「国際報道において誤解を招く5つのことば(その1)」の記事では、「国際貢献」、「親◯国」、「内戦」、「発展途上国」、「フェアトレード」といったことばが日本の国際報道において、世界の現状に対する理解を妨げていることを主張した。誤解を招く5つのことば(その1)でも指摘したように、これらの言葉の使用によって意味が不正確に伝わったり、あるいは現状を捉えていないことばが「常識化」してしまう恐れがある。これはけっして意味論や机上の問題ではない。これらの言葉が引き起こす誤解は実際の世界での問題につながることもあり、危険を伴う場合すらあるとも言える。
今回はその第2弾である。それぞれのことばの意味などを紹介し、報道によるこれらのことばの使われ方やどのような誤解が生じているのかを五十音順に紹介していこう。

カシミール、スリナガル(写真:Adam Jones/Wikimedia [CC BY-SA 2.0])
「イスラム教」
世界の多くの地域や国では、組織化された宗教は個人の信教にとどまらず、社会・政治・経済・法律の制定などにおいて大きな影響を及ぼしている。極端な場合、宗教が摩擦や紛争の軸のひとつになることもある。イスラム教も例外ではなく、さまざまなレベルでイスラムの教義が信者の生活環境と密接に関わっていることも少なくない。そんな中、イスラム教と関連して報道に値すると考えられる出来事、現象、傾向が数多くある。毎年200万人もの人が集まるサウジアラビアのメッカでの巡礼などはその一つとしてあげられる。また、政治とイスラム教との間にどのような傾向があるのかなども報道において重要な視点となるだろう。そのほかにもイスラム教の教えに沿って行われる金融システムにおける動向、紛争や武力行為も看過できない。
しかし日本の国際報道では、イスラム教に関する報道にさまざまな偏りや現実とのズレが見られ、バランスが欠けていると言わざるを得ない。まず、地域間の報道量のアンバランスさが目立つ。朝日新聞の報道に対する調査(2019年)では、イスラム教関連の報道量がもっとも多い国はイスラム教徒が多い国ではなく、アメリカであった。日本のメディアは普段からアメリカについての報道が多く、イスラム教関連の報道にもその傾向が表れているといえるだろう。逆に、イスラム教徒の人口が世界で最も多いインドネシアはイスラム教関連の報道量トップ10にも登場しない。また、報道の内容に関しても、社会・政治・経済とイスラムとの関係に関する報道が乏しく、イスラム教と暴力との関係ばかりが強調される傾向がある。例えば、日本の大手全国紙3社の調査(2015年)では、イスラム教関連の報道の約半分(朝日新聞58%、毎日新聞42%、読売新聞52%)は暴力性が伴う記事であり、2019年の調査でも類似の傾向が見られた。
このような報道状態では、世界におけるイスラム教の現状を複眼的に、正確に捉えることができない。日本で行われる世論調査ではイスラム教に対する理解が低く、否定的に見ている人が多いという結果が出ているが、これは上記のような報道の偏りが関連している可能性が高い。

ウズベキスタン、ブハラ(写真:javarman/Shutterstock.com)
「SDGs」
持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:以下SDGs)。経済、教育、保健医療、ジェンダー、環境などの分野において人類が直面する深刻な課題の解決に向けて、国連が2015年に定めた2030年までに達成することを目指す17の目標である。「誰1人取り残さない」というのがそのスローガンとして掲げられている。
目標によっては、ある程度の進捗が見られるものもあるが、多くの目標に関してはSDGsの達成に向かっているとは言い難い。このままではSDGsが2030年までに達成される見込みがないことは現時点ですでに明らかになっている。例えば「貧困をなくす」という1つ目の目標に関して言えば2019年時点の研究で、2030年には世界の5億人が極度の貧困状態にあると予想されている(※1)。そして、そのほとんどの人はサハラ以南アフリカに住んでいる。世界の貧困問題を解決しなければ、保健医療、教育など他の目標も達成することは難しく、極度の貧困の解決なしにSDGsの全面的な実現は極めて厳しい。また、教育に関する4つ目の目標「すべての子どもが(中略)初等教育および中等教育を修了できるようにする」というターゲットは、2021年の時点で世界の子どもが全員入学できていなければ2030年までに達成することはできない。しかし、現状では世界の子どもの5人に1人は学校に通えていない。環境関連の目標にも同様の傾向が見られる。例えば、世界の二酸化炭素排出は減るどころか増え続けている。また、2010年に10年先を見据えて設定された生物多様性を守るための20の目標(いわゆる「愛知目標」)は、2020年の時点でひとつも達成されていないことが明らかになった。
