2016年5月5日ロシアのサンクトペテルブルク・マリンスキー劇場交響楽団による演奏会がシリアの古代遺跡パルミラの円形劇場で開催された。パルミラはシリア中央部にあるローマ帝国支配時代の都市遺跡で、一時期IS(イスラム国)によって占領されていたが、ロシアの軍事支援によって2016年3月シリア政府軍が奪還した。ロシア政府によるとこの演奏会は、ISに被害を受けた全ての人向けた追悼や自らの命の危険も顧みずISと戦うすべての人々に捧げるものであり、またパルミラが国際テロという恐ろしい状況から解放され現代文明に戻ることを願って開催されたといわれている。ロシアにとっては自国の援助によってISから世界遺産でもあるシリアの文明を取り戻すことができたというアピールの目的もあったと考えられるかもしれない。しかし、いずれにせよこのような追悼や平和を願う場で音楽が使われることは少なくない。その理由は何なのか、音楽にはどのような効果があるのかを探っていこう。

パルミラの演奏会(写真:Panoramio/L-BBE [CC BY 3.0])
音楽療法とは
そもそも音楽は宗教や自然崇拝などの古い宗教の誕生と共に生まれ、その後ユダヤ教やキリスト教でも賛歌などで用いられるようになった。音楽に人々の心を治癒する力が求められ始めたのはギリシャ時代にさかのぼるが、医学療法として本格的に用いられ始めたのは20世紀初めのアメリカで、傷を負った兵士の士気の回復に音楽が有効であるとされ軍の病院で利用されたのが始まりである。音楽療法とは、音楽を通してリラックスしたり興奮したりする状態をもたらしたり、ストレスや不安を軽減したり、また言葉や表情などコミュニケーション手段を引き出し人間関係の形成を促したりすることで生理的・精神的・社会的に心身の健康の回復や向上を図るもので、代替医療もしくは補完医療などと呼ばれる。
実際に、分娩・手術・リハビリ・集中治療などの医療場面で音楽を施された被験者が施されなかった者より満足を得たという結果もあり、代表的な使用目的として痛みの強さや時間、入院期間の軽減、血圧や心拍数などのバイタルの回復などがあげられる。また、がん患者の精神的苦痛の緩和など先端医療をもってしても治癒できないものへの対処や難病や慢性疾患に対する自然治癒力の増強なども見込まれている。また、ノルウェーのベルゲン大学の研究によって、音楽療法が精神疾患や認知症による高齢者や、うつ病や統合失調症、人格障害を抱える人々に対してよい影響を与えることも証明されている。

音楽療法の一環としてギターを学ぶ米兵 (写真:Army Medicine/Flickr [CC BY 2.0])
ノルウェーの音楽療法
ここで、ノルウェーの事例を紹介しよう。ノルウェーでは1972年にノルウェー音楽療法協会が設立され、1978年には大学で初めて音楽療法士コースが設置された。また1981年にノルウェー政府から正式に資金援助を受けられるようになって以降ますます音楽療法の教育に力を入れている。さらに2013年に精神疾患の治療に関するノルウェー理事会のガイドラインに音楽療法が組み込まれ、薬による治療や認知行動療法と同じ立場になりつつある。ノルウェーは、音楽療法の特別教育との結びつきやコミュニティ・ミュージックセラピーという方法の特殊性によって音楽療法が有名な国の一つである。ノルウェーの音楽療法は社会民主主義的思考に強く影響されており、音楽を通した活動によってコミュニティとしての精神を養い、個人としての勝者・敗者を生み出さないことを目的としているという考えもあり、このような考え方はコミュニティ・ミュージックセラピーという方法に表れている。
コミュニティ・ミュージックセラピーとは、従来のように患者とセラピストだけではなくその家族や仲間を巻き込んで治療を行うことで人間関係を再構築しコミュニティ全体に変化をもたらすことを目的としたものである。例えば、精神的・身体的に障害を負う人々を地元の音楽バンドに参加させ、パフォーマンスさせることで、周りとの壁を取り除くというものである。また、受刑者を週に一度ロックバンドの練習に参加させることで、刑務所から出る際に社会復帰しやすくするといった事例もある。最も有名なのがグロッペンプロジェクトである。これはグロッペン市の3人の音楽療法士が音楽学校と県と共同で行ったプロジェクトで、障害者と音楽療法士という個人治療に一般市民や音楽家を加え、さらに自治体や国が支援をすることで、障害者が音楽活動に参加し健常者と共生することを目的として行われたものである。このように、ノルウェーは音楽療法を個人の治療にとどめず、もっと大きな範囲の、地域のコミュニティの活動として発展させた。経済の発展が優先され、科学技術が発達し、物質的な豊かさを持ちながらも疎外感や孤独感を感じるようになった現在では世界の様々な地域でこのような方法がとられるようになったが、ノルウェーではこの療法を25年前から実践してきたのである。

音楽療法の様子(写真:wikipedia/Universitaetsmedizin[CC BY SA 4.0])
音楽療法の限界と可能性
これまでノルウェーを例に音楽療法について述べてきたが、さまざまな医療・社会問題についても効果が認められてきているとはいえまだまだ音楽療法は万能とは言えない。2011年から2015年にかけて行われた実験で、世界10か所の治療センターで、4歳から7歳のアスペルガー症候群の子供を、通常の治療のみを受けるグループと通常治療に加えて音楽療法を施すグループに半分ずつ分けて経過を観察したところ、彼らの社会的能力において大きな違いは見られなかったという。アスペルガー症候群に対して音楽療法は効果を発揮できなかったのである。
しかしアスペルガー症候群に対しては効果が見られなかったものの、他の病気に対して効果が証明された事例もある。ノルウェーの、地域を巻き込み社会全体で行う音楽療法は世界的にも注目されており、個人治療にはない可能性を持っていることも確かである。今後も政府や大学、医療関係者が一体となって研究を進め、音楽療法の可能性がさらに広がっていくことを期待したい。
ライター:Saeka Inaka