2022年3月、ガボンの元大統領であるオマール・ボンゴ氏の子供4人がフランスで起訴されたことが発表された。容疑は公的資金の横領、汚職、会社資産の悪用などである。彼らは、1995年から2004年にかけてパリの一等地にある建物を父親であるボンゴ氏からのプレゼントとして受け取ったと述べており、その資金源が不正かどうかは知らなかったとしている。
ガボンでは長年、権力者による汚職が横行している。また、その政治腐敗の歴史にはかつてガボンを植民地としていたフランスが大いに関係している。一体、ガボンとフランスの間にはどのような関係があるのか。そして汚職問題にはどんな闇が潜んでいるのだろうか。

ガボンの首都リーブルビルにあるオマール・ボンゴ氏の選挙宣伝用看板(写真:huguesn / Flickr [CC BY-NC-SA 2.0])
ガボンの植民地時代
問題の背景について探るために、まずはガボンの歴史について振り返ってみる。現在のガボンがある地域では、かつて奴隷貿易が行われていた。フランスなどは、自国が持つ南北アメリカの植民地で商品作物を生産する労働力として、アフリカから多くの奴隷を送り出していた。しかし1848年に奴隷制を禁止したフランスは、自国の産業部門に必要な資源とその商品を売る市場をアフリカに求めた。アフリカでの商業的利益を確保するために、フランスは現ガボンを治めていた2つの政治的指導者と交渉を行い、1839年に条約を結んだ。この条約ではフランスへこの地域の主権を譲渡する旨について合意が行われた。フランスからは、統治者以外に教師や専門家などが現ガボンに派遣されることとなった。それから、1910年に現ガボンは現チャドやコンゴ、中央アフリカ共和国とともにフランス領赤道アフリカの一部として組み込まれる形となった。その後1946年にフランスとフランス領赤道アフリカを含むフランスの植民地は、第四共和政憲法により合わせてフランス連合と規定された。フランス連合は1958年にフランス共同体(Communauté Française d'Afrique : CFA)へと改組され、現ガボンはその中で高度な自治権を有する自治共和国となり、フランスと協力協定を締結した。そして1960年にガボン共和国として独立を達成した。
オマール・ボンゴ氏による統治へ
ガボンが独立を達成した翌年に、レオン・ムバ氏が初代大統領として選出された。ムバ氏は一党独裁体制を取ろうとしたが、これに対して1964年に若い軍人達が反対しクーデタを起こした。しかしフランス元大統領のシャルル・ド・ゴール氏の命令で派遣されたフランス軍が介入したことで、クーデタは失敗に終わった。フランス軍によるガボン国内のクーデタへの介入には、経済的・政治的意図があったと考えられる。その理由の一つが、フランスの旧植民地の中で天然資源であるウラン資源を多く有している国だったことだ。ウランは核兵器の原材料であり、フランスは1951年から核兵器の開発を行っていた。ウラン資源へのアクセスを確保するという点で、ガボンに対して影響力を持つことはフランスにとって重要なことだったと言える。また、ガボンには石油資源も多く存在している。当時フランス政府によって運営されていた石油会社のエルフ・アキテーヌは、石油採掘のためにガボンに進出している。これらの点からもフランスがガボンの資源を重要視していたことが窺うことができ、ガボンに介入した理由だと考えられる。
このようにガボンは形式的にはフランスから独立しているにも関わらず、フランスはその勢力圏と影響力を維持するために政治的、経済的、軍事的な介入を続けた。こうした新植民地主義的な動きを指して「フランサフリック」と呼ばれることがある。これは、フランスが自国にとって都合の良い旧植民地国の指導者を支援するという側面も含んでいる。例えば、ガボンに存在する資源を低価格で確保し、その代わりにガボンの指導者を軍事的、政治的に支援したり、前述したムバ氏の例のようにクーデタなどの脅威から保護したりしてきた。独立後、宗主国と植民地国という関係性は解消したものの利益のために互いの国の権力者が不正に協力する関係が続いているのである。
