2024年4月、イランはイスラエルとの1カ月間にわたる睨み合いで世界中の注目を集めた。両国は全面戦争の瀬戸際に立たされていた。事件の発端はイスラエルが4月1日にシリア、ダマスカスのイラン領事館を空爆したことにある。4月13日、イランが報復としてイスラエルの複数の標的をミサイルと無人機で攻撃し、さらにイスラエルからの報復空爆が続いた。その後二国間の緊張は落ち着いたように見えるが、もし紛争が拡大すれば、中東情勢がさらに複雑化するだけでなく、イスラエルの同盟国、とりわけアメリカを紛争に巻き込む可能性がある。そのような複雑化した紛争の結果はより予測困難になるが、より危険な地政学的・経済的結果を招き、世界のより広い範囲に影響を及ぼしうる。
イランからの報復攻撃は、イスラエルへの被害を最小限に抑えるように調整されたものであったという指摘もあった。イランの数十年にわたる経済的、軍事的な国際制裁の影響を考えれば、イランの指導部が遥かに強大な敵との全面戦争を望まないのは当然である。しかし、イランの報復戦術は、世界よりも、むしろイラン国民に向けられたメッセージを含意しているように思える。そのようなメッセージングは、イスラエル領内への攻撃後のイランのメディアで一目瞭然だった。その攻撃でイスラエルに与えた損害はごくわずかであったにもかかわらず、政治・軍事的指導者は機会があるたびにイスラエルへの報復攻撃の成功を謳い、メディアを賑わせた。
このプロパガンダ・キャンペーンと、自国を軍事的に強い国として見せようとする政府の全体的な意思は、イラン指導部の最も深刻な懸念の一端を垣間見せている。その懸念とは、ここ数年の国内で発生した一連の抗議行動からみられ、イラン国民が政府の正統性に疑問を持ち始めたことの表れである。イラン政府はその正統性を宗教的イデオロギーに大きく依存してきたが、近年の経済状況、政治的抑圧、そして政府の美辞麗句と現実社会とのギャップに、民衆は不満を抱いてきた。引き金となる抗議行動が興った時、すぐに同調する大衆を巻き込んでその影響力を大きくしたのには、これらすべての要因がかかわっている。
このような近年の社会不安は、正統性の危機を招き、イラン政権の根幹を脅かしている。本稿では、この正統性の危機について、前述した騒乱のいくつかに焦点を当てて概観してみたい。
目次
騒乱の初期のルーツ
現在のイラン政権の正統性問題のルーツは、1979年にまでさかのぼることができる。1979年、ホメイニ最高指導者の指導の下、イランはパフラヴィー朝を倒し、2000年以上続いた王政に終止符を打ってイスラム共和制を樹立した。その揺籃期から、新たに誕生した政権は前政権を厳しく非難し、革命の理念に基づく積極的な反西側外交政策を実施した。またかつてない権力を得たシーア派聖職者が直接影響し、強権的な市民法も厳格的に実施してきた。
イランは、革命からわずか1年後の1980年、隣国イラクとの残忍な戦争に見舞われた。イランはスンニ派国家が支配する地域に確立したシーア派多数派国家として、政権のイデオロギー的基盤をますます強化することになった。8年にわたる戦争の後、イランは膨大な原油輸出をもとにある程度の繫栄を見せた。他方で、政権指導部は、シーア派革命を域内の他国に輸出するという地政学的課題を画策していた。
しかし、この比較的短い繁栄期は、ウラン濃縮のノウハウを得るための極秘計画が2002年に公表されたことで終わりを告げた。次から次へと押し寄せるこのプログラムに対する厳しい経済制裁の波は、政権を国際的に孤立させただけでなく、国の新産業にも経済的な大打撃を与え、イランの繁栄という約束はほとんど無に帰してしまった。欧米諸国の政治・社会改革への要求も強まったがイランは保守的な政治姿勢を硬化した。このような一連の出来事により、社会が緩やかな方向へだんだん変化するかもという期待はむなしく消えてしまった。
しかし、イランの現在の厳しい状況の根底には、徐々に正統性を失っていく過程がある。数十年前までは政権を支持していたかもしれない人々の間でさえ、その正統性は失われつつある。ここ数年、イラン政府の状況はかつてないほどに深刻だ。この正統性の危機の原因を理解するためには、近年の歴史的背景を掘り下げることが重要である。そうすることで最近の社会運動が大規模な反政府デモに発展していく過程を明らかにできる。
経済的不満の炎
近年のイランの内政・外交政策を決定づけた要因は、2015年にイランが国連安全保障理事会の常任理事国(アメリカ、イギリス、中国、フランス、ロシア)とドイツと核開発プログラムに関して合意したことである。この合意により、イランが核活動を停止し、国連や他の主要国によるイランへの制裁は解除された。10年近く孤立していたイランにとって、これは新たな時代の幕開けであり、イランは世界市場に再び参入し始めた。しかし、当初の楽観論に反して、アメリカの経済制裁は2018年、当時のアメリカのドナルド・トランプ大統領によって再び発動された。
