「幸せの国」、「最後の理想郷」とも呼ばれるブータンは世界ではじめて国の発展を図る基準として国民幸福量(Gross National Happiness:GNH)を採用し、工業化や経済発展と並行して環境保護に力を入れる独自の路線を貫いてきた。気候変動に対する政策として、成果は数字にも表れている。ブータンは世界で2か国しかない炭素中立国(※1)のうちの一国であり、2018年には国内の排出量のおよそ3倍の二酸化炭素を吸収した。
世界の平均気温の上昇を1.5℃以内に抑えるには、温室効果ガス排出量を2030年まで毎年7.6%削減する必要があると指摘されるなど対策が急がれる中で、炭素中立を実現したブータンの政策は注目すべきものだろう。しかし、ブータンの環境保護政策が万事順調に進んでいるわけではない。この記事では、ブータンの環境保護政策と直面する課題について解説する。

谷間に広がる棚田(写真:Ram Iyengar / Pexels)
ブータン独自の政策の背景
はじめに、ブータンはなぜ世界的にも突出した環境保護政策をとっているのだろうか。この理由の一つに、ブータンの政策決定の根底にある国民総幸福量の考え方が挙げられる。国民総幸福量とは、物質的な豊かさと精神的・文化的な豊かさのバランスを重要視する国家理念である。国民総幸福量は ①良い統治(グッド・ガバナンス)②持続可能かつ公平な社会経済開発 ③伝統文化の保護と振興 ④自然環境の保護の4つの柱(※2)に支えられる。この概念は1979年に当時のブータン国王が海外でインタビューを受けた際に国内総生産(GDP)よりも重要な概念として咄嗟につくったとする説が知られているが、その起源は諸説紛々としている。実際に国民総幸福量が政府の発行物において言及されたのは1996年が初めてであり、国内の社会的結束を高めるために2000年あたりから精力的に導入されたとも指摘される。2008年に制定されたブータンの憲法では、国民総幸福量を確保することができるよう制度等の整備に努めなければならないという義務が明文化され、現在に至るまで国家運営の指針として機能してきた。
また、ブータンが仏教国家(※3)であることも環境保護の重視を後押ししている。仏教において人間と環境は常に一体で、環境は精神世界の一部であって保護が必要であり、国の発展のためには環境や生物の尊重を欠かすことができない。国民総幸福量にもこの仏教的な価値観が反映されている。仏教に基づくブータンの人々の自然環境に対する考え方が多くの環境保護の取り組みにつながっているといえるだろう。
さらに、ブータンが気候変動の影響を受けやすいため気候変動への危機感が強いことも環境保護の先進国たる要因の一つだといえる。山岳地帯という地理的な要因に加え農業中心の生活など自然条件の制約を受けやすいブータンは、農作物の不作や氷河が溶け出すことによる鉄砲水・洪水、生態系の崩壊、水力発電への被害など気候変動の被害を真面に受けてきた。さらに山岳地帯では気候変動により気温が上昇しやすいため、マラリアやデング熱の疾患率が高まることも懸念されるなど、気候変動による影響はブータンでの生活に様々な支障を及ぼすのだ。

首都ティンプーにある仏塔(写真:Gelay Jamtsho/Flickr [CC BY-NC-SA 2.0])
ブータンの環境保護政策
ブータンは持続可能な形で開発を進めながら自然環境を保護するため、様々な政策を打ち出してきた。自国の排出量を大幅に上回る二酸化炭素を吸収できている大きな要因は、国土の70%以上を森林が占めていることにある。自然環境に恵まれており人口に対する森林面積が広いため、炭素中立を実現できているのだ。ある予測によれば2040年までにブータン国内の排出量がほぼ倍増する可能性があるが、現在の森林被覆率を維持できれば、炭素中立は維持できる。ブータンの急こう配の山岳地帯では林道を設けることが難しく森林開発が進まなかったことやそもそも産業化が進まず国内の木材需要が小さかったことが結果的に広大な森林の維持につながったと考えられている。
ただし、ブータンが国土の広範囲の森林を維持できているのは単に開発能力や意思を持っていなかったというだけではない。ブータンは世界で唯一憲法で森林を保護しており、国土の60%以上が森林であるように義務付けている。現在、森林保護に関する行政は農林省の森林・公園局が担っており、保護地区の制定・監視や植林、清掃から森林伐採など資源管理に至るまで政府が森林全般の管理を行っている。憲法では条項1つ丸ごと環境保護について定めており、自然環境の保護や生物多様性の保全に貢献することは国民の基本的義務であるとするなど、環境保護を重視する姿勢が伺える。この憲法に基づきブータンでは、ビニール袋の禁止や伐採材の輸出禁止、有機農業への転換や環境保護のために観光客への1人1日200米ドル前後の課税、2030年までに廃棄物ゼロを目指すなどの政策がとられている。

