2026年6月8日、バングラデシュ国境警備隊(BGB)は、インド側からの「プッシュイン」(※1)試行を阻止したと発表し、同様の試みが他の北部国境地帯でも報告された。一方インドは、送り返しているのは書類のないバングラデシュ人移民だと主張し、国籍確認と送還の遅延についてバングラデシュ側を非難した。これらの事案は、インドのデリーでBGBとインド国境警備隊(BSF)の長官級会談が開かれている最中に発生した。
この対立は、突発的に生じたものではない。バングラデシュはほぼ三方をインドに囲まれており、西・北・東でインド領と接している。両国は4096キロメートルに及ぶインド最長の国際陸上国境と、54本の共通河川、年間約150億米ドル規模の二国間貿易を有している。国境地域には、現代のインド国家とバングラデシュ国家の成立以前から続く言語、同族関係、地域経済のつながりを持つ共同体が存在する。こうした結び付きがあるため、両国関係を形式的な外交だけに還元することは難しい。
関係は、2024年8月の学生主導の蜂起と政権交代以降、とりわけ困難な局面を迎えている。ビザ制限、通商措置、国境での事件、少数派の権利をめぐる非難など、この変化と部分的に関連する要素が圧力を高めてきた。2026年のバングラデシュ総選挙後、両政府は関係再構築への関心を示したが、同じ争点がその取り組みを制約し続けている。
本記事は、2026年にバングラデシュとインドの関係修復の難しさを探る。まず、ベンガル共有の歴史と1947年の分割から、アワミ連盟とインド人民党(BJP)による「黄金期」に至る長期的経緯の中に現在の緊張を位置づける。そのうえで、2024年以降の政治変動が、国境管理、プッシュイン、水資源配分、貿易制限、エネルギー協力をめぐる未解決の争点をどのように露呈させたのかを検討する。
目次
共有されたベンガルから「黄金期」まで
現在のバングラデシュ・インド国境の両側にある領域は、かつて広義のベンガル地域(※2)を構成していた。ベンガルはムガル帝国の支配下にあったが、18世紀に入るとイギリスの支配が拡大し、英領インドの一部となった。1905年から1911年にかけて、イギリスは行政上の便宜を理由にベンガルを分割し、大量のベンガル語話者を東西の州に分けた。1940年代には反植民地運動が英支配を弱体化させ、イギリスは1947年に撤退して英領インドをインドとパキスタンに分割した。ベンガルもまた、その各地区の宗教的多数派におおむね沿う形で分割され、ヒンドゥー教徒が多数派の西部はインドの西ベンガル州となり、イスラム教徒多数の東部はパキスタンの東翼である東ベンガルとなった。
1947年から1971年まで、東側の国境をまたぐ関係は、インドとパキスタンの対立と戦争に規定されていた。西パキスタンによる政治・経済的差別は東パキスタンの自治要求を強め、それがやがて独立運動、さらには独立戦争へと発展した。1971年のパキスタンとバングラデシュ独立運動との戦争では、約1000万人の難民がインドへと逃れた。インドは独立運動に対し、人道・外交・軍事の面で支援を行った。
現在のバングラデシュ、ジェソール攻略(1971年)時のインド軍。(写真:Heinz Baumann / ETH-Bibliothek Zürich / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0)
バングラデシュが独立すると、旧東パキスタン・インド国境はそのままバングラデシュ・インド国境となった。シェイク・ムジブル・ラフマン率いるバングラデシュ政府とインディラ・ガンディー首相率いるインド政府は、安全保障、貿易、戦後復興の分野で緊密な関係を築いた。バングラデシュは戦争後の復興と国家建設に支援を必要としており、インドは東側国境に安定した友好的な国家を求めていた。
