「アフリカの角」に位置するエリトリアでは、約30年もの間国政選挙が行われていない。さらに、国境なき記者団による報道の自由度ランキングでは本稿執筆時点で北朝鮮を抜いて最下位を記録した。この国は国内の課題だけでなく、対外関係においても様々な問題を抱えている。今、エリトリアで一体何が起きているのだろうか。

エリトリアがエチオピアから独立したことを記念して描かれた壁画(David Stanley / Flickr [CC BY 2.0])
エリトリアの独立
紀元前10世紀頃、現在のイエメン周辺地域に住んでいたサバ語のグループが現在のエリトリア付近に移住した。その後、クシ語系の人々を吸収してアクスム王国を建国した。この王国は紀元後6世紀頃まで栄えていたが、周辺諸国からの圧力により次第に衰退し、16世紀頃にはオスマン帝国、19世紀頃にはエジプトによる支配を受けた。しかしエジプトの勢力が衰えると、今度は1890年に進出してきたイタリアがエリトリアの植民地化を宣言。この植民地支配は50年続いたが、第二次世界大戦の最中、1941年にイギリス軍の急襲を受けたことでイタリアはエリトリアから撤退し、イギリスによる統治が始まった。
第二次世界大戦後、国連総会でイギリス軍事統治領エリトリアの帰属が問題となった。1949年、当時のエリトリア市民の75%が独立を求めているという推定がイギリス政府によって発表されたが、石油の利害に関する戦略から、アメリカが自身の同盟国エチオピアとの併合を強く支持した。その結果、1950年の国連総会でエチオピアとの併合が決定された。1952年、エリトリアは自治州としてエチオピアと連邦を結成し、独立した議会を持つこととなった。しかし、エチオピアは1955年には政党を禁止するなどエリトリア州の自治を制限し、抑圧的な政治体制を敷いていた。そして1962年、エリトリア議会はエチオピア軍に解散させられ、エチオピアの14番目の州として併合された。
このような状況の中、エジプトのカイロに亡命していたエリトリア人がエリトリア州の分離独立を目指してエリトリア解放戦線(ELF)というゲリラ組織を1958年に創設し、1961年からエリトリアで武装闘争を開始した。その後、政治的思想や宗教(※1)、出身地域の違いごとにELFは複数のグループに分裂。分裂したグループのうち、最も有力となったのが1973年に発足したエリトリア人民解放戦線(EPLF)である。同グループは、エリトリア現大統領であるイサイアス・アフウェルキ氏主導のもとで勢力を拡大していった。

1872年にエジプト政府が建立したエリトリアの皇居。独立戦争時に一部が破壊された。(David Stanley / Flickr [CC BY 2.0])
その頃エチオピアでは、1974年に誕生した軍事政権打倒に向けてエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)という反政府組織が軍事攻勢を強めていた。EPRDFはエチオピア政府の打倒という共通の目的を持っていたEPLFと協力するため同盟関係を結んだ。同盟関係となったEPLFとEPRDFは共にメンギスツ・ハイレ・マリアム氏率いるエチオピアの軍事政権の制圧に向けて戦うこととなった。30年以上続いた戦いの末、ついにエチオピアの軍事政権は崩壊し、EPRDFはエチオピア新政権を樹立。1991年にELPFは臨時政府樹立を宣言し、その際にエリトリアは事実上独立国となった。その後、1993年4月の国民投票によりエリトリアは正式にエチオピアから独立を果たした。
大統領の独裁政権
1993年5月、EPLFのリーダーであったイサイアス・アフウェルキ氏は暫定国民議会でエリトリア大統領に選出された。大統領就任時のスピーチで、イサイアス大統領は民主主義と法を重んじる政治を約束した。しかし、1994年にEPLFから改名して政党となった民主正義人民戦線 (PFDJ)の党首や軍の指揮官を兼任するなど、大統領は徐々に権力を自身へと集中させ独裁的な中央集権体制を確立した。国内で政治活動が許された政党はPFDJのみであり、反対勢力は仕方なく国外で政治活動を行っている。2001年9月には、PFDJ党員15人が政府に対し、選挙の実施や憲法の施行を求めたため、政権内部から改革が起きるかと思われたが、不満を示した15人中11人の党員たちが拘束されてしまった。
エリトリアでは、選挙システムや憲法が機能していない。憲法が制定されるまでの一時的措置として1994年に臨時国会が設立され、憲法制定後は国民が選挙で国会議員を選出するということになった。しかし、1997年に民主主義を採用した憲法が制定されされたものの、施行されていない。また、暫定国会選挙が2001年に実施されると発表されたものの無期限延期となった。さらに、1997年に予定されていた大統領選挙は行われておらず、1993年の国民投票以来一度も国政選挙は行われていないため、イサイアス大統領が実権を握り続けている。