ブータンの衛星写真(写真:Jacques Descloitres, MODIS Land Rapid Response Team, NASA/GSFC/Wikimedia Commons [public domain])
さらに、温室効果ガスの排出を抑制するエネルギー政策も積極的になされている。持続可能な社会を実現するためにブータンでは再生可能エネルギーの開発・普及推進が進められてきた。ブータンで高いシェアを占めているのが水力発電であり、1年を通して考えてみると水力発電による発電量は国内の需要をはるかに超えている。太陽光や風力など他の再生可能エネルギーは導入の初期段階ではあるが、エネルギーの多角化を進めて需要の増加に対処するためにも重要視されている。例えば太陽光発電は、送電設備のない農村部にソーラーホームシステム(※4)を提供するなど持続可能な形での電力アクセスの実現に貢献してきた。近年では、急速な電化に後押しされて薪や練炭などを利用した燃料消費から電力にシフトする動きがあり、2019年には電力はエネルギー需要の約3分の1を占めた。そのほとんどが水力発電でカバーされている。ブータンは今度も水力発電をはじめ各種の再生可能エネルギーを推し進める方針である。
課題1:インドへの経済依存
自然環境を保護し持続可能な開発を目指すブータンの政策は空前の革新的な政策にもみえるが、冒頭で述べたように多くの問題と直面している。
問題の一つに、水力発電を通して隣国インドに依存した経済構造が指摘される。インドとの貿易はブータンの国際貿易の80~90%を占めており、ブータンの経済を支えているのが水力発電による電力のインドへの輸出なのだ。2018年にはブータンのGDPの13%、政府の総収入の23%が水力発電による総収入によるものだった。現在計画されている水力発電のプロジェクトが全て順調に完了すれば水力発電による収入は国内総生産の半分以上を占めるとも見込まれている。
発電ピーク時には国内需要を越えて過剰に電力を生み出せるブータンとエネルギー不足に悩むインドの関係は一見フェアで相補的にみえるが、一概にそうとは言い切れない。1974年から始まった十数件のブータンにおける水力発電プロジェクトのほとんどがインドからの無償援助・融資によるものであるが、融資の部分について、2018年の時点でブータンは約21億7,500万米ドルの水力発電絡みの債務を抱えており、増加傾向にある。近年ではインドが無償資金協力から商業融資にシフトする傾向にある。
2009年には新たに10件の水力発電プロジェクトのための融資がインドより提供された。しかし、水力発電自体が危機的状況にあって維持費も増大し(次段落を参照)長期的に利益をあげられる見通しがつきにくいなか、これらのプロジェクトで生まれる利益が結局は融資の返済に充てられブータン国内の経済に反映されない可能性や、インドからの労働者やインド企業による工事で国内の雇用創出の機会になりにくい可能性、一部のプロジェクトで竣工が遅れ予定していた収入を得られず計画が狂う可能性など複数の懸念点が存在する。
また、1年を通してみればブータンの発電量は国内の需要量を十分にカバーできるのだが、その発電量は河川流量の多い夏季に集中している。河川流量が少なく発電量が落ち込む冬季には国内の発電では賄うことができずインドから高価で電力を輸入する必要があるのだ。さらに石油などほぼ全ての消費財・資本財をインドからの輸入に頼っているのが現状で、インドとの貿易不均衡がブータンの経済を停滞させている面も否定できない。
課題2:気候変動と水力発電の持続可能性
水力発電そのものも存続の危機に立たされている。その原因の一つは気候変動だ。ブータンの水力発電はほとんどが流れ込み式と呼ばれる川の流れをせき止めずにそのまま発電に利用する方法をとっているため、発電量は川の水量に左右されやすい。しかしブータンでは気候変動により上流の氷河が溶け出しており、将来的には氷河が溶ける部分がなくなって水量が減少してしまうかもしれない。実際、ブータンは1980年からの30年間で氷河を20%以上失っており、今後数十年間で河川の水量は大きく減少し水力発電の設備が稼働できなくなる可能性がある。

