世界の国々の平和のレベルを測るランキングで、コスタリカはランキング全体の161カ国中28位、ラテンアメリカ諸国の中では1位にランクインしている(※1)。このランキングでは暴力犯罪や殺人件数、武器の輸入量、紛争による死者数などをスコア化しており、コスタリカは内外の紛争の発生率の低さなどにおいて、より平和に近いとされるスコアを獲得している。その背景には1948年に国軍を廃止した歴史が関わっていると考えられる。2020年5月には12月1日を国軍廃止記念日として制定するなど現在に至るまで国軍廃止の理念は受け継がれている。ではなぜコスタリカは国軍を廃止したのか。またその後どうなったのか。本記事では、コスタリカの平和について詳しく取り上げていく。

紛争の際の弾丸の跡がある博物館(写真: Adam Jones / Wikimedia Commons [CC-BY-SA 2.0])
コスタリカの歴史的背景
中央アメリカにあるコスタリカはニカラグアとパナマに隣接しており、人口は2018年時点で約499万人である。その歴史を振り返ると、コスタリカでは紀元前1000年ごろから遊牧民が定住していた。中央アメリカと南アメリカの文化的影響を受けつつ、現在のコスタリカの領土内各地に小さなコミュニティが作られていった。紀元後の数世紀にかけて、より大きな集団が生まれ、政治的階層を持つグループも存在していた。
16世紀には他の中南米の国々と同じようにスペインにより征服された。スペインによる植民地化の過程で暴力などによって先住民の多くが命を落とした。さらにスペインからの入植者たちは伝染病も持ち込み、それに感染した多くの先住民の命が奪われた。1569年時点で12万人いた先住民の人口は1611年までに1万人ほどにまで減少したとされている。他の中央アメリカの国と同様に、植民地化されたコスタリカではプランテーションが作られ、アフリカ大陸から奴隷として連れてこられた人々がそこで労働させられた。しかし、中央アメリカにおけるスペイン植民地の中心であったグアテマラから離れていたことや、天然資源が少なかったことから、コスタリカでは他の中南米の国々と比較してスペイン本国の介入が少なかった。そのため、この土地に住む人々は自給自足の農業で労働することが多かった。
コスタリカのプランテーションは中南米で展開された他のプランテーションと比較すると規模はそこまで大きくなく、奴隷として働かせられる労働者の数も比較的少なかった。コスタリカはスペイン植民地の中で最も貧しく、入植者たちでさえ生活を維持できない状態であった。そのため生活苦から奴隷となっていた人々の「売買」や「維持」が困難となった入植者たちは、人々を奴隷という身分から解放することが多かった。これによって、他の中央アメリカの地域に比べ、コスタリカは奴隷制度の崩壊が早かった。その一方、解放後も奴隷だった人たちがコスタリカの市民としてみなされることはなく、法的地位が保障されることはなかった。
19世紀頃に、戦争で国力が低下したスペインの植民地支配は不安定になり、植民地内でも自立的な政府が現れ始めた。1821年にはコスタリカを含む中央アメリカの5カ国が武力紛争なしでスペインとの関係を解消した。独立後のコスタリカでは、その自然環境が1779年に持ち込まれたコーヒーの栽培に適していることが分かり、ヨーロッパへの輸出用に大量に生産されるようになっていった。1899年ごろにはアメリカの企業であるユナイテッド・フルーツ・カンパニーが参入し始めバナナの生産も開始された。大規模なバナナのプランテーションで働く労働者たちは低賃金で搾取され、不満は高まっていった。

コスタリカで収穫されたコーヒー豆(写真:DirkvdM / WikimediaCommons [CC BY 1.0])
20世紀初頭には第一次世界大戦により、世界全体の貿易が低迷し始めた。コスタリカでは経済的に依存していたコーヒーの輸出が大幅に減少し、それに伴い税収も減少していった。当時のコスタリカ大統領であったアルフレド・ゴンザレス・フローレス氏が資本家に対する課税を増加させる税制改革を提起したが、それらの政策に反対した資本家とコスタリカにおけるコーヒー生産者が反政府組織を形成した。その組織の筆頭が、当時の防衛大臣であったフェデリコ・チノコ・グラナドス氏だった。グラナドス氏率いる反政府勢力は1917年に軍による反乱を起こし、そこから約2年間軍事政権を敷いた。しかしこれに国民は反発し、様々な都市でデモが勃発した。これらに対し、チノコ・グラナドス氏は軍を派遣し鎮圧を試みたが、武装蜂起はますます激化していった。1919年には身の安全を確保するためにチノコ・グラナドス氏が自ら大統領を辞任し、亡命した。民主的に新たな大統領が指名されたことで独裁政権は幕を閉じた。