日本の報道は遅れを取りながらも政府や社会に合わせてSDGsに比較的注目するようになっていると言える。しかし、問題の規模や問題に関する意識においてはその実態から大きくかけ離れていると言わざるを得ない。SDGsに関する2014年から2018年までの5年間の読売新聞の報道では、全104記事中、貧困問題に着目していたのはたった6記事であった。場合によっては貧困を取り上げることがあってもその問題が圧倒的に深刻なサハラ以南アフリカではなく、日本が注目の中心になることも少なくない。例えば、日本テレビで放映された「SDGsとは?」という短い概要ニュースでは、貧困は「発展途上国の問題のように聞こえるかもしれないが、実は日本の子どもの、7人に1人が貧困だと言われ・・・」と地域的な貧困にのみ焦点が当てられ、世界の極度貧困問題に触れることはなかった。また、SDGsは日本企業にとってのビジネスチャンス、あるいは東京オリンピックや大阪万博といったイベントの文脈で報道されることが多い。このような報道は、そもそもSDGsが必要となった世界の危機的な現状やSDGsの達成状況に関する報道を遥かに上回っている。

ナイジェリア、ラゴス(写真:William Muzi/Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
「国際社会」
世界の政治的動向を表すのに頻繁にメディアによって使用されるこのことば。2019年だけで朝日新聞では564記事、毎日新聞では644記事、読売新聞では563記事も登場(※2)した。紙面への登場頻度からもわかるように、その意味が読者に共有され「常識化」されていることばであるとも言える。しかし、使われる場面や文脈があまりにも広すぎるため、その意味を特定し捉えることはほぼ不可能だ。
そもそも国際社会(英:international community)の定義自体が曖昧なのは明らかである。「一つのグループとみなされたり、行動を起こしているとみなされる世界の国々のこと」や「特に政治家や新聞で、世界のすべてもしくはいくつかの国のことを指したり、それらの国の政府をグループとしてみなす時に用いられるフレーズ」などの定義が挙げられる。これらの定義から見えてくるのは、国際社会ということばは世界を構成する人々(とその世論)や越境するグローバルな市民団体などではなく、あくまでもそれぞれの国で権力を握っている各国政府を指しているということである。しかし、どれほどの数の政府が連携をとれば「国際社会」が構成されるかは不明である。国連総会での過半数であればひとつの「社会」として機能していると言えるのか。それとも権力と富が集中しているG20諸国、あるいはG7諸国の集まりを「国際社会」と呼ぶことができるのか。実際のところ、それぞれの政府の利害関係や国益追求を優先する傾向などもあり、各国政府がひとつの組織としてまとまり、総意のもとで何かを主張したり、行動したりすることは珍しい世界となっている。
しかし、メディアで漠然と「国際社会」ということばが使われ続けることは、ありもしない世界中のコンセンサスが存在するかのような誤解を招きかねない。例えば、サウジアラビアの人権問題を取り上げた朝日新聞の社説(2018年)では、「米国の指導力の後退のなかで、自由と人権の価値を守る責務は国際社会全体で担うしかない」とあるが、自由と人権を尊重している政府は(米国を含めて)世界に果たしてどれほどあるのだろうか。また、アルメニアとアゼルバイジャンの紛争をめぐる、AFP通信(2020年)の報道では「国際社会からは(中略)停戦と協議の開始を求める声が強まっている」とあるが、何カ国の政府が実際このような声明を発表しているのだろうか。メディアにとっては便利なフレーズかもしれないが、世界における連帯の実態を必ずしも反映していない。