制裁発動から1年後の2019年11月、イラン通貨は400%という驚異的な暴落を経験した。さらに、金融の泥沼化によりる財政赤字を補填するため、政府は燃料価格を3倍に引き上げることを決定した。この突然の決定に最も影響を受けたのはすでに制裁の影響に苦しんでいた低所得者層であり、国内の失業や倒産が増大した。
燃料価格の引き上げを決定した政府に対する怒りは、それ以前の経済的困窮と相まって、イスラム革命以来最も大規模な抗議行動を引き起こした。何万人もの一般のイラン人が街頭に出て抗議した。これは社会的・政治的な不満よりも、経済的な圧力が主な原動力であった。その直後、政権は国内のインターネット接続を遮断し、国際的な報道機関がこの蜂起を取材することはほぼ不可能となった。この期間中、政府軍(特に革命防衛隊)は、1,500人以上を殺害し、数千人以上を逮捕したとされる。
イラン・イスラム共和国の40年間を通じて多くの人々が政権の抑圧の犠牲になってきたが、2019年11月と12月のデモにおける流血の規模は、以前までのそれとは異なる性質のものだった。これまでのケースでは、政府軍はデモ隊への直接の発砲を避け、他の強硬手段で鎮圧しようとした。今回の暴力で着目すべきは、その方法が前君主と似ていた点である。前君主モハンマド・レザ・パフラヴィー氏は、1979年の革命につながるデモに類似の暴力的対応をした。革命後の政権は、革命時に殺害された人々への同情をしばしば表明し、民間人を殺害した前政権を「非合法」であったと非難してきた。しかし、革命時の出来事をいまだ鮮明に覚えている多くのイラン国民にとって、今回の抗議行動と政権の対応を思い起こさせる事件となった。多くのイラン人の目には、デモ隊に発砲し、イラン人を殺害する政権は、すでにその正統性を失っていると映った。
カシム・ソレイマニ氏の暗殺とその後
トランプ政権によるイラン協定の破棄は、イランとアメリカの間にさまざまな対立をもたらしたと考えることができる。しかし、2020年、イスラム革命防衛隊(IRGC)に所属していたイラン軍将校カシム・ソレイマニ少将が、当時のトランプ大統領の直接命令により、イラクで無人機によって暗殺された。これにより対立はまったく別のレベルにまで発展した。また、この事件とその余波は、すでに緊迫していたイランの政治指導部と国民との関係にも影響を与えた。
ソレイマニ氏は、イランで最も人気のある公人の一人であった。ソレイマニ氏の暗殺は、イラン政権が発足以来継続して示してきた対アメリカのイメージと合致した。「アメリカは国民的英雄の殺人者であり、絶対悪であり、国の最大の敵である」というイメージである。イラン政権にとって、ソレイマニ氏の暗殺は、2019年の騒乱の対応への批判から、共通の外敵に対する国民の団結へと、世論を押し上げる絶好の機会となった。
イラン政権はこの悲劇的な出来事を最大限に利用した。アメリカに対する怒りを引き起こすために国中で追悼式を執り行た。これらの追悼式は何百万人もの人々が参列したが、宗教的で反西洋的な象徴主義に満ち、イラン人の間での政権の人気の証明として映し出された。その一瞬だけは、政権が2019年の抗議デモの不運な記憶を払拭することに成功したかのようだった。将軍の暗殺に対する復讐として、IRGCは、2020年1月8日、イラクにある米軍基地(アル・アサド空軍基地)に数十発のミサイルを撃ち込んだ。IRGCは、犠牲者を最小限に抑えるため、5時間前にイラク大統領に攻撃を警告していた。人的被害を減らすことでアメリカからの報復を防ぎつつも、政権はアメリカに対する勝利を国民に知らせることができる。
しかし、ミサイル発射からわずか数時間後、IRGCはウクライナに向かう旅客機を、テヘランの南数キロの地点で誤って撃墜した。旅客機をアメリカのミサイルと間違えたようだ。旅客機に乗っていた乗組員と乗客は全員死亡した。IRGCの指導者もイラン政府も、まずこの事件に対する責任を否定した。事件の翌日、イラン政府高官は国営テレビで、旅客機は技術的な問題で墜落したと説明した。しかし、しばらくして否定できない情報が世界的に発表され、政府は自らの誤りを認めるざるを得なくなった。IRGC司令官は国営テレビで、IRGCが旅客機を撃墜し、全責任を負うと説明した。
この事件を受けて、2020年1月11日、テヘランで抗議デモが発生し、他のいくつかの都市にも広がった。デモ参加者は、イラン当局によるミサイル攻撃とその後の隠蔽工作を非難し、ハメネイ最高指導者の辞任を要求した。
