2024年初頭、チュニジアの弁護士でメディア評論家でもあるソニア・ダハミ氏が逮捕された。この出来事は同国の法律界とジャーナリズム界に衝撃を与えた。ソニア氏が公の場で当局を批判した後に拘束されたという事実は、かつてアラブの春における唯一の民主主義的成功例と言われたチュニジアが、新たな政治的抑圧の時代に入っていることを示す兆候の1つして広く解釈された。チュニジアに住む多くの人々にとって、この事件は政府に対する批判的な言論の余地が縮小し、2011年以前の権威主義体制下で長く行われていた慣行が復活していることを象徴するものだった。
ジネ・エル・アビディン・ベン・アリ氏を倒した革命から15年が経過したが、現在チュニジアは大きな岐路に立たされている。経済的苦境、政治的幻滅、制度の崩壊が相まって、カイス・サイード大統領の下で前例のない権力集中が進行中だ。2021年に政治的停滞に対する特例的な対応として始まった動きは、今や国家政治体制の根本的変化へと発展している。本記事はチュニジアの動きを独立から現在の危機まで辿り、2011年のジャスミン革命がもたらした希望がどのようにして民主主義の脆弱性に繋がり、最終的に権威主義的傾向へと至ったかを見ていく。また、権力の移り変わりと革命後の民主主義への移行の失敗、そして国民の合意を形成した社会経済的条件に注目し、チュニジアがなぜこの局面に至ったのか、そしてチュニジアの未来にとって何が危機にさらされているのかを確認していきたい。

チュニジアの首都チュニスの街並み(写真:Stephen Downes / Flickr [CC BY-NC 2.0])
目次
チュニジアの歴史の概要
アフリカの北端に位置するチュニジアは、地中海、ヨーロッパ、アフリカ大陸を繋げる極めて戦略的な場所にある。北と東は地中海に面し、南と西はリビア、アルジェリアと国境を接するこの国は、古くから文明間の架け橋としての役割を果たしてきた。この立地条件により、チュニジアはベルベル人、フェニキア人、ローマ人、アラブ人、オスマン帝国、そしてヨーロッパの影響を受けながら、特徴ある豊かな文化を育んできた。そのためチュニジアは、伝統と革新が共存し、時に衝突する国としも形容される。より具体的には、伝統的な社会的・宗教的・文化的価値観は社会に深く根付いている一方で、近隣地域の多くの国々と比較して、特に法制度、教育、女性の権利において早期に近代的な制度を取り入れてきた。この二面性はチュニジアの政治文化、人々の期待、そして権威との関係のあり方に深い影響を与えている。
19世紀、チュニジアは次第にヨーロッパの影響下に置かれ、1881年に正式にフランスの保護領となった。フランスの植民地支配は、行政機構、法的枠組み、言語、国家機関に今も残る影響を残した。また植民地当局は近代的な官僚制度とインフラを導入した一方で、経済的依存と強権的な政治支配を定着させた。数十年にわたる民族主義運動の末に、チュニジアは独立運動の中心的人物であり後に初代大統領となるハビーブ・ブルギバ氏の指導のもと、1956年に独立を達成した。

