2023年10月1日、アルバニアで、医学部生が学位を取得する前に最長5年間国内で働くことを義務付ける法律が発効された。この義務に同意しない学生は、多額の学費を全額負担する必要があるというが、その具体的な金額は法律に明記されていない。アルバニアの医学部生の多くはこの法律に反対して抗議活動を行っており、現在この法律は憲法裁判所の下でその合憲性を決定する判決を待っている。
この法律は、国内の医学部生が国外へ流出するのを防ぐために作られたという(※1)。しかし、このような人口流出が目立つのは医学部生だけにとどまらない。アルバニアの人口は、1990年代以降現在に至るまで減少傾向にある。1991年に共産主義の制度が崩壊して以降、アルバニアの人口の40%が国外に流出している。いったいなぜこのような傾向がみられるのだろうか。この記事では、アルバニアの歴史を振り返りながらこの国が抱える問題を詳しくみていく。
目次
独立からアルバニア人民共和国の誕生まで
現在のアルバニアがある地域はかつて、ローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国など様々な勢力の支配を経験した。1912年11月、約5世紀にわたるオスマン帝国の支配を経てアルバニアは独立を宣言した。この頃、アルバニアの位置するバルカン半島では第1次バルカン戦争(※2)が繰り広げられていた。そして、1912年12月には第1次バルカン戦争に敗北したオスマン帝国の領土の分配について交戦国間が交渉を行うことと、戦争中に独立を宣言したアルバニアの将来を決定することを目的とするロンドン会議が開かれた。この会議において、列強の立ち合いの下、独立した主権国家であるアルバニア公国を建国することが正式に決定した(※3)。
この際、ギリシャとセルビアの圧力によってアルバニア側が主張する領土の半分はアルバニア公国から除外され、アルバニア系住民の総人口の30~40%ほどがアルバニア公国外に残されることとなった。独立から1世紀にわたって国境が変動し、現在でもコソボ(※4)、セルビア、モンテネグロ、北マケドニア、ギリシャと多くの国にアルバニア系民族というアイデンティティをもつ人々が暮らしている。特に、ロンドン会議でアルバニア側が主張したものの認められなかった領土のうち、コソボは人口の92%がアルバニア系民族というアイデンティティをもつ。その後この地域は君主制のアルバニア公国、共和制のアルバニア共和国、王政のアルバニア王国と政治形態が変化した。オスマン帝国の支配下にあった時代からアルバニアのマティ地域の総督を世襲していたゾグ家のアフメト・ゾグ氏は、アルバニア公国の首相、アルバニア共和国の大統領、そしてアルバニア王国の国王を務めた。
アルバニアの立地は、歴史的に多くの勢力にとって地政学的価値のあるものであった。独立前では、現在のアルバニアの首都ティラナがビザンツ帝国やオスマン帝国の首都となった現イスタンブールとローマを結ぶ直線上にあり東西帝国の交差点に位置していたこと、そして地中海からアドリア海へ入る玄関口の東側にアルバニアが位置していたことがアルバニアを多くの文化や外国の関心にさらす要因となった。このような特徴を持つアルバニアは、独立後も他国の関心を集める。1939年にはイタリアに併合され、1943年にはドイツに占領された。
また、信仰される宗教も歴史的な支配の影響を受けている。ローマ帝国やビザンツ帝国の支配下にあった影響で大半の人々がキリスト教を信仰していたアルバニアは、その後のオスマン帝国の支配下でイスラム教が主な宗教となった。2011年には、アルバニアの人口の約59%がイスラム教を信仰しており、約17%がキリスト教を信仰していた。
1941年、反ファシスト(※5)運動を行っていたユーゴスラビア共産党の下でアルバニアにも共産党が設立された。党書記はエンヴェル・ホッジャ氏であった。党員たちは共産主義パルチザンとしてイタリアやドイツの支配と戦った。イタリアが第2次世界大戦中の1943年に連合国軍に降伏したことでアルバニアにおけるイタリアの支配は崩壊した。1944年10月、ユーゴスラビア共産党にならって議会を設立し、新政府が誕生した。そして、同年11月にはアルバニア全土が解放された。1946年に召集された議会では、王政が廃止され、アルバニア人民共和国となることが宣言された。
エンヴェル・ホッジャ氏の独裁政権
