マリにおける持続的な統一と安定の追求

by | 2026年05月21日 | Global View, サハラ以南アフリカ, 中東・北アフリカ, 政治, 法・人権, 紛争・軍事

2026年4月25日、首都バマコを含むマリ中部および北部の複数の地域が、同時多発的かつ前例のない攻撃の標的となった。マリ当局の不意を突いたと思われるこれらの攻撃は、アザワド解放戦線(FLA)とイスラムとムスリム支援団(JNIM)の犯行であることを示す特徴を備えている。これらの事件の直接的な結果として、国防相が死亡し、キダルが攻撃側に制圧され、その後も攻撃が続いた。

これらの出来事により、この地域全体が直面している深刻な状況に地域外での注目も集まった。国際テロ指数(GTI)によれば、マリとその近隣諸国のいくつかは、テロの影響を最も大きく受けている国々として位置づけられている

マリ危機を歴史的、政治的、経済的な観点から捉えることは、現在の不安定な状況に至った経緯を理解する助けとなるだろう。これらの観点を検証することが本記事の目的である。

マリ政府の行政庁舎、バマコ(写真:DemarK / Shutterstock.com)

概観

西アフリカに位置し、総面積124万平方キロメートルを有するマリ共和国は、ニジェール、アルジェリア、モーリタニア、セネガル、ギニア、コートジボワール、ブルキナファソと国境を接する内陸国である。2024年時点での推計人口は2450万人で、ソニンケ、ドゴン、フラニ、トゥアレグ、バンバラ、マリンケなど多様な民族で構成されている。それぞれの民族は固有の言語を持つが、マリ人の約80%がバンバラ語を話す。フランス植民地支配の結果、公用語としてはフランス語が用いられている。

マリ経済は長らく農産物輸出に依存してきたが、近年は金の輸出が経済を支え、現在ではアフリカ第3位の金産出国となっている。2025年の国内総生産(GDP)は約220億米ドルで、1人当たりGDPは約900米ドルであった。1日7.4米ドルという「倫理的貧困ライン」以下で暮らす人々の割合は、2021年時点で85%とされる。北部にはサハラ砂漠が広がり、国土の大部分を占めている。この地域の生活条件は、中部や南部と比べてより厳しい

植民地化以前の歴史

現在のマリの領域は、かつていくつかの帝国や王国の一部であった。西サヘル一帯は、政治的にも商業的にも重要な地域だった。最初に知られている帝国はガーナ帝国で、ワガドゥ帝国とも呼ばれる。3世紀ごろ、ソニンケ人がこの帝国を建国し、その勢力は主として金と塩の交易の支配およびよく機能した課税制度に由来していた。北方からの攻撃や内部対立の激化により、ガーナ帝国は11世紀に衰退した。

1235年のキリナの戦いで、スンジャタ・ケイタ氏はソッソ王スマンギュル・カンテを破り、いくつかの王国を統合してマリ帝国を樹立した。この勝利の結果としてクルカン・フーガ憲章(マンデ憲章)が制定された。この憲章は、世界史上最も早い時期の人権宣言の一つとされる。

カタロニア地図帳に描かれたマンサ・ムーサ(写真:Gallica Digital Library / Wikimedia Commons[Public domain])

14世紀、マンサ・ムーサ氏の治世下でマリ帝国は最盛期を迎えた。1400年代後半になると、ソンガイ帝国がマリ帝国に取って代わった。ソンガイ帝国の中心はニジェール川沿いのガオの街である。ソンガイ帝国はアフリカ最大の王国に成長したが、1591年に崩壊した。その後継として、セグー王国とカアルタ王国(いずれもバンバラ系)、マシナ帝国、トゥクルール帝国などが現れた。こうした歴史的背景のもとで、フランスの植民者が到来したのである。

植民地化

現在マリとして知られるフランス領スーダンの併合は、長く暴力的な過程であった。この地域は1892年に完全にフランス領西アフリカに組み込まれた。植民地時代は、経済的搾取、新たなインフラ整備、そして深い文化的・社会的変容を特徴としていた。フランスの利益のための換金作物として導入された綿花栽培は、地域経済に悪影響を及ぼした。フランス植民地体制は、農民に綿花栽培を強制しただけでなく、課税と強制労働も課した。