国連安保理。「女性、平和、安全保障」についての公開討論の様子(写真:UN Women/Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
「テロ」
テロリズム(テロ)ということばは度々国際報道に登場するが、果たしてその意味と現状を捉えることができているのだろうか。そもそも「テロ」という概念自体について世界でコンセンサスがとれていない。紛争当事者や政府などが自身の都合に合わせて定義を作ってしまう傾向があるので、異なる定義が数多く存在する。ただし、その多くには暴力行為または暴力による脅迫があること、その対象となるのは一般市民や非戦闘員であること、暴力行為から生まれる恐怖を用いてなんらかの政治・経済・宗教関連の目標があること、という3つの要素が含まれることが多い(※3)。
メディアを通して見えてくる「テロ」のイメージは、紛争から遠く離れた欧米等の高所得国での爆破や乱射事件ではないだろうか。これはテロ関連報道の地域間報道量格差を反映している。例えば、日本の大手全国紙3社(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞)における国際報道の分析によると、2015年分のテロ関連報道の63%は欧米関連の事件及び対策を占めていた。しかし実際、欧米での被害状況は世界の他の地域と比較すると小規模である。例えば、同じく2015年に発生したテロ事件において、欧米での死者数は世界全体の6%程度であり、アメリカでの9.11事件以降の2002年から2018年の期間も含めるとテロによる欧米での死者数は世界全体の1%程度に過ぎない。この期間で、中東、アフリカ、南アジアでのテロによる死者数の合計は世界全体の93%を占めていた。2015年以降の事件による死者数はイラク、シリア、ナイジェリア、アフガニスタンなどで集中している。
関連ことば:「対テロ戦争」。このことばは使われた当初から誤称である。「テロ」は紛争当事者や集団ではなく暴力の手法であり、手法に対して戦争をしかけることはできない。当時のアメリカ政府がアフガニスタン、イラクやその他の中東・アフリカでの戦争を正当化するために導入された言葉だとも言える。しかし世界各地の報道はこの用語を無批判に使ってきた。2008年以降、米政府すら使わなくなったが、現在も日本の新聞では(カギカッコに入れられもせず)使われることがいまだにある。

インド、ムンバイ。2008年同時多発テロの追悼式(写真:Alosh Bennett/Flickr [CC BY 2.0])
「民族」
定義が難しく、ひとくくりにまとめることができない「民族」という概念。いくつかの異なる定義の中で「共通の習慣、伝統、歴史的経験、いくつかの例では地理的居住を共有するグループ」といったものが代表的かもしれない。しかし、いずれの定義を取り上げても、言語、伝統、宗教など「民族」を構成する要素が多様で、その概念自体が曖昧であることは否めない。そもそも、民族は戦争、抑圧、権力などによって形成されてきた経緯があることもこの概念を複雑化させる要因のひとつである。流動的なものであり、人々がある民族に所属するかどうか、そしてどの程度所属するか、あるいは他人を所属させるかどうかも、個人の考え方によるところが大きいと言っても過言ではない。
人々の帰属感を単純化するラベルとして使用されることばである一方で、多かれ少なかれアイデンティティのひとつとして「民族」が存在していることも事実であり、報道においてこのことばを使うことが必ずしも問題となるわけではない。しかし、曖昧であるがゆえ、慎重に使う必要がある。特に武力紛争の場面において「民族紛争」といったラベルは誤解を招きかねない。例えば、冷戦後の世界を単純化しようとするあまり、「冷戦下で封じ込められていた民族紛争や宗教間対立が噴出」したとする読売新聞の社説(2019年)がその代表的な例であろう。武力紛争は極めて複雑な社会現象であり、「民族」といったアイデンティティの対立がその紛争の軸のひとつになっていたとしても、権力者などの間にある政治的、経済的な利害関係などの軸や、周辺国やその他の大国との関係性といった軸もある。「民族紛争」ということばでまとめてしまうと、民族間の憎しみが紛争を説明するものだという勘違いが発生する恐れがある。
