マケドニア旧ユーゴスラビア共和国が正式に北マケドニア共和国と改称してから2年が経った。この改称の背景には、賛否両論が分かれる国内外からの意見がある。その経緯は古代にまで遡り、バルカン諸国の歴史と絡み合っている。
1991年に独立して以来、この国は歴史及びアイデンティティをめぐり、隣国のギリシャやブルガリアと長年対立してきた。国名の改称もその対立の現れのひとつである。本記事では、論争の的となっている「マケドニア」という概念と、それがバルカン半島の政治情勢にどのような影響を与えているかについて探る。

北マケドニア共和国の首都、スコピエマケドニア広場とアレクサンドロス三世の像 (写真:dimitrisvetsikas1969 [Pixabay License])
目次
マケドニアの歴史
まずは、「マケドニア」という概念を解読しなければならない。地理的に、マケドニアはバルカン半島中部に位置する国家を超えた地域を指す。歴史的には、マケドニア地域の境界は何度も変わってきたが、ほとんどの場合「マケドニア人」と自認する人々が住んでいる地域を指す。現在は、ギリシャ、ブルガリア、北マケドニア共和国の3か国の領土に分かれているが、「マケドニア」という名称自体は古代ギリシャ時代にまで遡る。
紀元前5世紀にマケドニア王国はギリシャの北東部に存在していたとされる。その後紀元前4世紀にはアレクサンドロス3世、通称アレクサンドロス大王が王位を継承し、王国の国境を大幅に拡大した。ギリシャを征服したアレクサンドロス3世は、マケドニア帝国をペルシアまで広げ、古代ギリシャ文化の最盛期といわれるヘレニズム時代の基礎を築いた。とはいえ、古代ギリシャ時代に「マケドニア」や「マケドニア人」という概念はあいまいであったと言える。マケドニア王国が建国された頃には王族は自分たちをギリシャ人と見なし、古代ギリシャ語を共通語として採用していたというのが通常の見解である。ヘレニズム時代以降、古代マケドニア人はギリシャ人のグループの一部としてみなされるようになった。

DWのデータの元に作成
アレクサンドロス3世の死後、マケドニア帝国は崩壊したものの、領土を縮小した形で王国として存続していた。しかし、紀元前2世紀にローマ帝国に支配されてローマの属州となった。その後4世紀にローマ帝国が東西に分割統治されることになった際には、マケドニア属州は東ローマ帝国、ビザンティンの領土となった。
5、6世紀には中央ヨーロッパから多くのスラヴ系移民が流入し、マケドニア属州の民族構成に大きな変化がもたらされた。その後、現在ブルガリアの東北に位置するドナウ川のデルタの辺りに、ブルガール人によってブルガリア王国が成立した。ブルガール人はマケドニアを含むバルカン半島の大部分を征服した。支配下に入ったスラヴ人とブルガール人が一体化し、最初のブルガリア人のアイデンティティーが築かれた。キリスト教の普及と8世紀にビザンティンの学者がスラヴ人の言語を成文化したことにより、ブルガリア人としてのアイデンティティの確立が促進された。成文化した文字は現在のスラヴ語族に共通しているキリル文字の基本となった。当時、マケドニア地方にはギリシャ系およびスラヴ系住民が住んでいた。
その後、中世期になるとマケドニア地方はビザンティン帝国やブルガリア王国の支配を受けていたが、15世紀には東・中部バルカンとともにオスマン帝国の一部になった。オスマン帝国が新しく支配したヨーロッパにある領土はルメリア州(ローマ人の土地)と呼ばれ、そこに住むギリシャ人やブルガリア人などのキリスト教正教徒は、全般的にルーム・ミッレト(※1)と呼ばれていた。ミッレトに属していた人々は言語や民族より、宗教に基づいてアイデンティティを築き上げた。

スコピエに正教教会 (写真:Pxfuel)