1944年の臨時政府誕生から1985年に亡くなるまでの40年間、ホッジャ氏の率いるアルバニア共産党(後の労働党)はアルバニア人民共和国を独裁的に支配した。ホッジャ氏は、当時のソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の最高指導者を務めたヨシフ・スターリン氏を熱心に支持しており、スターリン主義(※6)をとっていた。ソ連は世界初の社会主義国家であり、第2次世界大戦中に生まれたアルバニアの共産主義政権を経済的にもイデオロギー的にも支援していた。ホッジャ氏は、ソ連式の工業化プログラムを導入し、生活水準を向上させ、保健、教育、女性の権利などの分野の改善に取り組んだ。
その一方で、労働党はアルバニア国民の日常にも介入し始めた。私有財産は禁止され、食料は配給制で配られ、新生児の名前は政府が事前に作成したリストから選ばなければならないなどの制限が課された。
さらに、ホッジャ氏は時代を追うごとにより極端で疑り深くなり、保安機構を利用し始めた。その保安機構の中心となったのがシグリミと呼ばれた組織である。シグリミとは、反体制派を摘発する秘密警察のことである。シグリミは、共産主義時代に6,000人以上を処刑し、数千人を調査、迫害、終身刑にし、非人道的な刑務所や収容所に抑留したと推定されている。機密解除された文書によると、首都ティラナだけで約4,000人がシグリミの監視下に置かれ、監視下の各家族につき3人から50人の情報提供者を付けていたという。ホッジャ氏は、彼の統治に異議を唱える人やその協力者はもちろんのこと、自身が所属する党内のライバルまでも処刑した。このようにしてホッジャ氏は約40年間にわたる独裁支配の間、粛清と処刑でアルバニアに恐怖を植え付けた。
しかし、アルバニアを支援していた共産主義国家や社会主義国家との外交関係は次第に悪化していった。ホッジャ氏は、当初は良好な関係を結んでいた隣国ユーゴスラビアについて、ユーゴスラビアとソ連との関係が悪化したことを受けて1948年に国交を断絶した。そして、ソ連においても、ソ連の指導者であったニキータ・フルシチョフ氏が非スターリン主義の運動をエスカレートさせると、スターリン主義を唱え続けていたアルバニアとソ連の関係は悪化し、1961年に国交を断絶した。1961年から1978年まで、ホッジャ氏の後援者は共産主義国家の中国でありその間に約50憶米ドルの軍事・経済援助を受けた。1976年に毛沢東氏が亡くなった後、西側諸国との関係を拡大し始めた中国に不信感を抱いたホッジャ氏は中国を非難し始めた。そして、1978年に中国はアルバニアへの援助をすべて打ち切った。中国との断交の後、アルバニアは完全に孤立した。
また、ホッジャ氏は国民に外部との接触を事実上禁止する厳しい体制をとっていた。国外渡航は公式の代表団のみに制限され、私的な国外旅行は禁じられた。また、電波が届く距離に位置するイタリアからのテレビ放送の視聴も禁止された。さらに、ホッジャ氏は共産主義アルバニアを外国の侵略から守るために国のGDPの大部分を費やして約75万個のコンクリート製の地下シェルター(バンカー)を建設した。
さらに、1967年、ホッジャ氏は宗教イデオロギーとの戦いを始める演説を行い、「宗教は人民のアヘンである」というスローガンをかかげた(※7)。そして、国際的な結びつきが強く共産主義のプロパガンダを拒否する聖職者を脅威とみなし、ライバル視したとされている。すべての教会とモスクは閉鎖され、文化的価値のあるいくつかの宗教的建造物も破壊された。そして9年後の1976年、労働党はアルバニアを世界初の無神論国家と宣言し、憲法で宗教信仰を禁止し、宗教儀式への参加や宗教書の所持に罰則を課した。また、同年に国名をアルバニア社会主義人民共和国へと改名した。
1985年、ホッジャ氏は病気で亡くなり、政務の指揮はホッジャ氏の後継者であり名目上の国家元首であった労働党のラミズ・アリア氏の手に渡った。
共産主義崩壊後のアルバニア
1989年、ベルリンの壁崩壊に象徴される東欧革命によって東欧諸国が共産主義から脱却したことは、明らかにアルバニア国内の状況に影響を与えた。1990年、若者を中心とした数万人が首都ティラナの街に繰り出し反政府デモが行われた。このデモの後、約5,000人のアルバニア人がアルバニアから亡命するために外国大使館に押し寄せた。ティラナ大学の学生が始めた3日間に渡るデモには知識人や労働者も加わり、政治体制の変革を目標とした。学生グループはアリア氏との対談で政治的多元主義を求め、アリア氏はその要求に屈して労働党以外の独立した政党を結成することを認めた。アリア氏が複数政党制を認めた3日後、アルバニアに最初の野党である民主党が結成された。民主党の主な創設者は学生や大学教授で、そこから心臓外科医のサリ・ベリシャ氏とティラナ大学で経済学の博士号を取得したばかりだったグラモズ・パシュコ氏が党首として頭角を現した。
