2023年10月、モザンビークで各地方自治体の首長とその議会議員を選出する地方選挙が実施された。当初、全国選挙管理委員会(CNE)が発表した結果によると、与党であるモザンビーク解放戦線フレリモ党(FRELIMO)が65の自治体のうち64を占め、野党が勝利した自治体は1つだけであった。この結果について、投票所にいた多くのスタッフや市民社会の代表、外部の選挙監視部が異議を唱えた。全国各地で多くの国民が抗議デモを起こし、なかには暴力沙汰に発展したものもあった。こうした抗議活動の多くは、警察によって弾圧された。複数の政党が選挙の実施のされ方に関する訴えを裁判所に提出し、裁判所はいくつかの投票所や自治体における結果を無効にした。この選挙の過程を監視した国内NGOの公共公正性センター(CIP)によれば、これは「モザンビーク史上最悪の選挙」であったという。モザンビークの民主主義は危機に瀕しているのだろうか。この記事では、今回の選挙がこのような結果になったことの原因を考え、モザンビークの民主主義の今後について探っていく。
目次
民主主義のための長い闘い
現在モザンビークが位置しているアフリカ南東部は、もともとは1つの国でも1つの政治的組織でもなかった。何世紀もの間、その地域には複数のグループが存在しており、他のアフリカのグループだけでなく、アラビア、ペルシャのグループとも商業的・外交的なつながりを持っていた。1498年、ポルトガルがこの領土の占領と植民地化を開始し、近隣地域を占領していた他のヨーロッパ勢力と手を組んでモザンビークの国境を定めた。
ポルトガルの占領に対する抵抗は、常に様々なグループによって様々な規模や方法で行われていたが、1900年代半ばに激しさを増した。後に独立へとつながるこの戦いは、各地に地域連合が結成されることから始まった。それらの地域連合は、すでに独立を達成していた他のアフリカ諸国やソ連、キューバ、中国、北朝鮮といった社会主義国からの政治的・軍事的支援を受けながら、次第に1つの解放運動へと収束し、1962年にフレリモ(FRELIMO)(※1)を形成した。
フレリモによるポルトガル政府に対する10年間の独立戦争の結果、1975年にモザンビークの独立が達成された。独立後、モザンビークはフレリモ党の指導の下、民主的な選挙のない一党独裁体制で統治された。フレリモ政権ではマルクス・レーニン主義のイデオロギーに基づき、中央計画経済が実施され、ソ連との密接な関係を維持し続けた。
しかし、フレリモ政府とそのイデオロギーに対してモザンビーク内部から反発が出るようになった。そのため、米ソ冷戦の影響もあり、フレリモ政権を排除しようとするモザンビークの勢力は、アメリカと南アフリカのアパルトヘイト政権から軍事的・財政的支援を受けた。この勢力はモザンビーク民族抵抗軍レナモ(Renamo)(※2)として知られるようになり、反政府勢力として台頭した。1976年にフレリモ党とレナモ党の衝突が始まり、その後16年間続いた。国際的な要因と国内における要因が重なり、紛争が終結し、1992年に和平合意に達した。国際レベルでの主な要因は、冷戦の終結であった。また、イタリアに本部を置くカトリック団体、サンエギディオ共同体(Comunidade Sant Egidio) が、フレリモ党代表のジョアキム・チサーノ大統領とレナモ代表のアフォンソ・ドラカマ氏との和平交渉を主導していた。
その後、反政府勢力に対して、非武装化、動員解除、元戦闘員の社会復帰(いわゆるDDR)を目的とした計画が立てられた。しかし、この計画は部分的にしか実施されず、レナモ残留部隊の一部は基地に駐留したままだった。
和平協定に調印する条件として、レナモは民主的プロセスの一環でレナモに所属する人々が安全に政治に参加できることを保障することを求めた。このような状況の中で、レナモは正当な政党となり、他にも多くの政党が結成された。その結果、1994年にモザンビーク初の多党制選挙が実施された。この選挙ではフレリモ党が勝利し、その後も現在まで勝ち続けているが、レナモ党は第2位の得票数を維持している。レナモ党はモザンビークの中部と北部に支持基盤を持っており、何年もかけて南部でも人気を集めている。
モザンビークの政治システム