19世紀にオスマン帝国の力が低下するとルーム・ミッレトの間に民族主義的な思想が普及し、それがバルカン半島全体にいくつかの重要な変化をもたらした。まずギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人などが独自の世俗的な学校を設立し、言語を基にしてアイデンティティを築いた。また、ブルガリア正教とセルビア正教がギリシャ正教から独立した。そのため、バルカン半島のスラヴ人がギリシャ語でなく自分の言語で説教をする教会に行けるようになった。その結果、バルカン半島では国籍という概念が浮上し始めた。さらに19世紀には、いくつかの蜂起と戦争の結果、ギリシャ王国、セルビア王国とブルガリア王国がオスマン帝国から独立した。しかしながら、マケドニア地方は帝国の領土内に残った。
1893年にオスマン帝国のマケドニア地方に住んでいたスラヴ系の革命家が、マケドニア地方とその住民の独立を目的とした政治的革命組織、内部マケドニア革命組織(VMRO)を設立した。VMROは民族や宗教に関係なく、マケドニア地域の住民であれば誰でも参加できると謳っていたが、主にブルガリア人で構成されていた。しかしながらVMROが設立されたことで、言語や宗教的な区分を基に成立したブルガリア人やギリシャ人というアイデンティティとは別に、新たなマケドニア人というアイデンティティが築かれることとなった。
VMROは1903年にオスマン帝国に対する大規模な蜂起を起こした。イリンデン蜂起と呼ばれたこの運動はマケドニア地方全体に広まったが、オスマン軍によって瞬く間に鎮圧された。その後VMROは、マケドニアの独立を主張し続けるグループと、ブルガリアの首都ソフィアを拠点としてブルガリアへの併合を目指す、より過激なグループに分かれた。
1910年代、バルカン半島は第一次世界大戦を含むいくつかの戦争に巻き込まれ、オスマン帝国が崩壊して現代のトルコ共和国の領土以外の部分を失ったことはバルカン半島一帯に大きな変化をもたらした。1918年には、中央ヨーロッパを支配していたオーストリア=ハンガリー帝国の解体に伴い、主にスラヴ人が居住する帝国の南端部はセルビア王国と一体化し、ユーゴスラビア王国が成立した。さらにオスマン帝国の崩壊に伴いマケドニア地方は分割され、現代の北マケドニア共和国の領土がユーゴスラビアの、マケドニア地方の南部はギリシャの、北西部はブルガリアの一部となった。ユーゴスラビアの下で、マケドニア地域にあたる領土は南セルビアと改称され、話されている言語はセルビア語の方言と見なされるようになった。
第二次世界大戦後1946年に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する6つの国家の一つとして、マケドニア社会主義共和国が現代の北マケドニア共和国にあたる領土で設立された。これに伴いマケドニア語が新たに成文化され、政府、教育、メディア、芸術を通じて普及した。また、セルビア、ブルガリア、ギリシャの教会とは別にマケドニア正教の教会も設立された。これにより新しい国での民族意識が作られが、ギリシャとブルガリアの領土に当たったマケドニア地方の住民は、徐々にそれぞれの国民と同化した。

北マケドニアにあるイリンデン蜂起の犠牲者を追悼する記念碑 (写真:Bojan Rantaša / Flickr [CC BY-NC 2.0])
1980年代、ユーゴスラビアはいくつかの経済的・政治的危機に直面し、それが1990年代の国の解体とユーゴスラビア紛争へとつながっていった。そのような変動の中で、1991年の国民投票を経てマケドニア社会主義共和国はマケドニア共和国として平和的にユーゴスラビアから分離独立したが、旧ユーゴスラビアで繰り広げられた紛争がマケドニアにも飛び火することを恐れて、1995年に平和維持活動が展開された。しかし紛争は起こらず、平和維持部隊は1999年にミッションを終了した。
マケドニアという名を巡る問題
マケドニア共和国の独立後、ギリシャは「マケドニア」と言う名称の使用に強く反対し、国家として承認もしなかった。「マケドニア」は古代のマケドニア王国とギリシャのマケドニア地方を指すため、主にスラヴ人で構成された新しい国がその名前を使用する権利がないと主張したのだ。