関連ことば:「部族」。原始的・野蛮なイメージを思い起こす植民地時代の負の遺産として、このことばは有害である場合がほとんどであろう。もともと「部族」は同じ氏族が構成する小規模なものとして「民族」から区別されてきた経緯はあるが、日本のメディアではなぜか「民族」と同じ文脈で大規模なアイデンティティグループに対してアフリカなどについていまだに使用されることがある。例えば、毎日新聞は南スーダンについての記事(2016年)、日本経済新聞ではルワンダのジェノサイドをについて振り返る社説(2019年)(※4)などで「民族」と呼べるグループを指すものとして使われている。

ベルギー、ブルッセル。トルコでのクルド人抑圧に抗議するデモ(写真:Jan Maximilian Gerlach/Flickr [CC BY-SA 2.0])
日本における国際報道では頻繁に登場しながらも、その使い方に問題があり、世界に対する理解を妨げる5つのことばを紹介した。今回の5つの言葉では、報道が指すところのこれらのことばの意味と実際の報道されている現実が乖離していたり、ことばの定義が曖昧で現状を正確に表していなかったりすることばが目立った。世界は広く、世界で起きている出来事を読者・視聴者が自ら見る、感じる、体験する機会を得にくいものだからこそ、国際報道は現状を正確に伝える重大な責任を担っているとも言える。誤解を引き起こさずに、世界に対する理解を促進させる国際報道が求められる。
「国際報道において誤解を招く5つのことば(その1)」の記事はこちら。
※1 「極度の貧困」とは、世界銀行が定めた貧困線である1日1.9米ドル以下で生活を送る状態を指している。しかし、この貧困線があまりに低く設定されており、最低でも1日7.4米ドルの収入がなければ最低限の生活を送ることができないという批判もある。つまりこの目標1が達成されたとしても、貧困の問題が解決されたことには決してならない。また、今後貧困状況を大きく悪化させていく要因とされる気候変動や、2020年に世界を襲った新型コロナウィルスの影響はこの貧困線の試算には含まれておらず、状況はさらに厳しくなることが予想される。
※2 全国版での調査。朝刊・夕刊、国内外報道を含む。
※3 2004年に国連の「脅威、挑戦および変革に関するハイレベル・パネル」によって発表された報告書での定義は以下の通り:「文民または非戦闘員を殺害したり、これらに重傷を負わせたりすることを意図する何らかの行為で、その性質または文脈により、ある国民を威嚇するか、ある政府または国際機関に何らかの作為または不作為を強制する目的を有するもの」。
※4 毎日新聞:「クローズアップ2016:自衛隊新任務、訓練公開 武器使用拡大に苦悩」(2016年10月25日)。日本経済新聞:「[社説]ルワンダの「奇跡」継続を」(2019年4月9日)。
ライター:Virgil Hawkins
特にSDGsについては、浅薄な議論やニュースしか報道されておらず、なぜか響きの良い言葉として濫用されていると感じていました。メディアにはもっと本質をついた報道を期待したいです。
「便利」な言葉を普段無意識に使ってしまっていることによって、世界の問題を正確に捉えられない原因になってしまうこと
を知り、自分が使う時やメディアで読む際に気を付けたいと思いました。
ニュースのみならず様々な場面で何気なく目にしている言葉ばかりだが、この記事を読んで、一つ一つの言葉を改めて考える必要があると感じた。表面上うける印象に流されずに、本質を見極められるような「メディアリテラシー」を身につけたい。
「SDGs」という言葉はよく使われていますが、達成するために何を行っているのかなどはほとんど聞いたことがないと感じていました。目標を立てるだけでなく、達成するための具体的な方針が必要だと記事を読んで実感しました。
言葉によってイメージが作られるという恐ろしさを改めて感じた。そしてSDGsに使われている写真の人物の背景にある言葉、”We can’t wait”はまさにその通り。
「国際社会から見た日本」や「イスラム教=怖い宗教」という単純化が日頃なされていると考えていたのでこの記事はまさに頭の中でモヤモヤとしていたことを具体化し言葉にしてくれていたと思う。中でも言及されている通り、国際社会と一概にいってもすべての国を指しているわけではないのは確か。普段例に上がっていることばを使いがちなメディア関係者は、やはり出来事の背景をきちんと調べてからどういう言葉が一番ふさわしいのか考えて発信してほしい。