モザンビークは、5年ごとに大統領を直接選挙で選出する多党制民主主義国家であり、地方選挙区で選出された250人の国会議員で構成される。国会議員は直接選挙ではなく比例代表制で選ばれ、有権者は政党に投票し、政党がその政党の代表を指名する。また、この選挙と同時に各州の知事選挙も行われる。大統領は行政権を持つことに加えて、政府の最高責任者である首相と閣僚を指名し、この首相と閣僚が政府を構成することになる。さらに、最高裁判所の裁判官、国会議長、検察官、軍隊、警察、選挙機関の長官も大統領が指名する。
各地方自治体の地方選挙も5年ごとに行われるが、前述の総選挙の1年前に行われる。地方選挙では、全国11州にある65の自治体の首長と議会議員が選出される。この選挙も比例代表制で行われ、有権者は希望の政党に投票することで代表を選出する。65の自治体は人口密度や地理的条件によって区域が決められている。地方選挙はCNEと全国選挙管理事務局(STAE)によって運営される。これらの機関のメンバーは、各政党が持つ国会の議席数に応じて各政党が指名する。つまり、多くの議席を持つ政党ほど多くのメンバーを指名することができる。最大の議席数を持つ政党であるフレリモ党に有利にはたらくため、長年にわたって疑問視されている。
1990年代に民主化プロセスが始まり、多党制が確立されて以来、地方分権が政府の主要な目標の1つとなっている。なぜなら地方分権が国内の地方議会間の不平等を減らすために重要だったからである。また、予算計画を行う主体を中央政府から各自治体に移し、中央政府に頼ることなく各自治体自身で基本的なサービスを管理できる特権を与えることも目的としていた。こうした 地方分権を進めることによって、民主化が促進され、国民の生活環境が改善されることが狙いだった。このプロセスは、国内人口の増加と相まって、自治体数を大幅に増加させた。最初の地方選挙が行われた1998年には、自治体の数は33であったのに対し、25年後の2023年には65まで増加している。
今回の選挙の特異な点
2023年の選挙は、1994年の多党制選挙以降6回目の地方選挙であり、過去5回の選挙に比べて注目度も投票率も高かった。その背景にはさまざまな要因があるが、特に、生活費の高騰、国民に提供される基本的なサービスの不足、教育制度の崩壊危機、公共交通システムの機能不全、衛生状態の悪化など、国内の経済・社会的状況の悪化に対する不満が大きかった。こうした状況は、新型コロナウイルスの流行によってさらに悪化した。加えて、2023年からの公務員給与の増額を計画していた公務員給与改革が財政赤字のために失敗したことも、政府への不満を増大させた。
2023年の選挙はまた、非武装化・動員解除・社会復帰(DDR)プロセスが完了した後に実施された最初の選挙という特別な意味合いを持っていた。かつてレナモ党は、残存する軍事力を、与党による選挙結果の操作を抑止する手段として利用できると考えていた。実際、レナモ党の軍は2013年の第4回地方選挙と2014年の大統領選挙の結果を問題視し、2014年から2017年にかけてモザンビーク中部に位置するソファラ州で軍事攻撃とゲリラ侵攻を行っていた。驚くべきことに、2013年10月の演説で、レナモ党の元指導者アフォンソ・ドラカマ氏は、地方選挙の結果がレナモ党にとって望ましい結果ではなかったことに対し、怒り心頭で「私は国中を焼き尽くす。この国を分裂させ、燃やしてやる。」と宣言した。
選挙に関する問題
2023年の地方選挙にまつわる問題は、結果が発表されるや否や急速に浮上した。
投票所には必ず各政党から指名された運営委員がいて、選挙を監視・管理し、最後には投票者総数と投票総数の詳細が記された書類に署名する。開票作業と結果速報の発表が行われている間、いくつかの野党から、不正の事例や選挙結果を検証する野党議員に対する暴力が報告された。不正の例としては、与党の議員がフレリモ党に票を投じる記入済みの投票用紙を持ち込んでいたことや、投票用紙の盗難に警察が関与していたことなどが挙げられる。また、集計過程で野党議員の排除に国家選挙管理委員会が関与したという疑惑もあった。