ブータン最大の河川の支流であるマンデ・チュ川(写真:Robert GLOD/Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
また、溶けた氷河の水や異常気象による洪水は水力発電の設備に多くの瓦礫や土砂を運びダメージを与えている。ピーク時にタービンを一基停止するだけで1日あたり83,000米ドルの損失がでる場合もあり、頻繁に修理が必要になることは経済的に大きな負担になる。
水力発電の施設が自然環境を破壊しているという問題も看過できない。現在計画中のダムでは、先述した流れ込み式ではなく、季節を問わず水量を確保し発電量を増やせるが大きな貯水池が必要になる貯水式が取り入れられている。この巨大な設備によって希少な生物の生息地を奪う、川に大量の泥を捨てることで水路がつまり生活用水が確保されないなどの点が危惧される。また、水力発電のためのダムは上流に位置するので、下流に流れるはずだった堆砂が上流で蓄積され、下流の川床の低下、海岸浸食の加速の可能性や栄養素が下流で不足し生態系に影響を与える可能性が指摘されている。
課題3:現代化に伴うエネルギー消費の増加
エネルギー消費の面でも課題はある。長い間鎖国状態であった歴史があり、1999年に初めてインターネットとテレビが許可されたようなブータンだが、近年急速に生活水準を向上させている。2006年に61%だった電力アクセス率は2016年には100%となった。これに伴いブータン国内の消費電力は増大しており、電力の国内需要が高まっている。
また、近年では特に産業・運送の分野でエネルギー消費が急増していることに加え、自動車ブームにより自動車の購入者が増加している。そのため、主にインドからの化石燃料の輸入が経済的に大きな負担になるとともに、二酸化炭素の排出量を増大させている。ブータン政府は電気自動車の普及を推進するプロジェクトを立ち上げるなど対策に乗り出しているが、電気自動車が必ずしも環境にいいとはいえず、自然環境と経済、そして現代的な社会への願望のバランスの調整に苦慮している。

首都ティンプーの道路(写真:taver/Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
まとめ
ここまで見てきたように、ブータンは炭素中立を掲げ画期的な政策を打ち出す一方多くの課題を抱えている。注目すべきは、ブータンにおける課題が国内で解決できる範囲にとどまっていないことであろう。実質的には世界で最も二酸化炭素を吸収し環境保護に精力的に取り組む国が、皮肉にも気候変動の影響を強く受けているのが現状である。ここに「気候アパルトヘイト」の構造をみることもできるだろう。ブータンは将来にわたって二酸化炭素排出量を吸収量以下に留めることを宣言すると同時に、それらの環境保護政策を施行するために経済的な負担を負っていることに理解を求め、資源を大量に消費し温室効果ガスを大量に排出して気候変動の原因をつくってきた富裕国に対し、経済の損失分を補填する意味合いを含め「支援」を求めている。
開発と環境保護のバランスのあり方は今や世界各国にとっての問題である。気候変動に国境はなく、ある一国だけの取り組みでは地球温暖化は止められない。ブータンが気候変動に立ち向かう手本となり世界は気候変動対策の足並みを揃えられるのだろうか。それともブータンの努力は諸外国によってかき消されて地球は温暖化を加速させるのだろうか。他人事ではないブータンの今後に注目していきたい。
※1:炭素中立(Carbon Neutral)とは、ある生産や活動(国の場合は国全体での活動)を行う場合に排出される二酸化炭素の量と吸収される二酸化炭素の量が同じ量である状態のことを指す。現在、炭素中立を実現している国はブータンとスリナム共和国の2ヶ国である。
※2:国民総幸福量における4つの柱は、英文で ①Good Governance ②Sustainable and Equitable Socio-Economic Development ③Preservation & Promotion Of Culture ④Environmental Conservationと表記されている。(各番号は引用者)
※3 :ブータンは仏教を国家の「精神的な遺産」と捉え、特別な宗教として認定している国家であり、国民の約75%が仏教徒である。一方で、信教の自由についても認められており、国内ではヒンドゥー教やキリスト教など他の宗教を信仰する人々もみられる。
※4:ソーラーホームシステムとは、電力の供給がない農村部などで用いられる家庭用の小型太陽光発電システムである。大きな電力を生み出すことはできないが、電気や携帯、TVといった家電製品などの電力はこの発電システムで賄える。
ライター:Yumi Ariyoshi
グラフィック:Yumi Ariyoshi
ブータンが「幸せな国」というイメージは以前からありましたが、その国民幸福度を測る基準の中に持続可能かつ公平な社会経済開発が含まれていることは知りませんでした。環境保護に力を入れている国が気候変動の影響を大きく受けているという皮肉な状況が改善されていくように、世界全体で協力していかなければならないなと改めて思いました。
ブータンの環境保護はこれほど進展してきたのが知らなかったです。ほかの国もぜひ習ってほしいです。
テレビが導入されたことで、消費が今後促されるのか、そうならないように国営放送で一本化されているのかが気になりました。