ここ数十年、アメリカでは特に中東や発展途上国からの難民や移民に門戸を開いていないというのが公の事実となっている。移民受け入れに対するこのような偏りは相当なものであり、自由の女神像の碑文に「No Muslims Need Apply(イスラム教徒お断り)」と書かれているのではないかとすら感じられる。
これはアメリカでは一般的な傾向なのだが、常にそうだとは限らない。事実、2015年のある時期において、アメリカは温情を見せたかのように思われ、ニュースで映し出されたシリア人が、珍しくも、軽蔑ではなく同情を得ることができた。この変化の渦中にあったのは一人の男の子の死体、つまりアラン・カーディ(Alan Kurdi)という溺死したシリア人の男児であった。
アラン・カーディによるアメリカ政治の反難民的傾向の揺さぶり
カーディの死は悲劇的ではあるが珍しいものではない。彼の死は2015年で3,700件を超える地中海での難民溺死事件の一例に過ぎない。翌年にはヨーロッパでの移民危機が長引き、同様の事例は10,000件を超えた。カーディと彼の母親、そして兄は地中海を経由してヨーロッパに行こうとする途中の9月、トルコの沿岸沖で水死した。少し経って、他の被害者と共に彼の死体はトルコの浜辺に押し流された。しかし、この男の子の死体に写された写真がその後のすべてを変えてしまうこととなった。

アラン・カーディを追悼する壁画:ドイツ(写真:Frank C. Müller [CC BY-SA 4.0])
この一つのニュース、一人の死がアメリカのイスラム嫌悪の堅い壁を打ち破る影響力を持ったのは驚くべきことである。また数か月にわたってワシントンでの反難民の政治運動を停滞させるなどとは想像もつかなかった。しかし、まさにそれがアラン・カーディの件で生じたのだ。更には、この男児の死が結果としてアメリカ国内では珍しいほどの難民に寛容な政策が推進される契機となった。この政策は、アメリカから遠く隔たった難民キャンプに資金援助をする代わりにその難民を入国させないというものではなく、約10,000人のシリア人をアメリカ国内に受け入れるというものである。確かに少ない受け入れ数ではあるのだが、それでも以前の計画と比較すると10倍の増加となっている。
アメリカの政策や世論におけるこの同情的な転換はツィッターなど、さまざまな形で見受けられる。それ以前では、戦争報道やテロ報道を通じて、これらシリアからの人々は容易に無視できる「移民」だというイメージが強かったが、ほぼ一夜にして、同じ人々が同情を誘う「難民」であると考えられるようになった。そして難民であるならば、彼らが西洋に向かう途上で命を落とすような場合には応対の必要が生じるのだ。
メディアの影響力
しかし、アメリカの姿勢や政策動向に影響を与えたのはアラン・カーディ自身だったとも言いがたい。アラン・カーディは大物などではない。彼には政治家たちとつながっていたわけではなく、裕福でもなく、称号も持っていなかった。アランが他のすべての溺死した子供と区別され、彼が象徴的な存在となった理由は、彼にまつわるイメージとそれらの伝達のされ方にある。言い換えれば、アラン・カーディがアメリカの政策に与えた影響を考えることは、メディアがアメリカの政策に与えた影響を考えることと同義なのだ。
国際や国内を問わず、ニュースメディアは移民危機をかつてのように面倒や脅威を引き起こすものというよりは、むしろ悲劇という構図に積極的に改編し続けていた。このような再編が起こった動機は不明で、人道的な同情心から生じたものなのか単に刺激の強いイメージを掲載する事で売上を上げようとしたのかは分からない。しかし、この再編が意図的なものであることは否定しがたい。ウォール・ストリート・ジャーナルのようなアメリカの保守的なメディアでさえ、それまでには無かった態度で同情心に素早く訴えかけた。リベラル系の出版社もまたこの新たな視点を素早く広めた。
しかし、移民に好意的な報道が移民に好意的な政策につながるとは限らない。実際、アメリカ政府自身がカーディの亡くなる前の数ヶ月で取っていた政策は移民危機にとても消極的なものであった。とりわけ共和党が支配している議会は、シリアなどの国からの難民受け入れ数を拡大するいかなる立法にも強固に反対する姿勢を取った。過去には有力な議員たち、例えば民主党のディック・タービンなどが難民受け入れ拡大計画を立案したのであるが、共和党議員からの猛烈な反発に遭った。彼らはダービンとその支持者たちを「ジハード委員会」と呼び、またテロリスト予備軍の擁護者だとしてメディアを通じての非難を行った。何ヶ月も進展の動きが無く、またオバマ政権において難民により友好的な政策を推進しようとする意志や動機が欠如している事が明らかになると、ダービンのような個人での奮闘は消え去った。これは2015年初期から中期においてメディアがこの種の事柄を取り上げなかった事によって助長された。
アラン・カーディの死に関する報道によって同情心を掻き立てられたとはいえ、移民に好意的な政策が成功するという保証は全くなかった。しかし、そのような政策は確かに成功した。オバマ政権は次の年にわたって州部局に約10,000人のシリア難民を受け入れるように、また、全体の難民受け入れ上限を以前の65,000人から100,000人へと引き上げるように要請した。多くの基金が設立され、難民対応センターが開設され、アメリカとシリア間での対話が試みられた。
政治勢力の再均衡
カーディに関するイメージを提供し、テレビ画面や紙面に掲載し続けたメディアが存在しなければこのような結果が生じたとは考えにくい。だとすれば、一体メディアはどのようにして政策決定者からそのような反応を引き出したのだろうか。
二つの回答が考えられる。
第一の、そして最も重要な点として、メディアは議会やそれ以外の場所で、難民を支持する側の声を拡大させることにより、政治勢力を変える役割を果たした。
カーディが亡くなる前は、共和党が移民危機への対応に関する決定権を握っていた。その理由としては、共和党が議会の過半数を占めていたことに加え、移民危機に対する世論の関心が極めて低かったことが挙げられる。当時、シリア関連の主要な話題はISISや多くのテロ行為に関するものであった。全体の雰囲気は恐怖で覆われ、全てのシリア人は(また、おそらくは全てのイスラム教徒も)、容疑者として見られていたのではないだろうか。あるアメリカ議会議員が難民支持者を「ジハード委員会」と侮蔑した際、彼らが利用したのはこの恐怖心である。あからさまな敵意が正当化され、オバマ政権が不人気な政策議題を取り上げようとしない状況にあって、難民支持者には自らの意見発表を行う機会があまり無いように思われた。
しかしながら、カーディが亡くなった直後、 メディアはこの件が衝撃的で同情を誘うような話題だと分かったのであるが、それを売り出すために必要なのは政治的裏付けであった。つまり、難民政策を決定するような立場にある政治的主導者からのコメントだ。カーディが亡くなった後の朝、ディック・ダービンなどからの好意的な引用を含むニュースがアメリカではいくつか見られた。大統領選挙候補者はメディアを活用して意見表明をしたが、どの候補者もカーディへの悔恨の情を表した。オバマ大統領とジョン・ケリー国務長官も同様であった。リンゼー・グラムやクリス・デントといった共和党議員でさえ、アメリカはこれらの難民への何らかの支援をすべきであるとインタビューにおいて主張した。反対意見は、記事の結論部分や賛成意見の間に置かれたものを除いてはほとんど見受けられなかった。
このように、既に存在していた擁護者が意見表明をする機会を提供すること、そして(事実がどうであったかはさておき)難民を熱烈に支持している構図を提示することを通して、メディアはある種の政治的意思を形成する事ができた。この政治的意思が確保された状態で政策は遂行され、多くの場合は共和党が過半数を占める議会を回避する形を取った。

