている部分もある。戦後に入って、マオリの文化が国内でも認知・受容されつつあり、政治や教育、メディアにおいても新たな取組が展開されてきた。近年、ニュージーランドでは、アジア系の住民が増加傾向にあり、ますます民族のアイデンティティが複雑化している。現状、冒頭で述べた国名変更に関する署名は十分な数に到達しておらず、国名変更は実現しないかもしれないが、今後さらにマオリの立場が保障されていくことを切に願う。
※1 当時、マオリが所有していた船は国旗を掲げていなかったため、船が押収される危険があった。そのため、マオリの首長は自分たちの旗を選び、ニュージーランドから出航する船の国旗となった。
※2 あくまでGNVは、人種という人間の区別をとらないというスタンスをとっている。
※3 アファーマティブ・アクションとは、人種や民族、性別などにおいて社会的に差別されてきた人々を救済するための措置をいう。
ライター:Koki Morita
グラフィック:Aoi Yagi
マオリの権利や文化がこれほど浸透しているとは知らなかったのでとても興味深い記事でした!
歴史の流れでまとめられていてすごく読みやすかったです!!
包括的でとてもよくまとめられた記事だと思いました。ありがとうございます!