ロヒンギャ人の危機:迫害と移住の連鎖

執筆者 | 2024年08月8日 | Global View, アジア, 共生・移動, 法・人権, 紛争・軍事

2024年5月、新たに45,000人のロヒンギャの人々がミャンマーの自宅から避難し、政権からの避難を求めた100万人以上の難民と同じ様相を見せた。大半は国境を越えてバングラデシュに入り、世界最大の難民居住地に落ち着くが、2023年と2024年には、インドネシアへの危険な旅を試みるボートの数が大幅に増加した。さらに、何十万人もの人々がミャンマー国内で国内避難民となっている。どのような経路を辿ろうと、ロヒンギャの人々が保護と基本的人権の享受を求めて大きな危険を冒していることは明らかである。この記事では、ロヒンギャ人の大まかな背景、彼らがどのようにして避難民となったか、そして彼らが直面している課題について説明する。

コックス・バザールの難民キャンプにいて(写真:UN Women Asia and Pacific / Flickr[CC BY-NC-ND 2.0])

歴史的背景

ロヒンギャは、ミャンマーのラカイン州に住む主にイスラム教徒主体の民族である。歴史的にアラカンと呼ばれていたこの地域は、1980年代に統治政権によってラカインと改名された。古代のアラカン(現在のラカイン州)は多文化・多宗教社会であり、インド亜大陸に近いことから南アジアの影響を大きく受けていた。

アラブ商人の痕跡は、紀元後初期に接触があったことを示しており、イスラム教はアラブ商人や宣教師を通じて8世紀にはこの地域に到着していた。イスラム教徒の居住地があったことは、モスクやイスラムの工芸品などの考古学的遺跡によって証明されており、言語学的研究からは、アラビア語が現地の言語に影響を与えたことが示されている。何世紀にもわたって、この地域は文化のるつぼとなり、イスラム教徒が仏教徒やヒンドゥー教徒と共存するようになった。

15世紀にはムラウク・ユー王国が建国され、アラカンの歴史における黄金期とされた。この王国はベンガル・スルターン朝と緊密な関係にあり、イスラムの影響をさらに強めた。ムラウク・ユーの支配者たちはイスラム教徒の役人を雇い、宮廷文化はイスラムの慣習に大きな影響を受けた。ロヒンギャは、自分たちがこのアラカンのイスラム教徒の伝統的な子孫であり、ラカイン州における自分たちの存在は何世紀も前に遡り、この地域における歴史的ルーツを確立したと主張している。

19世紀のイギリスによるビルマ植民地化は、ロヒンギャ人にとって転機となった。ビルマは英領インドに編入され、労働移住によって人口動態に大きな変化が生じた。イギリスの植民地行政によって奨励されたこともあり、現在のインドやバングラデシュから多くのイスラム教徒が農業労働のためにラカインに移住した。この時期、この地域でイスラム教徒の人口は増加したが、正確な数字や移住の程度については歴史的議論の対象となっている。この植民地時代には、民族的・宗教的対立の種もまかれた。行政上の地位・役割において、特定の民族を他の民族よりも優遇するイギリスの政策は、不満や怒りを生んだ。ロヒンギャ人はイギリスへの協力者と見なされ、後に仏教徒のラカイン人との民族摩擦へとつながった。

この時期は、ロヒンギャ人は「不法移民」であるというミャンマー政府の立場の出発点となる重要な時期である。英領インドの他の地域、特にバングラデシュからのイスラム教徒の流入は、国家がロヒンギャ人は「ベンガル人」であり、ミャンマーで認められている民族グループではない、と主張する根源となった。ロヒンギャ人のルーツは最も古いアラカン人のコミュニティまで遡るというロヒンギャ人の主張と、彼らは最近やって来た(そして不法な)移民であるという国の立場との間に不一致がある。

ロヒンギャ人は異なる時代にこの地域に移住したであろう古代アラカン人や他の南アジア人の子孫なのだ。もちろん、これは政治的な国境が今日とは異なっていた時代に移動してきた人々の移民ステータスについて、何ら影響するものではない。ロヒンギャ人は何世代にもわたって現在のラカイン州に居住してきたことに議論の余地はないはずだ。

しかし、現在の対立の原因は、民族的起源だけではない。第二次世界大戦は、ラカインにおける民族間の緊張をさらに悪化させた。日本軍のビルマ侵攻とそれに続く紛争で、ロヒンギャ人はイギリスを支持した一方、仏教徒のラカインは日本軍を歓迎する側面があった。この分断が2つのコミュニティ間の激しい衝突を引き起こし、多大な死傷者と避難者を出した。