武力紛争と国軍の廃止
上記の政治的混乱が終了すると、コスタリカはパナマとの国境紛争に本格的に乗り出し始める。以前から国境線の位置をめぐって摩擦があった両国に対し、1914年にアメリカ司法長官が仲裁を行い、両国の国境を画定する判決を出したが、パナマはコスタリカの領土であると決定が下されたコト地域から撤退しなかった。1919年、コスタリカはパナマが撤退しないことを理由にコト地域に侵攻した。パナマもそれに応じ、両国間で紛争が勃発した。その紛争中で一度、コスタリカがコト地域を占領したものの、最終的にはパナマがコト地域を獲得した。しかしプランテーションのための土地を拡大したいユナイテッド・フルーツ・カンパニーの利益のためにアメリカが介入し、アメリカの圧力に屈したパナマはコト地域をコスタリカに譲った。またアメリカの介入を得たことで今回の紛争を解決したコスタリカでは、国外からの脅威に対しての国軍の役割は減少していく。これが国軍の弱体化につながっていった。
1929年に世界恐慌が起こると、他国と同様にコスタリカの経済状況は悪化する。この時期には労働者の大規模なストライキが起こるなど政府に対する社会的な不満が高まっていった。このような流れを受けて、1940年に大統領に選出されたラファエル・アンヘル・カルデロン・ガーディア氏は労働者の支持を集めるため、社会保障を充実させていく一方、政治批判を許さない強権政治を行なっていた。このような暴力的な体制は労働者にも不満をもたらしたのに加え、コーヒー・プランテーションにおける労働者の搾取で私腹を肥やす商人や土地所有者がカルデロン・ガーディア氏の福祉政策に不満を持ち始めた。そのような背景があるにも関わらず、1944年の選挙ではカルデロン・ガーディア氏の後継者として同じ政策を掲げるテオドロ・ピカド・ミハルスキー氏が大統領として選出される。後にこの選挙は不正なものであったという疑いがかかった。これにより、カルデロン・ガーディア政権時から活動していた強硬路線の反政府組織が「公平な選挙を行わなければ武力紛争に突入する」と警告するなど、政府と一部の市民との対立は強くなっていった。

民族解放軍の兵士(写真:Arturo Sotillo / Flickr [CC-BY-NC-SA 2.0])
そのような中で行われた1948年2月の大統領選挙では、野党が54%の票を獲得した。これを不服としたピカド・ミハルスキー陣営は再選挙を議会に訴え、選挙結果を無効にしようと画策した。この時の議会はピカド・ミハルスキー陣営が過半数を確保していたため、訴えが認められ、選挙無効の決定が下された。こういった動きに対し、政治的な追放に遭い、亡命していた政治活動家であるホセ・フィゲーレス・フェレール氏が反政府軍を主導し、武力紛争へと突入する。フィゲーレス・フェレール氏は独裁政治の終わりを目指す中央アメリカとカリブ海の革命家たちによる支援を受けながら、民族解放軍を結成し政府軍と争った。紛争は40日間続き、2千人の死者が出るなど、コスタリカ史上最大の武力紛争の一つとなった。政府軍は上述したパナマとの紛争以降は弱体化しており、コスタリカ以外の国の独裁政権に対しても戦闘経験がある民族解放軍に利があった。1948年4月にはピカド・ミハルスキー氏が大統領を辞職し、フィゲーレス・フェレール氏と和平協定を結んだ。この協定では18ヶ月間、フィゲーレス・フェレール氏が暫定自治政府として運営を続けることが明記された。
フィゲーレス・フェレール氏はその間に様々な改革を行った。まず政治的な面で言えば、前政権の大統領であるピカド氏の支持者である数千人の国民を国外へ追放し、またカルデロン・ガーディア氏、ピカド・ミハルスキー氏双方の支持基盤であった共産党を非合法化した。社会的な側面では、コーヒーなどのプランテーションで働く労働者の賃金を上昇させ、法的地位のなかった奴隷だった人たちの子孫や女性に選挙権を付与した。そして、コスタリカにおいて最も大きな変革となったのが常設の国軍廃止を宣言したことである。この国軍廃止は1948年12月1日に宣言され、1949年11月8日に施行された憲法に記載された。なぜ国軍廃止に至ったのか。それにはいくつかの要因が挙げられる。一つには、既存の政府軍にはフィゲーレス・フェレール氏の政策に反対する幹部がおり、これからの政策執行の妨げになることが予測されたからである。さらに、政府軍は依然として独裁政権を続けたい方針であり、フィゲーレス・フェレール氏の民族解放軍と合意ができなかったことも理由である。さらにパナマとの一件でアメリカが介入して以降、従来の軍隊は弱体化しており、国内外の防衛面で意味を成していなかったことで国軍廃止がしやすい状況下であった。