1993年、国際連合安全保障理事会 (※2) ではマケドニア共和国の国連への加盟が議論されていた。ギリシャとの名称問題を回避するため、当時の理事国のうちフランス、スペイン、イギリスは国名をマケドニア旧ユーゴスラビア共和国(FYROM)に改名することを提案した。この提案に対してギリシャは明確な反対を示さなかったが、マケドニア共和国は当時のユーゴスラビアと関係を持ちたくなかっため拒否した。 さらなる安保理による仲介の末、1993年4月にマケドニアはFYROMという名称で国連に受け入られた。ギリシャはFYROMの承認も拒否し続け、対立はそれ以降も続いた。
1994年、ギリシャはFYROMに名称の変更を迫るためFYROMに最も近い海港への道路を封鎖した。この行動は国際社会から批判され、アメリカ合衆国と欧州連合(EU)がギリシャにFYROMとの外交交渉を再開するよう圧力をかけた。その結果、1995年に同国は暫定協定にサインした。この協定のもとで、ギリシャはFYROMを国家として承認し、FYROMは古代マケドニア王国の象徴が国旗に含まれないよう国旗を更新した。また、この協定では両国が経済成長やより良い外交関係のために協力することを約束した。
独立以来FYROMは、北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)への加盟を国家の安全と経済の安定を確保する手段と考えており、これらの組織への加盟はマケドニア政府の外交政策の最優先事項となった。

2015年、FYROMのグルエフスキ首相のNATO訪問 (写真:NATO North Atlantic Treaty Organization / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
2006年にFYROMの総選挙で右派・国家主義の政党、内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党(VMRO-DPMNE)が政権与党となり、ニコラ・グルエフスキ氏が首相に就任した。グルエフスキ政権の下で、 FYROM中に新たなインフラプロジェクトが開始され、高速道路と首都スコピエの空港に「アレクサンドロス大王」の名が付けられた。さらに、スコピエの中心に高さ22メートルのアレクサンドロス大王の像も建てられた。これらの行動の背景には歴史を含め「マケドニア」という概念が自国のものであるという主張があったとされる。
このようなFYROMの一連の行動はギリシャとの関係を悪化させた。FYROMが古代マケドニアの歴史像を一方的に使用することは、ギリシャにとって歴史を盗用し、書き換えようとしていると見なされた。その後、FYROM政府が「マケドニア人の歴史」と言う歴史書の新版を発行した際、FYROM国民はスラヴ系民族ではなく古代マケドニアの直系の子孫である、と歴史書に述べられていたことで、ギリシャとの関係はさらに悪化した。
2008年に行われたNATO首脳会談では、すでにNATOのメンバーであったギリシャが、名称問題を理由としてFYROMの加盟を拒否した。同年、FYROMはギリシャを国際司法裁判所に訴えた。1995年の暫定的合意の第11条に基づき、ギリシャは、すでに加盟している国際機関へのFYROMの加盟を妨げないことに同意していたからだ。2011年、国際司法裁判所は暫定的合意の違反が実際にあったと判断したが、ギリシャが今後さらなるFYROMの加盟妨害をしないよう強制することはできなかった。そのためFYROMのNATOへの加盟は名称問題が解決するまで延期されることになった。
2016年には政権与党を担ってきたVMRO-DPMNEが10年ぶりに総選挙で負け、より中道左派政党であるマケドニア社会民主同盟(SDSM)のゾラン・ザエフ氏が首相に就任し政府を率いた。