1910年代には、サヘル砂漠に住む半遊牧の牧畜・交易民であるトゥアレグの集団が、すでに北部フランス領スーダンにおけるフランス植民地支配に抵抗していた。この初期の反乱は、干ばつや貧困、そして現地の対立する諸同盟によって形づくられた。フランス軍は、敵対するトゥアレグおよびアラブ系集団の支援を得て、これらの蜂起を厳しく弾圧した。

教育を受けた人々の増加と第二次世界大戦でのフランスの敗北により、独立を求める動きが高まった。西アフリカの初期エリートたちは汎アフリカ民主連合ラッサンブルマン(RDA)を結成した。教師だったモディボ・ケイタ氏は、RDAのフランス領スーダン支部であるスーダン連合RDAを通じてマリ独立運動を率いた。社会主義者かつ汎アフリカ主義者であったケイタは、フランスから経済的・政治的に自立するため、西アフリカを統合した連邦国家を構想していた。

1959年、フランス領スーダンとセネガルはマリ連邦を結成し、1960年6月20日に独立を達成した。しかし、ケイタ氏とセネガルのレオポール・セダール・サンゴール氏との政治的対立により、連邦は急速に崩壊した。セネガルが連邦を離脱すると、残された領域は1960年9月22日にマリ共和国として独立を宣言し、初代大統領にモディボ・ケイタ氏が就任した。

独立後のマリ

マリの独立は近隣諸国と同様、フランスの強い影響力により不完全なものであった。その一例が、フランスがアフリカ植民地向けに1930年代に創設した通貨CFAフランの利用である。独立後も、旧植民地の多くはこの通貨を使い続けた。ケイタ政権下で、マリは一時的にCFAフラン圏から離脱した。冷戦期における彼の目標は、フランスへの依存度を下げ、中国やソ連を含むより幅広い外交関係を構築することだったと考えられる。

ケイタ政権は、1963〜1964年に最初の大規模なトゥアレグの反乱に直面した。この反乱はキダル周辺で始まり、マリ軍は激しい対反乱作戦によりこれを鎮圧し、多くの人々がアルジェリアや周辺諸国へ亡命することになった。

1968年、軍人ムーサ・トラオレ氏がクーデターによりケイタ政権を打倒した。彼は軍事指導者として統治した後、1985年に大統領選挙を実施し、自ら当選した。同年、豊富な鉱物資源があるとされたアガシェル地帯の領有をめぐり、マリとブルキナファソの間で戦争が勃発した。この戦争は1986年に終結し、最終的な和解が成立した。

1990年、マリでは再びトゥアレグの反乱が発生し、政府は再度これを鎮圧した。ガオやその他の北部都市周辺での紛争激化により、市民の避難が進んだ。1991年にアルジェリアの仲介で締結されたタマンラセット合意は、停戦、非武装化、北部地域へのより大きな自治権付与を定めた。厳しい経済状況や干ばつ、そしてマリ国民の民主化への願いが、学生や労働組合によるストライキを後押しし、国を揺るがした結果、アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ将軍率いる軍が1991年3月にトラオレを追放した。

トゥアレグ戦闘員、マリ北部、2012年(写真:Magharebia / Flickr[CC BY 2.0])

移行政権は1992年に議会選挙および大統領選挙を実施した。決選投票で歴史家出身のアルファ・ウマル・コナレ氏が大統領に選出された。彼の任期中、トゥアレグ武装勢力の反乱に端を発した緊張は、1994年までにトゥアレグ蜂起を超えて、定住民のソンガイとアラブ系集団との間のコミュニティ間暴力へと発展した。1995年に締結されたブレム合意は、民族間暴力の沈静化に寄与した。翌年ティンブクトゥで開催された「平和の炎」イベントでは、武器が焼却され、トゥアレグおよびソンガイの武装集団解体の節目となった。

コナレは1997年に再選され、2期目の任期を務めた。2002年には、かつてクーデターを率いたトゥーレ氏が民間人候補として大統領選に出馬し、当選した。

紛争と「民主主義」

2000年代以降、いくつかのトゥアレグ反乱に加え、アルジェリアではサラフィスト説教・戦闘集団(GSPC)が台頭した。同組織は2003年以降、マリ北部を拠点としてサヘル地域で活動し、やがてイスラム・マグリブ諸国のアルカイダ(AQIM)へと発展した。