廃止後の安全保障システム
では国軍廃止後、コスタリカはどのように自国の安全保障を行っていったのだろうか。フィゲーレス・フェレール氏は1949年にそれまで国軍として機能していた組織を、1,000人の警察官と、700人の沿岸警備隊で構成される市民警備隊へと再編成した。それまでコスタリカには正式に訓練された警察組織は存在せず、治安維持などは全て軍隊の仕事であった。ゆえにこの時初めてコスタリカ警察が創設されたことになる。市民警備隊の士官は各行政組織から新しく指名され、以前の軍における階級は全て変更された。また大佐より上の階級を設けないことで警備隊内での階級争いを防ぎ、立場が強い警官を生み出さないなどの変更を加え、軍隊としての力を排除していった。ただし、コスタリカは正式に警察を創設した経験がなかったため、ここに記載した変更点を除けば初期の体制は以前の国軍と似通っていることには留意したい。
その後、警察組織は強化され続け、1949年時点で1,200人だった市民警察の人数は1978年までには4,500人に増加した。また、1949年から1964年までの間で1,600人以上のコスタリカの警察官がアメリカでの軍事訓練プロジェクトに参加した。さらに1964年には正式な警察学校がコスタリカに設立され、軍隊としてではなく、国内の治安維持を目的とする警察組織として訓練されていった。1970年代には市民警備隊と並立して地方警察隊を新設し、1978年時点では3,500人の警官で構成されていた。
コスタリカの警察の装備についても述べておきたい。コスタリカでは警察はライフルや機関銃などの小型武器のみ保持しており、多くの国の軍隊が持つような戦車・装甲車、戦闘機、大砲は持っていない。小型ヘリや観察用のセスナ機を持っているが、ヘリコプターなどに関しては不足しており国内の特定の地域にアクセスしにくいなどの問題もある。

コスタリカの警察(写真:Matthew Warner / Flickr [CC-BY-NC 2.0])
その後、コスタリカではより洗練された警察組織が設立され始める。1982年、特殊部隊である特別介入ユニット(UEI)が設立された。警察部隊から選ばれた約70人の警官が高度な訓練を受けている組織であり、軍隊ではないと政府は説明している。しかし2014年にはアメリカの軍事訓練に派遣されるなど本格的な軍事演習も行われている。この派遣を非難する議員もおり、コスタリカにおいても物議を醸している。
コスタリカの課題
国軍を廃止したとするコスタリカではあるが、国内外からの軍事的脅威がなくなったわけではない。その一つとして隣国ニカラグアとの諸問題がある。1948年の12月1日に国軍廃止を宣言したわずか11日後、前大統領であるカルデロン・ガーディア氏を支持する組織がニカラグアからコスタリカに侵攻した。しかしコスタリカ国内から同調する声は起こらず、非常事態だとして国内で集められた志願兵で構成された軍隊によって抑えられた。軍事的危機は免れたものの、ニカラグアとコスタリカの対立はこの時点で決定的に深まる。1954年にはニカラグアの大統領であるアナスタシオ・ソモサ・デバイレ氏が自身の暗殺を企てた革命家たちをコスタリカが支援したと非難し、両国の緊張関係が高まった。さらにニカラグアには前大統領であるカルデロン・ガーディア氏などを含むコスタリカ反政府勢力が亡命しており、ニカラグア政府は彼らを軍事的に支援していた。
1955年、コスタリカの反政府組織がニカラグア側から国内に侵入し、ヴィラケサダというコスタリカの街を占拠した。コスタリカはニカラグアを非難し、米州機構(OAS)に軍事支援と調査を要請した。米州機構の調査により、反政府組織の物資がニカラグアから提供されていると発表すると、ニカラグアは反政府組織への支援を止めた。その間にアメリカが戦闘機をコスタリカに販売するなどの軍事支援を行い、その後、志願兵団や市民警備隊で構成された軍隊によって街は奪還された。米州機構はニカラグアの責任を追求し、国境にオブザーバーを設置するなど積極的に介入した。当時アメリカ副大統領であったリチャード・ニクソン氏が調停し、紛争は解決に至った。しかしその後もコスタリカとニカラグアとの溝は埋まらなかった。
