2024年2月、インドネシアにおいて大統領選挙と議会選挙が開催される。この両選挙では、国民が直接、正副の両大統領に加えて、国会議員、地方代表議会議員、州議会議員、県議会(※1)や市議会議員を選出する直接選挙方式で行われる。
インドネシアは世界第4位の数である約2億7千万人もの人口を有しており、有権者が約2億人にも上ることから、世界最大の直接選挙とも呼ばれている。また、2019年の大統領選の投票率が約8割と、国民の政治関心が高いとも言われている。
今でこそインドネシアにおいては民主主義に基づく政治体制が整っているように見えるが、ひと昔前にはスハルト氏による独裁政権が政治を取り仕切っていた。インドネシアはどのようにして民主主義国家となったのであろうか。そして、民主主義国家となったインドネシアにはどのような政治的問題があるだろうか。この記事ではインドネシアの民主化の流れに触れつつ、現在の政治に巣窟する問題について取り上げる。
目次
独立までの道のりとスカルノ政権時代
まずは、インドネシアの独立と初期政権までの歴史や流れをまとめる。インドネシアは17,000を超える島々で構成されており、過去には様々な王朝が現在のインドネシア領を統治していた。7世紀から14世紀におけるマレー半島からスマトラ島にかけてはシュリーヴィジャヤ王国が、8世紀から9世紀のジャワ島中部ではシャイレーンドラ朝が仏教国として栄えた。シャイレーンドラ朝と同時期にほぼ同じ場所に成立した古マタラム王国や、13世紀に成立したマジャパヒト王国などはヒンドゥー教国として栄えた。マジャパヒト王国は現在のインドネシア領の大部分を占める範囲にまで勢力を拡大し、ヒンドゥー文化を繁栄させた。13世紀頃になるとムスリム商人を介してイスラーム教が広まり、15世紀以降には様々なイスラーム教国が生まれた。代表的なものでいえば、ジャワ島東部に成立したマタラム王国やスマトラ島北部に成立したアチェ王国が挙げられる。
16世紀末頃からはオランダが現在のインドネシア領に進出するようになり、1602年から1798年にわたるオランダ東インド会社による植民地経営がなされた。そして、1799年から、完全に独立を果たす1949年まではオランダ政府の直轄地として植民地支配されていた。太平洋戦争下では、日本軍に一時的に支配されることとなったが、日本の敗戦後、当時、独立準備委員会の委員長であったスカルノ氏は1945年8月17日にインドネシア独立宣言を出した。オランダはすぐにはこれを認めなかったものの、インドネシア独立戦争などを経て、1949年にはオランダがインドネシアに統治権を譲った。その後も、オランダはインドネシア領から撤退しながら、実質的な支配を続ける傀儡国を残していた。1950年には、それらを編入させ、西パプアを除いた、現在のインドネシアの領土として独立を果たした。
続いて独立後のインドネシアの政治についてまとめる。スカルノ氏はインドネシア国民党(PNI)の党首として初代大統領に就任して、1950年には憲法を発布し議会制民主主義体制を敷き、1955 年には初の議会選挙も実施している。一方で1957年になると、スカルノ氏は権威主義的な「指導制民主主義」に方針転換しようとした。この「指導制民主主義」とは政党や議会を基盤とせず、一人の指導者によって導かれる国家運営を目指すというもので、実質的には民主的な側面を有してはいなかった。そして、スカルノ氏は1959年に議会を解散し、1950年憲法を廃止して、大統領権限がより強い1945年憲法を復活させた。その後、インドネシア国民党(PNI)の民族主義、イスラーム教、インドネシア共産党(PKI)の共産主義の三者が調和した政治体制を作り上げた。この政治体制は「ナサコム」と呼ばれた。ナサコム体制の下、スカルノ氏は大統領権限を強化し、国民党と共産党以外の政党を解散した。その結果、議会は大統領の任命した議員のみで構成される翼賛議会となった。
スハルト政権時代
スカルノ政権においては経済より政治が優先されたため、国家経済は低迷の一途をたどっており、国民の生活は困窮を極めていた。そんな中、1965年に、スカルノが病気で倒れ、スカルノ氏の後を巡る権力闘争が開始されつつあった。そうして迎えた1965年9月30日、インドネシア国軍の親スカルノ派が、反スカルノ派の将軍6名を殺害するという事件を起こして、大統領官邸などを占拠したのち、インドネシア国軍トップによるクーデター阻止のための武力決起であるという宣言をした。これに対し、当時、陸軍戦略予備軍司令官であったスハルト少将は指揮を執ってこの武力決起を鎮圧した。これが9・30事件と呼ばれた。