またCFAフランの導入もフランスによる旧植民地諸国介入の一例である。CFA(※1)とは、アフリカにおける旧フランス植民地で構成される金融共同体であり、そこで共通して使用される通貨がCFAフランである。1945年に導入されたこの共通通貨を管理する中央銀行の理事会に対する拒否権をフランスが握っており、また外貨準備金のうち50%をフランスの銀行に預けなければならなかった。これにより、フランスは旧植民地国に対して経済的な影響力を持ち続けることが出来る仕組みとなっているのである。
初代大統領であったムバ氏が1967年に亡くなると、当時副大統領であったアルバート・バーナード・ボンゴ氏が昇格して大統領に就任した。のちに40年以上続くこととなるボンゴ政権の誕生である。フランスはこの新政権誕生にも干渉している。ド・ゴール元大統領はムバ氏が病床に臥したのを機に、フランス軍に籍を置いていたことがあるボンゴ氏の大統領就任を後押しした。そして大統領就任の翌年には、ボンゴ氏はガボン民主党(Parti Démocratique Gabonais : PDG)による一党独裁体制を確立した。またボンゴ氏は1973年にはイスラム教に改宗し、オマール・ボンゴへと改名した。

オマール・ボンゴ氏の像(写真:jbdodane / Flickr [CC BY-NC 2.0])
その後、1973年と1979年に実施された2度の選挙においてボンゴ氏は勝利をおさめた。ただし一党独裁体制を敷いていたため、この2度の選挙はボンゴ氏以外の候補者がいない中での選挙であったことは特筆すべきであろう。こうしたボンゴ氏の統治に対して1982年に与党以外の新たな政治グループが多党制と腐敗した政治状況の改善を求めて立ち上がったものの、すぐに抑制されてしまった。そして1986年にまたしてもボンゴ氏は再選を果たした。
この一党独裁体制の終了のきっかけとなったのは、国民による民主化要求の声と1980年代の経済危機である。1989年にマルタ会談にて長く続いた冷戦の終わりが告げられたことで、冷戦における対立上行われていた大国による独裁政権への支援が失われ、民主化を求める動きが世界に広がっていった。そしてガボンでも民主化が要求されていた。加えてガボンは、1980年代に厳しい経済状況にあった。民主化の流れと経済危機により国民の不満が抑えきれなくなり、野党も含めた政策議論の場として国民会議の発足を受け入れざるを得なくなった。1990年に複数政党制を認める改定憲法が採択され、一党独裁制から複数政党制へと移行した。
ところが、これで民主的な政治体制が訪れたわけではなかった。ボンゴ氏を批判した政治家の多くは買収され、結果として野党は本来の機能を果たしているとは言いがたい状況だった。その後ボンゴ氏は1993年と1998年の選挙にも勝利したが、野党は不正選挙として政府を批判した。ガボンの選挙制度には、様々な問題点がある。例えば、選挙の結果が段階的に発表されないために、選挙結果がコントロールされやすい。他のアフリカ諸国と異なり、選挙区毎の結果が1カ所に集められ、まとめて発表されるために結果の操作がしやすいのである。加えて1997年に導入された、大統領が2期まで就任できるという制限が2003年の憲法改定により撤廃され、大統領の任期制限がなくなった。また政府の要職の座はほとんどボンゴ氏と血縁関係にある者によって独占されていた。こうした政治状況を経て、ボンゴ氏による政権支配はますます盤石なものとなっていった。
ガボンに存在するのは政治的問題だけではない。大規模な汚職による財政問題も深刻だ。本来公共事業に充てられるはずの税金や石油販売で得た資金の多くは、ボンゴ家とその政府高官により横領されてきた。ボンゴ氏は2009年に亡くなるまでに少なくとも183台の車、フランスの39の高級物件、66の銀行口座を含む財産を築き上げたとされている。また、フランスとの間にはびこる汚職問題も深刻だ。例えば、フランスの石油会社であるエルフは、低価格で石油を入手するために長年ボンゴ氏らに賄賂を渡していたことが2001年に発覚した。第2次世界大戦後の西側諸国において最大規模とされている汚職事件の一環であった。またエルフを支援するフランスは、中央アフリカにおける軍事拠点としてガボンを利用し、その見返りにボンゴ氏は軍事的保護を受けていた。フランスによる汚職政治の助長、腐敗行為はガボンに限らず、それ以外のフランスの旧植民地諸国でも長年に渡って行われていた。
