2024年3月24日、セネガルで大統領選挙が行われた。結果は政権野党陣営のディオマイ・ファイ氏が勝利し、約12年ぶりに大統領が交代することとなった。しかし、この政権移行は決してスムーズとは言えず、大統領選挙をめぐり、セネガルの情勢は大きく揺れ動いた。原因となったのは前大統領のマッキー・サル氏による選挙の延期や野党の有力人物の逮捕である。不安定な政治状況にある西アフリカで、比較的民主主義が安定しているとされてきたセネガル。しかし、今回の大統領選挙ではその民主主義が危ぶまれた。結果として無事に政権交代が行われたが、なぜセネガルは混乱することになったのか、セネガルのこれまでの政治情勢と今回の大統領選挙、セネガルの民主主義について探っていく。
目次
セネガルの歴史
セネガルは西アフリカに位置し、大西洋に面した国である。マリ、モーリタニア、ギニア、ギニアビサウと隣接しており、ガンビアを囲むような地形である。現在のセネガルがある地域では15世紀までに、多くの王国などさまざまな政治形態が誕生した。特に現在のセネガル周辺で8~9世紀にかけて栄えたテクルール王国時代には北アフリカのベルベル人との交易により、イスラム教が広がっていった。現在でも全人口の95% がイスラム教徒である。
15世紀ごろから始まったいわゆる「大航海時代」以降、現在のセネガルとその付近は地理的に西アフリカの玄関として、欧米諸国から重視されるようになった。欧米諸国は17世紀ごろから本格的にその地域に進出し始め、要塞などの拠点を建設した。特に西アフリカからアメリカ大陸へ奴隷を供給する大西洋三角貿易(※1)では、現在の首都ダカールの沖にあるゴレ島が拠点として注目された。ゴレ島はオランダ商人の支配の後に、現セネガル北部サン=ルイを拠点としていたフランスにより支配され、1815年のウィーン会議でフランスの植民地とされた。1848年に奴隷貿易を禁止したフランスは現セネガルで落花生などの商品作物を栽培させた。そして落花生の運搬のために鉄道を建設するなど、植民地政策を推し進めた。1885年に開かれたベルリン会議ではアフリカ大陸の分割が行われ、フランス領西アフリカ(現在のセネガル、マリ、モーリタニア、ギニア、コートジボワール、ニジェール、ブルキナファソ、ベナン)が誕生した。サン=ルイにはフランス領西アフリカの総督府が置かれた。
また、同時に、フランスの第三共和制下で、ダカール、サン=ルイ、ゴレ、ルフィクスの4つの地域には自治権を与え、住民はフランス市民とするなど、優遇した政策をとった。1915年にはゴレ出身のブレーズ・ジャーニュ氏が黒人初のフランス国会議員となり、人種平等を主張した。しかしこの関係が結果的にフランス軍の兵員募集に利用されることとなった。その結果2つの世界大戦をはじめとする多くの戦争にセネガルの人々がフランス兵として動員されることになった。
独立後のセネガル
現セネガルは、1959年にフランス領スーダン(現在のマリ)と合併してマリ連邦となり、1960年4月4日(セネガル独立の日)にマリ連邦とフランスが調印した協定に基づき、同年6月20日にフランスから独立した。そして、同年8月20日にはマリ連邦から脱退し、セネガル共和国が正式に独立を宣言した。しかしながら、事実上フランスから完全な独立はできておらず、軍事・防衛、経済、文化の面でフランスと多くの協定を結ぶなど独立後もフランスの影響力が大きく残った。具体的にはセネガル内にフランスの軍事基地を置くこと、旧フランス領の国との外交関係重視、フラン(現在はユーロ)によってレートが固定されるCFAフランの使用やフランス語を公用語とする教育、言語政策が採られた。
独立後のセネガルは、不安定な西アフリカの中で比較的安定で民主的な状態を保つことができた。クーデターによる政権掌握が起きておらず、問題が指摘されているものの選挙による政権交代が続いている。また、個人の政治的自由度や報道の自由度も比較的高い。したがって、西アフリカにおいて、民主主義のモデルとされてきた。