1997年の憲法批准を祝うパーティーでの様子。イサイアス大統領は一番右。(Hebheb321 / Wikimedia Commons/ [CC BY-SA 4.0])
また、憲法は国民の言論の自由を保障しているが、実際は自由な発言は許されていない。例えば、民間メディアの運営は2001年から禁止されており、同年に政府を批判したジャーナリスト11人が逮捕され、裁判を経ずに拘留された。この11人のジャーナリストたちは2021年時点で未だ解放されておらず、少なくとも4人が拘留場で死亡したことがわかっている。このことも影響し、既述のように世界の報道の自由を測る趣旨で国境なき記者団が毎年発表する報道の自由度ランキングでは、2021年時点で最下位という結果だった。
エリトリア国民は言論の自由だけでなく職業の自由も奪われている。エリトリアには徴兵制があり、性別問わず16才から高齢者までが対象だ。兵役対象者となった若者が兵役を回避することはほぼ不可能である。毎年、何千人もの中等教育(※2)の最終学年の学生たちが強制的にサワという軍事訓練所へ連れていかれる。訓練期間は1年であり、軍事訓練の他に座学も行われるが、体罰や強制労働が容認されており、学生たちは奴隷のような扱いを受けているとされている。軍事訓練期間中に行う筆記試験の結果などにより、中等教育卒業後そのまま軍に入隊させられるか、卒業後も職業訓練プログラムや教育を受けるか(その場合、専攻やその後の進路は政府が指定)が決まる。兵役を逃れるために中等学校を退学する生徒もいるが、中等学校に通っていないことが政府に見つかると直接軍へ入隊させられてしまう。兵役や国営事業(※3)の仕事は本来18か月間と法律で定められているが、実際は無期限となる場合が少なくない。
こうした徴兵や政府の抑圧、貧困などから逃れるため、大勢のエリトリア人が難民となって国外を目指す。2018年時点の累積人数で50万人以上の難民がエリトリアを離れた。エチオピアに亡命したエリトリア難民の多くはスーダンからリビアに向かい、ヨーロッパを目指して移動する。2015年時点で、ヨーロッパへ向かう全難民数のうち、3分の1はエリトリアからの難民であった。

エリトリアの兵士たちがパレードで行進している様子(Temesgen Woldezion / Wikimedia Commons [CC BY-SA 2.5])
エチオピアとの対立
1991年に樹立した新エチオピア政権は、イサイアス大統領が率いたEPLFと同盟関係を結んでいたEPRDFが中心となっていたため、当初のエリトリア・エチオピア間の関係性は穏便であった。しかし、貿易問題や紅海に面するエリトリアの港のエチオピアによる利用をめぐる問題から、次第に関係が悪化していった。また、エリトリアとエチオピアの国境付近にあるバドメ地域は、エリトリアがイタリアの植民地支配を受けていた頃から明確な境界画定がなされていなかった。そのため、実質的にはエチオピアの支配下にあったものの、両国はバドメ地域の国境について異なる見解を持っていた。次第に両国の摩擦は増していき、1998年5月にバドメ地域でエリトリア軍対エチオピア軍の衝突が起き、同地域で続けてエリトリア軍が戦車などを用いて攻撃を繰り広げた。このように、攻撃と応戦が繰り返され、大規模な戦争への発展していった。この戦争はアフリカ諸国の国境戦争において史上最悪クラスを記録し、2年間で8万人の死者数が出たとされている。
2000年、アルジェリアとアフリカ統一機構(OAU)が主導となって行われた会議で、エリトリアとエチオピアは両国の国境問題について話し合い、アルジェ和平合意を結んだ。この和平合意で中立組織であるエチオピア・エリトリア国境委員会(EEBC)(※4)が新たに発足し、EEBCが決める国境を受け入れて国境争いを終わらせるということでエリトリアとエチオピア両国が合意した。停戦監視のため、国連平和維持部隊(UN peacekeeping force)であるUNMEE(United Nations Mission in Ethiopia and Eritrea)が派遣され、2008年まで駐在していた。このように平和合意に至ったにも関わらず、両国の国境問題は改善しなかった。問題となっていたバドメ地区の帰属について2002年のEEBCの最終議決によりエリトリアへの帰属が決まったにも関わらず、エチオピアはこの議決を拒否し、自国軍をバドメ地区に駐屯させたまま実行支配を継続していた。これに対し、エリトリアはEEBCの議決内容が遂行されるまで交渉を拒否したため、エチオピアとエリトリアは国境での衝突を繰り返し、2016年に起きた武力衝突では数百人の死者が出た。
