ブルンジ:一党支配が続くのか?

執筆者 | 2025年09月25日 | Global View, サハラ以南アフリカ, 共生・移動, 政治, 紛争・軍事

2025年は、ブルンジで政治危機が起きてから10年にあたる。この危機は、2015年に当時のピエール・ンクルンジザ大統領が3期目への出馬を表明したことにより始まった。憲法違反だと主張されたこの決定に対して、反対するデモが起こったが、治安部隊によって激しく弾圧された。

2025年6月に行われた国政選挙および地方選挙は、ブルンジの政治状況の変化を見極める機会となった。この選挙では、与党が議会の全100議席を獲得し、得票率は95%以上に達した。地方レベルでも多数の議席を確保した。この圧倒的な勝利に対して、野党のリーダーたちは異議を唱えている。また、人権団体は選挙過程に不正があったことや、さまざまな自由が制限されていたことを報告している。

ブルンジでは1993年から2005年まで武力紛争が続いた。治安面ではある程度安定してきたが、政治的な弾圧の問題は依然として残っている。現在の状況を理解するために、この記事ではブルンジの前植民地時代、植民地時代、そして独立後の歴史をたどっていく。

ブルンジの独立記念日を祝うンダイシミイエ大統領(左)、2021年(写真:LLainivonie / Shutterstock.com)

概要

ブルンジ国は、東中央アフリカに位置する内陸国で、面積は約28,000平方キロメートル。東と南をタンザニア、北をルワンダ、西をコンゴ民主共和国(DRC)に囲まれており、いわゆる「アフリカ大湖地域」に属している。かつては王政国家であり、アフリカの中でも珍しく、国境線が植民地支配によって決められなかった国のひとつとされている。最大の都市はブジュンブラで、2019年までは首都だったが、現在は経済の中心地とされ、ギテガが政治の首都となっている。都市化の進行は比較的ゆるやかで、都市に住む人口の割合は低い

ブルンジの人口は、2025年時点で約1,400万人と推定されている。人口密度はおよそ560人/平方キロメートルとされており、非常に高い。2024年の乳児死亡率は1,000人あたり35人と高水準だが、15歳未満の人口は全体の45%、65歳以上はわずか3%となっている。民族的アイデンティティとしては、ブルンジ人の約85%がフツ人、14%がツチ人、1%がトゥワ人と推定されているしかし、フツとツチの間に文化的あるいは宗教的な違いはほとんどなく(多数派はカトリック教徒)、どちらもキルンジ語を話す。アフリカのサブサハラ地域において、これほど言語が統一されているのは珍しく、これはブルンジがかつて統一王国だった歴史を反映している。識字率は約70%で、世界平均の85%と比べてかなり低い水準にある。

ブルンジの主な経済活動は農業であり、コーヒーと茶が主要な輸出農産物となっている。未開発の鉱物資源もあり、タンガニーカ湖は漁業や水力発電の資源となっている。通貨はブルンジ・フランである。2024年のブルンジのGDPは21億6,000万米ドル、1人あたりのGDPは153.9米ドルだった。2020年時点で、人口の96%以上が1日7.4ドルのエシカルな貧困ライン(※1)以下で生活している。

植民地以前と植民地時代のブルンジ

ブルンジは何百年ものあいだ、組織されて比較的安定した王国だった。現在のブルンジの地域には、もともとトワ人というピグミーの狩猟採集民が住んでいた。その後、農耕を行うフツ人と呼ばれる人々や、牧畜を行うツチ人と呼ばれる人々が移住してきたが、両者の区別ははっきりしていなかった。16世紀に王国が成立した。ブルンジ王国はツチの王族が率いていたが、貴族の中にはフツも含まれていた。さらに、両者の境界は流動的で、例えばフツが家畜の群れを得るとツチと見なされることもあった。また、民族間の結婚も頻繁に行われていた。文化的な慣習によれば、裕福なフツはツチとみなされ、一方で貧しいツチはフツとされることもあった。