政府から見捨てられているという感情や過酷な気候条件により悪化した北部の継続的な紛争を受け、トゥーレ政権は2005年に北マリ開発庁(ADN)を設立した。ガオ、ティンブクトゥ、キダルに投資を集中させ、北部の開発格差是正を目指したのである。しかし、トゥアレグ運動から分裂した民主変革同盟(ADC)が2006年に再び反乱を起こした。1か月にわたる戦闘の後、キダルに平和と安全、繁栄を取り戻すとともに北部の経済成長を促進することを目的としたアルジェ合意が締結された。

トゥーレ氏の第2期(2007〜2012年)の間、一部のトゥアレグ勢力はアルジェ合意の枠組みを拒否し、軍基地への攻撃を継続した。2009年の激しい対反乱戦の後、キダルで行われた和平式典では数百丁の銃が引き渡されたものの、一部の勢力は和平プロセスの枠外にとどまった。同年、ガオ地域にコカインを満載した貨物機が着陸したと報じられ、政府の北部統制の困難さが浮き彫りとなった。マリは南米からヨーロッパへ運ばれる麻薬の取引ネットワークの一角を占めるようになっていた。

ケイタ大統領の就任宣誓式、2018年(写真:UN Mission in Mali / Flickr[CC BY-NC-SA 2.0])

北部の不安定な状況にもかかわらず、マリは1992年から2012年まで、西アフリカにおける民主的統治と安定の模範とみなされてきた。このいわゆる民主的かつ安定した時期こそが、現在の安全保障状況が徐々に形作られた時期でもある。

1990〜2000年代の民主主義の前進は、汚職や統治不全といった問題により損なわれ、市民の信頼は徐々に低下していった。いくつかの団体は、1968年以降の様々な弾圧の被害者の苦しみを軽減するため、歴代政権に対し「1991年3月26日基金」の設立と実施を求めたが、実現には至らなかった。

マリを含む西アフリカのいくつかの国々では、「民主主義」や「良い統治」は、多くの場合、政治家個人の利益のための利益率の高い仕組みとなっている。アフリカで政治に関わることは多くの場合、「良い統治」や投資家向けの安定性といった形式的な指標にこだわるドナーや投資家を宥和することを意味するとも指摘される。これはしばしば一般市民の利益を犠牲にして行われ、政治的進歩に貢献しうる成熟した真の野党が育たなかった一因ともなっている。政党が経済・社会政策に与える影響はきわめて限定的であり、その多くは外的要因によって決定されているように見える。しかし、政治参加は権力と富を獲得する手段になりうる。

2012年の危機とその余波

2012年、マリに新たな不確実性の時代をもたらしたのは、再燃したトゥアレグ分離主義運動と、トゥーレ政権の打倒という二つの出来事であった。2011年、リビアでのムアンマル・カダフィ政権崩壊の余波を受け、トゥアレグの反乱が勃発した。リビアでカダフィ側として戦った経験と重武装を備えた数千人のトゥアレグがマリに帰還し、アザワド解放民族運動(MNLA)を結成した。2012年1月、MNLAは急進的ジハード主義組織の一部と協力し、キダル、ガオ、ティンブクトゥなど北部の主要都市を瞬く間に掌握した。

その後3月、バマコで不満を募らせていた軍部がクーデターを起こし、約20年にわたる民主政が終わった。北部ではアザワド共和国が宣言され、2012年4月からこれらの地域でシャリア法が施行された。しかし、MNLAとジハード主義組織アンサール・ディーンは異なる目的を追求していた。前者は独立を目指していたのに対し、後者はより宗教的な目的のために戦っていたのである。

国連車両への攻撃後の様子、2019年(写真:UN Mission in Mali / Flickr[CC BY-NC-SA 2.0])

その後、北部都市を非国家武装勢力から解放し、マリ国家の権限を回復させることを目的とした国際的な介入が行われた。マリ政府からの要請を受け、フランスは2013年1月にセルヴァル作戦を開始した。ガオとティンブクトゥを奪還した後、フランス軍とマリ軍はキダルを制圧した。8月には、後に最も死傷者の多い国連平和維持活動の一つとなる国連マリ多次元統合安定化派遣団(MINUSMA)が展開した。同年末の選挙では、1990年代後半の首相経験者であるイブラヒム・ブバカル・ケイタ氏が大統領に就任した。