1948年にビルマがイギリスから独立した後、新政府はロヒンギャを先住民族として認めなかった。1948年の連邦市民権法は、家族が2世代にわたってビルマに居住していることを証明できる者に市民権を与えたが、多くのロヒンギャ人はそれを証明できなかった。これがロヒンギャ人が無国籍となるきっかけであった。

1962年、ネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし、第一次政権が樹立されると、状況はさらに悪化し、ロヒンギャ人はさらに疎外されることになる。1970年代を通じて、1948年の連合市民権法に基づいて市民権を確立したロヒンギャ人でさえ、国民身分証明書を没収され始めた。後述するように以降も市民権が著しく制限されていく。

ロヒンギャ民族の歴史は、数世紀にわたる文化的統合と共存の歴史に続いて、数十年にわたる組織的な迫害と暴力の歴史がある。彼らの苦境は、無国籍、民族差別、脆弱な人々を保護できない他国や国際組織の失陥など、重大な問題を浮き彫りにしている。

ミャンマーでの軍事パレード、2021年(写真:Mil.ru / Wikimedia Commons[CC BY 4.0])

主な移住のきっかけ

ロヒンギャ人の多くが、ミャンマーで直面している迫害から逃れようとしてきた。過去50年間で、人々が国外脱出しなかった時期を見つけるのは難しいだろう。しかし、ある出来事が集団移住を促した。この章では、1978年から現在に至るまでの主な移住の出来事について見ていく。

記述に値するのはまず、1978年の竜王作戦(別名ナガミン)である。この作戦では、治安部隊がロヒンギャ人に対する残虐行為を行い、ラカイン州でイスラム教徒に対する暴力を行う地元の仏教徒を支援した。ラカイン州北部での殺害、レイプ、拷問、家や村の破壊は、隣国バングラデシュに逃れるロヒンギャ人の大規模な流出につながった。

国際的な反発と圧力は、ビルマとバングラデシュの政府間の交渉につながった。交渉は合意に達し、その年の暮れには多くのロヒンギャ難民がビルマに送還された。しかし、差別、無国籍、市民権の欠如といった根本的な問題は未解決のままであり、将来の紛争や移住の元凶となった。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、バングラデシュのロヒンギャ人が事実上難民であることを認識していたにも関わらず、帰還した人々へのさらなる虐待につながる送還手続に加担し、難民を保護する義務を怠ったことは、現在広く認識されている。

わずか数年後、1982年に制定された市民権法によって、ロヒンギャ人はついに市民権を完全に剥奪され、135の民族が市民として認められたが、ロヒンギャ民族は除外された。この法律によってロヒンギャ人は無国籍となり、権利と自由が著しく制限された。新法は、1823年にイギリスの植民地支配が始まる以前にこの地域にいた血統を証明できる者にのみ「完全な市民権」を与えた。1948年に制定された連邦市民権法の下で資格を得た人々には、より劣った形の「準市民権」が提供された。多くのロヒンギャ人は、彼らのルーツの実態にかかわらず、証明を提出することができなかった。人権享受の中核である市民権を失ったロヒンギャ人は集団的に、移動の自由、教育や医療へのアクセス、特に雇用機会などの権利の大規模な侵害に直面し、国外に避難先を求めて退去を続けた。

ラカイン州の国内避難民キャンプ、2012年(写真:Foreign, Commonwealth & Development Office / Flickr[CC BY-ND 2.0])

ロヒンギャ人の苦境に対して、人権団体が虐待を認めたことを除けば、1980年代の大半は目立った国際的な反応はなかった。しかし1988年までには、ビルマ全土の人々が軍事支配の終結と民主主義への復帰を求めて組織化し、デモを行うようになった。これは民主化運動を支持する国際的な注目を集め、特に1991年にノーベル平和賞を受賞したアウン・サン・スー・チー氏は、その活動のために投獄され、一躍有名になった。注目したいのは、ロヒンギャ人は民主化運動には含まれておらず、アウン・サン・スー・チー氏でさえ彼らの闘いへの支持を表明したことはない点だ。民主化運動は軍事弾圧に直面し、何千人もの死者と避難民を出し、やがてロヒンギャの人々へのさらなる迫害へとつながっていった。この時期に、新たな政権が支配権を握り、ビルマという植民地名を捨ててミャンマーと改名した。