権威主義から革命へ (1956年から2011年まで)
独立後、チュニジアは長期の権威主義的統治期に入った。これは半世紀以上にわたって続く政治体制の始まりとなった。ブルギバ氏は強力な大統領制を確立し、「国民の父」と広く称された。彼の統治は当初、教育の拡大、公衆衛生の改善、家族法典による女性の権利における画期的な改革など、野心的な近代化プロジェクトによって特徴づけられた。これらの改革によりチュニジアはアラブ世界の多くの国々をリードし、国家主導の理想への前進に貢献した。しかし時が経つにつれ、ブルギバ氏の統治は次第に権威主義的になっていった。政治的多様性は厳しく制限され、反対運動は政治から遠ざけられ、権力は大統領職に集中していった。
1987年、ブルギバ氏はジネ・エル=アビディーン・ベン・アリ首相によって「治療的クーデター」と称される形で職を追われた。ベン・アリ氏は当初、民主化改革、政治的開放、人権尊重を約束した。しかしこれらの約束はすぐに裏切られることになった。彼の政権は、検閲、広範な監視、恣意的な逮捕、組織的な人権侵害を特徴とする、非常に抑圧的な警察国家へと変貌した。政権に反対する政治家、ジャーナリスト、活動家は沈黙させられ、支配層の間では腐敗が進んだ。1987年から2011年にかけてチュニジアは経済成長を遂げたが、その恩恵の分配は不均等に行われた。富は政権に近いエリート層に集まる一方で、特に若者の失業や地域間の格差は悪化した。外国からしばしば称賛される安定的なチュニジアというイメージの下では、国民の不満は着実に高まっていった。
ジャスミン革命と民主主義への約束 (2010年から2014年まで)
人々の間で蓄積した不満は2010年12月、露天商モハメド・ブアアジ氏の焼身自殺を契機に爆発した。彼の行為はチュニジアの多くの人々が生活の中で感じていた屈辱、経済的苦難、尊厳の欠如を象徴していた。局地的な抗議活動として始まった動きは瞬く間にチュニジア全土へ広がった。2011年1月14日、数週間にわたる大規模デモの後、チュニジアの人々は自由と尊厳、社会正義を求めて前例のない規模で街頭へ繰り出した。若者は草の根レベルの活動やSNSでのネットワークを通じて団結し、この抗議活動で中心的な役割を果たした。高まる圧力に直面したベン・アリ大統領は国外へ逃亡し、23年に及ぶ独裁統治に終止符が打たれた。

チュニスの街に掲げられるベン・アリ氏の肖像旗(写真:mimi anderson / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
チュニジアでのこの一連の動きは「ジャスミン革命」とも呼ばれ、後に「アラブの春」として知られる動きの始まりとなった。チュニジアの蜂起は、特にエジプト、リビア、イエメン、シリアなど、地域全体で同様の運動を刺激した。この時期において、チュニジアはアラブ世界における民主主義の希望の象徴となった。その後数年間でチュニジアは民主的移行に着手し、この動きは国際的な監視団体から広く称賛された。2014年に採択された新憲法は、基本的自由を保障し、三権分立を明文化し、司法の独立を強化した。民主的な選挙が実施され、権力の平和的な移譲と多元的な政治構造の出現を可能にする制度が確立された。
またチュニジアの民主化移行は、制度の改革以上に異例とも言える活気ある市民社会によっても支えられた。労働組合、弁護士会、人権団体、草の根運動は、政治的対立の仲介と制度崩壊の防止において重要な役割を果たした。特にチュニジア労働総同盟(UGTT)は、危機的状況において中心的な役割を担った。2013年に左派政治家ショクリ・ベライド氏とモハメド・ブラミ氏が暗殺されたとき、国は暴力的な分極化の瀬戸際に立たされた。大規模な抗議活動、政治的行き詰まり、高まる不安により移行プロセス全体が危機に瀕した。これに対しUGTTは、チュニジア弁護士会、チュニジア人権連盟、雇用者団体のチュニジア商工業手工業連盟(UTICA)と共に「国民対話カルテット」を発足させた。この取り組みは対立する政治勢力間の交渉を促進し、最終的に選挙実施に向けた国家運営を担う技術官僚内閣の樹立につながった。「国民対話カルテット」が2015年にノーベル平和賞を受賞したことは、チュニジアの合意形成型危機管理手法が国際的に認められたことを象徴している。
このように、革命は権威主義的支配を解体し民主的制度を確立することに成功した。しかしながら、同国が直面していた、より深い構造的・社会経済的課題の解決は先延ばしにされた。