スハルトを含む軍の幹部は、この事件は共産党が引き起こしたとして、共産党員や共産主義者の大虐殺を行い、結果的に、数か月の間に約50万人もの人々が殺害され、インドネシア共産党は完全に破壊されたといわれている。この一連の虐殺に対して、アメリカやイギリス、オーストラリアからの支援があったともいわれている。そして、日本もこの大虐殺の事実を認知していたが、黙認していたという。
次に、スハルト氏は、ナサコム体制の下、共産党と協力体制をとっていたスカルノ氏の責任を追及した。そして徐々に、スハルト氏はスカルノ氏から権限を奪っていき、1966年には実質的な大統領としての権力を獲得した。この時点ではスカルノ氏は名目上の大統領であったが、その実質的権限を失っていたのである。翌1967年にはスカルノ氏が大統領職を降り、スハルト氏が大統領代行に就任した。続く1968年には、スハルト氏は国民議会にて第二代大統領に任命された。
スハルト氏は1967年から1998年までインドネシア大統領を務め、新秩序とも言われる独裁体制を敷いた。俗に言う「開発独裁」(※2)である。スハルト氏の場合、主に日本やアメリカからの外国資本を積極的に導入した石油資源の開発といった開発優先の政策を展開し、強大な軍の支持を背景に独裁体制を築いた。1975年にはその軍をもって、植民地支配をしていたポルトガルの撤退に際して、東ティモールに侵攻し、インドネシアに併合しようとした。
スハルト政権による開発独裁体制の下、インドネシア経済は持続的に成長し、具体的にはGDP成長率が年平均で7%に達したという。他にも、貧困率が1970年の45%から1996年には11%に減少したことや、平均寿命が1966年の47歳から1997年には67歳に伸びたこと、乳児死亡率が60%減少したことも報告されている。しかし、先ほど述べた経済成長にも裏があった。それは、貧富の差の拡大である。インドネシアにおいて増大する富は不公平に分配され、少数の都市部のエリート層や軍関係者がその富の多くを受け取っていたのである。このような不公平な富の分配によって、エリート層による自政権への支持を確保しようとしたのである。他にも、スハルト政権特有のクローニー(縁故主義的) 資本主義(※3)が不公平な富の分配の例に挙げられる。
次に、スハルト氏が大統領選挙で勝ち続けることができた要因について説明していく。それはスハルト氏が大統領であった1967年から1998年の間、大統領選挙における候補者がスハルト氏のみだったからである。それに加えて、1945年憲法において、国民協議会が国権の最高機関とされており、大統領は国民協議会から指名されるという仕組みもあった。そこで、スハルト氏はゴルカルという翼賛機関を組織し、これを国民協議会に組み込んだ。また、同時に、国民協議会議員の半数以上を大統領の任命制にすることで自らが選出されるという構造を作った。その際、政党結社の自由がなかったが、ゴルカル以外にも開発統一党(PPP)とインドネシア民主党(PDI)といった政党が存在していた。しかし、これらには衛星政党(※4)としての役割が与えられていただけだった。そのため、この2政党はゴルカルに抗うことはできなかった。この体制の下で、1977年、1982年、1987年、1992年、1997年の計5回、議会の選挙が行われたが、いずれもゴルカルが勝利を収めた。そのため国民による政治参加はゴルカルとスハルト大統領への支持を集める手段に過ぎなかったのである。
そんなスハルト政権もついには終わりを迎えることとなる。スハルト政権下における大統領への権力集中や構造的な汚職、貧富の差の拡大、人権の抑圧は国民の批判や反発を生んでいたが政権の転覆に至りはしなかった。しかし、1997年にアジアを襲ったアジア通貨危機によってその状況は一変する。これにより、インドネシアの通貨ルピアの価値が下落し、急速なインフレに見舞われたのである。そして、これは国民の生活を圧迫した。この状況を改善するためにも先ほど挙げたクローニー資本主義やファミリー・ビジネスの抜本的な改革が求められた。しかし、スハルト氏がこの状況を積極的に改変しようとしなかったことが決定打になり、各地でデモなどが発生したとされている。とりわけ、1998年5月21日に生じた反政府デモが暴動に発展し、軍の支持を失ったことにより大統領を辞任した。
民主化移行後の政治
スハルト政権の終焉後、スハルト政権時代に副大統領を務めていたバハルディン・ユスフ・ハビビ氏が大統領に昇格した。以降、インドネシアは民主化への移行が進むこととなった。以下、その様相についてまとめる。まずは、大統領の権限に制限が加えられたことについてだ。これは1999年の憲法改正による影響が大きい。これにより、スハルト政権時代に大統領への権限が集中していたことへの反省から、その権限が大きく縮小された。任期は最長で2期10年となり、長期的に政権を保持することができなくなった。また、大統領に認められていた立法権がはく奪され、法案の提案権を持つのみになった。そして、国会の解散権は完全に失われ、外交交渉権や人事権に、国民議会の同意または協議が必要とされた。