民主化運動の鎮圧に成功し、茶番めいた選挙の結果を完全に無視した後、軍政はロヒンギャ人を犠牲にする超国家主義の推進に逆戻りした。1991年の「清く美しい国」作戦は、ロヒンギャ人を「外国人」とみなし、軍事支配者はミャンマーから「外国人」を排除しようとした。1992年、ミャンマーは特にロヒンギャ人が多く居住するラカイン州北部を統制する新しい治安部隊を創設した。この国境警備隊ナサカは、ロヒンギャの結婚の権利を制限し、強制労働、恣意的な土地の差し押さえ、強制移住、過度の税金や強奪を課し、自由に旅行する権利を拒否するなど、ロヒンギャ人の日常生活を大幅に管理するために作られた。このような残虐行為を受け、1991年から1992年にかけて、さらに25万人のロヒンギャ人がミャンマーから脱出した。

国際的な対応は、迫害されているロヒンギャ人の住民に配慮することなく、できるだけ早く事態を解決しようとするものだった。UNHCRとバングラデシュは、ミャンマーから到着した人々に提供するサービスを制限し、さらなる流入を抑止しようとした。UNHCRは、このロヒンギャ人が1951年難民条約の難民であるという明確な証拠があるにもかかわらず、「経済移民」というレッテルを貼ることさえした。その10年前と同じように、バングラデシュとミャンマーは、ロヒンギャ人が生まれ故郷のラカイン州で直面している状況に実質的な改善をもたらすことなく、ロヒンギャ人の「自発的な」帰還、または本国送還を交渉した。国連ミャンマー特別報告者が1993年の時点で、帰還がどの程度「自発的」なものなのか懸念している、と書いたことは注目に値する。UNHCRは、困窮している人々にこれ以上の援助を提供できなくなることを恐れ、本国送還から手を引くことができなかったとも言えるが、一般的には、迫害から逃れてきた人々を適切に保護することができなかったという、保護機関としての失敗として捉えなければならない。UNHCRは、この過ちに対し、ラカインに事務所を設置し、帰還民が直面する状況を監視するという象徴的な弁済措置を取った。

1994年、ミャンマーはロヒンギャ人の子どもたちの出生証明書を拒否し始め、彼らの疎外された状況にさらに拍車をかけた。その後の20年間は、上述のように組織的な人権否定を通じてロヒンギャへの迫害が続いた。2012年、アウン・サン・スー・チー氏とその支持者が国会議員に選出され、ミャンマーに民主化改革がようやく現れた。軍部が議席の過半数を維持していたにもかかわらず、国内各地で人権の改善が見られた。しかし残念ながら、こうした改善はロヒンギャ人には及ばなかった。前述の通り、ロヒンギャ人はミャンマーの市民とはみなされておらず、公式の民族グループとさえ認められていなかったのだ。2012年6月と10月、過激派仏教徒がラカイン州でイスラム教徒のロヒンギャ人に対して攻撃を行い、多くの場合、警察や軍隊が積極的に加担した。これらの攻撃により、数百人のロヒンギャ人が死亡し、数千の家屋が焼き払われ、12万人が国内避難民となった。その後2年間、何万人もの人が避難場所を求めて逃亡した。

ラカイン州で放火現場を眺めるミャンマー国境警備隊の隊員(写真:Screenshot from source video / Picryl[Public domain])

2014年、ロヒンギャ人への迫害はさらにエスカレートした。超国家主義とヘイトスピーチは、過激派仏教徒団体マバタの創設によって顕著に増加した。この団体は、ミャンマーのロヒンギャ人をイスラム主義のジハード運動と国際的に結びつけようとした。このような緊張の高まりを背景に、30年ぶりに実施された国勢調査では、ミャンマー政府は「ロヒンギャ」という言葉を使うことを禁止し、ロヒンギャの人々を調査から完全に排除した。この排除に続き、2015年にはIDカードが剥奪された。彼らの国民IDカードは、明らかに不正確であるにもかかわらず、バングラデシュからの移民であることを示す新しいカードに置き換えられた。その後、政府はロヒンギャの人々の基本的人権をさらに侵害する「人種・宗教法」を制定し、彼らの宗教上の教えを実践する権利、結婚する権利、私生活の権利を制限した。同年11月の選挙における国民民主連盟の成功は、ミャンマーの多くの人々に状況改善の希望を与えるように思われたが、またしてもこの進歩にロヒンギャ人を含めることはできなかった。