1991年3月31日、アルバニアで60年ぶりとなる自由選挙が行われた。投票率は約99%で、労働党は約56%を獲得し、民主党は約39%を獲得するという結果になった。そして、1991年4月29日にはアルバニア社会主義人民共和国から改名し、アルバニア共和国の設立が宣言された。アリア氏はアルバニア共和国大統領に選ばれた。しかし、経済危機やストライキの影響を受けて既存の政権が支持を失い、1992年2月には国会が早期解散した。これに伴い、1992年3月22日に再び選挙が行われた。投票率は約90%で民主党は62%を獲得し、ベリシャ氏が大統領に選出された。この民主党の勝利は、アルバニアの自由民主化への大きな一歩となった。
1991年に始まったアルバニア共和国は貧困に苦しんでおり、自由市場経済に移行したものの国民のほとんどは市場の制度や慣行に馴染みがなかった。そのような状況の中、ねずみ講が広がり始めた(※8)。ねずみ講とは、企業が新たな参加者を勧誘する代わりに勧誘した参加者に利益を与え、連鎖的に参加者を増やしていく違法な金融詐欺である。多くのアルバニア国民を巻き込んだねずみ講は、1996年に崩壊し始める。アルバニアにおけるねずみ講の被害は大きく、人口の約3分の2がねずみ講に投資し、ピーク時にはねずみ講の負債の名目価値は国のGDPのほぼ半分に達した。家を売ってねずみ講に投資している人もいれば、家畜を売って投資している農民もいた。被害を被った国民は政府がねずみ講を承認し支援している(※9)と非難し、抗議活動が始まった。1997年には抗議活動が暴力的になり、その後6ヶ月の間に政府、ギャング、民間人の衝突によって2,000人以上が死亡した。この一連の騒動を受けて政権を担っていた民主党は支持を失い、1997年にはベリシャ大統領が辞任した。
このような経済危機の後、アルバニアは国際通貨基金(IMF)と協力して厳格な金融規制を導入した。そして、アルバニア銀行には規制のない機関が銀行業務を行うことを阻止する権限が与えられた。この1997年の危機がアルバニアのより良い経済システムへの道を切り開いたといえるかもしれない。
移民問題
冒頭で触れたように、共産主義の制度が崩壊して以降、アルバニアの人口の40%が国外に流出した。国外へ移住する人が特に多かった期間としては、共産主義の制度が崩壊して国境が開放された直後の1991年から1993年、ねずみ講の崩壊により貧困や社会不安が深刻になった1997年前後などが挙げられる。また、反対に国内へ一時的に多くの人が流入した時期として1999年のコソボ難民危機(※10)がある。しかしながら、そのような大きな出来事があった時のみでなく、アルバニアの人口は現在も減少し続けている。
地域協力会議(RCC)(※11)が実施した2022年のバルカン・バロメーター調査によると、アルバニア人の42%が国外に出ることまたは国外で働くことを考えている。人々が国外に移住する主な理由は、アルバニアでの生活には余裕がないということである。アルバニアは比較的に平均月給が低いものの生活費が高いとされている。失業した若者がやむを得ず移住したり、家族のうちの1人が先に移住して稼いだお金で住居を確保した後にパートナーや子どもを連れて移住したりと移住の形態は様々である。こうして国外へ移住した人からの国内への送金はアルバニアの国民総生産(GNP)の約10%を占めている。
国外へ出ていく人が多い中で、反対に国外の人を国内へ受け入れようとする動きもある。最近注目を集めたのが、地中海を渡ってイタリアに流入しようとするアフリカや中東からの移民を受け入れるセンターをイタリアがアルバニアに建設するという協定を発表したことである。この施設は2024年オープン予定で、当初は3,000人を受け入れ、完全に稼働すれば年間最大36,000人を処理できるようにしたいとイタリアのジョルジャ・メローニ首相は述べている。
この協定では、イタリアの船によって海上で保護された移民・難民をアルバニアの施設に一時的に拘留することが可能になる。欧州連合(EU)域内では到着したすべての移民に亡命を申請することを認める人権規約があるため、強制送還は認められていない。しかし、アルバニアはEU加盟国ではないためこの規則が適用されず、イタリアが海上で保護しアルバニアに入国させた移民は強制送還される可能性がある。さらに、イタリアは移民が最初に到着した国が移民の世話をし、難民申請を処理しなければならないと定めたダブリン協定を回避することが可能になる。アルバニアのエディ・ラマ首相が移民の流れを管理する上でイタリアを支援する意思を示したのに対し、メローニ首相はアルバニアのEU加盟を擁護すると約束した。
犯罪問題