19世紀後半、ドイツ軍がブルンジの地域に侵攻し始めた。1890年には、ブルンジはルワンダやタンガニーカ(現在のタンザニアの一部)とともに、ドイツ領東アフリカ保護領に組み込まれた。第一次世界大戦でドイツが敗北すると、ブルンジとルワンダはベルギーの支配下に置かれた。1920年代後半、ベルギーの植民地行政官たちは、首長制を制限し、多くのフツ系指導者を地位から排除した。彼らはまた、植民地以前には存在しなかった新たな階級制度を作り、それを推進した。この新しい体制は、少数派であるツチを優遇するものだった。ベルギーの植民地政策はカトリック教会(※2)と「ハム仮説(ハミティック理論)」(※3)の強い影響を受けており、それがブルンジにおける民族的分断の一因となった。

当時のヨーロッパではアフリカは「野蛮で未開の地」と見なされていたが、大陸全体に広がる高度な文明の痕跡は、そうした認識に対する強い反証となった。このことは、「ハム仮説」の創出、もしくは聖書的起源とは異なるかたちでの再構成につながった。この仮説によれば、「ハム人」は牧畜を行うヨーロッパ系の民族であり、先住の「アフリカの黒人」を支配し、文明を築いたとされる。つまり、未開とされた黒人たちが独自に高度な政治・宗教組織を築くことは不可能であり、必ず外部からの「優れた人種」の関与があったはずだ、という考え方である。

ブルンジにおいては、この仮説が「ツチ人はハム人であり、移住者であり、先住民のフツ人とは異なる優れた人種である」とする見方を正当化するために使われた。こうした説明は何十年にもわたり繰り返され、あたかも事実であるかのように受け入れられてきた。このような人種的な区分は、もともと秩序だった社会を「分断して支配する」という目的によく合致しており、「未開な黒人に文明をもたらす」という植民地主義の語りにもうまくフィットしていた。

ドイツで作成された東中央アフリカ、1890年(写真:Library of Congress / Picryl [Public domain] )

ブルンジにおける少数派の「初期の移住者」とされたツチ人は、大多数を占めるフツ人を「文明化」するための同盟者として利用された。ドイツとベルギーの植民地支配者たちは、ツチを権力のある地位に就け、彼らを通じて統治を行った。フツ人とツチ人の区別は、主に身体的特徴(身長や顔つきなど)にもとづいてなされた。このような植民地支配の何十年にもわたる政策は、フツとツチのあいだの対立を大きく悪化させることになった。似たような状況は隣国ルワンダでも見られ、両国における大量虐殺の引き金の一つとなった。

独立後のブルンジ

ブルンジ人による独立への動きは、1958年に結成された国民進歩統一党(UPRONA)によって大きく前進した。これは、ブルンジで初めての民族混成政党だった。独立に向けた準備として、憲法が制定され、ツチが優勢だった伝統的な王政が存続する一方で、国の政治と経済を担う首相職は選挙によって選ばれる仕組みが導入された。1961年の議会選挙でUPRONAが勝利し、ツチの王子が首相に就任して新しい行政を組織した。彼の暗殺によって政情は不安定になったものの、ブルンジは1962年7月1日に独立を果たした。

独立後のブルンジは、多くの点で植民地体制の延長だった。政治と軍を掌握していたのは依然として少数派のツチであり、この状況は多数派のフツとの間に緊張を生んだ。やがて政治的対立は激化し、次第に民族対立の様相を帯びていった。年までに、フツとツチの双方による虐殺が報告され、2人の首相が暗殺された。ブルンジは立憲君主制から共和制へと移行し、同年にはツチのミシェル・ミコンベロ氏が第一共和制の初代大統領に就任した。