2016年、ロヒンギャの小集団がラカイン州の警察署を襲撃し、緊張の高まりは再び暴力へと発展した。彼らは数か所から銃や弾丸を盗み、その報復として、州の治安部隊と地元のナショナリストによる「焦土作戦」が展開された。軍と警察によるロヒンギャ人の殺害、レイプ、村の破壊が広く報道された。これは最大の反ロヒンギャ作戦とミャンマーからの集団逃亡の始まりに過ぎなかった。

2017年8月、アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)として知られる武装ロヒンギャ集団が、ミャンマーの治安部隊を攻撃して反撃した。これに対して軍は作戦を開始し、国連はこれを「民族浄化の教科書的な例」と評した。大量殺戮、レイプ、放火など広範な残虐行為が報告され、70万人以上のロヒンギャ人がバングラデシュに流出し、世界最大級の難民危機が発生した。彼らが国境を越えてバングラデシュに逃げ込むにつれ、コックスバザールのクトゥパロン難民キャンプの人口は100万人近くまで膨れ上がった。

2018年と2019年、国連人権理事会はロヒンギャ人に対して行われたとされる虐待を調査するため、ミャンマー独立国際事実調査団(IIFFMM)を招集した。同ミッションは、ロヒンギャ人を対象とした「掃討作戦」において「大量虐殺行為」が行われたことを明らかにした。その後、2020年1月、国際司法裁判所(ICJ)はミャンマーに対し、さらなる大量虐殺行為を防止するための措置を講じるよう命じた

2021年のクーデターでは、民主的に選出された政府の権力が再び軍事政権に奪取された。超国家主義的な軍政はロヒンギャの迫害を続けているが、基本的には国内で軍事支配に反対する人々を弾圧することに注力している。これにより一時的にロヒンギャ人への圧力は緩和されたかもしれないが、同時に、ロヒンギャ人が直面する国外避難の危機への国際的な関心も低下している。また、情勢の不安定さにより、現地に残るロヒンギャ人への国際援助の提供が妨げられている。

アルジャジーラのデータを元に作成

ロヒンギャ人の歴史は、迫害と逃亡の連続である。大規模な集団移住を引き起こすような暴力と抑圧の高まりという具体的な出来事がある一方で、それ以外の期間にも、終わらない虐待と先祖代々住み慣れた故郷を離れる流れが続いている。彼らは何世代にもわたり、すべての人間に与えられるべき基本的人権を否定されてきた。さらに、彼らの生存権そのものが国家によって争われ、彼らは無国籍となり、基本的な保護制度もない。

ミャンマー国外での生活

ロヒンギャ人のディアスポラに関する議論の多くはバングラデシュに焦点を当てているが、ミャンマーから逃れてきた人々の行き先は隣国バングラデシュだけではない。地理的なアクセス、既存のコミュニティ、すでに活動している国際機関があることから、バングラデシュは最も到達しやすい場所である。しかし、タイやマレーシアへの南部ルート、インドネシアへの危険なボートの旅、あるいはバングラデシュから南アジアや南西アジアの他の目的地へ向かうなど、代替手段を求める人々もいる。そしてもちろん、多くはミャンマー国内で避難生活を余儀なくされている。

バングラデシュ、特にコックスバザール地域は、ロヒンギャ難民が世界で最も集中している地域である。ミャンマーと国境を接するこの地域は、多くの難民にとって最もたどり着きやすい場所であり、国内外の支援が提供されているが、同時に多くの課題も抱えている。

第一に、何十万人もの難民が押し寄せると、受け入れコミュニティに大きな圧力がかかる。例えば、医療や教育、仕事、食料へのアクセスが減少する。バングラデシュの苦しい経済も、受け入れコミュニティの利益を守りつつ、100万人近い難民の基本的なニーズを満たす必要に迫られている。財政負担は年間10億米ドル以上と推定され、十分な国際支援がない中、そのほとんどがバングラデシュによって賄われている。数週間で70万人のロヒンギャが国境を越えた2017年の危機の初期段階には、より多くの資金があったが、国際人道資金の漸減に伴い、必要な資金の半分以下にまで落ち込んでいる。このため、流入するロヒンギャが利用できる支援は制限され、地元住民のための支援も減少し、両者の間に緊張が生じている。

コックス・バザールの難民キャンプ内で診察を受ける子ども(写真:MedGlobal Org / Flickr[CC BY-NC-ND 2.0])