ザエフ政権はグルエフスキ政権と比較してギリシャに対する反感を持っておらず、名称問題解決に尽力した。新政府はグルエフスキ政権下で争点となったモニュメントや公共プロジェクトの名称を変更し、ギリシャに歩み寄る姿勢を見せた。2018年、ザエフ首相はスイスのダボスでギリシャのチプラス首相と会談し、名称問題について話し合った。これは、3年間停滞していた両国の協議の再開であった。その後の交渉では、北マケドニア共和国、新マケドニア共和国、上マケドニア共和国、マケドニア・スコピエ共和国など、いくつかの名称が提案された。
2018年6月に、FYROMとギリシャは、1995年の協定に基づいて、名称問題を解決するため新しい合意を成立させた。この際、両国は北マケドニア共和国(以下:北マケドニア)という新しい名称で合意した。この合意はプレスパ合意と呼ばれる。また、両国がマケドニア語をスラヴ語族の一部として認め、「マケドニア」および「マケドニア人」という概念に対する両国の理解が、異なる歴史的背景と文化的遺産を意味していることを認める。この合意の受け入れは、2018年10月に北マケドニアで行われた国民投票にかけられ、その結果、95%の支持率が得られた。

プレスパ合意書の調印式 (写真:European External Action Service / Flickr [CC BY-NC 2.0])
プレスパ合意が成立したことで、ギリシャは北マケドニアのNATO加盟に対する反対を取り下げ、北マケドニアは2019年にNATOに加盟した。ギリシャとの問題が解決し、良好な隣国関係の下進んでいくように見えたが、別の隣国との問題が残っていた。
ブルガリアとの関係の悪化
北マケドニアは、NATOに加盟したことでEUへの加盟もたやすくなるはずであったが、ブルガリアとの文化的問題が新たな障壁となった。
2020年3月に、EUは北マケドニアとアルバニアの加盟に向けて協議を開始することを決定した。しかし、同年11月にブルガリアがEU加盟国としての権利を行使し、歴史・言語的問題を理由に北マケドニアの加盟を拒否した。ブルガリア政府は、北マケドニアが加盟するために満たすべき20の条件を発表した。
すでに述べてきたように、ブルガリアと北マケドニアは歴史的に密接な関係を持っている。しかしブルガリアと北マケドニアでその歴史的見解は異なっている。特に、マケドニア地方の独立のためにオスマン帝国と戦った内部マケドニア革命組織(VMRO)を巡る見解が争点になっている。それぞれの国にとってVMROが自国のものとしてみなされ、VMROのリーダー、ゴツェデルチェフ氏の国籍がこの対立の中心になった。
ブルガリア政府の見解では、北マケドニアのスラヴ人住民がブルガリア人であり、北マケドニアの歴史と国民のアイデンティティがユーゴスラビアに築かれていた。発表された条件では、1944年以前の北マケドニアとの共通の歴史について、ブルガリア政府が「我々の共通の歴史」という表現が使われている。
また、ブルガリア政府はマケドニア語が独立した言語であると認めていない。言語学者によると、マケドニア語とブルガリア語は確かによく似ているが、マケドニア語も成文化及び制度化されており、ブルガリア語とは別の言語として扱わなければならないという。しかしブルガリア政府はこの意見を支持しておらず、マケドニア語は厳密にはブルガリア語の方言であると認識している。
もう一つの重要な条件は、北マケドニアに住むブルガリア人のマイノリティの地位を巡るものである。国勢調査のデータによると、北マケドニアには約3,000人のブルガリア人が住んでいる。一方、ブルガリア政府は2007年にブルガリアがEUに加盟して以来、多くの北マケドニア出身者が共通の祖先に基づき、ブルガリアのパスポートを申請したのでその人数はおよそ12万人だと主張している。しかしながら、EU加盟国のパスポートの持ち主はEU領域内で自由に移動することができるため、北マケドニア出身者は民族意識より経済的な目的で申請した可能性もある。

ブルガリアとマケドニアの国境 (写真:Jaime Jover / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