中央政府のレベルでは安定感があったものの、不安定な地域もあった。それはセネガル南部のカサマンス地方である。カサマンス地方はセネガルで最も肥沃な土地とされている。 カサマンス地方と首都ダカールなどの北部はガンビアを挟むことからも、セネガル政府から重要視されておらず、孤立していると多くのカサマンスの住民は感じている。またカサマンス地方の民族的・宗教的構成が他のセネガルの地域と異なるという側面もある。そんな中で1982年には武装勢力が成立し、武力紛争へと発展した。カサマンス地方の独立派とセネガル政府はたびたび衝突してきた。カサマンスの独立を求める運動は30年にわたって続けられており、このカサマンスの安定が民主主義強化のポイントの一つであると言われている。
4人の大統領と大統領選挙
独立したセネガルの初代大統領はセネガル社会党(PSS)のレオポール・セダール・サンゴール氏であった。サンゴール氏は農業の近代化を推し進めた。また親仏派の政策を展開した。フランス語圏諸国の共同体の設立を呼びかけるなど、フランス語圏の国々において存在感を示した。独立当初、セネガルは軍の権限を共有する首相の役職が存在した。しかし独立後の首相となったママドゥ・ジャ氏がクーデター未遂を起こし、終身刑になった。
サンゴール氏は1980年末に大統領を任期満了前に退任した。新大統領には1970年からサンゴール氏の下で首相を務めていたアブドゥ・ディウフ氏が就任した。ディウフ氏もサンゴール氏と同様にフランスとの友好関係を維持し、フランス語圏諸国の共同体の事務総長なども務めた。
ディウフ大統領に対抗したのが独立以来野党の中心的指導者であったアブドゥライ・ワッド氏であった。1988年の大統領選挙ではディウフ氏が勝利したのだが、ワッド氏率いるセネガル民主党(PDS)は選挙の不正を主張し、ダカールでデモを行うなど混乱があった。ディウフ氏率いるセネガル政府はダカールに非常事態宣言を出し、ワッド氏を逮捕した。1993年と2000年にも大統領選挙が行われたのだが、混乱の中で公正な選挙を実施されるためにも、国際組織や地域共同体などからオブザーバーが派遣された。結果は1993年の選挙ではディウフ氏が再選したが、2000年の大統領選挙でディウフ大統領は敗れ、ワッド氏はついに勝利し大統領に就任した。
ワッド大統領は対外関係の多様化を進めた。緊密であったフランスとの関係だけでなくアメリカやイギリスとの関係を築こうとした。2003年のイラク戦争ではアメリカ率いる連合軍がイラクに侵攻した際、これに反対したフランスと異なり、ワッド大統領は事実上アメリカを支持した。これは彼の外交姿勢をはっきりと表している。その他にも中国やアラブ首長国連邦などの国々とも協定を結び、幅広い外交を行なった。
2007年に大統領再選を果たし、2期目に突入したワッド氏であったが、汚職と任期問題を抱えていた。任期問題とは、憲法で2期までと定められているにも関わらず、ワッド氏が2012年の3期目となる大統領選に出馬したことである。大統領の任期を2期までと定めた憲法が採択されたのは、ワッド氏の大統領就任後の2001年である。しかし、ワッド大統領は、自身が就任した時点でこの憲法による制約はなかったのだから、最初の任期はカウントされず、事実上の3期目となる大統領選に出馬が可能だと主張した。このワッド大統領の主張は強い反発を受け、大規模な抗議へと発展した。結果としてワッド氏は以前に首相を務めいていたマッキー・サル氏に敗北し、政権交代が行われた。ワッド氏は敗北したことを早くに認め、選挙後の混乱は抑えられた。
サル大統領政権
ワッド氏に勝利したサル大統領は大型インフラ事業や天然資源の採掘などを通じて、経済成長を図ろうとした。空港や鉄道、工業団地などが建設され、ガス・石油の事業に取り組み、GDPは成長した。国外からの投資額は約10年間で急増した。しかし、セネガルの一般の国民にどれだけ還元されたかについては疑問視する声もある。