2011年のチュニジアでの抗議活動の様子(写真:raphaelthelen / Wikimedia Commons [CC BY 2.0])
革命後の幻滅(2014年から2019年まで)
この成果にもかかわらず、構造的な弱点は水面下で持続していた。2011年以降に確立された政治体制は、分断と慢性的な不安定さが特徴であった。新しい選挙法は議会を分断し、結果として効果的な統治を行うことが難しい脆弱な連立政権が生まれた。イスラム主義政党「エンナハダ」は、移行期において中心的な役割を果たし、民主主義へのコミットメントを繰り返し強調しながらも、政治的な分極化の焦点となった。エンナハダの支持者にとって、この政党は数十年にわたる抑圧に代わる政治的包摂を実現する存在だった。一方、エンナハダに批判的な人々にとっては、この政党はイデオロギー的に曖昧な日和見主義であり、経済停滞の責任を象徴する存在として映った。年月が経つにつれ、イデオロギー的対立と人々の生活状況への不満との区別は次第に曖昧になっていった。
一方、経済政策は2011年以前の時代からほぼ変わらなかった。構造改革は政治的な思惑と社会的抵抗により繰り返し先送りされた。国有企業は引き続き公的資金を浪費し、インフォーマルな経済は拡大した。諸外国はチュニジアの民主主義化を称賛したが、経済改革への明確なコミットメントがないまま大規模な経済支援を行うことには慎重な姿勢を崩さなかった。こうした政治的自由の拡大と経済の停滞のギャップは、民主主義制度に対する国民の信頼を徐々に弱めていった。2010年代の終わりまでに投票率は急激に低下し、調査から政党、議会、そしてより広範な政治階級に対する深い不信感が明らかになった。かつて尊厳と活性化に結びついていた民主主義は、人々の想像の中で、ますます不安定さと衰退に結びつけられるようになった。
歴代の政権は根深い経済的・社会的課題への対応に苦慮した。失業率は特に大学を卒業した若者を中心に高止まりし、インフレ、公的債務の増加、購買力の低下は社会的不満を助長した。地域格差は特に2011年の反政府運動の中心地であった内陸地域と、より発展した沿岸地域との間で依然として存在した。
革命後もチュニジアの政治情勢は分断されたままで、連立政権は安定した政権維持に苦慮した。頻繁な指導者の交代と非効率的な制度が政治的停滞感をもたらした。投票率と人々の政治参加の低下は、革命後の制度と期待を裏切られた市民との間に生じた断絶を反映していた。

チュニジアの2014年の選挙ポスターとその前に座る男性(写真:Atlantic Council / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
カイス・サイード氏の登場と革命後の秩序の崩壊(2019年から2022年まで)
人々が革命後の停滞に幻滅する中で、カイス・サイード氏が権力の座に就いた。2019年に圧倒的多数で大統領に選出されたサイード氏は、無所属の憲法学者であり、行政職の経験は皆無であった。彼は政治体制の外部者としての立場を打ち出し、道徳的誠実さ、人民主権、腐敗したエリート層の排除といった公約を掲げて選挙運動を展開した。彼の持つ質素なイメージとシンプルなライフスタイルは、長年の政治的な派閥争いや実現されない公約に疲弊した有権者の共感を呼んだ。
大統領就任当初から、彼と議会や歴代政府との緊張関係は深刻な制度的危機を露呈していた。2021年7月25日、チュニジアは新たな論争の的となる局面を迎えた。サイード大統領は2014年憲法第80条を根拠に、議会の停止、議員特権の解除、行政権と立法権の自身への集中を宣言した。彼は政治的停滞、汚職、経済崩壊を理由に、差し迫った危険から国家を救うために必要な措置だと正当化した。この動きは、長年の機能不全に対する断固たる対応と見なした一部の人々から歓迎された。しかし他方では、憲法クーデターと危険な権力集中だと即座に警告する声も上がった。この緊急措置が繰り返し延長され、民主主義の安全装置が弱められるにつれ、国際監視団や人権団体は懸念を強めた。
2022年、サイード大統領は国民投票を通じて新憲法を推し進めた。この新しい憲法は大統領権限を大幅に強化し、議会の役割を縮小し、制度的な抑制と均衡を弱めた。投票者の大多数によって承認されたものの、投票率は歴史的に低く、民主的正当性について深刻な疑問を投げかけている。