エチオピア・エリトリア間の対立は他国にも影響を及ぼしている。例えば、両国の隣国であるソマリアで1991年に勃発したソマリア紛争において、イスラム教の法を軸にしたイスラム法廷会議(Islamic Courts Union : ICU)と呼ばれる連合が2000年に結成された。ICUは多くの市民から支持を集めつつ武装化し、一時的にソマリア南部を統一するほどにまで拡大した。しかし、ICUの勢力を脅威として捉えたエチオピアがICU打倒を目的にソマリアへ侵攻し、ICUは2006年12月に解体された。その後、ICUの一部の青年過激勢力がソマリア都市部から撤退、ソマリアにイスラム国家を樹立することを目標にアル・シャバブを組織しエチオピア軍に対するゲリラ攻撃を行うようになった。エリトリアは、アル・シャバブと共通の敵であるエチオピアを弱体化したとされているため、ソマリア紛争においてもエチオピアとエリトリアが間接的に対立していたと言える。エリトリアのアル・シャバブ支援に関しては、2009年に国連安全保障理事会が制裁を行った。
エチオピア以外にも、エリトリアは「アフリカの角」にある他国と関係が悪化し、争った経験がある。ジブチとは、国境をめぐって約10年間戦争状態だった。2018年9月に和平協定を結び、現在では国交は回復している。また、スーダンを活動拠点としていたエリトリアの反政府勢力EIJM(エリトリア・イスラム聖戦運動)をめぐり対立し、スーダンとも1994年から国交を断絶していたが、2000年に和平合意を結び、現在はスーダンとの国交正常化も実現している。
中東との国際関係
エリトリアはイエメン紛争にも影響を与えている。この紛争は大きくイエメン政権派対フーシ派の対立という構図から始まったが、2014年にはフーシ派が首都を制圧した。サウジアラビアとアラブ首長国連邦(UAE)を中心として、イエメンの周辺諸国は空爆及び地上軍を投入し、本格的に軍事介入することで事実上機能しなくなった政権派を支援している。一方で、イランやレバノンを拠点とする組織ヒズボラはフーシ派を支援しているとされている。このように、イエメン紛争は周辺地域を巻き込んだ紛争へと発展した。
過去にハニシュ諸島の領土問題をめぐってイエメンと争ったことがあるエリトリアは当初、フーシ派を支援していたが、立場を逆転させ、サウジアラビアやUAEと友好関係を築こうとしている。実際、2015年にサウジアラビアとはエリトリアのアサーブ港を30年リースで貸し出す契約を結んだ。UAEには、フーシ派への攻撃拠点となるアサーブ港における軍事基地の建設を許可した。この動きの背景には、サウジアラビアのような影響力を持つ国と良好な関係を築き、他国との外交を支援してもらいたいというエリトリア側の意図があると考えられる。加えて、当時エリトリアと国境を争っていたジブチとUAEの関係が悪化したことも、エリトリアがUAEに近づきやすくなった要因だろう。
エチオピアとの和解
上記のように、2000年のアルジェ和平合意後も対立し続けたエリトリアとエチオピアだが、この状況を変えたのが2018にエチオピアの首相となったアビー・アハメド氏だ。アビー氏は首相就任直後からエリトリアとの関係回復に向けて動き出した。そしてUAEの協力を得ながら、2018年、エリトリアとの和平合意が実現。約20年続いた両国の対立関係に終止符が打たれた。この和平合意により、一時的に国境が開放された。エチオピアとエリトリアの商人たちの間で商品の取引が活発化し、難民となって国外へ逃げた人とエリトリアに残った家族が再会するなどの成果も見られた。しかしこの状況は長続きせず、国境は数か月で封鎖され、自由に国境を渡ることはできなくなった。国境閉鎖に至った要因の1つとして、国境開放により大勢のエリトリア人が難民としてエチオピア側に渡ったため、このまま難民の波が加速することをエリトリア政府が恐れたことが考えられる。

エチオピアの難民キャンプでの様子(EU Civil Protection and Humanitarian Aid / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