選挙結果が発表された後、国中で401もの蜂起やデモが行われた。こうしたデモの主役は野党であるレナモ党の指導者たちだった。デモで使われた歌や看板の多くには、「民衆に権力を(Povo no poder)」という人気のあるラップの歌詞が用いられた。これはラッパーのアザガヤの歌であり、彼の歌の多くは政府を強く批判していた。2023年に彼が死亡すると、葬儀に合わせたデモが弾圧を受け、反政府デモが増幅した。デモの中には暴力的なものもあり、デモ参加者と警察の対立が目立った。何千人もの人々がSNSを通じて集まり、不正選挙疑惑や民主主義的表現の弾圧に抗議し、デモに参加した。
発表された選挙結果は与党であるフレリモ党にとって大変有利なものであったが、野党や一般市民の間だけでなく、与党の一部にも不満が見られた。選挙における不正(および不正の認識)のレベルは、フレリモ党内部、特に元大統領を含む元指導者たちの間で大きな不満を生み、党の行動に失望した彼らは選挙結果を尊重するよう求めた。
野党による選挙結果の取り消しと再選挙の要請に前向きに対応した地方裁判所もあれば、票の再集計を命じた地方裁判所もあった。実際に2023年の選挙結果が再集計されたケースとして、ケリマネ自治体がある。この自治体は過去15年間、カリスマ的なレナモ党の代表(マヌエル・デ・アラウージョ氏)が率いてきた。しかし、250人の国会議員のうち46人を選出する巨大な選挙区でもあるため、長年フレリモ党が手に入れたがっている自治体でもある。つまり、この自治体を支配する政党は、国会でより多くの議席を得る可能性があるのだ。2023年の選挙において、結果が発表された当初はフレリモ党の勝利だった。しかし、レナモ党はこの結果に異議を唱え、まず地方裁判所で、次に憲法裁判所で争った。憲法裁判所は票を再計算し、レナモ党がケリマネ自治体を獲得した。
2023年の地方選挙に関する対立が落ち着いた後、最終的には65の自治体のうち56の自治体でフレリモ党の勝利という結果に見直され、64の自治体でフレリモ党の勝利という最初の結果からは大きく変わった。
選挙プロセスに関するメディアの役割
2023年の地方選挙では、メディアが大きな役割を果たした。従来型のメディアとSNSの両方が、選挙前の立候補期間から選挙運動、投票に至るまで有権者の行動を動機づける要因となった。また、投票結果の操作への警察の関与など、選挙期間中に発覚した不正を報道することにおいてもメディアの力は大きかった。選挙に関する情報は、SNSのプラットフォームでしばしば生中継され、民放テレビ局のチャンネルでは、不正疑惑や、CNEとSTAEが発表した最初の結果に抗議する市民のデモの様子も放送された。
民間メディアのなかには、不正を報道したことに対して殺害予告などの脅迫を受けたところもある。例えば、フレリモ党を代表する国会議員をCEOに持つ「テレビスセッソ(TV Sucesso)」というテレビ局である。この局は選挙過程を大々的に放送し、その過程での警察による武力行使があったという事例も報道していた。このチャンネルは、報道を中止するように殺害予告を含む相当な圧力を受けたとされる。
まとめ
2023年に行われたモザンビークの地方選挙は、選挙プロセスに関する多くの問題や、統治に対する強い不満を露呈させた。これは、モザンビークが民主化と国家建設の過程で直面している課題の一例にすぎない。選挙結果は、与党がよく主張する自由で公正な選挙という標語が謳い文句でしかなくなっていることを示唆している。
2024年10月には大統領選挙と国会議員選挙が実施される予定である。これらの選挙結果が真に国民の意思を反映したものとなるためには、すべての選挙機関が、適切な政治競争を目的とした自由で公正な選挙を行うことができる環境づくりに取り組むことが不可欠である。そのためには、選挙機関が与党議員に代表される行政権力から十分に独立するための改革が必要なのではないだろうか。
※1 解放運動としてのフレリモと政党のフレリモの区別として、前者は「フレリモ」、後者は「フレリモ党」や「フレリモ政権」という表記にしている。
※2 政党として認められるまでのモザンビーク民族抵抗軍としてのレナモと政党としてのレナモの区別として、前者は「レナモ」、後者は「レナモ党」と表記している。
ライター:Delio Z. (Delio Zandamela)
グラフィック:Ayaka Takeuchi