「読者の関心がないからだ」。報道関係者に国際報道の乏しさについて問うと、このような答えが帰ってくる。では、読者に「なぜ関心がないのか」と聞くと、「自分には関係がないからだ」というような答えがよく帰ってくる。日本の新聞、テレビでの世界に関する報道は全体の10%未満で、スポーツ報道の半分にも届いていない。しかしこの現状を報道関係者、読者・視聴者共に問題視している人があまりにも少ないと言っても過言ではない。確かに、新聞離れ、テレビ離れで財政危機が懸念されるマスコミにすれば、コストの高い国際報道に力を入れる余裕がないのかもしれない。しかし本当にこのままでいいのだろうか?そこで、なぜ国際報道が必要なのかを探りたい。

ウクライナでの暴動を取材するジャーナリスト 写真: Mstyslav Chernov (CC BY-SA 3.0)
世界はつながっている
そもそも、「自分には関係がある」かどうかは、報道の必要性を考える上での適切な尺度ではないのかもしれない。世界のひとつひとつの出来事を見れば、一人一人への関係はわずなものかもしれないが、多くの国内ニュースに関しても同じことが言えるのではないだろうか。芸能人を取り巻く騒動やスポーツ関連のニュースで人々の生活に影響がどれほどあるのだろうか。交通事故や事件などにおいても疑問が沸いてくる。地域性も考える必要がある。場合にもよるが、北海道で起きる出来事は九州の人にとっての影響がどれほどあるのだろうか。マスコミは愛国心や自国中心主義を常に重要視しているが、「国家」という大きな単位で報道を重視するのではなく、もっとローカルな情報を報道の中心にすべきだという声もある。
しかし、積み重ねて見れば、国内の出来事も世界の出来事も影響があるのも間違いない。また、世界は複雑に絡み合っており、どこに住んでいても、例え世界の裏側での出来事においても、切り離せなくなってきている。世界地図を見れば、国家と国家を分ける境界ははっきりしているが、活発化しているモノ、カネ、ヒトの動きを見れば、国境線はひとつの大きなイリュージョン(錯覚)とも言える。例えば日本の場合、食料自給率が比較的に低く、食料の6割を輸入している。エネルギーの自給率だとさらに低くなり、中東を中心に94%のエネルギーのニーズは輸入に頼っている。電化製品に使われる電池一本を製造するにしても、部品の原料はアフリカや中南米からのものであったり、製造は東南アジアとなったりする。世界各地での情勢はこれらのモノの獲得や製造に影響を与える。運送に影響が出ることもある。例えば、1990年代前半に国家として崩壊したソマリアは、長年「関係のない国」として軽視されてきたが、崩壊したからこそ海賊の現象が生まれ、アジアと中東・ヨーロッパをつなぐシーレーンに対する大きな脅威となり、日本を含む多くの国から海軍が派遣されることとなった。

ソマリア沖での海賊対策 写真: Eric L. Beauregard (U.S. Navy)
生活に必要な商品や安全保障の問題だけの話ではない。感染症、公害、環境問題などの問題は国境を知らない。感染症は人間が運ぶこともあれば、渡り鳥や食料品が運ぶこともある。公害や汚染は、海や空気に流れてくる。また、気候変動がもたらす海面上昇や異常気象なども見てみぬフリができない深刻なレベルに達している。このようなグローバルな問題には、自国に目を向けるだけではその被害は止めることもできず、世界も意識・理解できる人によるグローバルな対策が必要となる。
自国が世界から影響を受けるから世界に関する情報が必要だという側面もあるが、自国が同じように世界に影響を与えているという側面も忘れてはならない。世界で自国の政府、企業、個人などが行う行動に対して、マスコミは重要な番犬役を果たすことができる。例えば、企業は自社の利益と消費者への安い商品を届けることを目指す。しかしそのために、貧困国の経済成長を妨げる天然資源や食料品などの搾取問題(アンフェア・トレードなど)が発生する。貧困国に対する大規模な脱税(不法資本流出)を可能にするタックスヘイブン問題も発生する。企業が世界各地で行っている森林伐採や魚介類の乱獲の問題も挙げられる。このような世界への悪影響に関しては、加害者側にあるマスコミを通じてその存在と規模を積極的に取り上げなければ、認識されることも、十分な対策もとられることはないだろう。

