「人類は今、分岐点に立っている」。これは国際連合環境計画(United Nations Environmental Programme: UNEP)による生物多様性に関する2020年9月の報告書に述べられた1文である。この報告書によると、「国連生物多様性の10年」(United Nations Decade on Biodiversity)とされた2011年から2020年の10年間で生物多様性に関する20の目標(愛知目標)が定められていたが、達成された目標は1つもなかったということが明らかになった。
現在人類史上最も速い速度で生物多様性が失われており、世界経済フォーラム(World Economic Forum: WEF)の2020年1月の報告書では今後10年間で人類が直面する災いトップ5にも指定されている。この問題に対して一刻も早い対応が迫られる中で、まさに人類は、これ以上の生物多様性の損失を防ぐことができるか否かの岐路に立っている。これほどまでに危機的な状況である生物多様性について、日本の国際報道では報道されているのだろうか。報道されているならばどのように報じられているのだろうか。この記事では世界の生物多様性の状況と生物多様性が失われている原因、そこから生じる問題について説明し、愛知目標設定から今に至るまでの日本の国際報道を分析していきたい。
生物多様性の現状
生物多様性の現状について説明する前に、そもそも生物多様性という言葉自体が示す意味について確認しておきたい。生物多様性とは、単に生物の種類の多様さを示しているだけでなく、遺伝子・種・生態系という複数のレベルにおける多様性のことを意味している。全てのレベルにおいて生物が相互作用することによって、空気や水、食料が持続的に生まれ、地球が生物の住む場所として成り立っている。
それでは実際に、世界の状況について見てみよう。冒頭でも述べたように、現在人類史上最も速い速度で生物多様性が失われており、地球は史上6番目(※1)の大量絶滅期に直面している。これほどの絶滅の規模は6,600万年前の恐竜絶滅期以来となる。過去100年間に400種以上の脊椎動物が絶滅していて、この数は通常の進化の速度であれば1万年以上かかるとされている。また生物が絶滅する速度は年々加速しており、このままの状態が続くと、これから20年の間に500種以上の生物が絶滅すると予測される。上記でも述べたように生物多様性は生物の相互作用によって成り立っているため、1種が絶滅するだけで、他の種の絶滅が引き起こされ、生態系に大きな影響を与えるとされている。さらに人間が、存在している種を正確に把握できているとは限らない。例えば既存の調査で1種と確認されている生物が、実際には数10種も存在している場合がある。そして人間がそれらの多様な種の存在に気がつかないまま、多くの生物が絶滅してしまっていることも少なくないと考えられている。
生物多様性の損失の原因
では一体、これほどまでに生物多様性の状態が悪化しているのはなぜだろうか。UNEPの生物多様性に関する2020年9月の報告書によると、主な原因として大きく5つ挙げられている。1つ目にして最大の要因となっているのは、土地の人為的利用による自然生息地の損失である。特に生物の多様性が豊かな熱帯地域では森林伐採などによって生物の生息地が失われ、その土地が家畜やプランテーションとして利用されるため被害が大きい。また世界全体では、人口増加に伴った土地の農地化・都市化により、湿地の85%、自然生息地としての陸地の75%が失われている。特に植物の損失は土地の人為的利用が最大の要因とされている。現在、全植物種の内約40%が絶滅の危機に直面しているとされる。このような状況に反し、今後も人口は増加し続け、2030年までに、都市の面積が2000年時の3倍に上ると予測される等、自然生息地の人為的利用は増大し続けると考えられている。
2つ目の原因として挙げられるのは過剰な資源開発である。世界中で、漁業や林業、狩猟において持続可能な範囲を超えた資源開発が行われている。また現在その規模も史上最大となっている。特に海洋における生物多様性の損失は乱獲が最大の要因とされており、海洋の66%が影響を受けている。一方で陸上の資源開発も看過できない。森林伐採の世界的な傾向を見てみると、2000年以降そのペースは遅くなってきているものの、国・地域によってその状況が大きく異なる。特に熱帯地域では2010年から2015年の間で3,200万ヘクタールの森林が失われた。