この協調は、1975年にシェイク・ムジブル・ラフマンが暗殺され、バングラデシュで政権交代が起きたことで弱まった。1975年以降、軍主導政権と、その後のバングラデシュ民族主義党(BNP)は、インドへの依存を減らし、中国、パキスタン、その他のイスラム教徒多数国との関係拡大を図った。インドは一貫して、自国北東部の治安、越境移動、バングラデシュの地域的パートナー関係に懸念を抱いていた。
関係が改善したのは、シェイク・ムジブル・ラフマンの娘でアワミ連盟(AL)党首のシェイク・ハシナが1996年に首相に就任してからである。2001年にBNPが政権に戻ると関係は再び緊張した。この時期、インドのBJP主導政権は、国境警備、違法移民とされる人々、北東部州近辺で活動する武装組織をめぐる懸念を前面に掲げた。
2009年にALが政権に復帰すると、両国関係は大きく接近した。バングラデシュはインドの反政府武装勢力に対する取締りを行い、トランジットとコネクティビティを拡大した。インドは電力貿易、信用供与、インフラ協力を増やした。この流れは2014年、インドでナレンドラ・モディ首相率いるBJP政権が復活するとさらに強まった。インドは、バングラデシュ政府がインドの安全保障目標と北東部州へのアクセス確保に協力的だとみなしていた。双方の当局者はこの時期を「黄金期」と表現した。
2015年6月、ダッカでインド・バングラデシュ間のバス運行を開始するナレンドラ・モディとシェイク・ハシナ。(写真:インド首相官邸 / インド政府 / Wikimedia Commons / GODL-India)
2024年以降の政治変動とぎくしゃくした再関与
こうした緊密な関係は、2024年8月にシェイク・ハシナ政権が、学生主導の大規模運動によって15年に及ぶ統治の末に崩壊し、深刻な試練にさらされた。ハシナ政権は、権威主義的統治、選挙の公正性をめぐる疑義、反対勢力への弾圧、異議表明の制限、インドへの過度な依存といった点で批判を受けていた。抗議が激化する中でハシナはバングラデシュを離れ、インドに入国して事実上の亡命を求めた。ムハンマド・ユヌスをトップとする暫定政府が2024年8月8日に発足し、政治移行を管理し、選挙実施に向けた準備を進めることになった。
この変化はインドにとっても不確実性を生み出した。インドは、安全保障やトランジット、コネクティビティの面で緊密に協力していた政権を失ったのである。また、東側国境周辺の不安定化、自国民と外交職員の安全、バングラデシュにおけるヒンドゥー教徒やその他少数派への攻撃報告にも懸念を抱いた。インドは必要不可欠ではない外交職員とその家族を退避させつつ、公館の業務は継続した。インドは暫定政府に対し、少数派コミュニティの保護を繰り返し求めた。一方、バングラデシュもインドにおける少数派の権利について逆に問題提起を行った。
ビザや交通の制限は、人と人との往来をさらに狭めた。2024年8月5日以降、双方はビザサービス、貿易、交通路線、進行中のプロジェクトに影響を及ぼす制限的措置を導入した。インドは観光ビザを停止し、医療・ビジネス・二重入国ビザのみを限定的に維持し、バングラデシュ国内のインド・ビザ申請センターの大半を閉鎖した。バングラデシュも、インドとのビザおよびプロジェクト関連の関与の一部を停止・制限した。双方がその後、一部サービスの再開に踏み切った後も、こうした措置が関係正常化を難しくしている。
この間、インドに滞在するハシナの存在は重大な外交上の争点となった。2025年11月17日、バングラデシュ国際犯罪法廷は、2024年の学生主導抗議運動を武力で弾圧した責任を理由に、彼女を不在のまま人道に対する罪で有罪とし、死刑判決を下した。バングラデシュは正式に彼女の引き渡しを要請したが、インドは、帰還には法的保護と適正手続きの担保が必要だと述べた。この身柄引き渡しをめぐる対立は、両政府間の緊張を一層高めた。
バングラデシュは2026年2月に、蜂起後初となる総選挙を実施し、BNPが勝利した。ALは暫定政権下で政治活動を停止されていたため、選挙への参加を禁じられた。BNP党首タリク・ラフマンが首相となり、新政権を樹立した。選挙後、バングラデシュとインドはいずれも関係再構築への関心を示したが、国境での発砲・殺害やプッシュイン、ガンジス川とティースタ川の水資源問題、貿易制限、エネルギーをめぐる争いが、その試みを制限し続けている。