2019年にチュニジア大統領に就任したカイス・サイード氏(写真:Houcemmzoughi / Wikimedia Commons [CC BY-SA 4.0])
権威主義の強化と政治的抑圧(2022年から2024年まで)
新憲法の採択後、チュニジアの政治体制は急速な権威主義の強化を遂げた。行政における権力を制限するために設計された制度は次第に無力化された。議会は一度停止された後、事実上形骸化され、新たな枠組みの中で行われた議会選挙は記録的な低投票率に終わり、多くの人々が政治に参加しなくなっているという事実を反映していた。多くの政党は、新しい制度が議会から実質的な権限を奪い、選挙を象徴的な儀式に貶めたと主張し、選挙を全面的にボイコットした。これにより政治の場はますます空洞化し、大統領に忠実な個人や全国的な人々の支持を持たない人たちが政治を支配するようになった。
また、チュニジアの民主化移行の柱の1つだと長年考えられてきた司法は特に深刻な影響を受けた。高等司法評議会の解散 と、汚職や忠誠心の欠如を理由に告発された裁判官の解任は、司法の独立性を損なった。裁判所はますます政治的抑圧の道具となり、民間人が軍事法廷で起訴されるケースが増加した。「陰謀」「国家安全保障への脅威」「虚偽情報の拡散」といった曖昧な罪状が批判者を黙らせるために利用された。いわゆる「国家安全保障に対する陰謀」事件はこの権威主義的傾向を象徴する出来事であり、政党指導者、元大臣、弁護士、活動家など数十名の政治家が、国家の不安定化を謀ったとして告発された。そしてその裁判の多くは公に開示された証拠なしに行われた。国際非政府組織(NGO)は、これらの起訴は法的根拠ではなく政治的な動機によるものであると主張し、2011年以前の権威主義的な慣行への回帰への懸念を強めている。
同時に、表現の自由に対する制限が強化された。「虚偽情報」の拡散を犯罪化する法令が、当局を批判するジャーナリスト、ブロガー、ソーシャルメディア利用者を標的にするために利用された。 2011年の反政府運動で重要な役割を果たしたSNSは、監視と弾圧の場となった。複数のジャーナリストが法的嫌がらせ、渡航禁止、拘束に直面し、自己検閲の風潮を助長した。2024年、弁護士兼メディア評論家のソニア・ダマニ氏が国家を侮辱する発言をしたとして拘束された事件は、人権団体や報道の自由を擁護する団体からの批判の的となった。これらの団体は、ソニア氏の逮捕を政府に反対する人々への見せしめであり市民社会の縮小を象徴するものとして非難した。
また、この期間で治安機関の役割も変化した。軍は公式には中立を保ち、直接的な政治機構からはほぼ離脱したものの、警察の権限は拡大した。令状なしの逮捕、夜間の強制捜査、長期の裁判前拘留が頻発するようになった。人権団体は革命前の慣行を彷彿とさせる警察の行動を記録し、制度の後退への懸念を主張している。チュニジアの多くの人々が日常生活の中で、2011年以降消滅したと思われていた恐怖が復活したと感じるようになっている。

チュニスにある旧行政裁判所庁舎(写真:Sami Mlouhi / Wikimedia Commons [CC BY-SA 4.0])
経済的負担、社会的不満、そして人々の疲弊 (2022年から2024年まで)
この弾圧は、深刻な社会的・経済的苦境を背景に展開された。長年にわたる低成長が、2020年の新型コロナウイルスのパンデミックと世界的なインフレ圧力によって悪化し、政府は基本的な輸入品や公共サービスの資金調達に苦慮するに至った。パン、砂糖、燃料などの補助対象商品の不足がますます頻繁に発生する一方、病院では必須医薬品の不足に直面した。社会安定の柱であった公共部門の賃金は、労働組合との交渉が停滞する中で圧迫された。
国際通貨基金(IMF)との交渉は、論争の中心となる問題として浮上した。サイード氏は、補助金改革や公共部門の再編を含むIMFの条件を、国家主権に対する脅威だと繰り返し主張した。この主張は、緊縮財政や外国の干渉を警戒する国民層に共感を呼んだ。しかし批判派は、明確な代替経済戦略の欠如が孤立と不確実性を深めていると指摘した。外部からの資金調達が思うように得られないチュニジアは、臨時の措置、二国間支援、短期的な対応策に依存し、投資家の信頼と経済の予測可能性をさらに弱めた。
社会的には、長期化する危機が移民と政治離れの流れを加速させた。数千人の若者が就職機会を求めて外国に向かった。この移動はしばしば非正規の移民ルートを通じて行われたが、このことは国の将来に対する信頼の深い喪失を反映している。国内では、失業、水不足、物価高騰に対する抗議活動が断続的に続いたが、次第に弾圧や無関心に直面するようになった。多くの市民にとって、政治的関与よりも経済的生存が優先された。こうした状況下で、サイード氏が反対派を腐敗したエリートや外国の工作員とみなす主張は、革命後の秩序から排除されたと感じる人々の共感を呼んだ。
失業率は特に大学を卒業した若者を中心に高止まりした。一方、インフレ、公的債務の増加、購買力の低下は社会的不満を煽った。多くの場合、政治参加が減少したのは弾圧に対する恐怖心だけでなく、疲労感によるものだった。社会の幅広い層にとって、生存が市民的関与に取って代わって主要な関心事となった。こうした経済的苦境、社会的疲労、権威主義体制の強化が相まって、革命後の時期に育まれた将来への希望と民主主義への願望はさらに蝕まれていった。