加えて、フランス側からガボンへの資金提供だけでなく、ボンゴ氏からフランスへの資金提供も行われていた。旧フランス諸国における共通通貨であるCFAフランを発行する中央アフリカ諸国銀行(Banque des États de l'Afrique Centrale : BEAC)に勤務するガボンの高官らが、共謀して数百万米ドルを横領した事件が2009年に判明した。横領された資金は、ボンゴ氏の指示で選挙献金としてフランスの大統領候補へと提供されたと考えられており、この資金提供を受けたとされるのは、フランスの第22・23代大統領ジャック・シラク氏とニコラ・サルコジ氏である。ここまでみてきたようにフランスは政治的、経済的に自国にとって都合よく動くボンゴ氏を支援してきた。しかし、ボンゴ氏の側からも自らを支援してくれる政策をとってくれそうなフランスの大統領候補を支援するという構図が存在していたのだ。
息子のアリ・ボンゴ氏へと受け継がれる政権
2009年に当時の現職大統領であるオマール・ボンゴ氏が亡くなった後、彼の息子であるアリ・ボンゴ氏が選挙で当選し大統領に就任した。しかし、この選挙結果に対して野党は不正に操作されたものとして異論を唱えた。そして選挙結果を認めない野党は、ボンゴ氏(子)の大統領就任式典をボイコットした。またその後行われた2016年の大統領選挙の結果も不正に操作されたものではないかと疑われている。ボンゴ氏と野党代表である元アフリカ連合委員会委員長のジャン・ピン氏の得票数の差は僅かであったものの、この得票数自体が操作されている疑いがあった。加えて選挙結果を確定させる裁判所はボンゴ氏に任命された裁判官で構成されており、結果はボンゴ氏の勝利と発表された。また、選挙後にガボンの治安部隊がピン氏の本部を襲撃した。この選挙後の衝突により、約30人が死亡したと野党は推定した。

アリ・ボンゴ氏と第24代フランス大統領フランソワ・オランド氏(写真: GPA Photo Archive / Flickr [Public Domain Mark 1.0])
ボンゴ氏(父)の時代に引き続き、アリ・ボンゴ氏の政権下でも財政問題はガボンを悩ませ続けている。2014年に原油価格が世界的に急暴落し、その影響で政府の収入も減少した。そのため国家の収入を石油に頼っているガボンの経済は不安定だった。加えてガボンに存在する油田が枯渇しつつあり、生産量が減少してきている。しかし、ガボン国内で石油にとってかわって新たな収入源となることができる産業が存在しているとは言いがたい。こうした石油産業の低迷により、これまで以上に国民の生活は困窮している。そもそもガボンでの石油採掘の多くは外資系企業によって行われている。もちろん権力者による横領の問題もあるが、歴史的にガボンに存在する石油から得られる利益の多くを外資系企業が得てきた。近年は改善されつつあるものの、見逃すことは出来ない問題である。
国連の人間開発指数(Human Development Index : HDI)では、ガボンは119位に位置づけられている。人間開発指数とは、健康・教育・所得という3つの側面から、その国の発展レベルや豊かさを測るための指標のことである。ガボンの119位という順位は、石油で富を得ている国の中では低い順位と言える。国民へ富が行き届いておらず、インフラの整備も整っていない。また、教育という側面においてもガボン国内に十分な教育の機会が与えれているとは言えない。それにも関わらず、ボンゴ家の子供はイギリスの学校に入学し政治的エリートになるための教育を受けている。