この出来事の意義は、何百万人ものイラン国民に衝撃を与えた過去の鮮烈な記憶を呼び起こしたことにある。この事件は、アメリカがイラン国民に対して行った最も直接的な暴力行為のひとつに似ている。1988年、米海軍の誘導艦ヴィンセンヌが発射した2発の地対空ミサイルが、イラン領空上のペルシャ湾でイランの旅客機を撃墜した。アメリカ側は事故だと主張したが、イランの政治家たちは長年にわたってこの事件を取り立て、国民に忘れさせまいとしていた。2020年の旅客機撃墜において、IRGCはイラン最大の敵と同じことを行った。罪のない人を殺害し、責任を否定し、何百万人もの人々を欺こうとしたのだ。
この事件は、イラン指導部が抱える問題を新たに示しただけでなく、必ずしも反体制的でなかった多くのイラン人、そして伝統的な政権支持者までもが、イスラム政権の正統性に疑問を抱き始める原因となった。政権に対する国民の支持を強化する試みの一環であったイラクの米軍基地へのミサイル攻撃は、成功しなかったばかりか、国民と政権との間の溝をより一層際立たせることになった。
フーゼスタン州の水危機
こうした危機から間もなく、新たな経済問題が浮上し始めた。イランには豊富な石油資源があるが、その大部分は国土の南部に位置しており、特にフーゼスタン州にある。フーゼスタン州は石油資源が豊富であるにもかかわらず、基本的なインフラが整っておらず、貧しいままであった。これが新たな社会不安につながった。
2021年夏、一連の抗議デモがフーゼスタン州で始まり、その後全国に広がった。抗議の主な原因は水不足だった。フーゼスタン州はイランで最も暑い州であり、夏の気温は40℃に達することもある。その年もまた灼熱の夏に直面していた。度重なる猛暑や沼地の減少に加えて、フーゼスタン州の河川沿いの数々のダム建設がこの地域の住民に甚大なプレッシャーを与え、水不足を招き、イラン政府の水管理政策に対する抗議につながった。
抗議行動は当初、水管理に対する懸念から始まったが、すぐに広範な反政府運動へと発展した。デモ参加者はイランのハメネイ最高指導者を指して「独裁者に死を」と唱えた。治安部隊が介入しデモ隊に発砲し、多数の負傷者と死者を出した。ソーシャルメディア上では、多くのユーザーが 「水に対して何をしたか」(#ب را چه کردید )、「フーゼスタンは孤独ではない」(#خوزستان تنها نیست)などのハッシュタグを使ってデモ参加者の団結を示した。
これらの抗議の意義は、それが体現するシンボルにある。シーア派のイスラム教徒とそのアイデンティティにとって、水と水へのアクセスは深い意味を持つ。600年代、シーア派3代目イマーム、イマーム・フセインは、近しい家族や仲間とともに、水を拒否された後に殺された。毎年、世界中のシーア派はこの歴史的な出来事を追悼する。シーア派の文化とアイデンティティでは、地域や民族に関係なく、誰に対しても水を拒否することは許されないと考えられている。しかし、世界のシーア派のリーダーであることを自負するイラン政府が、この基礎的でありながら根本的に重要な権利を国民に与えなかった。イラン国民の間で高まっている不満と、宗教的指導者としての政府の主張の矛盾を浮き彫りにしている。
女性の権利と社会変革のための闘い
イランは女性に関する法律が非常に厳しいことで知られる国で、女性は公共の場では体だけでなく髪も隠さなくてはならない。強制的なヒジャブ(女性の服装規定)は、警察の指導パトロール隊(道徳警察)を通じて実施される。指導パトロールは都市を巡回し、国のドレスコードに違反する人々を止め、逮捕する。それは元来男女両方を監視することになっているはずだが、実際には女性を標的にし、管理し、制限するための政権の手段となっており、女性の移動の自由を著しく妨げている。
1979年にイラン・イスラム共和国が発足し、女性に関するこのような厳格な法律が施行されて以来、イランの女性たちはこのような厳しい法律の下で生活してきた。イランの女性たちの多くは、こうした抑圧的な法律に抗議し、改革を要求してきた。女性の自由に関して非常に厳しい規制があるにもかかわらず、平等と基本的人権を訴えるイラン女性の力強い運動が続いている。最も目を引く例の一つに、前述の強権的な服装法の暴力的な施行に対抗して起こった最近の市民騒乱がある。
2022年9月13日、マハサ・ジナ・アミニ氏という若いクルド系女性が、故郷のサッケズからテヘランを訪れている間、ヒジャーブを部分的にしか着用していなかったとして、イランの強制ヒジャーブ規定違反の疑いで指導パトロール隊に拘束された。彼女は指導パトロール隊員の手によって激しい身体的虐待を受けたと報告されているが、イラン当局はこの疑惑を否定した。事件後、彼女は倒れ、病院に搬送されたが、3日後に死亡した。