さらに、キャンプ地は環境悪化の原因であり、またその犠牲者でもある。例えば、拡大し続けるキャンプのために、広大な森林地帯が伐採されている。これは洪水のリスクを高めるなど、地域に大きな環境破壊をもたらしている。他方で、キャンプ地は気候変動の悪影響を受けやすく、ロヒンギャの避難民の不安定な立場をさらに悪化させるだけでなく、地域資源や受け入れコミュニティにもさらなる圧力をかけ、ひいては緊張を高めている。

バングラデシュ政府は、コックスバザール地域の圧力を軽減するため、2020年に3万人のロヒンギャ難民を移転させた。彼らの新しいキャンプは、異常気象や気候変動の悪影響にさらに脆弱な沈泥島、バサン・チャーにある。しかし、一部の人権団体からは、沖合60kmにある島の監獄のようだと評されており、そこに閉じ込められている人々には移動の選択肢がほとんど残されていない。

難民キャンプに詰め込まれた人々にとってのもうひとつの大きな懸念は、感染症のリスクである。ジフテリア、はしか、コレラの蔓延は現在も懸念されているが、新型コロナウイルスのパンデミックの際には、全世界が健康危機に見舞われたが、難民キャンプにおけるリスクは高所得国よりも顕著であった。人口密度が1平方キロメートルあたり4万人というキャンプでは、ソーシャルディスタンスを取ることは不可能である。ましてやマスクの提供などはまったく非現実的だった。手洗いのための石鹸やきれいな水など、十分な水、衛生設備(WASH)設備さえも、時には数百人がひとつの蛇口を共有しているキャンプでは、多くの人が利用できなかった。その結果、このような状況で暮らす難民は、新型コロナウイルスのような伝染病に特にかかりやすくなる。新型コロナウイルスがキャンプに与えた影響に関する正確なデータを把握することは難しいが、推奨されている予防策がキャンプでは基本的に不可能だということがパンデミックによって示された。2022年4月までに、パンデミック発生当初から実施された検査は10万件に満たず、そのうち約6%が陽性だった。

バングラデシュを越えて、ロヒンギャ難民は他の困難にも直面している。特に困難なルートのひとつは、インドネシア、マレーシア、あるいはオーストラリアを目指すボートだ。人身売買のリスクに晒されること、そして長い船旅の危険性である。無国籍の人々や難民は特に人身売買の被害に遭いやすく、彼らは密輸業者(中には人身売買業者と判明する者もいる)の助けを借りて脱出する。その絶望感から、彼らはどんな助けでも受け入れようとし、逆に、非正規の身分や警察、治安部隊との過去の苦い経験から、当局に助けを求めようとはしない。そのため、ロヒンギャ難民が結婚目的で人身売買されたり、現金で身代金を要求されたり、性的虐待が広まったりしている。輸送してくれる密入国者を見つけたとしても、船旅の危険は大きい。ボートは往々にして耐航性がなく、乗客のための備品や基本的な航行や安全装備がないことさえある。人身売買を免れ、船旅を生き延びた幸運な少数の人々には、さらに多くの障害が待ち受けている。

洪水を逃れ、コックス・バザールの難民キャンプ内で移動する難民(写真:UN Women Asia and Pacific / Flickr[CC BY-NC-ND 2.0])

2013年、オーストラリア政府は難民を海上で阻止し、国外(特にナウル島とマヌス島)に収容し、オーストラリアへの受け入れを拒否するという違法な政策を実施した。このプロセスは「オフショアリング」あるいは「外部化」と呼ばれ、オーストラリアに限ったことではない。国際法上の義務があるにもかかわらず、オーストラリアは難民の受け入れを拒否しただけでなく、収容された人々に亡命措置を提供するというニュージーランドの政策を妨害するまでに至った。この違法性は注目に値する。これにより、数千人のロヒンギャ人(他の国籍の人々も含む)が、帰国するか勾留されたままかという最後通告を受け、離島に無期限に勾留された。これは明らかに、生命や自由が脅かされる場所への帰還を禁止する国際法(ノン・ルフールマン)や、亡命を求める権利に違反している。その結果、何千人ものロヒンギャ人が何年も拘留され、祖国の迫害に戻ることを望まず、また安全な避難所に向かって前進することもできない状況となった。ナウルとマヌスの施設は10年近くで収容された人は4,000人を上回った