また、アルバニアは「違法取引の天国」と呼ばれるほどに組織犯罪が蔓延している。特に最近では未成年者が犯罪組織のターゲットとされており、2018年から2021年にかけて麻薬関連の容疑で捜査または逮捕された未成年者の数はほぼ2倍に増加した。このような組織犯罪は1990年代に共産主義の制度が崩壊して以後に蔓延し、金融破綻が引き起こした貧困や社会の混乱が原因になっていると考えられる。
さらに、アルバニアの犯罪組織は政治にまで影響を及ぼしている。2014年の欧州委員会報告書ではアルバニアの司法制度と選挙で選ばれた公務員が犯罪組織の影響を極めて受けやすいことが判明した。また、2016年に前科のある人物の役職就任を禁止する法律が可決された際、1人の大臣、国会議員の7%、5人の市長に犯罪歴があることが明らかになり、その罪状には麻薬密売や売春組織への参加などがあった。また、犯罪組織が選挙の際に特定の政党と結びついて票を買収したという疑惑もある。その一例として、麻薬密売で逮捕された容疑者が何者かに、有権者が票を売りたがっているから市長にお金を準備するよう連絡することを促されている会話が傍受されたというものが挙げられる。このような現状から、アルバニアの選挙は犯罪組織の支援なしには勝てないという指摘が出るほどのレベルに達しているとされている。
こういった政治と犯罪の結びつきを報道することは危険だという認識がアルバニアのジャーナリストの中ではあるようだ。バルカン調査報道ネットワーク(BIRN)の2015年の報告書によると、調査対象となった121人のアルバニアのジャーナリストの半数以上が、記事を頻繁、またはときどき避けていると回答しており、最も避けられた分野が犯罪と政治であった。
また、アルバニアの組織犯罪は国外にも及んでいる。たとえば、アルバニアにルーツをもつ犯罪組織はイギリスのコカイン取引市場のトップに立っているとされている。ただし、アルバニアにルーツを持つといっても、必ずしもアルバニア国内の犯罪組織とのつながりがあるとは限らない。
補償問題
さらに、政府は共産主義時代に処刑された人の家族に対する十分な補償を怠っている。1944年から1991年の共産主義時代に下された確定判決やその他の公的決定に基づき、裁判を受けることなく処刑、投獄、追放、精神科施設や捜査機関に収容された人々に金銭的補償を行う法案が2009年に採択された。補償金は上限を8年として毎年分割して支払われる。同法は、処刑された政治犯の家族への補償金の支払いも規定している。しかしながら、8年以内に完了するはずであったこの補償は、支払いの遅延により現在も完了していない。
2010年、アルバニアのダジティ山で共産主義時代に行方不明になっていた13人の遺体が発掘された。この発掘は民間の活動であり、政府は行方不明者の捜索に協力的ではない(※12)。共産主義時代の迫害で生き残った犠牲者の多くは認知され、補償されてきたが、行方不明者の家族は補償を受けられていない。
EU加盟を目指して
多くのアルバニア人はEU加盟が生活環境の改善につながると考えており、アルバニアは2009年4月に加盟申請を行った。しかし、EUはアルバニアの加盟プロセスを引き延ばしていた。申請から13年後の2022年7月、アルバニアのEUへの加盟交渉が始まった。EUのアルバニアに関する2022年の報告書によると、ある程度の準備がなされているもののさらなる努力とその継続が必要な分野として、表現の自由や組織犯罪との闘い、そして汚職との闘いがある。また、移民に関してはビザ政策をEUと一致させることなどが求められている。
しかしながら、果たしてEUに加盟することがよりよいアルバニアになることにつながるのであろうか。イタリアとアルバニアが結んだ移民センター建設の協定では、イタリアは移民がイタリアに流入するのを抑止する手段としてEU加盟国ではないアルバニアの強制送還が可能な立場を利用することに重点を置いているといった指摘がある。また、アルバニア国民のEU加盟国への亡命申請者数はピーク時よりは少ないものの2021年には増加している。そのため、EUに加盟してEU域内の自由移動がアルバニアにも適用されれば余計に国民が国外に流出してしまうかもしれない。
このようにアルバニアは悲惨な独裁時代を乗り越えて状況は改善してきているものの、未だに多くの問題を抱えている。今後、アルバニアはどのような変化を経験し、どのような歴史を残していくのであろうか。