2024年7月、ダッカで警察・軍と衝突する抗議者。(写真:Sk Hasan Ali / Shutterstock)
目の粗い国境での殺害とプッシュイン
国境管理は、長年にわたってバングラデシュとインドの緊張の源となってきた。主な争点は、不規則な移住、密輸、国境フェンスの設置、武力行使、国籍が争われる人々の送還をめぐるものである。インドは、国境が無許可の越境や牛・麻薬・その他物品の移動に利用されているとして、安全保障上の課題と認識している。一方バングラデシュは、事前通告や国籍確認を経ずに行われる国境での繰り返しの殺害とプッシュインに焦点を当ててきた。
国境の物理的・社会的な構造は、インドによる治安取締りと、バングラデシュによる民間人保護・国籍確認の懸念を複雑にしている。オブザーバー・リサーチ・ファウンデーション(ORF)が2025年に発表した分析は、この難しさの背景にある複数の条件を指摘する。国境のおよそ25%は河川で構成されており、フェンス設置が不可能である。国境線近くの164の村では、言語、家族関係、インフラが共有されており、取締りをさらに困難にしている。分析はまた、一部の不法移民に対し、国境ブローカーが偽造のインド身分証を供給していると指摘し、書類が提示されたとしても真偽確認を難しくしていると述べる。
こうした背景のもと、国境での死傷者数やプッシュイン件数をめぐっては見解が分かれている。バングラデシュの人権団体アイン・オ・サリシュ・ケンドラ(ASK)は、2025年にインドBSFによって殺害されたバングラデシュ人が34人、2026年最初の4カ月だけでも少なくとも4人であると記録している。
バングラデシュ国境警備隊のデータによれば、インドBSFは2025年5月7日から2026年1月26日までに2479人をバングラデシュ側へ押し込んだ。インドは彼らを書類のないバングラデシュ人移民と説明したが、バングラデシュはそのうち少なくとも120人はインド国民だと主張した。後に示されたインド側の数字も一貫しない。インド西ベンガル州の州首相は2026年6月8日、約4800人をバングラデシュへ送還したと主張し、同年6月23日にはその数字を1万人に引き上げたが、BSFは2026年3月以降の送還者数を2,390人と報告している。こうしたプッシュインは、インドが2025年4月22日のジャンムー・カシミール州パハルガムでの襲撃事件を受けて、書類のない移民への取締りを強化したことに続いて発生している。
2026年6月のBGB・BSF長官級会議で、インドは、1946年外国人法(※3)に基づく送還候補者2862人の国籍確認が遅れていると非難した。これに対しバングラデシュは、そのうち634人について渡航許可証を発給済みだと説明し、確認の遅れは事前通告や二国間手続きを経ない強制移送やプッシュインを正当化しないとしてインドの主張を退けた。
ヒューマン・ライツ・ウォッチは、一部の追放では身体的な暴力、書類の没収、弁護士へのアクセス拒否が行われたと報告している。また、インド国民やロヒンギャ難民、市民権申請が未決の人々が含まれる事例も記録し、十分な国籍確認を行わないまま、ベンガル語話者のムスリムを標的にしたとみられる送還もあると結論づけた。
インド・バングラデシュ国境(インド・北24パルガナス地区)のフェンス。(写真:ImSonyR9 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0)
水資源配分をめぐる対立:ガンジス川
水資源の共有もまた、長年の緊張要因である。水量、配分ルール、渇水期の流量をめぐる争いは政治的に敏感なままだ。共有河川の中でも、ガンジス川とティースタ川をめぐる争いが最も注目されている。ムフリ川、カワイ川、ゴムティ川、ダルラ川、ドゥドゥクマル川など規模の小さな河川も、バングラデシュとインドが1972年に設立した合同河川委員会(JRC、※4)の場で協議対象となっている。
