カリブ海に浮かぶイスパニョーラ島での発表が物議を醸した。ドミニカ共和国(※1)とハイチの2つの国でこの島は構成されている。2021年3月、ドミニカ共和国の新大統領ルイス・アビナダル氏は麻薬の密輸・人身売買などの不法な越境行為を取り締まるために同年の後半、ハイチとの国境全体に全長400キロメートルのフェンスの建設を開始すると発表した。このフェンスの建設に対しては、国内外からの反対を受けているが、そもそもなぜこのような問題が発生しているのだろうか。また、ドミニカ共和国が抱えている国際問題はハイチとの摩擦だけではない。労働市場をめぐるアメリカとの問題や、南北アメリカをつなぐ麻薬貿易に組み込まれている側面もある。この記事では周辺国との間で起きている問題に触れつつ、それらがドミニカ共和国にどういう影響を及ぼしているのか見ていく。

ドミニカとハイチの国境として使われている橋(関門)(写真:EU Civil Protection and Humanitarian Aid / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
激動の歴史
ドミニカ共和国とハイチのあるイスパニョーラ島の面積は76,192平方キロメートルで、最長部分で約650キロメートル、幅241キロメートルほどである。ドミニカ共和国の領土はこの島の約3分の2を占めており、人口は1,060万人である。元々この島には、タイノ(※2)の人々が移り住み、15世紀には5つの首長国を構成していた。1492年のクリストファー・コロンブス氏の上陸をきっかけにスペインが侵攻し、1496年にサントドミンゴ(現在のドミニカ共和国の首都)は西半球で最初の植民地となった。カリブ海の北側に位置するこの島は、植民地時代にはキューバ、メキシコ、パナマ、南米へのスペインの進出をコントロールするのに最適な場所として重要視された。そして、タイノ王国への侵攻やスペイン人が持ち込んだ疫病、植民地支配で先住民が壊滅的な打撃を受けた。タイノの言葉は消滅し、民族的な文化や風俗習慣なども今ではほとんど残っていない。
スペインはイスパニョーラ島で、ヨーロッパからの入植者とアフリカから連れ込んだ奴隷の労働力を用いてサトウキビやタバコなどのプランテーションを運営していった。カリブ海はヨーロッパの大国の争いの舞台となり、1697年、9年戦争の結果、島の西半分がフランスに割譲された。この場所がのちに奴隷の蜂起によりハイチ共和国として独立した。しかしカリブ海でのフランス、スペイン、イギリスなどの対立は落ち着かず、各国の領土侵略や政府公認の海賊の利用などを通じて、この島の統治をめぐる争いは続いた。
1821年にスペイン側の植民地で独立運動が発生し、ドミニカ共和国は1度独立を宣言した。しかしその翌年、1804年にすでにフランスから独立を勝ち取ったハイチに占領された。1844年に独立戦争の末、ハイチから独立したが、そのころには自治権が強くなっていたため、実質上スペインからの支配は受けていなかった。1861年にスペインは支配権を取り戻そうとするものの、結局1865年にこの地をあきらめ撤退した。西側がハイチ、東側がドミニカ共和国という形でようやく国境線は落ち着いた。
イスパニョーラ島を含め、次々と独立を果たしていく中南米では、アメリカが介入を行うようになっていった。アメリカは19世紀から中南米を自国の「裏庭」としてみなすようになっており、19世紀後半から流行り始めたバナナ、その他の果物、サトウキビなどの栽培場所に適した中南米にアメリカの巨大企業が進出し、プランテーションを作っていった。やがてアメリカ政府に守られながら、これらの企業は現地の政治や経済に大きな影響を与えるようになった。アメリカや現地にプランテーションを持つアメリカ企業に協力的な政権が導入されていったことで、これらの国は「バナナ共和国」と呼ばれるようになった。さらに、アメリカはパナマ運河を1914年に建設し、地域全体への影響力を拡大させた。外資系企業によるプランテーションの経済活動と合わせてアメリカは中南米で有利な状況を確保し、欧州からの影響・介入を防ぐためにたびたび各地に軍事介入をした。
ドミニカ共和国もその例外ではなかった。サントドミンゴの反政府勢力の蜂起に対しアメリカは1903年に介入、1904年と1914年にドミニカ共和国に対して戦闘行為を行い、1916年から1924年の間には占領した。1924年に米軍は撤退したが、政権は安定しなかった。その後、1930年にラファエル・レオニダス・トルヒーヨ・モリナ将軍が選挙において圧倒的な得票数で大統領になり独裁政権を確立した。トルヒーヨ氏は1930年から、1961年に暗殺されるまで独裁者として国を統治した。トルヒーヨ氏はアメリカが統治時代にドミニカ共和国に設立した国家警察に所属していたこともあり、反共産主義の立場から、アメリカの支持を得てもいた。アメリカは優先的に低価格でサトウキビを輸入するため、またトルヒーヨ政権に武器を輸出し、近隣の共産主義勢力を抑制するために彼を支えていた。トルヒーヨ氏の時代に入ってもアメリカによる「バナナ共和国」時代は続いていたのだ。しかし1959年に起きたキューバ革命に大きな警戒感を持ったアメリカは独裁政権が共産主義に転換することを危惧するようになった。その後、より穏健な政権に切り替えることを目指し、中央情報局(CIA)を通じてトルヒーヨ氏の暗殺に関わった。