ミャンマーでの大量虐殺行為や基本的人権の制度的否定から逃れることは、多くのロヒンギャの人々にとって希望に満ちた第一歩かもしれないが、難民キャンプでの生活には、彼らの生活や自由を脅かす別の課題がつきまとう。例えば、地域資源をめぐる受け入れコミュニティとの緊張関係は、彼らの平和な生活を脅かす。また、国外からの人道的支援の欠如は、医療、教育、雇用、その他の基本的権利へのアクセスが制限されている。さらに、環境上の危険や病気に晒されることで、安全が脅かされている。これらの脅威は、「洪水、火災、新型コロナウイルスがバングラデシュのロヒンギャ難民に新たな試練をもたらす」と宣言したUNHCRの見出しがよく表している。キャンプを越えてより良い生活を求める人々にとっても、多くの障害が立ちはだかる。難民は船旅によって、人身売買のリスク、海の危険、そして多くの場合、潜在的な受け入れコミュニティからの敵意にさらされる。

今後の展望

ここ数十年は、ロヒンギャ人にとって厳しい時代であった。ミャンマーが独立して以来、この民族集団はその存在そのものが疑問視され、権利が否定され、故郷をほとんど奪われてきた。脱出した人々にとっても、留まっている人々にとっても、現在の状況は耐えられるものではない。あと何世代のロヒンギャ人が、基本的な生活水準や必要不可欠な権利を否定されることになるのだろうか。何かを変えなければならないが、どのように、そしてどの程度まで状況が改善されるかはまだ不透明である。アメリカン・インスティテュート・オブ・バングラデシュ・スタディーズ(AIBS)のスルタン・モハメド・ザカリア氏は、ロヒンギャに起こりうる以下の3つの道筋を提示している。

コックス・バザールの難民キャンプ内での職業訓練の様子(写真:UN Women / Flickr[CC BY-NC-ND 2.0])

第1には、ミャンマーの政治情勢が変わり、避難民であるロヒンギャの人々がラカイン州に帰還できるようになること。もちろん、単に地理的な問題を解決するためであってはならない。人々が尊重され、権利が守られ、政治生活への参加が保障される場所への帰還でなければならない。ミャンマーの公式な民族集団として承認され、国民に完全な市民権が与えられて初めて、ロヒンギャは本来の権利を完全に享受し、迫害と暴力の連鎖を確実に終わらせることができる。こうしたことは、政治情勢が劇的に変化して初めて実現する。少なくとも近い将来においては、それが可能である兆候は見込めないが、ロヒンギャの人々にとっては最善の未来であろう。

第2は、現在の状況が続くことであることる。専門家たちは、現在避難民となっている大量の難民が、教育、雇用、最低限度の生活を否定され、ミャンマー、バングラデシュ、そしてより広い地域に人道上も安全保障上も問題をもたらしていると警告している。

第3のシナリオは、理想的な方法ではないにせよ、最も現実的なものかもしれない。バングラデシュの受け入れコミュニティへの融合と第三国への再定住を組み合わせることで、ロヒンギャの人々が基本的人権だけでなく、安全や安心を享受できる新しい生活を始めるための最も可能性の高い手段を提供できるかもしれない。これは、この危機に対処するために国際的な連帯が実現されて初めて可能になる。最も多くの避難民を受け入れているバングラデシュを支援するためには、さらなる援助が必要である。援助の拡大は、地元住民と難民の両方の物質的ニーズを満たすことを可能にするだけでなく、ロヒンギャ人がコミュニティに馴染み、より多くの権利を徐々に享受できるようにするためのバングラデシュ内の政治的意志を構築するのに役立つだろう。第三国がロヒンギャ難民を再定住させる意欲を持つような、さらなる国際的支援も必要である。そうすることで、バングラデシュへの負担がいくらか緩和され、また、より良い生活を求めるロヒンギャ人により多くの機会を与えることができるだろう。

この第3のシナリオを阻む最大の障害は、依然として政治的意思である。過去10年間、アメリカとヨーロッパでは孤立主義的な政策が台頭し、再定住の減少につながっている。2014年には、再定住を待つ難民の15%以上が実際に再定住に至ったたが、2022年には8%未満だった。さらに、ロシアの侵攻によって、多くの国がウクライナに援助を送るようになり、また、ガザにおける大量虐殺を受けて、各国はパレスチナ人保護のために動く側面もあり、政治的な焦点がロヒンギャ危機から逸れている。どれも現在宙ぶらりんの状態にあるロヒンギャ難民にとって好ましくない状況である。各国の政治的な意志が、この長期化する危機への対処を支持する方向に転換することが不可欠である。さもなくば、ロヒンギャ人は避難民かつ無国籍のままという最悪のシナリオに向かって進むことになる。

 

ライター:Brian Aycock

翻訳:Madoka Konishi

グラフィック:Ayane Ishida

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