勾留中の彼女の死にあたり、国中で抗議デモが相次いだ。デモの主なスローガンは「女性、生命、自由」(ペルシア語:زن، زندگی آزا。クルド語では、ژن ، ↪، ئازادی,: Jin、Jiyan、Azadî)。このスローガンには、女性の権利は、人間の生命と自由の両方の基本であるという考え方が表されている。2006年、トルコのクルド人自由運動における女性の行進に端を発したこのスローガンは、クルド人指導者アブドラ・オカラン氏の哲学と呼応している。「女性が解放されない限り、国家の真の自由は達成されない」という主張である。
これは平和的なデモとして始まったが、やがて本格的な社会騒動に発展した。ほぼすべての州で日常生活に支障をきたすほどであった。ほかにも人々の抗議行動に影響を及ぼしている問題があることは明らかだった。 つまり、マフサ・ジナ・アミニ氏の死は、単に罪のない一人の命が失われたというだけではない。また、一連の抗議行動は女性の権利の問題だけに限定されたものでもない。それは、経済的にも政治的にも破綻した政権に対して、一般のイラン人が抱いていた不満や苛立ちの集大成を象徴するものだったとも言える。
国内で社会的抗議が続く中、政府は強権的手法で対応した。少なくとも、68人の未成年者を含む551人が、政府によって殺害されたと報告されている。9歳の少年も、政府によるデモ隊の弾圧中に射殺された。
経済的・社会的混乱からの一時的猶予
経済制裁が再開されてから数年、イランの経済状況はさらに悪化した。2022年に運動が始まった時、1米ドルの為替レートは30,000リアルであった。これがわずか2年で200%上昇し、2024年にはほぼ60,000リアルとなった。その背景にある理由が何であるかにかかわらず、重要なのは、イラン国民の日常生活に壊滅的な影響を与えているということである。最大の産物である石油をアメリカの制裁のために最大限に輸出することができない国にとって、この通貨価値の下落は経済的困難をさらに悪化させる。
時が経つにつれ、抗議行動の数は徐々に減少し、政府も指導パトロール活動を縮小した。インターネット上では、スカーフをかぶらずにイランの街中を歩く女性を映した動画が出回った。この新たな社会的自由は、法律改正に直接的な影響を与えることはなく、女性がスカーフをかぶらないことは依然として違法行為のままだが、政府にとっては一歩後退であった。スカーフをかぶらずに通りを歩くだけのことは、法律ではまだ違法ではあるが、多くのイラン人女性に見られるものになった。
しかし、政府の反応が緩くなり始めた約2年後、事態は徐々に変化し始めた。2024年4月、ハメネイ最高指導者は演説のひとつで、新たにみられるようになったこの女性の自由を取り上げたのである。イラン政府が掲げる価値観と対比させ、国のドレスコードに従わない女性に対してより厳しい姿勢をとること示した。その結果、ドレスコードを守らない女性が大量に逮捕され始めた。
悲惨な経済状況、進行中の社会的抗議活動、政府の弾圧を鑑みると、不安の拡大が懸念される。イスラエルによるシリアのイラン大使館への攻撃は、イランの対外的な脆弱性をさらに浮き彫りにした。イランはすでに政府の正統性の危機に直面している。国民の多くが政権打倒を目指すイランにおいて、このような国土への攻撃は大きな脅威であった。
したがって、単にイスラエルの行動に報復するためだけでなく、おそらくより重要なのはナショナリズム感情を強めることであった。イラン政権は自国の軍事力を誇示することにした。この行動は「経済状況が悲惨であろうが社会的自由が最低限であろうが、敵からの攻撃に直面した状況で、国民の命を守って戦うのは政府でありその軍部である」という、イラン国民に対するメッセージであったのだ。
この軍事力の誇示が、長い間失われてきたイラン政府の正統性を回復する目的を果たすかどうかはまだわからない。しかし確かに、外部からの脅威に強く立ち向かっている政府というイメージを肯定するものだった。多くの経済的、社会的課題が依然として多くの人々の生活に影響を及ぼしているが、この落ち着いた状態がいつまで続くかは、時がたってみないとわからない。
ライター:Tahereh Mohammadi
翻訳:Kyoka Wada
グラフィック:Saki Takeuchi
イラン情勢についてとても分かりやすく書かれていました。中東の歴史や現状は何度理解しようとしても、複雑で難しいので、こちらの記事だけではなくほかの記事も読んでみたいと思いました。