またサル大統領は国際的な地位を向上させた。2015年から2016年には西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の議長を、2022年から2023年にはアフリカ連合(AU)の議長を務めた。ECOWASは2016年から2017年にかけて行われたガンビアの大統領選をめぐる混乱に介入し、セネガル軍がガンビアに派遣された。このガンビアの選挙では軍事政権を率いたヤヒヤ・ジャメ大統領が、一度は敗北を認めたのにも関わらず、退任を拒否し、ガンビアの首都バンジュールに軍隊を配備した。それに対し、ECOWASは軍事介入を表明した。結果的にはECOWASの表明に対し、ジャメ大統領が亡命し、軍事衝突は起きずに政権が移行された。
サル大統領は、親仏路線をとっている。大統領に就任後、アフリカの国以外で初めて訪問したのはフランスであった。そして、フランスから多額の財政支援を受けるなど、フランスとの関係を強化しようとした。また、アフリカ連合委員会の会長選挙でもフランス語圏のガボン人候補者を支持し、セネガルがフランス語圏であることをアピールした。
野党の台頭とサル大統領任期問題
国外では知名度を上げたサル大統領だが、国内における評価は必ずしもポジティブではなかった。セネガル国内では高い失業率が問題となっている。2023年のセネガルの失業率は約20%。サル大統領は親仏的な対外政策をとっていたが、フランスのセネガルに対する経済的な影響が大きく、経済活動の利益の多くがフランスに流れていると見られていた。2021年には慢性的な貧困から生じる不満がフランスに向けられ、首都ダカールでデモが行われ、フランス企業のスーパーマーケットやガソリンスタンドが放火や略奪された。このような不満が募る中、新たな政治勢力が台頭してきた。
元税務調査官で野党であるセネガル・アフリカ愛国党(PASTEF)の創始者のウスマン・ソンコ氏である。ソンコ氏はフランスへの批判やカリスマ性から支持を集めていた。また、ソンコ氏は税務調査官時代、脱税疑惑を公にした 。政治の場でタブー視されていたCFAフランについても言及した。しかし、人気が高まる中、2021年2月ソンコ氏が性的暴行を行なったと告発され、翌月逮捕された。またその裁判に向かう途中に、公の秩序を乱したということと無許可にデモに参加したという「若者への悪影響」という理由で起訴された。先述したデモはその逮捕に対する抗議とされており、ソンコ氏や支持者はサル大統領の有力候補者潰しの陰謀だと主張していた。実際にサル大統領はそれまでも、自身の対抗勢力出会ったハリファ・サル氏とカリム・ワデ氏をスキャンダルで排除してきた。このデモで5人が死亡、590人が負傷した。
2023年6月1日にソンコ氏の性的暴行と若者の扇動の容疑について判決が言い渡された。結果として性的暴行について容疑は晴れたが、「若者への悪影響」については有罪判決 が言い渡された。この有罪判決により、懲役2年の実刑となり、ソンコ氏は選挙候補者リストから削除された。ソンコ氏の有罪判決を発端に、ソンコ氏率いる野党側を支持するセネガルの人々によるデモが相次いだ。これらのデモにより、少なくとも16人が死亡した。セネガル政府は暴動を防ぐためにも「フェイクニュース」の拡散防止を理由に同年6月4日、メーセージアプリワッツアップ(WhatsApp)やフェイスブック(Facebook)などのSNSへのアクセスを制限することを宣言した。
暴動の背景としてソンコ氏の台頭以外にあげられるのが任期の問題である。サル大統領の任期は2024年4月2日であった。セネガルの憲法では大統領は2期までとされているので2期目であったサル大統領は出馬することができない。しかし、サル大統領は2016年に憲法の変更をしており、前任者のワッド氏の2012年の大統領選での主張と同様に、それ以前の任期をカウントしないため事実上の3期目の出馬は可能だという解釈がサル大統領支持者にされるようになった。サル大統領は当初、出馬について明言はしなかった。
2024年大統領選挙