さらにニカラグアとの対立は国境紛争にも及ぶ。1858年に国境に関する取り決めに両国が同意してからも国境に関する論争は両国間で繰り広げられてきた。近年では2010年に発生した国境に関する論争が大きな問題となった。ニカラグアとコスタリカはサンファン川を境に国境を引いており、川の南岸からコスタリカ領になっている。しかし近年川が干上がっていることで岸の面積が増加し、国境が北に移動、つまりコスタリカの領土がニカラグアの領域へと広がっているとニカラグアは主張し始めた。川の流れを戻すためという理由でニカラグアは浚渫作業を行なっている。浚渫作業とは川底の底面にある堆積物を取り除く土木工事を指す。この作業を担っていたニカラグア軍が国境を越え、サンファン川沿いにあるカレロ島の一部を占領した。これに関してニカラグア軍の司令官であるエデン・アナスタシオ・パストラ・ゴメス氏はグーグルマップを見ればカレロ島の一部がニカラグアに属していると主張し、この占領は正当なものだと発言した。確かに当時、グーグルは誤って、2.7kmのコスタリカの領土をニカラグアの領域として表示していた。この発言の直後、マップは修正されたが、その後もニカラグア軍は撤退せず占領を続けた。コスタリカはパストラ・ゴメス氏に逮捕状を出し、国際司法裁判所でニカラグアを提訴するなどの法的措置を取るほか、既述の特殊部隊UEIを配置するような動きも見せた。しかし最終的には武力衝突に至らず、国際司法裁判所で判決が出された補償金額をニカラグアはコスタリカに支払った。
またニカラグアとの問題以外にも他国の組織などとの安全保障問題は存在している。1980年代からコスタリカはコロンビアからアメリカへの麻薬密輸入の通過地点として利用され始めた。その背景にはコロンビアの反政府組織であるコロンビア革命軍(FARC)の関与があり、コスタリカ国内の業者と連携して麻薬を運び込むなど、組織的な犯罪が行われていた。またFARCはコロンビア政府から隠す目的で資産などをコスタリカに運び込むなど、国境を超えて活動していた。これに対しコスタリカは取り締まりを行い、実際にFARCの関係者を逮捕するに至っている。さらに麻薬密輸入の場所となりうる沿岸地域では、アメリカの沿岸警備隊と共に、不審な船に対する捜査も行っている。2020年時点では15トンのコカインが押収されるなど、麻薬問題の規模の大きさが伺える。沿岸警備隊間の協力のほか、アメリカはコスタリカ に対して新しい迎撃艇を寄贈し、コスタリカ警察の訓練に資金を投入するなど、麻薬密売対策を掲げた支援を行っている。

麻薬を押収するアメリカとコスタリカの沿岸警備隊(写真:Coast Guard News / Flickr [CC-BY-NC-ND 2.0])
平和な国へ
以上のように様々な問題を抱えつつも、コスタリカでは国軍が復活する気配はない。また、他の方面においてもコスタリカは自国の平和ブランディングを推し進めてきた。その一環として、コスタリカで国連平和大学が設立されたことを挙げることができる。国連平和大学とは平和に関する研究に特化した高等教育機関であり1970年代にコスタリカ政府が積極的に働きかけたことで、1980年に国連総会で設立が承認された。その運営は国連が直接行うのではなく、大学自体に委託されている国連機関となっている。そこでは主に平和や紛争研究などの分野を学ぶことができる。
また平和のための外交的な手段にもコスタリカは積極的な姿勢を見せてきた。1980年代、中央アメリカの多くの国々では冷戦を背景に共産主義と資本主義との闘争が繰り広げられていた。この政治イデオロギーをめぐる争いは、一方のイデオロギーを支持する政府ともう一方のイデオロギーを支持する反政府勢力との間で武力紛争に発展することも多く、アメリカとソ連がそれぞれの側に対して支援や軍事介入をしてきた。その一例であるニカラグアでは武力紛争が激化し、アメリカは社会主義政党であるニカラグアのサンディニスタ大統領率いる政府を転覆させようと、サンディニスタ政権から追放された人々で構成されたニカラグア民主戦線(FDN)を支援した。またアメリカは、ニカラグアの隣国であるコスタリカに対して自国が支援している反政府勢力の駐在などを許可する協力を求めた。