大統領以外にも、開発独裁体制の一端を担っていた軍の政治的な機能も制限された。スハルト政権時代の軍は軍務と政務を担っており、二重の機能を果たしていたが、民主化後、その二重機能を廃止して、国防に専念することを定めた国防法や国軍法が成立した。これにより、軍が公式な政治の場からは姿を消し、政治的影響力は弱体化したとされる。
また、スハルト氏が大統領を辞任したことで政党結社の自由化が進み、翌年の1999年に実施されたインドネシア議会選挙においては、ゴルカルを含め、48もの政党が参加し、そのうち21政党が議席を獲得した。最も議席を獲得したのはスカルノ氏の娘であるメガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ氏の率いる闘争民主党(PDIP)であった。それにゴルカル党、イスラーム系エリートで構成される開発統一党が続いた。
他にも、大統領選挙や地方選挙には直接選挙が導入された。1998年から1999年まではハビビ氏、1999年から2001年まではアブドゥルラフマン・ワヒド氏、2001年から2004年まではメガワティ氏が大統領に就任した。そして、2004年から2014年まで大統領を務めたスシロ・バンバン・ユドヨノ氏は、初めて直接選挙で選ばれた大統領となった。そして、2014年以降はウィドド氏が大統領に着任している。
議会議員選挙においては、非拘束名簿式比例代表制(※5)に移行したことで、民意が反映されやすくなり国民の発言力は高まったともいわれている。他にも、スハルト氏以降のインドネシア大統領のうち軍人出身が一人のみということから、文民支配の風潮が窺える。
この新しいインドネシアの選挙制度の規模がいかに大きいかということについても触れておきたい。2019年に行われた大統領選挙において、有権者約2億人のうちの8割がこれに参加したことは導入でも述べた。そして、このとき、大統領選挙に加えて、地域の議会選挙の投票も同時に実施された。具体的には、有権者は大統領選挙だけでなく、国会議員、地方代表議会議員、州議会議員、県議会・市議会議員を選出するために、同じ投票所で5種類の投票を同時に行う必要があったのである。その際、各投票所で開票作業などを行った選挙スタッフは約738万5,500人にも上ったという。このことからも、インドネシアにおける選挙スケールの大きさが推察される。
近年の政治状況と問題点
これまで、インドネシアの民主化の流れを見てきた。では、近年のインドネシア政治はどのような状況下にあるのだろうか。近年、インドネシアの民主主義は衰退しつつあるのではないかと懸念されている。その原因の一つに言論の自由や、表現の自由が低下していることが挙げられている。
この低下の要因の一つとして、2008年のユドヨノ政権時代に制定された情報電子取引法が挙げられる。この法律は、インターネットショッピングなどの電子上の取引において、消費者を保護するという名目で可決された。しかし実際には、政府側はこれを、政治に批判的な声を妨害するために悪用していると指摘されている。具体的にいうと、情報電子取引法には「名誉棄損」と「憎悪を扇動する情報の流布」を犯罪とする条文があり、これが過剰にまたは恣意的に警察への通報の根拠として用いられているという。そして、2019年1月から2022年5月にかけて、情報電子取引法違反の疑いで少なくとも332人が起訴されたといわれている。
スハルト政権時代と比べると、近年のインドネシアにおいて、報道の自由が大きく改善された。とはいえ、ソーシャルメディア等に大統領や政治体制に対する批判を投稿すると、投稿を削除するよう圧力をかけられたり、名誉棄損として訴訟を起こすと脅されたりするという。それに加えて、汚職などをめぐってメディアから批判的に報道された人々には、ジャーナリストや出版社などに対して裁判で訴える権利が与えられているのだ。
また、2017年にエコノミスト・グループにより発表された民主主義指数も低下している。具体的には、インドネシアは前年の48位から68位と20位下がり、調査対象となった165か国の中で最も順位の減少した国となった。
他にも、インドネシア政治において多宗教化を推進する多元主義政党とイスラーム政党との間に存在するイデオロギー対立という政治的二極化が進行中であるという問題もある。多元主義政党の最たる例として連立与党の中で最も多くの議席を持つインドネシア闘争民主党(PDI-P)が挙げられる。この政党はインドネシアにおいて最も多元主義的な政党であり、幅広い有権者層から支持を集めている。これと対を成すイデオロギーを持つのがイスラーム政党で、福祉正義党(PKS)や開発統一党(PPP)および国民信託党(PAN)といった政党をその代表例に挙げることができる。このイデオロギー的な隔たりはインドネシアに長年潜在的に存在しており、近年になって問題視されている。