2023年6月にソンコ氏の逮捕とサル大統領の曖昧な出馬問題に対してデモが相次いだことから、同年7月にサル大統領はついに、3期目の出馬をしないことを表明した。この発表により、緊張は緩和した。しかし、新たな展開となったのは、2024年2月3日のサル大統領の大統領選挙の延期宣言である。大統領選は当初2024年の2月25日に予定されていたが、同年12月25日に延期することを発表したのである。サル大統領の政党は他の政党とも協力し、議会において選挙延期の採決を強行した。正当化の理由として憲法評議会と議会の対立や、憲法評議会のメンバーの汚職疑惑を主張したが、サル大統領の与党での後継者であるアマドゥ・バ氏の劣勢を回避するためだろうという見方が浮上した。
野党側はこのサル大統領の行動に強く反発し、任期が切れる4月2日までに大統領選挙を実施するよう求めた。選挙延期を巡り、国内では選挙実施とソンコ氏の釈放を求めるデモが起こった。大規模なデモを防ぐためインターネットへのアクセスも制限された。ECOWASも2月13日にセネガル政府に対して当初の選挙スケジュールに戻すことを要求し、首都ダカールに代表団を派遣した。また憲法裁判所は、この大統領選延期を違憲であるという判決を下し、憲法評議会も12月に延期する法案を無効とした。日程の決定は困難を極め、結局2024年3月7日にサル大統領は3月24日に大統領選を実施することを発表した。ソンコ氏は投票日の10日前に恩赦という形で釈放された。
6月に有罪判決を受け、選挙候補者名簿から削除されていたソンコ氏であったが、12月には裁判官が選挙候補者名簿への再登録を命じていた。しかし1月に最高裁判所が名誉毀損の罪において有罪と判断したことから、憲法評議会はソンコ氏の出馬を認めなかった。ソンコ氏の支持の下、元税務調査官であり、ソンコ氏と同じPASTEFで活動していたディオマイ・ファイ氏が出馬した。ファイ氏もソンコ氏と同様に2023年7月に「若者への悪影響」を理由として逮捕、そして投票日の10日前に恩赦によって保釈された。政権与党側はアマドゥ・バ氏が立候補した。
結果として3月27日、ファイ氏が54%の得票率で勝利を収め、バ氏やその他の野党候補者は敗北を認め、サル大統領もファイ氏の勝利を祝った。
ファイ氏は44歳で歴代セネガル大統領のなかで最も若く、現在のアフリカの大統領の中でも最も若い大統領となる。ファイ氏は、汚職の一掃と天然資源の適切な運用などによる経済の安定化を政策として掲げている。またCFAフランの廃止を支持している。ソンコ氏の支持の後押しもあり、フランスがセネガルを利用し自国の富を膨らませていると批判的なセネガルの若者を中心に支持を集め、勝利した側面も指摘されている。
まとめ
セネガルは独立以後、他の西アフリカの国々と異なり、選挙による政権交代が続いており、また一度も軍事クーデターを経験していないことなどから民主主義が比較的定着している国だとされている。しかしながら、2回の大統領交代の度に混乱が生じてきた。2023年から2024年の混乱では、国内外からの強い反発と司法が機能したことにより、選挙の延期をしようとした大統領の思惑通りにはいかなかった。混乱がありながらもクーデターなしで政権が交代できたことは、2020年以降クーデターの相次ぐ西アフリカにおいて、民主主義への転換点となるだろうか?
これから新大統領であるファイ氏はどのような政策で、汚職や失業率、カサマンス地方の問題、フランスの関係などに取り組むのか注目していきたい。そして今後、政権交代の起こるような大統領選挙において民主主義が守られることを期待したい。
※1 大西洋三角貿易 :15世紀から19世紀にかけて行われた取引の形。ヨーロッパ、アフリカ、アメリカの3つの地域で取引され、アフリカからはアメリカ大陸での労働力として奴隷が供給された。アフリカの奴隷はヨーロッパ人による拉致や、ヨーロッパからの武器輸出によって招かれた現地の争いの捕虜が取引され、奴隷たちは劣悪な環境で収容された。
ライター:Misaki Nakayama
グラフィック:Ayaka Takeuchi
セネガルの歴史から現在の政治状況まで理解することができました。知識がほとんどない国について理解を深めることができましたありがとうございます!