上記の2つの原因に拍車をかける形で、環境破壊行為に対して各国の政府から補助金が行われていることも問題だ。持続可能な範囲を超えた農業や漁業、化石燃料利用に対して政府が補助金を出しており、世界全体で合わせると、その額は環境保護のための取り組みに対する補助金の額を上回っている。また、政府からの補助金だけでなく銀行からの融資も問題とされている。2019年には2兆6,000億米ドルもの金額が大手銀行から環境破壊行為に対して融資が行われたことが明らかになっている。
そして生物多様性を悪化させる3つ目の原因に気候変動がある。地球上の生物として確認されている約900万種の内、少なくとも4分の1の動植物が既に気候変動の影響下にあるとされている。気候変動が生物多様性の損失を直接的に引き起こすだけでなく、気候変動によって食物を損失したり、生息地が変わったことによって新たな捕食者が出現したり、新たな病気が発生することにより、間接的に動植物の絶滅が引き起こされているという側面も大きい。また気候変動は自然生息地の人為的利用や乱獲等の他の要因とも複雑に関わり合うことによって生物多様性に悪影響を与えており、年々その影響力も大きくなっている。
4つ目の原因として挙げられるのは環境汚染である。年間300万から400万トンの溶剤を始めとした有害物質が工業・鉱業・農業から自然環境に投棄されている。その他に、プラスチックゴミが海洋の生物多様性に大きな影響を与えており、1980年以来その量は10倍になり、少なくとも267種の海洋生物に影響を与えている。
5つ目に外来種の増加が挙げられる。グローバル化によってモノやヒトの国境を超えた往来が盛んとなり、その土地に存在してこなかった動植物が侵入して来るようになった。その結果、その土地の生態系システムが崩壊し、元々いた生物の絶滅を引き起こしてしまっている。実際に、1980年以来40%外来種が増加しており、地球全体の5分の1の土地が外来種による影響を受けているとされる。
生物多様性の損失から生じる問題
それではこのような生物多様性の損失からどのような問題が生じるのだろうか。WEFの世界が今後10年間で直面するリスクに関する2020年1月の報告書には大きく4つ挙げられている。1つ目は食料不安である。食料を生産するためには肥沃な土壌やきれいな水、受粉機能が必要となるが、これらは全て生物多様性のシステムの基に成り立っている。例えば受粉機能に着目すると、人間が生産する食物の約75%は何らかの形で動物による受粉に頼っている。特に蜂はその受粉機能において重要な役割を果たしている。しかし蜂などの昆虫類は生息地の損失に加え、殺虫剤や光害など多数の要因が重なって、全体の40%の種が現在絶滅の危機に瀕しているとされている。
2つ目に危惧されているのは健康不安である。人間が生きていく上で必要な、きれいな空気と水はもちろんのこと、病気を治す薬にも影響を及ぼしている。というのも現代に開発される薬の50%は自然由来であり、生物多様性の損失により薬の原料が絶滅するという問題がある。その結果、今既にある薬を作り続けることができなくなってしまうだけでなく、未だ治されていない病気に役立つかもしれない薬の開発をも妨げてしまうのである。さらに動物の生息地の損失と気候変動の影響により人間がこれまで接触してこなかった新たな病気が流行するという問題も指摘されている。森林伐採によって野生動物が元々住んでいた場所から人間の住む地域へと追いやられたことにより、動物から人間に伝染する病気が発生している。また実際に、新興の病気の3分の1は、土地の人為的利用によって動物の生息地が失われていることが原因とされている。新型コロナウイルスもその一例とされている。
3つ目に挙げられるのは気候変動の更なる悪化だ。生物多様性が損なわれることにより、温室効果ガスの削減機能も失われる。その原因は森林伐採により森林が失われていることだけではない。例えば海に漂う植物プランクトンは世界全体の森林と同等の量の二酸化炭素を吸収するとされている。しかし海水温度の上昇により減少しており、気候変動の更なる悪化につながるとされている。
その他に生物多様性の損失は経済的リスクを引き起こすとも考えられている。というのも、世界全体のGDPの半分以上は何らかの形で生物多様性に依存している。また農業や建設業を始めとして多くの産業が生物多様性のシステムの基に成り立っている。そのため生物多様性の損失が進むと、上記の産業における経済活動が困難になり、一次産業の割合が多い国では経済発展がさらに遅れてしまうというリスクが生じる。他にもサンゴ礁は観光資源として年間約360億米ドルの経済効果をもたらしてきたが、絶滅の危機にさらされており、大きな経済的損失が生じている。