またエチオピア政府との関係は回復したものの、後に新たな紛争が発生した。エチオピア政府とエチオピア北部のティグライ州の間で2020年に紛争が勃発し、そこへエリトリアが軍事介入しているのだ。1991年にEPRDF が新政権を樹立して以来、ティグライ人民解放戦線(TPLF)のリーダーがエチオピアの初代首相になるなど、TPLF はエチオピア中央政府の中核として政権を主導してきた。TPLFは、2018年にアビー首相が就任したことで中央政府の政権は担わなくなったものの、ティグライ州では地方自治の実権を握り続けていた。そのため、コロナウイルスの感染拡大を理由にアビー首相が地域選挙を中止したことに対して反発し、2020年9月に独自で選挙を強行した。選挙結果はTPLFの圧倒的勝利であったものの、政府はこの選挙の法的拘束力を認めず、TPLFと政府間の対立が増していった。そして2020年11月、TPLFが政府軍の軍事基地を攻撃し、これに対して政府軍や他州からの援軍が軍事介入したことにより紛争へと発展した。そんな中、エリトリアがエチオピア政府軍を支援する形でティグライ紛争に介入した。この紛争により、半年間で20万人ものティグライ市民が難民となってスーダンへと移動した。
ティグライ紛争になぜエリトリアが介入したのか。理由は複数挙げられている。1つ目は、エリトリアが国境をめぐってエチオピアと争っていた時代にエチオピア政権を担っていたTPLFを長年敵視してきたためだ。2つ目は、周辺地域でエリトリアが持つ影響力を高めるためだと考えられる。イサイアス大統領は、過去に周辺国への介入を通して自国の影響力を高めようとしてきた。今回のティグライ紛争では、地域大国エチオピアが弱体化すれば、エチオピアや周辺地域に対してエリトリアが持つ影響力や存在感をアピールできるだろうというエリトリアの思惑があったと考えられる。3つ目に、ティグライに逃げた自国の難民を制裁するためだという可能性が考えられる。ティグライ紛争への介入の過程で、エリトリア政府軍はティグライに避難していたエリトリア難民たちに対し、拉致や殺害、レイプなどの残虐行為を繰り返したと報告されている。襲撃された難民たちは他の難民キャンプに移るか、エリトリアに引き返すという過酷な選択を迫られている。
このように、ティグライとエリトリアの難民は壊滅的な被害を受けている傍らで、エチオピアのアビー首相は何か月もの間、エリトリアの軍事的関与を否定していた。2021年3月、ついにエチオピア首相はティグライ紛争にエリトリアが関与していたことを正式に認めた上でエリトリア軍の撤退を約束した。2021年6月には一部のエリトリア軍が撤退したものの、完全な撤退には至っておらず、2022年1月にエリトリア軍が再びTPLFに攻撃したという報告がなされた。

ティグライ紛争からエチオピアに避難したエリトリア難民(UNICEF Ethiopia / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
改善への道?
これまで見てきたように、エリトリア国内は厳しい状況に置かれている。政府からの激しい弾圧もあり、エリトリア国内や政権内部からの変革は困難な状態だ。しかし、抑圧的な政治に対して声を上げる市民がいないわけではない。エリトリアから他国へ亡命した人の中には、エリトリア国外からエリトリア国民に向けてラジオ配信を行い、エリトリア国内や国外に関する様々な情報を提供している人もいる。また過去には、フリーダム・フライデー(Freedom Friday)(※5)というデモ運動がエリトリア国内外で起きたこともある。
一方で外交においては、エリトリアとエチオピアの和平合意が実現したものの、必ずしもエリトリアを含む周辺地域の平和に繋がったわけではない。むしろ、ティグライ紛争におけるエリトリアの軍事介入の一因となったと言えるだろう。その上、和平実現や紛争への介入により、地域大国であるエチオピアやサウジアラビア、UAEから支持を得たことで、他国が圧力をかけてエリトリア国内に変革をもたらす可能性も考えにくい。今後、エリトリアはどうなっていくのだろうか。
※1 エリトリアではキリスト教信者とイスラム教信者が多数を占めており、それぞれ人口の約半分の信者がいると言われている。
※2 本稿に登場する「中等学校」とは、日本の教育制度における中学校と高等学校を指す。そのため、中等学校の最終学年は日本の高等学校3年生に該当する。
※3 ここでは農業や建設業など、国が運営するすべての公共事業を指す。
※4 EEBCは、エリトリアとエチオピアがそれぞれ任命した弁護士2名ずつと、委員会の議長の全5名で構成されている。
※5 エリトリア政府からの弾圧を受けずに抗議運動を行う手段として、毎週金曜日の夜に自宅に引きこもり、通りに人がいない状態を作ることで政府に抗議していた。
ライター:Ayano Shiotsuki
グラフィック:Yosif Ayanski