それに対して1983年にコスタリカ大統領となったルイス・アルベルト・モンゲ氏はコスタリカの中立を宣言するなど介入の意思を見せなかった。1986年、アメリカがコスタリカに再度協力を求めたが、当時コスタリカ大統領であったオスカル・アリアス・サンチェス氏も拒否した。代わりに中央アメリカにおける地域平和計画を提案し、中央アメリカで進行中の紛争の停戦、自由で民主的な選挙の実施、政治犯の恩赦を求めた。これらの計画にはグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアがコスタリカと共に署名した。アメリカの反対などもあり、この協定は実行には至らなかったものの、1987年にはアリアス・サンチェス氏はノーベル平和賞を受賞した。この出来事でコスタリカは自国の平和のみならず、中央アメリカにおける平和も促進する姿勢を見せたとされている。

演説するアリアス・サンチェス氏(写真:OEA-OAS / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
国軍廃止によって教育・医療・インフラ設備に多くの投資ができるようになったコスタリカは、ラテンアメリカの中で乳児死亡率が2番目に低く、就学率は2021年9月時点でラテンアメリカの中でトップである。また、コスタリカは比較的充実した国民皆保険制度を提供しており、国際保健機構(WHO)は中央アメリカの中で最も優れた医療システムを持つ国はコスタリカであるとしている。このような福祉の充実の影響もあってか、1920年から1949年のコスタリカのGDPは年間平均で1.3%の上昇率であったのに対して、1951年から2010年にはコスタリカのGDP上昇率は2.3%も増加した。この数値はラテンアメリカの中で2番目に大きい数値である。また、その他に環境保全にも力を入れており、具体的には2050年までに化石燃料の依存をなくすことを目的とした国家脱炭素計画を2019年から開始している。
このように平和を前面に打ち出しているコスタリカ ではあるが、国内に目を向けると課題も多い。冒頭にあげた平和レベルで様々な指数が用いられているように、平和は軍事的な側面だけでなく国内の治安などの国内情勢とも深く関わっている。例えば、国内において犯罪グループの勢力が拡大していることはコスタリカにとって不安材料となっている。これらの犯罪グループは違法な金採掘、石油の盗難や上に述べたような麻薬取引を活発に行っている。殺人率も近年上昇傾向であり、2017年には殺人率がこれまでで最も高い数値となるなど治安への問題が懸念されている。
国軍のない国とは
以上のように国軍を持たないコスタリカについて述べてきたが、国軍を廃止し、平和国家として役割を果たすことは決して簡単なことではない。上述したような隣国ニカラグアとの対立や、麻薬組織の拡大という脅威に晒されつつ、国軍を持つこと以外のやり方でコスタリカはこれらの問題に対処しようとしている。こういったコスタリカの理念が他国に評価されることがある。例えば、「アメリカは同国が同盟国と呼び、軍事的な保護をしている国々よりも、国軍を持たないという姿勢を貫くコスタリカを軽視することができない」という意見もある。また、1994年にはパナマも国軍を廃止した。パナマは長年紛争状態にあったコロンビアと隣接している。コロンビアの反政府組織であるFARCが自国に侵入するのを防ぐため、国境警備隊が警備にあたっていたこともあり、安全保障上の課題が存在していたこともあったが、コスタリカと同様に国軍復活という道を選択することはなかった。
以上のように国軍を廃止したからといって、周囲への脅威に何も対処していないわけではない。そのような脅威への対策となる国軍の廃止については賛否両論あるだろうが、一つの未来の指針としてコスタリカを注視し続ける必要があるかもしれない。
※1 経済平和研究所(IEP)が発表している世界平和度指数は、平和を暴力がない状態と定義し、162ヵ国の相対的な平和を客観的に測ったものである
ライター:Maika Ito
グラフィック:Hikaru Kato
祝辞
完成おめでとうございます。
非常に興味深く拝読しました。脅威はあれど国軍を持たないという決断をしたことを初めて知り、記事でも触れられているように私たちの将来を考えていくうえでとても参考になるのではないでしょうか。良い記事をありがとうございました。
コスタリカ=平和というイメージはなかったので、すごく興味深い記事でした!!!