新たに国家元首となったミコンベロ氏は、ツチとUPRONAによって支配される権威主義体制を築いた。UPRONAはこの時点で事実上の一党制政党となっていた。1972年には、再び大規模な民族間暴力が発生し、10万〜30万人が命を落としたとされる。約20万人のフツが、タンザニア、ルワンダ、ザイール(現在のコンゴ民主共和国)へと避難した。この年には、ツチ主導の政府を打倒することを目指すフツ系の反乱運動も始まった。人民解放党・民族解放戦線(PALIPEHUTU-FNL、略称FNL)である。

ブルンジ兵(写真:US Army Africa / Wikimedia Commons [CC BY 2.0] )

1976年、ミコンベロ政権は、ツチ系のジャン=バティスト・バガザ中佐によるクーデターで打倒された。これにより第二共和政が始まった。新政府は、ローマ・カトリック教会の社会的・教育的活動を制限しようとした。というのも、教会の政策がフツを優遇していると見なされたためである。多くのツチにとって、カトリック教会は体制を脅かす危険な存在と映っていた

1987年、国家とカトリック教会との対立を背景に、ツチのピエール・ブヨヤ少佐がクーデターを起こし、第二共和政を倒して第三共和政を樹立した。ブヨヤ氏は、宗教活動に対するさまざまな制限を解除し、政治犯を釈放した。皮肉にも、抑圧の緩和に向けた彼の政策はフツ側の期待を高めたが、ツチによる権力支配の構造は変わらず、1988年には新たな民族間暴力が発生した。この状況を受けて、大統領はフツの首相と数名の閣僚を任命した。こうした対応によって、ブヨヤ氏は穏健派の指導者としての評判を得ることになり、1990年以降は民主的な政治体制を受け入れる姿勢を見せたことで、その評価はさらに強まった。

1992年に制定された新憲法は、権力分立を定め、複数政党制を復活させた。大きな特徴の一つは、すべての政党にフツとツチの両方の代表を含めることが義務づけられた点である。1993年には、ブルンジ初の自由な大統領選挙が実施され、フツが多数を占めるブルンジ民主戦線(FRODEBU)の候補メルシオール・ンダダイエ氏が勝利した。敗北したピエール・ブヨヤ氏は結果を受け入れて退いた。こうして、ンダダイエ氏はブルンジ初のフツ人大統領となった。彼の政権は多くの政治犯を釈放し、ツチのシルヴィー・キニギ氏を首相に任命するかたちで、フツとツチの協力による政権を発足させた。しかし、ンダダイエは就任から数か月後に暗殺され、ツチが支配する軍とフツ系の反政府勢力との間で政治的混乱が始まった。

武力紛争の10年

1993年10月のンダダイエ氏の暗殺は、国を武力紛争の渦に巻き込み、2000年代初頭まで続いた。1993年末までの政治的暴力によって10万人以上が命を失った。フツの政治指導者たちは地下に潜り、武装して1994年に民主防衛国民評議会(CNDD)を結成した。CNDDの武装組織である民主防衛軍(FDD)は、ブルンジにおける主要な反政府勢力となった。また、この組織内の対立や排除により、主に2つの派閥が生まれた。レオナール・ニャンゴマ氏が率いるCNDDと、ピエール・ンクルンジザ氏が率いるCNDD-FDDである。CNDD-FDDは、ツチが支配するブルンジ国軍と戦うだけでなく、すでに存在していたフツ系の反乱組織であるFLNとも戦った。

国連で演説するブヨヤ元大統領、2015年(写真:UN Geneva / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0] )

1994年1月、フツのシプリアン・ンタリヤミラ氏が大統領に選ばれたが、数か月後に乗っていた飛行機が撃墜されて死亡した。この事件ではルワンダのジュヴェナル・ハビャリマナ大統領も亡くなり、1994年4月にルワンダで虐殺が起きるきっかけとなった。ンタリヤミラ氏の後任であるシルヴェストル・ンティバントゥガニャ氏もフツだったが、両派の過激派に対して権威を示せず、1996年にツチの兵士たちによって政権を倒された。彼らは元大統領ピエール・ブヨヤを国家元首に任命し、彼の良好なイメージで他国における信頼を取り戻そうとした。しかし、国連(UN)やアフリカ連合(AU)はクーデターを非難し、地域の国々はブルンジに対して禁輸措置を取った。禁輸は1997年に緩和され、1999年に完全に解除された。