その後も北部での戦闘は続き、2014年にはバルカン作戦がセルヴァル作戦に代わった。政府と北部の分離主義勢力は2015年に和平合意に達したが、イスラム過激派による暴力や住民間の衝突は収まらなかった。AQIM系のジハード組織は2017年に統合され、イヤド・アグ・ガリ氏を指導者とするJNIMが誕生した。JNIMはこの地域で起きた多くの攻撃の犯行声明を出しているが、大サヘル地域のイスラム国(ISGS)と呼ばれるライバル組織との間で主導権争いも続いている。これに対しフランスは、対テロ対策を強化するため、5か国のサヘル諸国によるG5サヘル部隊の結成を支援した。

軍事統治と地域再編

2020年までに、悪化する治安情勢への対応をめぐる不満が高まり、ケイタ大統領に対する抗議行動が起こった。その結果、2020年と2021年にアシミ・ゴイタ氏率いるクーデターが発生し、軍事政権が樹立された。これらのクーデターを支持する世論の背景には、「無能」と見なされていた政治エリートに対する国民の不信があった。また、主にフランスや西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)といった外国パートナーが、拡大する治安悪化の抑制に貢献できていないことへの不満も存在した。

こうした状況の中で、ゴイタ政権は主権を掲げて自らの政策を正当化し、強化し、支持を獲得しようとした。軍事政権は、フランスがマリの安全保障アジェンダにおいて非効率的であるだけでなく、むしろ妨害的な役割を果たしていると主張した。ECOWASもまた、治安情勢の誤認、新政権への制裁、そして迅速な文民統治への移行要求のために、同様の存在として描かれた。新政府は、ほかにも2014年以来駐留していたフランスのバルカン部隊を追放し、MINUSMAの撤退を要請するなどの措置をとった。

マリの隣国であるブルキナファソとニジェールも、類似の状況のもとでクーデターと軍事統治を経験した。これらの国の新政権は共同でサヘル諸国同盟(AES)を結成した。その後、この3か国はECOWASを離脱した。こうした決定は、ロシアとの関係改善によって後押しされた。ロシアは2023年のMINUSMA撤退後、マリがキダルの支配権を掌握するのを支援したのである。キダルでの成功は、ロシアとの有益なパートナーシップの証として称賛され、バマコ政府はこれを、自国が領土主権と安定を回復する能力を持つという事例として挙げている。

マリとロシアの国家元首、2023年(写真:President of Russia, Kremlin / Wikimedia Commons [CC BY 4.0])

マリの新政権の統治は、近隣諸国と同様に、反対意見の抑圧、市民的自由の制限、政党活動の停止に特徴づけられている。マリやAES諸国から亡命した政治家たちは、民主的統治への復帰を求め、2026年4月初めにサヘル民主派同盟を結成した。

続く不安定

ロシアによる支援の約束やAES統合軍の創設にもかかわらず、国内の治安はさらに悪化しているように見える。2025年後半には、武装勢力がバマコ政権とロシア人パートナーへの圧力を強めるため、バマコへの石油供給を妨害し始めた。前述のとおり、2026年4月には、2024年に結成されたトゥアレグ分離主義武装勢力の新たな連合体であるFLAがJNIMと協力して同時多発的な大規模作戦を展開し、国防相を死亡させただけでなく、ロシア軍にキダルからの撤退を余儀なくさせた。

これらの出来事により、ロシアとの関係強化がより良い治安改善につながるという軍事政権の主張には疑念が生じている。政府は依然として、この紛争を主権および外国勢力の干渉の問題として描き続けているにもかかわらずである。情報源によると、フランスウクライナの軍事情報機関を通じて間接的にFLAを支援しているとされる。これは、マリにおいてロシアとウクライナの代理戦争的な側面が存在することを示唆しており、ロシアの影響力を抑えようとするフランスの思惑も絡んでいる。

4月、FLAはガオとティンブクトゥの奪取を目指すと発表した。一方、マリ政府は反乱勢力およびその協力者に対する一斉取り締まりを開始すると宣言した。この取り締まりに対しては、すでに人権侵害の可能性に関する厳しい批判が寄せられている。さらに、国防相も兼任するゴイタ大統領は、軍事統治を制度化するのではなく、大統領職に権限を集中させる可能性がある。こうした状況の下で、人道状況は悪化している。武装勢力による道路封鎖の強化により、多くの輸送業者が業務を縮小せざるをえない状況に追い込まれている。

マリ政府は、自らが「テロリスト」とみなすいかなる武装勢力とも対話する計画を持たない。この紛争がどのような終結を迎えるのかは、いまだ不透明である。

 

執筆:ガイウス・イルブード

グラフィック:サラ・マツモト

 

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