まずガンジス川を見てみよう。ガンジス川は、インド北部の西ヒマラヤに源を発し、インド・ガンジス平原を流下したのち、バングラデシュへと入る。バングラデシュ国内ではパドマ川と呼ばれる。上流側では、西ベンガル州にあるファラッカ堰によって流量が調整されている。この堰はバングラデシュ国境から約18キロメートルの地点で1975年に稼働した。
堰の主目的は、フーグリー川への水の分流を通じて堆積物を押し流し、コルカタ港の航行可能性を維持することであった。バングラデシュは、この堰が下流域の渇水期の流量を減少させたと主張してきた。同国によれば、この流量減少は、バングラデシュ南西部への塩水侵入、河川生態系の損傷、農業への圧力につながっている。
1996年のガンジス川水資源条約は、ファラッカにおける渇水期の水配分に関する基本枠組みを定めた。インド・ニューデリーで1996年12月12日に署名されたこの30年条約は、ガンジス川の流量が比較的少ない毎年1月1日から5月31日までを適用期間としている。条約は、1949年から1988年にファラッカで記録された歴史的流量データに基づき、利用可能な水を10日ごとの単位で分配している。
流量が比較的多い場合、両国はおおむね同等の水量を受け取る。流量が低下すると、片方の国に最低水量を保証し、もう一方の国が残余を受け取る方式になる。最も渇水期には、両国が交互に、10日ごとに保証された水量を受け取る。具体的には、3月11日から5月10日までの期間、バングラデシュとインドは、10日ごとに順番に35,000キューセク(※5)の水量を受け取ることになっている。
この仕組みは、極端な低流量期には、一方の国に固定的な水量を保証することで、他方の国に残される水が大幅に減ってしまいかねないとして批判されている。ある分析は、この交互配分の仕組みによって、水不足が均等に分散されるのではなく、むしろ偏在しうると指摘した。
インド・カーンプルのガンジス川とガンガ堰。(写真:NiteshSingh6789 / Wikimedia Commons / CC0 1.0)
同じ研究は、バングラデシュが最も渇水期に、条約で保証された水量より少ない水しか受け取れていない場合が多いことも明らかにした。1997年から2016年の間、該当する10日間の約3分の2で、保証水量に達していなかったとされる。また、インド側がファラッカから放流したと報告した水量よりも、実際にバングラデシュ側に到達した水量が少ない事例も記録された。研究は、その一部について、上流での利用、水損失、測定方法の差異が原因となっている可能性に言及している。インドは、自国は条約で定められた計算式を順守してきたとの立場を維持している。
こうした実施面での懸念は、条約が2026年12月に期限を迎えるにあたってのバングラデシュ側の立場を形作っている。2025年9月にインドで開かれたJRC会合で、バングラデシュは最低4万キューセクを保証するよう条約の改定を求めた。インドは、国内の水不足や州レベルの政治的制約を理由にこれを拒否した。したがって、条約の更新問題は依然として未解決の二国間課題である。
水資源配分をめぐる対立:ティースタ川
ティースタ川をめぐる争いは、ガンジス川と異なり、拘束力のある水資源配分条約が存在しない点に特徴がある。ティースタ川は東ヒマラヤに源を発し、インドのシッキム州と西ベンガル州を流れたあと、バングラデシュ北部に入る。両国はいずれも灌漑にこの川の水を利用している。
インドは1984年、ティースタ川における大規模プロジェクトであるガジョルドバ堰を完成させたが、用水路や配水ネットワークの一部は未完のままで、建設が続いている。この事業は、西ベンガル州北部6地区での灌漑のほか、水力発電と洪水調節を目的としている。バングラデシュ側のティースタ堰プロジェクトは1990年に完成しており、約75万ヘクタールを対象とする設計である。両プロジェクトは、渇水期の限られた流量に依存している。