ブルンジの武力紛争の解決に向けて、周辺国も積極的に関わった。1998年、タンザニアのジュリアス・ニエレレ元大統領がタンザニアのアルーシャで政府、フツ・ツチの野党、反乱勢力を集めてブルンジ国内の和平交渉を主導した。年にニエレレ氏が亡くなった後は、南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領が調停を引き継いだ。しかし、この交渉から生まれた停戦はたびたび破られた。

2000年、政府と16の武装勢力・政党がブルンジ和平と和解に関するアルーシャ合意に署名した。アルーシャ合意は、多国籍の暫定治安部隊を設置し、ブルンジの平和維持を義務づけた。さらに、合意では18か月ずつの2つの期間を設け、最初の期間の終わりにツチの大統領とフツの大統領が交互に政権のトップを務めることが計画された。この仕組みは2001年にツチの大統領ピエール・ブヨヤ氏とフツの副大統領ドミティエン・ンダイジエゼ氏の指導のもとで正式に始まった

アフリカ大湖地域のいくつかの国での国家の弱体化と武力紛争が、紛争の長期化に影響を与えた。例えば、フツの反乱勢力はコンゴ民主共和国(DRC)の南キブ地域を作戦拠点として使った。ブルンジの国軍は反乱軍を追うためにDRCにも侵入した。この紛争ではブルンジとルワンダの国軍が非武装の民間人キャンプを攻撃することもあった。

反政府勢力の武器解除、2005年(写真:United Nations Photo / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0] )

2002年にブヨヤ大統領とピエール・ンクルンジザ氏が率いるCNDD-FDDの間で停戦合意が結ばれ、状況は改善した。しかし、FNLはこの合意に参加を拒み、ゲリラ戦を続けた。アルーシャ合意に基づき、ブヨヤ大統領は2003年にフツの副大統領ンダイジエゼ氏に権力を譲った。ンクルンジザ氏のCNDD-FDDは和平合意に署名し、政党へと変わり、正規軍に統合されて政府に参加することが認められた。この最後の条項は和平プロセスで最も困難な部分の一つであり、軍の指導権はツチ系軍人によって独占されてきたからだ。この決定的な段階が成功した背景には、国連平和維持活動・ブルンジ国連ミッション(ONUB)の存在もあった。

過渡期の最後に、CNDD-FDDが今後の国家機関でフツとツチの間で権力分担合意に署名したことは、移行プロセスの重要な節目となった。2004年には、フツとツチが同数ずつ含まれることが義務づけられた新しい国軍が創設され、CNDD-FDDの元反乱兵2万人以上が吸収された。

平和の10年?

2005年、ブルンジ人は国民投票で新憲法を承認し、二大民族グループ間の権力分配をより公平にした。この新憲法では、大統領は直接選挙で5年の任期で選ばれ、1回の再選が認められた。国民議会と上院の議席は比例配分される。CNDD-FDDは2005年の地方、立法、上院選挙に勝利した。この勝利は、同党の指導者ピエール・ンクルンジザ氏が議会によって共和国大統領に選ばれることで確定した。翌年、最後の反乱組織であるパリペフツ・FNLと政府は停戦合意に達した。アガトン・ルワサ氏が率いるFLNは政治党派に転換し、「自由のための国民会議(CNL)」となった。

2010年、ンクルンジザ氏は全6人の対立候補が辞退したうえ、選挙暴力や低い投票率の中で90%以上の得票率で再選された。彼の第2期の任期は権威主義的な傾向を強め、表現の自由や司法の独立への攻撃が目立った。野党CNDDのレオナルド・ニャンゴマ議長などの反対派は国外に逃れ、ベルギーに避難した。政治暴力の断続的な再発も続いた。これらの新たな暴力や反対運動は主に政治的性質のものであり、民族的なものではなかった。これは和平プロセスが民族対立の克服に成功したことを示しているとされる。