上記のように生物多様性が失われることによって生じる問題が多くあるにも関わらず、生物多様性の問題は二の次にされる傾向がある。冒頭でも述べた20の目標は愛知目標といい、2010年に日本で開催された第10回生物多様性条約締約国会議(COP10)において合意された。このように国際的に定められた生物多様性に関する目標が達成されなかったのは2002年にインドで締結された国際的な目標に続いて2回目となる。COP10で合意された20の目標には、自然生息地の損失の抑制や保護地域の増加、持続可能な農業・漁業・林業の推進、外来種の根絶などが定められていた。その内、保護地域の増加や外来種対策においては多少の改善が見られたものの、達成された目標は一つもなかった。
この世界目標に対して、各国政府は自然生息地の人為的利用の制限や持続可能な開発推進のために、過剰な資源開発に制限をかけるなどの方針を取ることができるだろう。それに応じて企業側も制限内に抑えた開発や、環境汚染への配慮に努める必要がある。企業は政府からの制限がなくても環境への負担や生物多様性の損失を引き起こすような活動をなるべく抑えるべきだろう。しかしある調査では全米上位500社のうち5社しか生物多様性に関する明確な目標を定めていないということが明らかになっている。また市民も、有権者として、また消費者として、政府や企業に生物多様性を脅かす活動を抑制し、保全などの取り組みを積極的に行うよう圧力をかけることができる。それと同時に、環境問題に取り組む市民団体も市民に情報を共有し、投票行動や消費行動に影響を与え、改善を促すことができるだろう。しかしそもそも政府や企業、市民が生物多様性の問題の規模を把握していなければ行動することもできない。つまり報道が人々に対して生物多様性の現状や問題に関する情報を提供する必要があるのではないだろうか。
報道の分析
では一体、生物多様性に関して日本の国際報道ではどのように報じられてきたのだろうか。今回、愛知目標が設定された2010年から2020年の11年間で、朝日新聞(朝刊・夕刊)で国際報道として考えられる記事のうち、生物多様性に関するものを取り上げ、記事の年ごとの件数と内容について調べた(※2)。その結果、まず生物多様性に関する記事そのものが少ないということが分かった。2010年から2020年までの11年間で総記事数は120件のみであった。さらにその半数以上の77件はCOP10が日本で行われた2010年の1年間のみが占めていた。一方、2010年以降は各年数件程度となった。
記事の内容別に分類してみると、最も多かったのは国際会議など政府の動きを追った内容で、総記事の半数以上(66件)を占めていた。その内47件はCOP10 の動向を扱った記事で、2010年以降に行われたCOPに関してはそれぞれ数件程度のみであった。国際会議の次に多かった内容は生物多様性の損失の対策について扱った記事で、その件数は17件だった。具体的な内容は生態系保全に関する世界全体での取り組みについて言及されたものが6件、その他は国・地域ごとで行われている生物保護についてであった。3番目に多かった内容は生物の絶滅状況や研究報告から明らかになった事象など、生物多様性の現状について16件の記事があった。その次は生物多様性の損失の要因について述べられた記事で、その件数は12件だった。具体的な内容には資源開発や温暖化、環境汚染が挙げられていた。一方で、生物多様性の損失から生じる問題をメインに扱った記事は経済的損失について述べられた記事1件のみだった。つまり生物多様性がなぜ問題となるのかについての情報はほとんど読者に与えられていないということがわかる。
報道における課題
上記の分析から分かることは報道において日本の政府の動きが特に注目される傾向にあるということだ。COP10が日本で開催された2010年に大きく取り上げられて以降、生物多様性に関する報道は各年数件程度だった。このことからもCOP10は会議の内容の重要性で報道量が多かったのではなく、日本で行われたから国際会議だから注目されたということが分かる。しかし本来の報道のあるべき姿は、国際会議で取り上げられることだけを追うのではなく、日頃から研究機関や市民団体が指摘する問題を察知し、生物多様性の現状や問題の規模を把握し、政府や企業そして市民に対し、報道機関から正確な情報の発信と現状の問題提起を行う必要があるのではないだろうか。また愛知目標に関する記事は2011年以降ほとんどなかったことから、目標を設定して以降は忘れ去られてしまい、途中経過や目標の達成度について確認されていないという問題も考えられる。生物多様性には長期的な取り組みが必要であるからこそ、報道する側は政府や企業の取り組みを監視し、問題があれば指摘する番犬的役割を果たすべきだ。