トルヒーヨ氏が暗殺されたのち、 左派のドミニカ革命党(PRD)の創設者であるフアン・ボッシュ氏が、約40年ぶりの民主的な選挙で大統領に選出された。ボッシュ政権が貧困層や労働者の側に立った政策をしていたのに対し、アメリカは共産主義だと判断して警戒を強め、ボッシュ氏打倒にも関与した。その後、ボッシュ氏支持派が蜂起すると、アメリカが再び軍事介入を行い、1965年から1966年にドミニカ共和国を占領した。同年の選挙が行われる前にアメリカは撤退したが、米州機構(OAS)部隊は残った。1966年、トルヒーヨ派で中道右派路線のキリスト教社会改革党(PRSC)からホアキン・バラゲール氏が大統領に選出された。バラゲール氏はトルヒーヨ氏ほどではないが権威主義の面が目立ち、人権侵害などの行為にも及んでいた。

1954年、アメリカ訪問中に海兵隊を視察するトルヒーヨ氏(写真:Harris & Ewing / Picryl [Public domain])
1978年にはPRDに政権が戻ったことで、ドミニカ共和国の統治機構は民主的な形に変わっていった。PRDはその後8年間政権を担当することになる。しかし、経済の縮小がPRD政権の失速につながった。ドミニカ共和国は1979年 2つのハリケーンにより損害を被り、さらに、オイルショックなどでガソリン価格が上がり、サトウキビの価格が下がった。1985年には国際通貨基金(IMF)が提示した基本的な食品やガソリンの値上げを含む緊縮財政政策により、広範囲にわたる暴動が発生した。これらを背景に1986年の選挙でPRD政権が倒れると、再びバラゲール氏が返り咲き、10年間大統領を務めた。1996年にはドミニカ解放党(PLD)のレオネル・フェルナンデス・レイナ氏が大統領に選出され、その後PLD政権は2020年まで続いた。
ハイチとの関係
イスパニョーラ島を共有するドミニカ共和国とハイチの2つの国だが、政治経済の路線が大きく異なっていた。ドミニカ共和国は多くの政治的な課題を抱えながらもある程度の民主化が発展したことをうけ、1990年代からは経済成長も進んだ。2020年、新型コロナウィルスによるパンデミックが発生するまでの数十年間、経済は急速な拡大を続け、2015年から2019年の間、ドミニカ共和国の年間GDP成長率は平均6.1%となった。一方、ハイチはフランス植民地時代を経て独立したが、その承認と引き換えに条件として1825年に巨額の賠償金をフランスから課せられていた(この賠償金は1947年に完済している)。また、ドミニカ共和国に比べ独裁政権状態が長引き、これは1990年代まで続いた。加えて度重なるアメリカの干渉や軍事介入を受けている。そして現在ハイチは「中南米の最貧国」と言われる状況になっている。
ドミニカ共和国は政治的混乱や経済に行き詰ったハイチの人々にとって、長きにわたり避難場所となってきた。また、ハイチから出稼ぎや仕事を探してやってくる場所でもある。そのことが国家レベルにおいても個人レベルにおいても摩擦の原因になってきた。その中には人種差別などの問題もある。ドミニカ共和国やハイチでは先住民、ヨーロッパ系、アフリカ系など人々のルーツも様々であり、肌の色などをはじめとする人々の身体的特徴も多様である。このような多様性の土壌があるにも関わらず、ハイチ人は「より黒い」とされ、ドミニカ共和国では差別の対象となることがある。1937年にトルヒーヨ政権下で9,000人から20,000人のハイチからの移民が虐殺されたことは現在も両国の関係に影を落としていると言える。一方で、好調なドミニカ共和国の経済はハイチの人々の労働力なしには成り立たない。しかし、この労働力としてのハイチの人々もまた様々な課題に直面している。非正規雇用やサトウキビのプランテーションでの仕事など低賃金で働くハイチの人々は雇用者側には重宝されているが、低賃金で働くドミニカ共和国の人々にとっては自分の労働を奪ってしまうという被害意識をあおる存在でもある。そのため、ドミニカ共和国の景気が悪くなると、そのフラストレーションが移民に向けられることもたびたび起きてきた。

国境線にもなっている、「虐殺川」と名付けられた川で洗濯する人々(写真:EU Civil Protection and Humanitarian Aid / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