大統領選挙の様子、2010年(写真:Brice Blondel / Flickr [CC BY-NC 2.0] )

2015年、ンクルンジザ氏が3期目に立候補する決定はさらなる緊張を生んだ。多くのブルンジ人は、大統領の任期延長を国民的合意なく認めることは2000年のアルーシャ合意の違反であり、大きな信頼の裏切りだとみていた。一方、ンクルンジザ氏は、自身の最初の任期は国民ではなく議会によって選出されたものであり、したがってその任期は2期の制限に含まれないと主張した。

この発表は、「第3期反対」運動による大規模な抗議行動を引き起こし、この運動は多くの市民団体や2つの労働組合を民族の壁を越えて結集させた。不満に対抗するために、政府支持の民兵とみなされるCNDD-FDDの青年部隊「イムボネラクレ」は、野党メンバーへの嫌がらせや人権侵害を行い、3期目の野心に反対するブルンジ人を脅迫した。このため、2015年初頭に数万人のブルンジ人が国外へ逃れた。

2015年5月、ンクルンジザ氏がブルンジの政治情勢に関する会議のためタンザニアに滞在中にクーデター未遂が起きた。数人の軍幹部がンクルンジザ氏は失脚し政府は解散したと宣言した。これに対し、政府支持の軍幹部が反乱に抵抗し、暴力が発生したが、クーデター未遂は終息した。2015年7月には議会選挙、市長選挙、大統領選挙が行われたが、国連監視団から厳しい批判を受けた。ンクルンジザ氏は69.4%の票を獲得し再選された。対立候補のルワサ氏は結果に異議を唱えたものの、国民議会に参加し、副議長に選出された。

ンクルンジザ氏の第3期

第3期目の大統領任期が始まると、一連の暗殺事件が発生し、紛争再燃への懸念が高まった。この懸念は、ンクルンジザ氏を武力で排除することを目的とした新たな反政府勢力、ブルンジ共和軍(FOREBU)の結成によるものであった。このような状況にもかかわらず、ンクルンジザ氏は暴力的な弾圧を通じて自身と政党の権力基盤の強化に注力し、アフリカ連合や国連による和平イニシアティブを体系的に妨害した。ブルンジの人権侵害に対する国際的非難が高まる中、国際刑事裁判所(ICC)による調査が求められた。その後、ブルンジは2016年にICCからの脱退を国連に書面で通告し、2017年には初めてICCを脱退した国となった。

ンクルンジザ大統領、2010年(写真:Paul Kagame / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0] )

2018年には、威圧や暴力、テロが続く中、物議を醸す憲法改定の是非を問う国民投票が行われた。改定案には、大統領の任期を7年に延長し、連続での2期までとする規定が含まれていた。批判が相次ぐ中、投票者の73%が改定を承認した。政府と亡命中の野党との間の協議は成果をあげなかった。

多くの人の驚きに、憲法上は立候補が可能であったにもかかわらず、ニクルンジザ大統領は2020年の選挙に出馬しないと発表した。選挙が近づくにつれ、野党の一部と政府との間で協議が再開された。CNDD-FDDは大統領選挙の候補者としてエヴァリスト・ンディアイシミエ将軍を指名した。2020年の選挙でンディアイシミエ氏は68.7%の票を獲得して楽勝し、主要野党候補のルワサ氏を大きく引き離した。ルワサ氏は多くの不正と脅迫にまみれた選挙を「茶番」と非難した。ニクルンジザ氏は「愛国心最高指導者」の称号を授かったが、新大統領の就任式前に突然死去した。

一党支配の継続

ンデイシミエ大統領は任期初期において、法の支配の回復、腐敗と免責の根絶、そして政治的寛容の促進に取り組むことを約束し、ンクルンジザ政権下での国際的孤立からの回復を目指した。2022年には、2015年の混乱後に科された国際制裁がンデイシミエ氏の進展により解除された。