ORFバングラ・プラットフォームが紹介したバングラデシュ人専門家によれば、インドの上流ダムや運河による分水の結果、ダム建設前に推計されていた渇水期流量6,710キューセクは、現在では200~1,500キューセクの範囲に減少したとされる。彼らは、バングラデシュ側の渇水期灌漑に必要な日量を約5,000キューセクと試算している。報告されている流量は、そのおよそ4~30%にすぎないことになる。インドはこれらの数字を公的に確認していない。
ティースタ水配分をめぐる交渉は1951年に始まった。1983年、JRCはティースタ川の水をインド39%、バングラデシュ36%、残り25%を未配分とする案を提示した。その後の交渉で、新たな案が練られた。2011年、インド中央政府は、ティースタ川の水をインド42.5%、バングラデシュ37.5%とする暫定合意案を準備した。
バングラデシュ北部のティースタ堰。(写真:Shafiul Islam Shaikot / Wikimedia Commons / CC BY 4.0)
当時西ベンガル州首相だったママタ・バナジーは、ティースタ川の水に依存する同州北部農家への影響を理由に、この提案への支持を拒んだ。インド憲法の州リスト第17項では、水資源は州の権限事項とされている。そのため、実務上、西ベンガル州はティースタ流量をめぐる中央政府合意に事実上の拒否権を持つ。この合意案は拘束力のある条約に転化されなかった。
こうした長期の行き詰まりは、中国をこの争いに引き込む結果となった。2024年8月にシェイク・ハシナ政権が崩壊した後、バングラデシュは、浚渫や治水工事を含む大規模事業であるティースタ川包括的管理・再生プロジェクトへの中国資金の導入を模索し始めた。同プロジェクトの費用は10億米ドル超と見積もられている。
2026年6月25日に北京で開かれた二国間会合で、バングラデシュと中国は事業への協力強化に合意した。プロジェクト対象地域はシリグリ回廊(※6)近辺に位置するため、インドは中国の関与を戦略的観点から懸念をもって見ている。ティースタ川はインド領からバングラデシュへ流入するため、いかなる解決策もインドの同意を必要とする。ガンジス川について拘束力のある紛争解決メカニズムが存在せず、ティースタ川についてはそもそも条約がない現状では、両河川は上流側の一方的判断にさらされている。
貿易・エネルギーと蓄積した二国間の緊張
貿易をめぐる対立も、2024年の政治変動後に激しくなった。2025年4月、インドは、バングラデシュの衣料品輸出業者がインドの港湾・空港経由で第三国市場へ貨物を送ることを認めていた積替え施設を撤回した。インドは、混雑、遅延、インド側輸出業者のコスト増を理由として挙げた。その後まもなく、バングラデシュは自国紡績工場の保護を名目に、陸路でのインド産糸の輸入を制限した。しかし、この措置により、国内の糸価格が8~12%上昇し、自国の衣料品メーカーのコスト増を招く形となった。
インドは続いて2025年5月、国境の陸路検問所でバングラデシュ産衣料品など複数製品の輸入を禁止した。衣料品の輸入自体は、コルカタ港とナーヴァ・シェヴァ港を経由する場合に限って認められており、全面禁輸というより輸入経路の変更だった。インドの繊維メーカーは、この措置によって国内製品への需要が高まると期待したが、インド側のバイヤーは輸送経路の長期化、コスト増、供給途絶のリスクに直面した。インドの港湾制限は、バングラデシュの輸出経済の中核をなす分野に打撃を与えた。既製衣料品は同国輸出収入の80%超を占めているからである。
バングラデシュ・インド国境(バングラデシュ・シレット)にあるタマビル陸港。(写真:Masum-al-Hasan Rocky / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0)