繊維産業から見る対米関係
ドミニカ共和国は隣国ハイチだけではなく、他の国との関係によっても大きな影響を受けている。ドミニカ共和国の歴史の部分で触れたように、他の中南米の国家同様アメリカによる影響力は大変大きい。民主化が進み、経済が多様化すると「バナナ共和国」までの支配関係は維持できなくなっていったが、アメリカの企業にとって都合の良い経済政策や格差を助長させている経済関係という意味で、類似の構図が残っているとも言える。典型的な例が繊維産業である。ドミニカ共和国では1969年から輸出税を免除した自由貿易地域(FTZ)が設立されるなど、輸出に関する規制が緩和された。その結果、ドミニカ共和国では、1980年から1990年代初頭にかけて製造業の輸出に占める割合が劇的に増加した。その背景には輸出税の廃止によって、安い労働力を求めるアメリカなどからの外資系企業のドミニカ共和国への進出が刺激されたことが挙げられる。1988年には製造業の輸出の78%を衣料品が占めていた。その輸出に関連する会社の63%がアメリカ資本であり、自国資本の会社はわずか10%しかなかった。アメリカに衣類などを輸出する繊維産業は最低賃金が低く、労働条件も過酷である。公正な労働条件を揃えた「フェア」な商品を作るメーカーが例外として報道で注目されるほどである。
その中で、市場の求める、より安くより大量にといった要求が加速したことなどを背景にアジアに労働市場が移っていったことで、現在のドミニカ共和国は繊維産業が主な輸出品ではなくなっている。その背景にはバングラデッシュなどの国に賃金と労働力では太刀打ちできなくなり、業界が縮小したことがある。

サントドミンゴ市内のアルタ・グラシアの工場(写真:Living-Learning Programs / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
麻薬取引の通過地点
政治や経済において、ドミニカ共和国はハイチやアメリカとの関係にはさまざまな問題を抱えているが、越境する組織犯罪(主に麻薬関連)といった南北アメリカとの負のつながりも抱えている。これらは麻薬貿易のルートに関係している。南北アメリカ大陸では、コカインは南から北へと流れる。コカはアンデス3国(コロンビア、ペルー、ボリビア)で栽培され、犯罪組織によってコカインに加工された上で輸送され、大量の消費者を抱えるアメリカへと流れ込んでいる。中米、メキシコを通る陸路のルートや、船や飛行機を用いたカリブ海のルートなどさまざまだが、取り締まり体制などでルートは時々変わっていく。その中でカリブ海ルートにおいては、ドミニカ共和国がひとつの中継点となっている。コロンビアからベネズエラに陸路で運ばれたルートが開拓されたことで、ドミニカ共和国を経由するコカインの量が増えたとされている。アメリカ方面には、ドミニカ共和国を経由することで、わずか381キロメートルしか離れていない、アメリカの領土であるプエルトリコに出荷できるという利点もある。また、ドミニカ共和国の周辺には英国領、フランス領の島が点在しており、ヨーロッパへの出荷場所にもドミニカ共和国は最適な位置にあるため、麻薬貿易の重要な通過点となってきた。実に世界の生産量の15%に相当する年間120トンのコカインがドミニカ共和国を経由していると言われている。
一方、麻薬が通過することで、首都サントドミンゴやサンティアゴなどの大都市では、小規模ながらも地元の麻薬市場が拡大しており、流通の大部分が地元のギャングの手に渡り、都市部の犯罪や暴力の一因となっている。ドミニカ共和国政府は1988年5月に全国麻薬取締局(DNCD)という組織を立ち上げ大規模な麻薬取り締まりと麻薬取引の防止に焦点を当てているが、莫大な量の資金と麻薬が流れることで警察官や判事など法執行機関で働く個人が賄賂を受け取ったり、押収した麻薬を盗んだりするといった事件が起きている。
政治と腐敗
ここで紹介したような越境する様々な課題に向き合うための、しっかりした政治基盤が必要とされるドミニカ共和国だが、近年の政治傾向はどうなっているのか。
1996年以来、PLDは2000年から2004年を除いて権力の座についていた。PLDは保守的なエリートからも、アメリカからも支持を得て、保健医療や教育などの一般市民の福祉を優先した政策よりも大手企業に優しいネオ・リベラル(※3)な政策を取り入れてきた。ところが、2012年から大統領になったPLDのダニーロ・メディーナ氏は教育なども含めた社会福祉にも力を入れるようにもなって人気を得た。しかし、同時にハイチ移民に対する迫害も強化し、2013年にハイチからの多くの移民を強制退去させるなど、強硬姿勢も見せていた。