※1 欧州アルバニア医師連盟によると、人口約280万人のアルバニアからここ10年間で流出した医師の人数は3,000人以上だという。OECD加盟国の人口1,000人当たりの平均医師数が約3.6人であるのに対してアルバニアの平均医師数は約1.93人と少ない。エディ・ラマ現首相は学生の抗議に対して、医学部生が支払っている学費は国が負担する実質費用の16分の1に過ぎず、アルバニア国民の税金によって最低限の学費で教育を受けた医学部生が卒業後すぐに国を去るという現状を嘆いた。
※2 第1次バルカン戦争は、1912年にセルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシャの4国によって結成されたバルカン同盟がオスマン帝国に宣戦し、1913年に勝利した戦争である。その後、第1次バルカン戦争で獲得した領土の分配をめぐる対立からバルカン同盟内で争いが生じ、第2次バルカン戦争が1913年の6月から8月まで繰り広げられた。
※3 オスマン帝国の代表はロンドン会議が始まった当初は出席し、第1次バルカン戦争の休戦協定に署名した。しかし、1913年1月に国内でクーデターが起こり、その指導者エンヴェル・パシャ氏によりオスマン帝国は会議から撤退させられた。1913年5月30日、オスマン帝国が出席しないままロンドン条約が結ばれ、その後の議論を経てアルバニア公国設立の決定が行われている。
※4 コソボはセルビアからの独立運動および1999年の北大西洋条約機構(NATO)の軍事介入と占領を経て2008年に独立を宣言したが、セルビアは独立を認めておらず、依然としてコソボを自国の州とみなしている。そして、コソボは現在も国連加盟国になっていない。
※5 ファシストとは、当時のイタリアがとっていたファシズムを主義とする人のことである。反ファシストとは、当時アルバニアを支配していたイタリアに抵抗する勢力のことである。
※6 スターリン主義とは、「1929年から1953年に死去するまでソビエト共産党および国家の指導者であったヨシフ・スターリン氏の統治方法、またはその政策」のことであり、「恐怖政治と全体主義的な支配」と関連付けられる。
※7 「宗教は人民のアヘンである」とは、宗教が現実の苦しみを慰める役割をしていることを鎮痛剤として使われていたアヘンにたとえたカール・マルクス氏の言葉である。
※8 当時のアルバニア共和国には民間銀行はほとんどなく、預金の90%を保有していた3つの国営銀行は不良債権が増大しており、アルバニア銀行がこれらの銀行に信用上限を課すことになった。銀行が民間の信用需要を満たすことができなかったため、非公式の金融市場が成長した。この非公式の金融市場に進出した会社は当初は良心的で重要な経済貢献をしていると考えられていたが、融資を行う代わりに自己勘定で投資を行う預金会社も登場した。この会社がねずみ講のもととなった。1996年にねずみ講が崩壊し始めた要因は主に2つある。1つ目は、1995年末にユーゴスラビア連邦共和国に対する国連の制裁が停止され、ねずみ講を展開していた各企業の武器の密輸という重要な収入源がなくなったことである。2つ目は、1996年初めにねずみ講を展開する大手企業が金利を引き上げ始め、複数の投資ファンドが市場競争に勝ち抜くために金利を引き上げたことである。
※9 政府はねずみ講を展開している企業への投資を奨励しており、1996年の選挙ではいくつかの企業が当時の与党であった民主党に選挙献金を行っていた。この投資計画から多くの政府高官が利益を受けていた疑惑もあった。唯一アルバニア銀行の総裁がこれらの企業に懐疑的であり調査を促したが無視されたという。
※10 コソボ紛争はセルビアに属するコソボの独立を要求するアルバニア系勢力とセルビアが中心となっていたユーゴスラビア連邦共和国との争いから起こった紛争である。1999年にNATOがセルビアの属していたユーゴスラビア連邦共和国へ空爆を開始するとユーゴスラビアはコソボからアルバニア系住民の大量追放を開始し、多くの難民が近隣諸国へ流入した。
※11 地域協力会議(RCC)は、南東ヨーロッパ地域の協力枠組みのことである。
※12 政府はなぜ「行方不明者が埋められているかもしれない」と報告された場所の掘り出し命令を下さないのかについて手続き上の理由を繰り返しているだけであった。また批評家は、政府は過去の残虐な行為を明るみに出したくないために、行方不明者の捜索よりもバンクアート(バンカーの芸術作品化)などの観光客を呼び込んで資金を得ることにつながりそうな事業に力を入れていると主張している。
ライター:Nozomi Kishibuchi
グラフィック:Yudai Sekiguchi
前回の記事で海上移民問題が取り上げられていましたが、アルバニアの移民受入センター完成によって改善の可能性があるんですね。今年完成予定とのことで、完成後の動きが気になります。