写真: Allen Shimada (U.S. National Oceanic and Atmospheric Administration)
国外で使われている税金の行方は?
国内の報道では、税金の使い方が大きく注目され、その使い方が妥当かどうかが問われる。しかし、税金が国外で使われているのも少なくない。日本政府は毎年1兆円以上の税金を政府開発援助(ODA)にかけている。当然、この税金に関しても妥当かどうかを問う必要はあるが、世界に関する情報が行き渡っていなければ国民はその議論に参加することもできない。
そもそも、日本のODAは金額としては大きく見えるが、他の先進国と比べると、経済規模のわりには少ない。国連目標(国民総所得(GNI)の0.7%)の3分の1以下となっていることを考えると、国際貢献としてこれが妥当かどうかを考える必要性が見えてくる。しかし、国際報道が少なければ、これも問われることはない。
ODAの提供先に関しても、どのような援助をどこの国のどの組織に付与すべきかを考える必要がある。ODAに関する国の方針として、道路やダムなどの経済的なインフラに力を入れるべきか、あるいは保健医療・教育などの社会インフラに力を入れるべきか、検討・議論する余地があるのかもしれない。また、行き先としても、人道的なニーズを優先して選ぶのか、自国への見返りを優先するのか?人道的なニーズが大きい国への援助が常に不足しており、多くの命が失われているのが現状である。他の倫理的な問題も浮上してくる。大規模の人権侵害を犯す外国政府への援助をし続けるのか、やめるのか?個別の組織への援助においても同じ判断が問われる。例えば、シリアで救援活動が世界で注目されている「ホワイト・ヘルメット」は日本を含む多くの国から支援を受け取っているが、実際はアル・カーイダ系の組織と力を合わせていることが疑われるなど、救助活動に大きな疑問が抱かれている。
税金のみならず、自国政府は人的資源も外交に使っている。例えば、日本の場合、国際協力機構(JICA)の活動において、職員、専門家、ボランティアなどが派遣されている。また、場合によって、軍事派遣もある。ソマリア沖の海賊対策もそうだが、アメリカによる戦争の後方支援や平和維持活動(PKO)もある。これらの活動への参加の是非を検討するとき、民主主義では世論は重要な要素となるが、そのためには国民の間での、ある程度の世界情勢に関する知識や理解が必要不可欠なのではないだろうか。この場合においても、国際報道の役割が極めて重要だ。ソマリア沖への海上自衛隊の派遣、南スーダンへの自衛隊派遣のとき、マスコミはどれほどの判断材料を与えていたのだろうか?また、PKOの派遣先として、なぜコートジボワールやレバノンなどではなく、南スーダンが選ばれたのだろうか?南スーダンにある石油とは関係していなかったのだろうか?外交政策にも国民の声が反映される必要があると言っても、その世論を形成するにも世界に関する情報が肝心だろう。

南スーダンでのPKO活動(タイ軍) 写真: Aekkaphob / Shutterstock.com
「関心」は本当にないのだろうか?
国内外の出来事が「重要」とみなされるかどうかを別として、「関心」という問題が残る。
マスコミは読者・視聴者に「重要」な情報を与えるという社会責任を掲げているが、同時にビジネスであり、読者・視聴者の望む(関心の高い)情報を与えるということも意識している。現代のマスコミにおいて、むしろ後者のほうが強く見えてしまう。しかし読者・視聴者は世界の出来事に「関心がない」とどこまで言えるのだろうか?自国中心主義のレンズを通して物事を見る人にとって、世界情勢は国益の損得を左右するものとして関心を持っている人も少なくないはずだ。もう少しグローバルな思想を持つ人にとっても、世界で困っている人たちがいることや、地球の持続性などの側面から世界に関心を持っている人もそれなりにいる。また、海外旅行が好きな人や、純粋な好奇心から世界に関心がある人だって多い。よく見れば、それなりの需要はあるのではないだろうか。
しかし、既存の「関心」は確かに限られている。芸能スキャンダルは見る側にとって「重要」ではなくても、なぜか関心が高い。そして、いくら「重要」だとしても、世界の遠く離れたところで起きた出来事に「関心」が高くないことも推測される。ただし、マスコミは人々の「関心」を機械的に受け取ってそれに応えるという受身的なものではけっしてない。意図的にある特定の情報や視点に焦点をあてることによって関心を作っているのも間違いない。
実際のところ、関心と情報は密接に結びついている。場合にもよるが、マスコミが取り上げれば上げるほど、「この話題が重要なんだ」という認識が生まれ、関心が高まる効果がある。逆に、そもそも情報に触れていない場合、関心の持ちようがない。つまり、関心がないから報道しないのか、報道しないから関心がないのか。まさに鶏と卵の世界だ。マスコミが、世界に関する情報が自国にとっても世界にとっても重要だという判断をすれば、報道が増え、関心も増えるはずだ。ただし、関心がすぐに情報のレベルに追いつくわけではなく、「関心」が世界に関する情報に対する需要だと認識できるまで時間がかかる。その分、報道機関にとってはコストとリスクを被る。現状を変えるにはマスコミによる「賭け」が必要だ。余裕のない現在のマスコミ業界にとっては難しい注文だ。

写真: wellphoto / Shutterstock.com
いずれにしろ、世界に関する情報不足は世界のためにも日本のためにもなっていないのが明らかだ。世界に関する知識が限られている人たちが、商社、外務省、JICA、NGOなどに入り、そして教育者、政治家などにもなる。これは世界に関する知識が限られていることだけの問題ではなく、世界の重要性に関する認識が低いという問題にもなる。この現状は教育システムにも責任は当然あるが、マスコミにも大きな責任があるだろう。また、世界に関する知識と関心が限られている人たちがマスコミに入っていくと、この悪循環が続く。
グローバル化が加速する中、あらゆる分野において「国内の問題」と「世界の問題」はもはや切り離せないものがあまりにも多い。地元や自国が大事だと思っている人であろうと、世界が大事だと思っている人であろうと、世界を生き抜くためにも、世界をよりよいところにするためにも、世界に関する情報の乏しさに危機感を持つときが来たのではないだろうか?
ライター:Virgil Hawkins