2020年の時点で2期目を終えようとしていたメディーナ氏は、3期目の出馬を念頭に、2018年に憲法改正を試みたものの、野党と同政党所属のフェルナンデス氏の派閥、そして世論により阻止された。また、メディーナ氏の前に大統領を務めていたフェルナンデス氏と仲間割れとなったことで、フェルナンデス氏がPLDを離党し2020年の大統領選挙に立候補する事態を招いた。そのことによりPLDの人気が急落し、野党であった現代革命党(PRM)が2020年8月に当選したため16年ぶりの政権交代となった。
PLDの敗因には腐敗問題も大きかったといわれる。ドミニカ共和国では社会の様々なレベルで政治と金の関係が問題視され、たびたび発覚するスキャンダルに対して市民の不満がたまっている。その中でも、政府による建設契約をめぐる問題である、オデブレヒト(ブラジルの建設会社)スキャンダルが典型的だ。これは選挙運動資金を企業が提供する見返りに、政府による建設事業の特定の企業が優先的に契約を獲得するというもので、ドミニカ共和国を含む中南米で大きな問題となった。選挙の実施においても、2020年2月の地方議会選で野党の名前が投票の機械から除外されていたことが明らかになり、選挙が延期になったという事件が発生し、大規模なデモが起こった。腐敗に関する認識を計るNGOトランスペアレンシー・インターナショナルによると、2020年の時点でドミニカ共和国国内の腐敗が昨年に比べてひどくなったと感じた国民の割合は66%である。また、同NGOが発表している腐敗の認識のドミニカ共和国のランクは(2020年時点)、180カ国中130位という低い順位であった。
加えて、現在世界中で起きている新型コロナウィルスの拡大にうまく対処できなかったこともPLDの人気の低落に拍車をかけたとも言える。

スピーチをするアビナダル大統領(写真:Mariordo(Mario Roberto Durán Ortiz) / Wikimedia [CC BY-SA 4.0])
ドミニカ共和国の現状と未来
現在、ドミニカ共和国は2020年から続くパンデミックの影響を受け、さまざまな打撃を受けている。観光業しかり、製造業しかりである。繊維業では唯一「フェア」な労働条件で運営されていると言われた企業、アルタ・グラシアが打撃を受けているが、雇用を守るために努力を重ねている。
新しい政権は多くの課題を抱えている。新型コロナウィルス対策や経済対策も大きいが、国民は特に新大統領が公約を掲げた腐敗防止への対策に関心が高く、監視の目が集まっている。また、ハイチとのフェンスが実際に建てられるのか、それがどのような結果をもたらすのかが不明である。さまざまな方面から政府は国民の期待に応えることができるのか、今後も注目していきたい。
※1 ドミニカ国とドミニカ共和国があり本記事ではその他の国の国号は省略しているが、混乱を避けるためドミニカ共和国のみ、国号をつけて記載する。
※2 タイノ人:カリブ海諸島に住んでいた先住民族。中南米のアラワク民族の一部。タイノ語は南アメリカ北部のアラワク語族の一員とされている。
※3 ネオ・リベラル:政府などによる規制の最小化と、自由競争を重んじる考え方。規制や過度な社会保障・福祉、富の再分配は政府の肥大化をまねき、企業や個人の自由な経済活動を妨げると批判。市場での自由競争により、富が増大し、社会全体に行き渡るとする。ネオリベラリズムとも言う。
ライター:Yuki Yamagata
グラフィック:Hikaru Kato
「バナナ共和国」という表現には、文字の裏に隠された意味があるのだと思います。アメリカのような高所得国は、良くも悪くも周辺国に影響を及ぼしやすいことを自覚する必要があると感じました。
国境にフェンスを建設して問題解決を図るというのはあまりに短絡的であり、現実の複雑性を無視していると感じました。また労働市場におけるアメリカとの関係によって起きる問題は、世界でもよく見られる問題だと思います。現在のアジアでも似たような問題は起こっており、日本も他人事に見るべきではないと感じました。「より黒い」という理由で人種差別が起きるというのは驚きでした。肌の色の程度で差別なんて愚かだと感じますが、同じアジア人同士でもヘイトが起きたりするのと同じことなのかなと感じました。
世界で起きていることは、どこでも同じような構図があり、それは仰る通り他人事ではないです。フェンス建設の問題は今後どうなっていくのか注視が必要な問題だと思っています。
特に移民問題に関してはどこの国でも複雑な問題となっていて、「グローバル化」と絡みながらよりデリケートな問題なっていくのだろうと思います。島国であり比較的移民問題が実感できない日本に住んでいると共感しづらい点も多くありますが、他国同士の摩擦などについてもっと関心を持たなければならないと感じました。
バナナ共和国という単語が気になりました。もっと知りたいと思いました。