そして、汚職も民主主義後退に影響しているとして問題視されている。その一つにインドネシアにおいて、選挙運動を実施するにあたって、高額な費用が必要であるということが関係している。この選挙に費やす額が多い理由として収賄行為が挙げられる。候補者やその関係者の中には、候補者自身ないし、所属政党を支持してくれることを期待して、有権者に現金や日用品といった賄賂を渡している者が存在するのだ。また、インドネシア人の3人に1人が選挙中にこのような賄賂を受け取っているという調査結果が得られた。他にも、国民の10人に8人以上が、汚職が政府や企業全体に蔓延していると感じることが、とある調査で分かっており、国民の間でも政治の汚職の多さが認識されているということも分かった。
2024年の大統領選挙と今後の展望
2024年の大統領選について整理しておく。この大統領選は2期目で任期を満了するジョコ・ウィドド大統領の後継者を巡る選挙であり、立候補したプラボウォ・スビアント氏、ガンジャール・プラノウォ氏、アニス・バスウェダン氏の三つ巴の様相を呈している。2023年10月27日から11月1日にかけて行われた世論調査によると、支持率は、プラボウォ氏が約40.6%でリードし、ガンジャール氏が27.8%、アニス氏が23.7%と続いている。
以下、この3人の候補者について簡単に説明する。プラボウォ氏は元陸軍戦略予備軍司令官中将で、グリンドラ党党首を務めており、2019年からは国防相に任命されている。また、過去、2014年と2019年の2回、大統領選に出馬経験がある。ガンジャール氏は与党第一党の闘争民主党に属しており、中部ジャワ州知事を2期務めた。アニス氏は政界に入る前は学者であり、インドネシアのイスラーム大学の最年少学長となったという経歴を持つ。ウィドド政権の第1期目には内閣改造で解任されるまで、教育大臣を務めたこともある。また、2017年から2022年までジャカルタ知事を務めていた。
また、プラボウォ氏は副大統領候補にウィドド大統領の長男でジャワ州ソロ市長を務めるギブラン・ラカブミン氏を選ぶと発表した。インドネシアの選挙法によれば、正副大統領の年齢を40歳以上に制限しており、36歳のギブラン氏はもともと出馬資格がなかった。しかし、憲法裁判所は地方首長に選出された経験があれば40歳未満でも出馬資格があるとの判決を下し、ギブラン氏の出馬が認められた。この憲法裁判所の長官はウィドド大統領の妹婿であるアンワル・ウスマン氏が務めていた。そのため、インドネシア国内ではこの判決について、憲法裁判所が政治利用されたとの批判がなされている。
これまで見てきた通り、インドネシアの政治は民主主義に移行したとはいえ、未だに多くの問題点が存在しており、何年間にもわたって築き上げてきた民主主義も衰退しつつあるといわれている。近年の政治問題として、言論の自由や、表現の自由の低下や政治的二極化、汚職を取り上げた。他にも問題点が多く存在しているであろう。今回の選挙で新しく大統領に就任する者がこれらの問題を解決できるのか見守っていきたい。
※1 インドネシアの行政区分は州、県・市、郡・区・村、の三段階で構成されている。
※2 政府が、国民の民主的な政治参加を抑制しつつ、急速な発展と近代化を目指す体制。主に、低所得国でみられる。福祉や自由の尊重などの政策は後回しにして、工業や資源開発、軍事部門などに経済資源を優先的に配分し、国力の底上げを図ろうとする。
※3 縁故や家族関係が大きな影響力を持つ経済体制で権力者の親族や取り巻きが一体となり利権を貪る状態を指す。
※4 独裁体制の国などで、政権を独占する政党以外で存在が許されている、体制に翼賛する小政党。少数民族などの利益をある程度は代表するが、政権を握る政党に抗うことはない。内外からの独裁体制の批判をかわすために存在する場合が多い。
※5 比例代表制の選挙で、政党が候補者名簿の順位を定めない方式。有権者は政党またはその候補者個人に投票することができ、個人票は所属政党への投票とみなす。それを合算し、各政党の得票数に比例して当選者数を確定した後、個人名での得票数が多い順に当選とする。
ライター:Hayato Ishimoto
グラフィック:Aoi Yagi
スハルトによる開発独裁が行われていたことは知っていたがその崩壊原因までは知らなかったので、いい勉強になりました。今後の選挙どうなるんでしょうね、
スハルトの虐殺に西側諸国が関与していたとは。