また、ブルガリア政府は、北マケドニア政府に対し、すでに憲法に記載されているアルバニア人、トルコ人、ヴラチ人、ロマニー人、その他の民族と同様にブルガリア人のマイノリティを北マケドニア憲法の前文に加えるよう要求している。
EUが推進する交渉により、ブルガリアと北マケドニアは文化・歴史的問題の解決に向けて一定の進展があった。2021年10月、ブルガリア政府は加盟条件を20から6に減らし、再び北マケドニアに提示した。条件の中には歴史、言語、北マケドニア人の対ブルガリア人のヘイトスピーチ、両国お互いの内政不干渉などが含まれている。
EUの代替組織
ブルガリアの拒否は北マケドニアの加盟に障壁となるだけではなく、同時にEU加盟を求めるアルバニアにとっても障壁となっている。 EUはアルバニアの加盟と北マケドニアの加盟をリンクさせており、一方が加盟しなければ他方も加盟できないようになっている。このように、ブルガリアとの摩擦は間接的にアルバニアの加盟を妨げている。
同様に、セルビアもコソボもEU加盟に向けて動いているものの、コソボの政治的立ち位置が解決されない限りEUに加盟できない。この問題の背景には、セルビアにおけるコソボの自治問題及び、1998年から1999年にかけて発生したコソボ紛争がある。NATOの介入を経て、コソボはセルビアから事実上独立した。2008年、コソボはセルビアから一方的に独立を宣言し、コソボ共和国として多くの国から承認を受けた。以来、両者の関係は緊迫しており、EU加盟への交渉は進展していない。 EUはセルビアがコソボとの関係を正常化することを加盟の条件として重視している。摩擦が続いたままセルビアがコソボに先行して加盟すると、北マケドニア、ブルガリア間と同じ状況が繰り返される可能性がある。

セルビアの現役大統領アレクサンダル・ヴチッチ氏 (写真:Belgrade Security Forum / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
セルビア、アルバニア、北マケドニアは、EUへの加盟が叶わないまま、この地域内でEUの代わりとなる自由な移動と貿易を可能にする連合に向けて動き出した。これは「オープン・バルカン・イニシアチブ」と呼ばれ、2021年にこの3国の首脳によって宣言された。EUのシェンゲン協定(※3)を真似て、3か国の人々はパスポートなしで旅行できるようになり、国境通過時間も大幅に短縮される。また、地域内の協力と善隣関係の構築は、EUが定めた加盟条件であり、3カ国はオープン・バルカン・イニシアチブによって、その条件を満たすことを期待している。
西バルカン半島諸国にとってEU加盟への期待が低下する中、同組織の影響力も弱まり、ロシアや中国の影響力が逆に高まっているとも言える。ロシアの国営報道機関は西バルカン地域で信頼され、セルビアとコソボの対立などの問題に対してEUを強く批判し続けている。一方、中国は文化交流や経済協力を通じて影響力を高めることに注力している。
解決へ?
北マケドニアはギリシャと対立していた長年の名称問題を解決したようだが、他の隣国との緊張関係はまだ残っている。ブルガリアとの文化的・歴史的摩擦が続くと、民族主義的な団体や思想の普及で、地方の安定性が損なわれる可能性がある。EUは2021年の11月に北マケドニアとブルガリアの仲介協議を再開することを望んでいたが、北マケドニアの地方選挙で与党のSDSMがほとんどの自治体で敗北したため、ザエフ首相は辞任し、協議の先行きが不透明となっている。この記事を書いている時点では、野党のVMRO-DPMNが解散総選挙を要求しているが、選挙は発表されていない。西バルカンの緊張が再び高まっている傾向で、今後も北マケドニアとその周辺国の情勢に注目していきたい。
※1 ミレット制はオスマン帝国内で非イスラム系住民の自律的な自治権を持つ宗教団体であった。
※2 国連に加盟するには、安全保障理事会の勧告が必要である。
※3 シェンゲン協定とは加盟国間で出入国管理のない移動と共通のビザ制度を定めたものである。
ライター:Yosif Ayanski
グラフィック:Yosif Ayanski