アメリカ連邦議会(写真:Lawrence Jackson, White House)
以上がメディアの最も重要な貢献事項であったのだが、それだけではない。メディアは反難民の立場を切り崩しもした。
無論、カーディの死によって議会や政府における反難民の勢力が一掃されたわけではない。しかし、メディアがこの事件を取り扱うことで反難民の立場は弱められた。この過程は主としてメディアが難民反擁護の立場に焦点を当てないことで進められた。ジェフ・セッションズ元上院議員やジョン・マケイン上院議員などはニュース記事中でわずか取り上げられたものの、多くの場合メディアは主張内容が過小評価されるような形で引用を行った。最もありふれた形としては、彼らの意見を参考意見として扱い、記事の最後のほうでのみ言及するというものであった。とはいえ、より直接的な批判が、右寄りのものも含めて多くの新聞社の意見欄で特集された。
時間の経過とともに難民擁護の立場が優勢な事が明らかになり、議会での反対派はますます声を潜めてこの流れを受入れるようになり、最終的に勢力は逆転した。この全てが、男児の死体の数枚の写真によってもたらされたのである。
当然、アラン・カーディの件においてメディアが果たした役割は注目すべきものだったが、それが一過性の影響力しか持たなかったことも注目に値する。10,000人のシリア難民を受け入れるという新たな計画が実行に移されつつあるただ中の2015年11月、パリ同時多発テロ事件が起こった。130人が亡くなり、実行した者の所持品からシリア国籍のパスポートが見つかった。この事件はカーディの死がもたらした同情心を大幅にけずり、アメリカ議会において反難民勢力が力を取り戻すことにつながった。カーディの死を受けて始まった計画は頓挫したとは言えないものの、もう一歩の所で、というものであった。
この件が示すように、確かにメディアは大きな影響力を持ち得るのだが、その潜在能力は無制限とは言えず、また容易に覆されるものであるのだ。

スロベニアを横断する難民・移民(写真:Janossy Gergely / Shutterstock.com)
ライター:Kelsey Oliver
翻訳:Ryo Kobayashi