人気の少ないチュニスの通り(写真:Marc Barrot / Flickr [CC BY-NC-ND 4.0])
分岐点に立つチュニジア
2021年から2026年にかけて、チュニジアは近代史上最も大きな分岐点の1つに突入した。サイード氏の統治は、ポピュリスト的な発言と前例のない権力集中に基づいており、2011年の革命後に達成された民主主義の成果の多くを解体してきた。彼の支持者は秩序回復には強力な指導力が必要だと主張する一方で、反対派の人々はチュニジアが再び権威主義へ後退していると危惧している。この危機は2024年以降も継続している。2025年末には、 チュニスを含む複数の都市で現政権に反対する人々やジャーナリストに対する政府の弾圧に抗議する大規模なデモが発生した。デモ参加者は政治犯の釈放と人々の自由の尊重を要求した。加えてガベスなどの地域における公衆衛生上の緊急事態から、2026年初頭にチュニジア最大の労働組合が呼びかけた全国規模のストライキを含む労働運動に至るまで、社会・経済的不満も不安を煽った。こうした動きは、政治的抑圧と社会的不満が過去のものではなく現在も続いている問題であることを浮き彫りにしている。
チュニジアのたどった経過は、より広い地域にも影響を与えている。アラブの春における唯一の民主主義化の成功例と見なされてきた同国の後退は、中東・北アフリカ全域における民主化移行への懐疑論を強めている。これからのチュニジアについては、権威主義的支配の定着から経済的苦境に起因する新たな社会不安に至るまで、複数のシナリオが依然可能性として残されている。しかし、強力な野党勢力や包括的な政治対話がない現状では、将来は不透明なままである。
またチュニジアでの民主主義の後退は、さらに一般的に、民主主義と社会経済的パフォーマンスの関係について大きな疑問を提起している。2011年以降のチュニジアの政治と経済の展開は、日常生活レベルの具体的な改善がない場合、政治的自由だけでは民主主義の正当性を維持するには不十分であることを示唆している。サイード氏の台頭と権力掌握は、上から押し付けられた権威主義的な動きとしてのみ理解することはできない。それはまた、10年にわたる期待への裏切りに対する多くの人々の失望の産物でもある。この構造を踏まえると外国からの反応を単純に考えることはできないだろう。なぜなら、外部からの民主主義後退に対する批判は、尊厳、主権、そしてエリートの失敗と見なされるものへの反対を中心とする国内の文脈と頻繁に食い違うからだ。

伝統と革新が混ざる街チュニス(写真:Travel-Fr / Shutterstock,com)
地域レベルでは、チュニジアの後退は象徴的な重みを持つ。長年、同国はアラブの春の後の民主化移行に成功した唯一の事例として存在していた。現在進行中の危機は、多元主義に対する地域の懐疑論を強め、自由よりも安定を優先する主張を後押ししている。チュニジアが再び別の道を切り開けるかどうかは、信頼できる政治勢力の台頭、社会対話の再開、そして信頼回復を可能にする経済ビジョンにかかっている。確かなのは、尊厳、自由、社会正義を実現するという2011年の約束が未だ果たされていないことだ。
現在の危機が民主主義の一時的な逸脱に終わるのか、それとも権威主義の固定化をもたらすのかは、チュニジアがこの先政治的権威と包摂的な経済発展、そして社会的信頼を実現できるかどうかにかかっているだろう。
ライター:Yosr Laarifi
グラフィック:Yumi Ariyoshi






















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