こうした問題が国内に多く残る中、2018年にボンゴ氏はサウジアラビア滞在中に脳梗塞を発症し、モロッコで療養することとなった。国外での療養によりしばらく国内に大統領が不在の状況が続いた。そして翌年の2019年、ボンゴ氏は療養を終えて帰国し大統領職に正式に復帰した。
ガボンの未来に向けて
これまで見てきたように、現在のガボンには政治的・経済的問題が多く存在している。そうした問題を抱えるガボンでは、近年どのような動きが見られるのだろうか。例えば、ボンゴ氏は2017年から反汚職キャンペーンを進めている。マンバ作戦と呼ばれるこのキャンペーンによって、ガボンの国営石油会社から資金を横領したとみられる政府高官が解雇、拘束されている。ただこの動きに対して、ボンゴ氏の反対派を排除する目的があったという見方もある。
また、ガボンは2021年に採取産業透明性イニシアチブ(Extractive Industries Transparency Initiative : EITI)への再加入を果たしている。これは採取産業から資源産出国への資金の流れの透明性を高めることで、腐敗や紛争を予防し資源開発を促進するための多国間協力の枠組みである。ガボンは2007年にEITIに参加していたが、合意された期限までに検証レポートを提出しなかったために2013年に不参加となっていた。しかし今回EITI理事会に認められ、再び加入することとなった。
汚職対策以外の動きも見られる。ガボンの石油産業低迷を受けて、ボンゴ氏は2010年から木材部門の奨励に取り組んできている。ガボンに存在する熱帯雨林の約半分が商業用の森林として割り当てられており、フランス財務省のデータによるとガボンによる木材生産量は2012年から2021年の9年間で約2倍に増加している。しかし、大規模な森林伐採は深刻な環境問題を引き起こしており、解決のために一部の地域で伐採の禁止などが進んでいる。

ガボンで木材を運ぶトラック(写真:jbdodane / Flickr [CC BY-NC 2.0])
また、2022年にガボンはイギリス連邦への加盟宣言を発表した。イギリス連邦とは、イギリスと旧イギリス植民地を中心に構成される国家グループであり、加盟国は外交的、経済的に結びついている。ガボン政府は、連邦加入の目的は経済の多様化にあると述べている。またフランスから離れてイギリス連邦へと加入することで、フランスの影響力から逃れようとしているという見方もある。
このように、長年政治的課題が多かったガボンでは経済的、政治的な変化が少しずつ進んできている。しかし、これまでの厳しい状況を作り出してきた張本人とも言えるボンゴ家による支配体制はあまり変化していない。この状況を変えるためには、憲法の改定や選挙制度の変更などさらに大きな改革を進めなければならない。そして、ボンゴ家による支配を支えるフランスとの不正な協力関係という、歴史的な負の遺産をどう乗り越えていくのかも重要である。国民の貧困を改善するために、木材部門を含めた石油以外の産業の発展も欠かせないだろう。もちろん、汚職をさらに厳しく取り締まり防止していくことも必要である。今後のガボンが良い方向に変わっていくことに期待したい。
※1 CFAフランの正式名称は、西アフリカ地域についてはアフリカ金融共同体(Communauté Financière Africaine)フラン、中部アフリカ地域についてはアフリカ金融協力(Coopération Financière Africaine)フランである。この2つのCFAフランはフランスフランとの交換レートはどちらも同じであるものの、異なる中央銀行が発券する異なる通貨である。
ライター:Hisahiro Furukawa
グラフィック:Haruka Gonno
植民地支配を受けた国々は、現代でも多方面で宗主国の影響を受けているのだと実感しました。
その背景には、CFAフランなど国の中枢機能に関わる部分で、宗主国が介在しているからだと読み取れます。
とはいえ、ガボンがイギリスに接近していることも興味深く、今後の外交関係に注目したいです。