しかし、同国の人権状況の改善は見られないと指摘されている。政治的動機による判決、ジャーナリストへの攻撃、人権擁護者に対する扇動的な言説などが依然として横行している。例えば、ンデイシミエ氏は首相のアラン=ギヨーム・ビュニョニ氏をクーデター計画の疑いで非難し、ビュニョニ氏は2023年に国家安全保障や経済の破壊、そして不正蓄財などの罪で逮捕された。彼は終身刑を言い渡された。複数の強制失踪も報告されている。また、政府は難民の帰還を公に呼びかけているが、帰国した多くの亡命者は逮捕され、裁判なしに拘留されている。

在タンザニアのブルンジ難民、2015年(写真:EU Civil Protection and Humanitarian Aid / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0] )

2025年6月の立法および地方選挙を控え、野党を弱体化させるための弾圧的な措置が実施された。CNDD-FDDに対する最も強力な野党であるCNLの創設者かつ指導者ルワサ氏は不在中に党の指導権を失い、政府がこの行動を画策したと主張した。さらに、新たな規制により、ルワサ氏や他の有力な候補者と見なされる者たちが他党に参加したり、無所属で立候補したりすることが事実上不可能となった。

さらに、ブルンジの人権団体イテカ・リーグは2024年に人権侵害について警鐘を鳴らした。同団体は210件以上の殺人事件を確認しており、被害者の多くは野党CNLの関係者だった。イテカ・リーグは、多くの事件の加害者が政府と関係があると主張しており、ほとんどの場合、加害者は処罰されていないとしている。国際メディアが接触した複数の政治アナリストは報復を恐れて選挙について語ることを拒み、話した者も匿名を希望した。

2025年の選挙は深刻なガソリン不足の中で行われ、多くの政治家が選挙運動を行うことができなかったことも注目に値する。選挙期間中、多くの有権者が強制的に投票させられ、野党の監視員は投票所に立ち入ることができなかった。ある関係者は、有権者が投票したかどうかを確認し、またイムボネラクレ(CNDD-FDDの青年組織)が有権者に嫌がらせや時には暴行を加えたと指摘している。そのため、与党が議会の全議席を簡単に獲得したことは驚くべきことではなかった。

農村部にあるCNDD-FDDの集会場(写真:Arthur Nkunzimana / Wikimedia Commons [CC BY-SA 4.0] )

まとめ

これまでみてきたように、現在のブルンジの政治状況は抑圧的であり、政治指導はしばしば暴力や脅迫を通じて与党によって支配されている。報道の自由や表現の自由は厳しく制限されており、ジャーナリストは自己検閲を行い、政府の要求に従わない者は投獄されている。

民族間の暴力が減少していることは、現在の比較的な平和が続き、経済発展や貧困削減への道を開くという希望を生んでいる。しかし、政治的暴力は依然としてこうした進展の大きな障害となっている。ンダイシミイエ大統領が腐敗との闘いだけでなく、現在の抑圧的な状態を改善し、将来に向けて透明かつ公正な選挙の実施に取り組むことが期待される。

 

※1 GNVでは世界銀行が定める極度の貧困ライン(1日2.15米ドル)ではなく、エシカル(倫理的)な貧困ライン(1日7.4米ドル)を採用している。詳しくはGNVの記事「世界の貧困状況をどう読み解くのか?」参照。

※2 カトリック教会の宣教師たちはこの地域で最初の民族学者であり、植民地政府は人種に関する植民地政策を立案する際に彼らの専門知識を求めた。さらに、ほとんどの学校は宣教師によって運営されていた。

※3 聖書の創世記第9章によると、ハムは父ノアによって兄弟たちの僕とされる呪いを受けたとされている。一部の聖書学者は、この呪いがハムの子孫が黒い肌を持ち、アフリカ大陸に移住したことを示していると考えている。

 

ライター:Gaius Ilboudo

グラフィック:MIKI Yuna

 

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