エネルギーは、貿易とは別だが関連する争点である。バングラデシュは、国境をまたぐ取り決めに基づき、インドから約1,160メガワットの電力を輸入している。また、2017年に署名された25年間の電力購入契約に基づき、インドのアダニ・グループからも電力供給を受けている。
バングラデシュ暫定政府が設置した検証委員会は、2026年1月、アダニからの電力について、他のインド供給元から輸入している電力と比べて単価が約50%割高であり、その結果、2024~25会計年度に国営バングラデシュ電力開発公社に最大41.3億米ドルの損失をもたらしたと結論づけた。委員会は法的措置を勧告し、バングラデシュは契約の再検討を求めた。これに対しアダニ・パワー側は、自社の電力価格は競争力があると主張し、数億米ドル規模とする未払い金の清算をバングラデシュに促した。
「決裂」ではなく、難しい再出発
バングラデシュとインドの関係は緊張しているが、断絶には至っていない。バングラデシュで起きた2024年以降の政治変動は、アワミ連盟政権期には一定程度管理されながらも解決されていなかった国境管理、河川の水配分、貿易、エネルギーをめぐる争点を露わにした。両政府はその後、関係の再構築への関心を示している。次の段階は、バングラデシュとインドの政治的な立場に左右されたままではなく、こうした紛争が正式な二国間の枠組みに移行するかどうかにかかってくる。
※1 プッシュインとは、事前通告、国籍確認、二国間の正式な手続きを経ることなく、ある個人を隣国側へ強制的に移送する行為を指す。
※2 ベンガルとは、現在は主としてバングラデシュとインドの西ベンガル州に分かれている、ガンジス・ブラマプトラ・デルタ周辺の歴史的・地理的地域を指す。その住民は一様な単一共同体ではなかったが、多くはベンガル語および関連する地方方言、河川交通、農業、交易、移住、文化実践、家族ネットワークによって結び付けられていた。こうした結び付きは、後に1947年の国境によって分断されることになる地域をまたいで形成されていた。
※3 1946年外国人法:インド中央政府に対し、外国人の入国、滞在、出国を規制する権限を与える法律であり、書類のない外国籍者の退去を含む。
※4 合同河川委員会(JRC):バングラデシュとインドは、共有河川の協力を協議するため、インド・バングラデシュ合同河川委員会を1972年に設立した。これは、1972年3月19日にシェイク・ムジブル・ラフマンとインディラ・ガンディーが発表した共同声明を受けて、同年6月に活動を開始し、同年11月24日にダッカで規約が署名された。委員会には両政府の代表が参加し、共同研究、データ交換、洪水対策、灌漑、水資源配分などに取り組んでいる。
※5 キューセクとは流量の単位であり、1キューセクは、毎秒1立方フィートの水が河川のある地点を通過することを意味する。したがって、この数値は河川に貯留されている水の総量ではなく、水がどれだけ速く流れているかを示す。参考までに、3万5,000キューセクとは、毎秒3万5,000立方フィートの水が通過していることを意味する。
※6 シリグリ回廊:シリグリ回廊は、西ベンガル州に位置する細長い陸地で、本土のインドと同国の北東部諸州とを結んでいる。全長約200キロメートル、幅は20~60キロメートルの範囲で、ネパール、ブータン、バングラデシュに挟まれ、中国チベット地域にも近い。インド北東部への主要な道路・鉄道・軍事補給路がこの回廊を通過するため、インドの当局者や専門家はここを戦略的な弱点とみなしている。こうした地理的条件から、北バングラデシュ、特にティースタ流域近辺でのインフラや河川管理プロジェクトに中国が関与することは、インド側に安全保障上の懸念を引き起こしている。
ライター:Mohammad Istiaq Jawad





















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