また生物多様性の損失の現状や原因についてはある程度言及されていたものの、生物多様性の損失から生じる食料不安や健康不安などに関する問題についての言及は無かった。しかし生物多様性の問題は多分野に関連し、全体像が大きく複雑な問題であるからこそ、包括的な報道が必要ではないだろうか。さらに生物多様性の損失は徐々に進行している現象である。そのため新しい出来事が起きた時に報じるような報道の仕方では、生物多様性に関する報道が少なくなってしまうとも考えられる。しかし実際は、生物多様性に関する研究の結果や絶滅種の発見、森林伐採の現状についての情報は日々更新されており、また愛知目標設定以降の経過や達成具合など、ニュースとして報じることができるものが多くある。分析を行った記事の中には、生物多様性の現状や研究調査報告に関する記事も見受けられたが、人々に生物多様性の問題の規模について把握してもらうためにも今以上に報道量を増やす必要があるのではないだろうか。
2020年は愛知目標の期限の年かつCOP15も開催される予定だった。しかし新型コロナウイルスの混乱の中、COP15は2021年5月に開催を持ち越されてしまった。かつてない速度で失われている生物多様性に対して、愛知目標における反省を踏まえた上で、政策の見直しや企業・市民の意識改革を通じ、土地利用や企業の活動、消費活動において抜本的な改革が必要となるだろう。これに応じて報道の仕方も見直しが期待される。
※1 現在直面している大量絶滅期以前の5回の大量絶滅期について以下に列挙する。最初の大量絶滅期は約4億4千万年前に生じた。次は約3億7千万年前。3度目は約2億5千万年前に起き、地球上の生物の95%以上が絶滅し、史上最大の絶滅期とされる。その5千万年後には4度目が生じた。そして約6千6百万年前に起きた大量絶滅が地球史上5度目となる。
※2 朝日新聞のオンラインデータベース「聞蔵Ⅱ」において、2010年1月1日から2020年12月31日までに東京で発行された朝刊・夕刊を集計。見出しと文中に「生物多様性」を含む記事のうち、生物多様性をメインテーマとし、日本国外に主に焦点を当てている記事のみ集計した。
ライター:Maika Kajigaya
グラフィック:Maika Kajigaya
これほどまでに生物多様性が失われているとは知りませんでした。問題改善のためにも、報道の仕方が見直され、人々の意識も改革されていくといいなと思いました。
とても興味深い内容で問題意識が強まりました。
身近でできるところから取り組んでいきたいです
世間のほとんどの人が身の回り関連のことで時を過ごしている中で、地球的な問題を取り上げPRをする活動は異次元の世界で大変なことですが、ほんの少しでも改善することに協力することに拍手を送ります。
一読して、改めて自らの意識の低さに愕然としました。
環境破壊、気候変動、食糧不足など単語としての知識程度しかないと恥ずかしくなりました。
自発的な意識の向上や具体的な取り組み、実行が大切なのはもちろんです。
同時に此に如何にして『報道』が影響してくるか、ということも、わかりやすく読むことができました。
気候変動とか、環境問題とかは世界中でよく議論されているイメージがあるのに、生物多様性についてはあまり議論されていないと知って驚きました。
現在、地球史上6回目の大量絶滅期に入っているということを初めて知り、とても危機感を感じました。
それにも関わらず生物多様性に関する報道は、愛知目標が設定された2010年に集中し、それ以降はほとんど報道がないことに驚きました。徐々に進行する現象なので報道するのが難しい点もあるとは思いましたが、生物多様性を守るためには多くの人々の行動や意識の変化が必要なので報道の在り方を見なすべきだと感じました。
愛知目標という存在自体を無知ながら初めて知りました。
目標の不達成が明らかになった後に報道の数が増えてないのは、やはり日本で開催された目標なので悪印象を与えるニュースは報道したくないのかなと思いました。